簡略通史

大内庭園全年表

2022年3月26日

於児丸

人物説明などに出てきた年代を順番に書き出しています。いつ頃のことなのか、確認するのに使ってください。

ミル

気まぐれで追加しているため、いきなりワープしていたりします。西暦もメンドーなので、後から……。

推古天皇十九年

琳聖、帰化。

建武二年

十一月、弘幸・弟新介弘直、新田義貞に従い、東下して足利高氏を討つ。
十二月、弘幸、足利氏に友好を申し入れる。

延元元年

二月、弘幸叔父・豊前守長弘が周防守護代となる。

暦応四年(南朝・興国三年)

一族某の代官等が氷上山興隆寺を焼く。

貞和五年(南朝・正平四年)

十一月、氷上山興隆寺を修築。

観応元年(南朝・正平五年)

十月一日、弘世等、高越後守師泰の代官および守護代を攻撃。

正平七年(北朝・文和元年)

※南朝帰順
二月十九日、弘世、都濃郡鷲頭荘白坂山で、北軍・散位貞弘、内藤肥後彦太郎藤時等と戦う。
二月二十日、同上。
閏二月十七日、高志垣で合戦。
閏二月十九日、熊毛郡新屋河内真尾で戦い、藤時の弟・内藤新三郎盛清を斬る。
三月三日、吉敷郡問田村・仁平寺本堂を修造(八日に供養会予定)、鎮守山王社頭に於て法楽舞。
三月六日、弘幸死去。
三月十五日、仁平寺供養会(弘幸の死去により、この日まで延期されていた)。
三月十六日、仁平寺で童舞を執り行う。
三月廿七日、新屋河内真尾で合戦。
三月廿八日、同所で合戦。
四月九日、鷲頭荘白坂山で戦う(廿九日まで)。
八月三日、散位貞弘と合戦。

正平十年(北朝・文和四年)

長門の北軍・厚東氏を攻める。

正平十一年(北朝・延文元年)

九月廿一日、弘幸の牌を高野山成慶院に立てる。

正平十二年(北朝・延文二年)

七月十三日、長門国一宮・住吉神社に朝敵退治の祈願状を納める。

正平十三年(北朝・延文三年)

六月廿三日、長門国一宮(往吉)、二宮(忌宮)参詣。

正平十四年(北朝・延文四年)

十二月廿六日、厚東氏の居城・豊浦郡四王寺山を攻撃、城を落とし、厚東某および富永又三郎を斬る。

貞治二年(南朝・正平十八年)

春、北朝につく。周防・長門の守護職となる。
十二月十三日、豊前国柳城を攻める。

貞治三年(南朝・正平十九年)

二月、南軍・名和伯耆権守顕長、同小次郎長生、菊池武勝、厚東駿河守等、来襲。馬岳で迎え撃ったが敗北。香春岳に退いた。顕長等は追撃し、香春岳を囲む。弘世は降伏し、帰国した。

東上し将軍・義詮に拝謁。

貞治五年(南朝・正平二十一年)

七月、石見出兵。
七月十三日、青龍寺城を攻撃。

応安三年(南朝・建徳元年)

三月十一日、長門一宮遷宮式、参詣。

応安四年(南朝・建徳二年)

九月廿四日、九州探題となった今川貞世が、防府に来る。
十月七日、貞世は防府を出発して九州に下向した。嫡男・義弘が兵士四千余を率い貞世に従う。

永和元年(南朝・天授元年)

春、菊池・松浦・千葉等の諸族が挙兵。貞世は筑前世振山に軍を配置。
三月三日、南軍と合戦。貞世の兵・奥山井伊小笠原等が戦死。貞世が敗北濃厚となった時、義弘の奮戦で敵を打ち負かす。
三月廿一日、長府一宮(住吉)、二宮(忌宮)に参詣。杉信濃守重直を守護代とした。
四月十日、氷上山妙見社を修築、遷宮式。
八月十日、防府松崎天満宮幣殿を建立。

永和三年(南朝・天授三年)

八月十二日、義弘は、弟・満弘とともに鎮西で合戦、故宮僧正男植田宮、故武光弟菊池武義入道自関、同武安および菊池の一族郎従百余人を斬った。

永和四年(南朝・天授四年)

九月廿九日、義弘は貞世と合流し、肥後国託磨原で菊池武朝等と合戦、敗北。

康暦元年(南朝・天授五年)

五月、去年、高麗国主・辛禑の使者として来日していた韓国柱が帰国。義弘は朴居士に軍士百八十六人を預けて高麗に送った(倭寇討伐援助のためである)。

康暦二年(南朝・天授六年)

五月十日、長門国栄山(?)で合戦、杉入道智静および侍名字の者廿七人を斬る。
五月廿八日、叔父・師弘と安芸国内郡で合戦、一族鷲頭筑前守父子三人、石見守護代内美作守父子二人、末武新三郎、藤田又三郎、芸州大将讃井山城守、若党陶山佐波守、除田仁保因幡守、八木八郎左衛門尉、土肥修理亮、小畠曽我八郎左衛門尉、野上将監、同雅楽助、弘中三河守、秋叛次郎左衛門尉、および侍名字の者二百余人を斬る。
十一月十五日、弘世死去。吉敷郡御堀村正寿院に葬る。法名:正寿院玄峰道階

康暦六年(南朝・文中二年)

南軍と合戦、敗北。

康暦七年(南朝・文中三年)

三月、貞世、南軍と和睦。
九月、長門・豊前の守護職となる。

至徳三年(南朝・元中三年)

六月十五日、父・弘世の牌を高野山成慶院に立てる。

康応元年(南朝・元中六年)

三月、将軍・足利義満、安芸国厳島社に参詣。
四日に京師を出立して厳島に至り、十二日、都濃郡降松浦に船をとめる。
十八日、竈関から帰洛。
廿六日、義弘の船は細川淡路守等と摂津・兵庫に到着。廿七日八日、それぞれ洛中入り。

明徳二年(南朝・元中八年)

十二月、山名陸奥守氏清、叛く。⇒「 明徳の乱」
十二月廿五日、義弘は神祇官の杜を背にして軍を配置。
十二月三十日、氏清の先鋒・山名上総介、小林修理亮が来襲。激闘の末、小林を倒す。

明徳三年(南朝・元中九年)

正月四日、山名の旧領・和泉紀伊の両国を賜り、守護職に任命された。
二月十三日、堺に下る。
二月廿五日、和泉の国府に出陣し、雨山土丸両城を攻撃。紀伊と和泉が平定される。
冬閏十月五日、南北が合一する。

 

ミル

これ、目茶苦茶テキトーに全部書き出しているけど、1ページに入りきるはずがないです。いくつにも分割整理されると思います……。

五郎

中身もこのままじゃ意味不明っぽいしな……。

参考文献:20220326現在、近藤清石先生『大内氏実録』

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