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大内軍旗と天満大自在天 天神信仰と大内家

2022年11月5日

サイトキャラクターイラスト:ミル

義興さまお館に祀られた神さまを語る続き物。今回は学問の神さま、菅原道真公こと「天神様」&「天神信仰」についてのお話です。つい先日、「陶の城」のほうに、廿日市天満宮を書いたばかりだし、防府天満宮のリライトも(まだまだまったく不完全なままだけど)終わったので、何となくタイムリー(っていきなり読んでくださっている方には意味不明ですね)。

全国には数え切れないほどの天神さまをお祀りした神社があります。山口県内にも大量にあるはず。受験の時、学問の神さまのお守りを買ってきた! と大喜びの親御さんに、わざわざ大宰府まで行ってくれたのかと感動したら、近所の天神社だった、なんてお話、数えきれません。でも、いつも言うように、どこの、どのくらいの規模の天神さまでも、その効果は変りません。お母さんお父さんにお礼を言って、試験場に望めばいいよ。

大内軍旗の「天満大自在天」

まずはこのイラストを見て欲しいの。

大内軍旗のイラスト

大内軍旗:アイカワサンさま制作

これは、豊栄神社に所蔵されているかつての大内氏の軍旗と思われるモノ(大友晴英と内藤隆世がみっともなくも高嶺城を完成させることもできずに無様に逃げ出したせいで、毛利家に分捕られてしまい、その後彼らがエラそうに私物化してコレクターしてたと思うわけ。現在はきちんと文化財)。豊栄神社所蔵の旗は二流ありますが、うち一つをレプリカとして、アイカワサンさまに画いていただきました。

実物を見ることはできないけど、写真は郷土史のご本などで見ることができます。こちらは、『山口市史 史料編 大内文化』で拝見しました。同じご本によりますと、サイズは「縦七尺八寸八分 横幅二尺七寸」とのことです。大内菱、色目そのた、ホンモノとは故意にビミョーに変えています。で、注目していただきたいのが旗の上部に書かれた神さまたちのお名前です。氏神さまである妙見大菩薩さまは当然。軍旗なだけに、武家の神さま・八幡大菩薩もわかる。ケド、「天満大自在天」なる聞いたこともない(?)神さま、コレ、いったいどなた?

本日のお題からしてバレちゃってますが、「天満大自在天」= 天神様 = 菅原道真です。

菅原道真を天神様って呼ぶけれど、これは「略称」で、「天満大自在天」とか「天満天神」とかいうのが神さまとしての菅原道真公のお名前らしい。

怨霊となった右大臣

菅原道真が大宰府に左遷されて亡くなり、その後怨霊となって祟りを起こしたから、それを鎮めるためにお社を造ってお祀りした。それが北野天満宮である、って話は、教科書&参考書の定番です。いまさら繰り返すまでもなく、そこらの天満宮のご由緒のためにも書いたりしました(例:防府天満宮)。どっかひとつにまとめないと重複 CONTENTS になって淘汰されちゃいそうです。それでもしつこく、流れだけまとめておきます。

道真の昇進と藤原氏の陰謀

菅原氏というのは藤原摂関家の方々から見たらあまり身分が高くはない方々だったようですね。ですが、出身などにかかわらず、有能な人材はどんどん登用するのが「善政」、そのような当主こそが「名主」です。後の世に、寛平の治・延喜の治なんていわれて理想化される、宇多天皇・醍醐天皇の御代には、それこそ有能な人材であるという理由で、菅原道真が登用・重用されたのでした(むろん、菅原さん以外にもこういう例、たくさんあったと思うけど、教科書にはないので省略します)。

菅原道真はあまりに有能すぎたので、位もどんどん上がり、ついには右大臣にまで昇進してしまいました。律令制下では、左大臣がトップですが、それにつぐのが右大臣です(もっとエラいのは太政大臣ですが、則闕の官ゆえここでは無視)。

藤原摂関家にとって、彼らの一族以外の連中が重く用いられることは面白くない。そもそも後には一門内部すら互いに相争うくらいですから、それこそ「藤原氏以外は人じゃない」(どっかほかの氏族にもそういう台詞あったよね)って方々。官職には異常なまでのこだわりがあります。何にせよ政界トップ、高位高官は全部摂関家一族でないとダメなんですよ。

そんなところに、彼らから見たら、やんごとなき身分とはほど遠い菅原道真なんて人物が天皇に重く用いられているだけでも気にくわないのに、ついに政界ナンバーツーの右大臣にまでなってしまった。気にくわないを通り越して危機感すら覚えたとしても不思議はないですね。

というようなことで、時の左大臣・藤原時平は気にくわない菅原道真を失脚させ、都から追い出してしまおう、と考えました。摂関家が摂関家としての地位を確立していくまでの道のりは、このような他氏排斥の歴史でもありましたから、菅原道真ごとき真面目な学者肌の官僚ひとり追い出すなんてお手の物です。忠実に職務を果たしていたにすぎないのに、いつの間にかターゲットにされてしまい、本当に追い出されてしまった道真は運が悪いというか、気の毒としかいいようがありません。

大宰府左遷

藤原時平は周到に準備をした上で、菅原道真が自らと血縁関係がある皇族をつぎの天皇に据えようと画策している、という讒言をします。醍醐天皇はすっかり騙されてしまい、道真は右大臣の地位を追い落とされて、大宰府に左遷されてしまいました。昌泰四年(901)のことです。この時の元号をとって「昌泰の変」って書いてある参考書もあります。

これも参考書に出ている話ですけど、のちの少弐一族が大宰府奪還に異常なまでの執念を燃やしたことだとか、大内氏も大宰府を抑えて九州を支配したりとか、大宰府って目茶苦茶重要な役所であり、太宰の○○って役職もすごい旨味がありそうに思うわけですが、当時の京の人々からしたら、京都から追い出される = この世の終わりってくらい悲惨なことだったようでして。

ことに、「大宰権帥」なる名ばかりの役職は、藤原氏の「他氏排斥」だけにとどまらず、気に入らない人物を左遷するための定番のポストでした。平清盛も大宰権帥になってますし、必ずしも「左遷専用」ってわけでもないのですが、京で高官やっていた方がここに飛ばされるということは「左遷」以外何物でもありません。「権」というのは、定員外のとか、仮のとかいう意味があり、権大納言とかしょっちゅう出てきますが、「左遷用」として使われた時の「大宰権帥」は「何もすることがない」閑職です。

お気楽でいいじゃん、九州の歌津でも巡って歌詠んで余生を送るぞ! ってなる人もいたかもですし、後から「冤罪」が晴れて帰京できるケースもなくはないと思うんですが(未調査)、道真はショックのあまりもはや立ち直れなかったみたいで、自ら「食を絶って」(『日本の神さま事典』)亡くなったそうです。延喜三年(903)のことでした。

怨霊の仕返し

道真が亡くなったあと、京では恐ろしい出来事が立て続けに起ります。

 延喜八年(908)、藤原菅根、藤原時平が亡くなる(藤原菅根って誰それ? なんですが、天皇に『讒言』したのはこの人らしいので、時平に頼まれたからなのか、自身も道真を妬んでいたのか知りませんが、左遷事件の関連者であることは確かです)
 延長元年(923)、まだ二十代だった皇太子が亡くなった
 つぎの皇太子(わずかに五歳)も亡くなった
 延長八年(930)、清涼殿に落雷があって、藤原清貫という人が亡くなった(※この人も、道真左遷事件で活躍したらしい)
 醍醐天皇がご病気となられ亡くなった

……と、まあ、朝廷内ではあれやこれやと不幸な事件が続きました。現代人なら「偶然じゃん?」って思いますが、古代の人々はそうは考えませんでした。何しろ、巻き込まれているのはどうやら、そのほとんどが、道真左遷に関わっていた人々やその身内などです。これはもう、恨みを抱いて亡くなった道真が、その仕返しをしているとしか思えなかったようです。

まとめ

学者として、官吏として有能だった菅原道真は、寛平・延喜の治で重用されたが、藤原時平らの陰謀によって大宰府に左遷され、空しく世を去った。

道真の死後、左遷事件をでっち上げた関係者たちが次々と不幸に見舞われ、古代の人々の観念では、道真の怨霊の仕業なのではないか、と考えられた。

天神信仰の始まり

そこで、このままじゃどうなってしまうかわからん、ということで、道真の怨霊を鎮めるためにあれこれのことが行なわれました。まずは、その罪が「冤罪」であったことを認めて、その身分を回復。なおも心配だったので、「神さま」となっていただき、お社を建ててその霊を鎮めたのです。

道真の復権

醍醐天皇は、さしあたり、以下のことを行ないました。

 道真左遷の命令を記した詔書を処分
 再度右大臣の地位を与える
 従二位だった位階を正一位に改める

じつは、ここまでの「対策」を行なったのは、若かった皇太子がいきなり亡くなられた時点でのこと。それ以前に、道真が亡くなった大宰府の地には大宰府天満宮(天満宮となるのは後のこと。最初は御廟程度)が建てられていました。延喜五年(905)創建ってことなので、藤原時平ら死亡の延喜八年(908)より早く、道真が亡くなった延喜三年(903)から二年後のことです。

つまり、皇太子薨去などの不幸な事件が起る以前から、何となくヤバいと思い、対策をとっていたフシがありますね。しかし、のちの展開を見てわかるように、全く効果がなかった……。のみならず、落雷による藤原一門の人死亡事件は起るし、これらショックが重なったゆえかもですが、醍醐天皇ご自身も亡くなられてしまわれます。

天神中の天神

ことここに至り、これまでもあれこれの不可思議な出来事は道真の「怨霊」がなせるわざだ、と恐れおののいていた人々は、これはもう単なる「怨霊」じゃないのでは? と思い始めました。誰かの祟りだ! ってなると、復権して、きちんと埋葬して立派なお社建てて……という流れ(たとえ無実の罪みたいな悲惨な事例でなくとも)で何とか鎮めようとするわけですが、道真はここまでやってあげても全然効果なし。恐らくは、もっとすごい神がかりなことになっているんじゃないかと。

そんなことが噂される中、文字通りとある神がかりなことが起ります。右京七条二坊に住んでいた多治比奇子なる巫女に、「北野の地に吾を祀れ」と、道真の託宣があったのです。

北野というところは、「天の神である天神や雷神に対する祭祀を行う場所」(『中世神道入門』)だったそうです。天神という概念がわかりにくく、調べてもすでに菅原道真のこと、ってなってしまっているのですが、違います。「天神地祇」という言葉がありますが、これは天の神と地の神、つまり神さますべての総称です。雷神が雷の神、風神が風の神ってことは誰でも知ってるわけで、恐らく、天神もそれと同列の神さまの一種類だと思います。天神 = 菅原道真ではなくして、道真は「こうした天神の一つとして祀られた」(同上)のです。つまり、現在は上述のように、完全に混同されて「天神 = 菅原道真」となっていますが、ほかにも天神という神さまが存在したわけです。

ゆえに、それらのほかの天神と区別するために、特に菅原道真を「北野天神」、「天満天神」、「天満大自在天神」などと呼んだわけです。

『日本の神さま事典』にはつぎのようにあります。

天神とは天津神ということである。その天神を福岡県の太宰府天満宮や京都市の北野天満宮の祭神として 菅原道真に特定するのは、菅原道真を天神中の天神とする信仰によるものである。
『日本の神さま事典』

当時の人々は、道真は冤罪で亡くなったただの気の毒な人ではなくして、「天神様」なんだ、と考えるに至ったわけです。とまれ、天神ゆかりの地・北野に、道真の託宣により、北野天満宮が創建されたのは天暦年間(947~57)のことであり、やがて平安京鎮護の神となりました。

天神信仰

天神とは狭義では、神として祀られた菅原道真をさし、その総本社的な神社は、太宰府天満宮(福岡県)、北野天満宮(京都府)ということになります。いずれも旧官幣社です。※総本社「的」と書いたのは、フツーに○○信仰の総本社△△と明記しているご本の中にも、天神信仰に関しては何も書いていないことが多いためです(書いてあった本は一冊しかありませんでした。むろん、二三冊読んだ中での話ですが)。

菅原家が代々学者を輩出した家系であったこと、道真自身も有名な学者であったことから、学問の神さまとしての信仰があつい神社です。ここまでは誰でも知っていることで、そこら中の天神社に「○○大学に合格できますように!」などといった絵馬が大量に奉納されているのは周知の如くです。

ただし、今回ミルが初めて知ったのは、天神さまにはもう一つ、重要なご利益(?)があるということ。つまり、道真が冤罪のために命を落としたことから、「無実の罪を負った者を救う」神様なんです。「無実の罪に泣く人」や「濡れ衣によって苦しむ人々」からも、たいそう信仰されたそうです。現在でもそうした冤罪は完全に根絶されたわけではないので、何とも言えません。しかし、古代中世よりは法律や警察機構もしっかりしている現代、そんなに大勢の冤罪に苦しむ人がいたら大問題です。だから、あまり話題にならないのですね。しかし、昔はこのような人たちが現代とは比べものにならないほど多かったと思われるので、こうした信仰があったことも、なるほどと思った次第です。

太宰府天満宮、北野天満宮の分社は全国に約一万五千社もあるそうです。ここで注記しておくべきこととして、天神信仰の始まりは、大宰府に菅原道真を葬った時にそこに廟のようなものを建てたのがそのいっとう最初である、となっている本がほとんどであるということ。しかし、我々としては、菅原道真をお祀りした最初の神社は松崎天満宮(=防府天満宮)だと思っているので、一般に流布するこの説はビミョーと思うわけです。

最後に「三大天満宮」とされている天満宮についてですが、太宰府天満宮、北野天満宮、防府天満宮となります。しかし、ここでも、三番目を大阪天満宮としているケースがあり、意見が分れていることを書き添えておきます。

まとめ

菅原道真は天神さまとして「神格化」され、信仰されるようになった

天神さまを祀る神社を天満宮、その信仰を天神信仰とよぶ

太宰府天満宮、北野天満宮、防府天満宮(もしくは大阪天満宮)を三大天満宮とする

天満宮と大内家

分国の神さま

最初の大内軍旗にお話を戻しますが、なにゆえに大切な軍旗に妙見大菩薩さま、武家の神さま・八幡大菩薩と並んで天満大自在天なんだろう? って謎ですよね。同じことは義興さまお館に、天満大自在天も含めてお祀りされている、何柱かの神さまが何を基準に選ばれているのだろう、って問題でもあります。

先生方の分析によると、これらは大内氏の分国の広がりにも多分に関係があるとのことです。つまり、厳島大明神などが祀られていたのは、安芸国にも支配領域があったからです。周防長門以外でも支配が及ぶ地域で信仰されている神さまならば、お祀りして大切にしていることをアピールしよう、ってことです。

軍旗は戦場で活躍するものですので、そうしたアピールはもっと重要なこととなります。なぜかなら、豊前、筑前にも分国があり、それらの地域からも軍勢を集めているので、兵士たちの故郷の神社・宇佐八幡宮、大宰府天満宮の神さまが軍旗に記されているということは、彼らにとってたいへん重要な意味を持っているわけです。というようなことをかなり前に『大内氏の文化を探る』というご本でお読みしましたが、現在典拠として挙げることができません(記憶の彼方になった)。少々お待ちください。

天満宮と梅の花

梅園の写真

梅園@防府天満宮

全国の天満宮には梅園がある、もしくは梅の花が植えてあるところが頗る多いそうです。それには理由があって、菅原道真が梅の花を愛していたからです。⇒ 関連記事:防府天満宮

  東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ

次郎

ひぇ、実況中継(音声版)の聞きすぎで、和歌なんかわけわからん俺すらも暗記しちまった歌だ……。

ミル

まあ、覚えちゃったんだからいいんじゃない? ちなみにこのお歌は大宰府左遷の命令が下る日の朝に詠まれたそうです。

日本で花といえば桜、日本人といえば桜というのが定番。今や海外にも知られており、わざわざ花見の時期に訪れる西洋人などもいるといい、真似して植え始めた所もあるとか。桜の花はこんなにも綺麗ですが、わざわざ海外から見に来たり、真似して植えたりするのはなぜかといえば、じつはガイジンさんたちの間では、桜の花って特に大人気ってものではなかったからです。我々日本人にその良さを教えられた、って感じですね。

かつてイ・ジュンギさま主演の韓ドラ『イルジメ』で幼い日の主人公が「梅の花は奥ゆかしい」という台詞がありましたが……(そもそもこのドラマの名前、漢字で書くと『一枝梅』です)。中国大陸でも朝鮮半島でも、花といったら梅なんですよね。ほかにもあるとは思いますけど、桜の花愛はおそらく、中国朝鮮からの輸入ではなくして、日本固有のものっぽいですね(典拠なし)。逆に言うと、漢籍には梅満載。漢文スラスラの菅原道真が梅の花を愛したって、ものすごくわかる気がするわけです。

この歌しか知りませんので、桜の花だって当然、たくさんお詠みになっているであろうとは思うのですが。とはいえ、防府天満宮に麗しい梅園があったのには理由があったということが学べましたね。

天台宗と『北野天満縁起』

伊藤聡先生の『神道の中世 伊勢神宮・吉田神道・中世日本紀』は素晴らしいご本なのだけど、難しすぎて積ん読に。当時よりは知識も1ミリくらいはマシになったかと思うけれど、『中世神道入門 カミとホトケの織りなす世界』という新しいご本の登場で、中世の神さまがぐっと身近になった。で、そのご本に、天台宗と天神信仰との関連性について言及されており、とても興味深いので、メモしておきたい。だいたいつぎのような内容と思います(かな~り噛み砕いています)。

教科書&参考書の定番として『北野天満縁起』というものが文化史一覧表にあると思います。文字通り、どこの神社にもある「縁起」ですが、天神信仰がこれだけ人気なのですから当然、縁起も流布することになります。イマドキの民からしたら、漢字だらけの古文書のかたちで郷土史などに載っていたとしても、申し訳ありませんが、意味不明です、の世界です。しかし、これらはじつは、神社のホームページにあらすじが載っていたりするので、何となくでいいのなら意味はわかります。加えて、『北野天満縁起』に関していえば、やがて絵がついた絵巻物も出てくるので、こうなると一般庶民も大喜びです。参考書類に載っていたのは絵巻のほうだったような?

それはともかく、『北野天満縁起』の流布と天神信仰の流行とは相乗効果で、ご本によれば、むしろ、本のおかげで天神信仰が広まったような解釈です。で、この『北野天満縁起』を書いたのがじつは、天台宗のお坊さんでした。なんで? って思いますが、北野天神と天台宗との関係にはとても深いものがあったんです。

その昔、天台座主・安慧から依頼を受けた菅原是善は『顕揚大戒論』(天台宗の戒律について書いた本)の序文を息子である道真に書かせました。まあ学者の家系なので、文章を書いて欲しいと頼まれることは多々あったのでしょう。しかし、本人ではなく、息子・道真が書いた。ここでまず、繋がります。そんな縁があったからでしょうか、「北野社(現・北野天満宮)の成立には、同地に所在し朝日寺の天台僧最鎮が関与した」(『中世神道入門』)といいます。その後、寛弘元年(1004)、 北野社の別当に就任した是算という人は、なんと「菅原氏の出身」で、その上「比叡山西塔東尾坊」のお坊さんであったといいます。菅原氏出身の道真=天神様と比叡山延暦寺とは、完全に結びついてしまったのです。

このようは事情が重なって、天台宗と天神さまとは親しい関係にあった模様です。ゆえに、いわゆる神輿を担いでの強訴ってなると、山王権現(比叡山鎮守)と北野社の神輿とが協力し合ってともに担ぎ出されるんですよ。先に『顕揚大戒論』なる序文を道真が書いたといいました。天神様信仰が流行したこともあったからでしょうか、天台宗のお坊さんたちは、『北野天神縁起』の中に「権者の製作、あら人神の筆作」と明記して、たいへん重要なものとみなしたそうです。なので、これはほとんど一般人とは無関係なご利益とはなりますが、天神様は「戒律の守護神」とも呼ばれているそうです。

ついでに、天神信仰の流行で、天台宗のみならず、真言宗やのちには禅宗などでも、それとの関わりを求める動きが起り、なんと天神様は入宋して無準師範なる禅僧の元で修行したという言い伝えまで生まれたそうです。そのため、「渡唐天神像」なる像が造られるようになりました。この像では、天神さまは道教の衣装を身につけ、手に梅の花を持っています。聞いたことないよ、と思いましたが、参照したほぼすべての本に書いてありますので、重要事項なんでしょう(多分)。

さて、なにゆえ、天台宗と天神様の関係にこだわるかお分かりでしょうか? そうです、大内氏の氏寺・興隆寺は天台宗寺院だからです。このことと、軍旗に名前が載っていること、義興さまお館に天神様が祀られていたこととの関連性は不明ですし、そもそも『入門』となっていても、素人が適当に首を突っ込むべきご本ではないことから、中途半端で気持ち悪いですが、この辺りでやめておきます。

天神さまも習合した

あれもこれも神仏習合した中世。どう考えても、天神さまは天神さまであり続けたとしか思えないものの、やはり習合していました。神仏習合が最高点に達したとき、この神さまはこの仏さまが姿を変えて現われたものである、というようなルールが何となく出来上がっていました。市杵島姫命と弁天様のように、完全に同一視されてしまって後から分かたれるのが悲しいよ~となった神さまと仏さまもおられれば、同じく、いちおう決まってはいたのにそこまでメジャーではなかった組み合わせもあったのかもしれません。

結論からいいますと、天神さまは十一面観音の垂迹と見なされていました。コレ、今更ながら、へえーー!? ってなってお恥ずかしいのですが、防府天満宮に「天神本地観音堂」がございましたよね? 今は満願寺さまになっておられると。満願寺さまのご本尊は千手観音なのですが、境外仏堂となっている「天神本地観音堂」の本尊は十一面観音です。⇒ 関連記事:「天神本地観音堂」

「天神本地観音堂」の文化財説明看板に、菅原道真公とそのお母上が観音様を信仰していたことが書いてくださってあったと思いますが、『中世神道入門』のご本にもまったく同じ事情が書いてあり、天神さまの本地が十一面観音となったことは、「道真の観音信仰に由来する」(同書)といいます。

まとめ

天神様は学問の神さまとして有名で、ついでに詩歌の神さま、冤罪に苦しむ人々を救う神さまでもある

菅原道真が梅の花を愛したことから天満宮には梅の花が植えられていることが多い

『北野天満宮縁起』はたいへん有名な神社縁起で、絵巻物にもなり、受験にも出る可能性がある

天神様(菅原家)と天台宗は古くからゆかりがあり、大内家の氏寺・興隆寺も天台宗である

なお、天神さまも十一面観音と神仏習合していた

詩歌の神さま

和歌の神さまについては場を改めたいと思っていますが、普通、三大和歌の神さまは柿本人麻呂、山部赤人、衣通姫です。しかし、天神さまこと菅原道真も和歌ならぬ詩歌の神さまとして有名です。これは学問の神さまの中に入れてしまってもいい話かもしれません。詩歌だって学問ですから。

これまた例の『北野天神縁起』の仕業みたいですが、『縁起』の中で道真を 「文道の大祖」と崇め奉ったことから、北野天神では和歌にかかわるイベントが多数開催されたそうです(歌合とか連歌会のことですね)。

じつは義興さまお館に祀られた神さまの中にも、そして大内軍旗(ココで紹介してないもう一流のほう)にも和歌の神さま玉津島大明神(衣通姫)がいらっしゃるので、天神さまを和歌の神さまとして、法泉寺さまに結びつけるのはどうだろう、と疑問符。ですので、天台宗との繋がり(氷上山)と梅の花のほうを採用して、つぎのお歌をご紹介して結びとします。

法泉寺さまイメージ画像

法泉寺さま

「曽祖父・盛見朝臣都より紅梅を三本氷上山にくだしてうへられ侍りき。一もとをば長禄の比、故三品築山の亭にうつしかえられ侍し。一木はちかごろ朽はて侍ぬ。のこる一本は本堂の前にありしを参詣の人などの手折こともやとて別当の坊にうつされける。若枝も立そひいろ香もたえに侍ければ
 法の庭にとしをふる木のこの花や本の宮こ(都)の春したふらん」
『拾塵和歌集』

参照文献:『日本の神様読み解き事典』、『日本の神様事典』、『中世神道入門』、『山口市史 史料編 大内文化』、『大内氏の文化を探る』、日本史受験参考書

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