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大内氏支配領域としての安芸国

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凌雲寺さま

大内氏の安芸国進出

大内氏が安芸国への進出を開始したのは、大内弘世の時代が最初。以降、代々の当主たちによるこの地域での領地拡大や統治が行なわれる。ただし、「直轄領」として完全に大内氏の領国であったのは「安芸東西条」のみで、ほかは現地を直接支配している国人たちが、大内氏の支配下に入る(被官化する、家来になる)ことによる統治だった。国人たちは自らの意思によって、その所属先を変えるようなこともあり、支配領域は流動的であった。また、国人たちの独立意識が強いこの地域では、いわゆる「国人一揆」というものが結ばれ、一同が力をあわせて一斉に、守護の指揮に従わない、ような反抗的態度におよぶこともあった。

弘世期

貞治五年 (1366)、武家方・北朝側についた弘世は、石見国から中国山地を越えて入国し、安芸国内の南朝に賊する勢力を討伐した。これが大内氏の安芸国における活動の最初。その後、応安年間の頃、弘世はこの地域に「現地進駐軍的な」兵力を配置し、指揮官を任命して統治させていたと考えられている。

応安二年(1369)頃、多々良弘慶
応安五、六年頃、陶入道

これらの駐在軍もしくは派遣軍は、安芸における大内氏権力を代表する性格をもつものだった。何かあれば現地で統制を行う役割を担っていたが、代官だの、守護代だのといった地方官的名称ではなく、「駐在軍」と呼ばれていることからもわかるように、純然たる軍隊。現地での「統制」の内容も当然軍事的なものだったろう。これら「駐在軍」は、弘世が安芸国に侵攻してして軍事行動を行なう際に一時的に置かれるものではなく、やがて「常駐軍」と化して、確固たる勢力基盤を築いていた模様。

永和二年(1376)、弘世は安芸国における支配を拡大しようと、自ら侵攻し、内部分裂状態にあった毛利家の争いに介入した。このことは当時、九州探題の南朝討伐事業を援助するように、との幕府の意向を無視したものだったので、幕府の怒りを買い、弘世は安芸国から撤退せざるを得なかった。

義弘期

康暦年間、大内義弘と満弘兄弟が内戦を起こし、安芸国はその戦場となった。満弘は父・弘世と義弘との意見対立を代弁して兄弟合戦に及んだような経緯があったから、弘世が扶植した「駐在軍」が存在する安芸国は、反義弘の軍勢を結集するのに都合の良い場所だった。激戦の末、満弘は敗北した。安芸国は新たな統治者となった義弘の元で再編成されていくことになる。

この時の合戦で戦死した讃井山城守は、安芸国に常駐していた軍の指揮官であったと思われる。(以上、参照:松岡久人『大内義弘』)

安芸東西条

大内家の安芸国支配は、ゴチャゴチャいる国人勢力をいかにまとめていくか、ということに尽きる。ひ弱な連中は、自ら独立しているよりいっそ、大内家直属の配下になってしまおう、と被官化される道を選ぶ。大内家の勢力が安定し、超強力である周防・長門両国にはそのような人たちが多い。しかし、安芸だの石見だの、古くからの名門だったり、何やらやたら勢力が強い連中だったり、というのは大人しく家来にはなってくれない。

そんなメンドーな安芸国の中に、なぜか堂々と存在する大内家の「直轄領」が安芸東西条である。ここはだいたい、現在の東広島市にあたり、山口県と広島県は隣同士だから、周防長門の延長上にちょこっと安芸国にもはみ出た領地があるんだろう、と考えると大間違い。

とんでもない「飛び地」となっているため、国人衆だらけの地域を通り越し、となりはもう岡山県なんですが、というようなあたりまで出張して統治機構を置き、担当者を派遣しなくてはならない。そう考えるととても面倒なことではあるけれど、このような場所に直轄地があるということは、管理が面倒ないっぽうで、たいへんに旨味がある。

安芸国は周防長門の本国と、この安芸東西条の飛び地に挟まれている格好になっているから、両方向からにらみをきかせることができるし、ちょっと岡山出張します、というときにも便利なことこの上ない。しかし、それは、支配勢力の権力が安定して、統治機構がきちんと機能していればこその話であって、やがて戦国時代となると、ぽつんと離れた場所の管理はたいへんなことになり、少しでも手を抜くと他勢力の餌食となるきわめて危うい場所となった。

この場所が大内家の直轄地となったのはいつなんだろうと正確に調べてないけど、義弘期に、義弘の詠歌に感じ入った将軍・義満から賜った、という逸話を見たばかりなので、まさか、そんな理由で? と半信半疑の未確認情報ですが、いちおう書いておきます。

ミル

ご覧の通り、まだ義弘さま期のさわりだけまでしか到達していませんので、この記事は未完成です。

参照文献:松岡久人『大内義弘』、『戦国武士と文芸の研究』、『大内氏史研究』ほか

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