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妙喜寺(山口市江良)

2022年9月26日

妙喜寺・本堂遠景

山口県山口市江良の妙喜寺とは?

大内政弘の母・妙喜寺殿の菩提寺です。そもそも、雪舟庭園で有名な現在の常栄寺が元妙喜寺で、もともとは政弘別荘だったところです。それゆえに、雪舟が庭園を造営したりしたわけです。しかし、毛利家が移って来てから、大内氏時代のあれこれの寺院がその関係者の菩提寺にとってかわったのは周知のごとくで、常栄寺は現在、毛利隆元の菩提寺として知られています。妙喜寺のほうはあれこれと変遷したのち、現在地に落ち着きましたが、肝心の妙喜寺殿の墓所は現在も旧寺地である常栄寺に残されています。

妙喜寺・基本情報

住所 〒753-0017 山口市江良2丁目8−1
山号・寺号・本尊 楞伽山・妙喜寺・
宗派 曹洞宗

妙喜寺・歴史

現在の毛利隆元菩提寺・常栄寺の場所に、元々存在していた妙喜寺。まずは、隆元夫人の菩提寺・妙寿寺にとってかわられ、のちに、隆元夫妻の菩提寺となって今に至るのは周知の通りです。しかし、元々の妙喜寺のほうも、場所を変えつつ現存しており、それが当寺院となります。

妙喜寺の変遷

一、現常栄寺の地は法泉寺さま(政弘公)の別荘だった。そこに亡くなったお母上の菩提寺を建てた(妙喜寺)
二、毛利隆元夫人の菩提寺・妙寿寺が、妙喜寺の場所にやってきた
三、妙喜寺の住持は江良の妙向庵に場所を移し、実宝山・真如寺と名を改めた 
四、妙喜寺は妙寿寺と分離復興した(当寺院)

妙喜寺の寺地:現常栄寺の地(後から来た妙寿寺と一緒になり、名前が妙寿寺に)⇒ 妙向庵の地(妙向庵を真如寺と改め、最終的に元の妙喜寺の名前で完全復活)

というような流れだと思うのだけれども、この寺院には大好きな由来説明立て看板が存在せず(見付けられなかっただけの可能性もあります)、仕方なく難しすぎる典拠にあたりました。

『山口県寺院沿革史』には、およそつぎのようなことが書かれています。

「この寺は初めは現在の常栄寺の地に創建された。開基は大内政弘卿で、同室(※原文ママ)の牌所(位牌を安置しておく場所)であった。このほかに大分の寺領もくわえられ(政弘の)自書がある。 文明三年の法泉寺殿御証文もある。

のちに、毛利家も妙喜寺を菩提所とした。法泉寺殿の御掟書通りに寺領を与えられたが、その後は減少して百六十余石となった。毛利元就公時代の証文が伝わる。

開山は大功圓忠和尚(文明五年二月十七日寂) 、二世・英山希雄、三世・西湖良景(普門寺の開山、文亀二年三月二十五日寂)、四世・九江慈淵(法明院開山、大永五年二月二日寂)、七世・延芝宗視(天徳寺開山、天正五年十月六日寂)、九世・福林宗菊(玄答院開山、天正五年六月二十五日寂)、十一世・脱周金頓(龍華寺開山、慶長六年十月九日寂)。

慶長年間、十二世・桐菴昌鳳の時、毛利氏が防長に移って来た。萩に在城した毛利輝元は、安芸国吉田郡山にあった隆元夫人の牌所・興禅寺をこの寺に移した。夫人の法名から、妙寿寺と名を改められ、隆元夫人の位牌所となり、また、隆元夫妻の位牌所となった。

そこで、昌鳳和尚は江良の妙向庵に移り、二、三年間、勤めを離れ静かに暮らしていた。この妙向庵は大内義隆公母君の位牌所だったという。のちに住職を仰せつかると、浄土宗妙向庵だったのを、すぐさまかかわりのある山号寺号を用いて、実宝山真如寺と改めた(※義隆母法名は真如寺殿)。この際の御当役殿中の奉書が残る。妙寿寺だった時の寺領は召し上げられ、真如寺寺領に石、敷地などを替えられた。もっとも、旧跡も由緒ある寺ゆえ、少々の寺領と造営を仰せつかったが、その後、八石の寺領を召し上げられ(熊野改めの時分だろうか)、山村境内五石八斗七升の寺敷地を除地と替えられた。

その後、妙喜寺は妙寿寺と分離復興して真如寺に移った。その間十三世・天室林模(福寿寺開山、元和八年六月二十二日寂)、十四世・頭室長線(海禅寺、洞泉寺開山、万治元年八月十七日寂)。十五世・一峰宗逸代は妙喜寺を再興したことから中興と呼ばれる(享保九年八月十七日寂)。

 当寺開基 妙喜寺殿宗崗妙照大姉 永享  七月二日寂
 同 真如寺殿芳林慶與大姉 永祿元年二月二十一日寂

開山・大功圓忠和尚は泰雲寺開山・石屋和尚三世の孫で、中興・覚陰和尚の弟子。泰雲寺輪番(寺役を順番に交替して務めること)の元祖。輪番の掟書は数百年来、断絶することなく今にいたっている。覚陰和尚には多くの弟子がいたけれども、その中でもっとも優れた弟子だった。

明治初年以来、寺院は廃れてしまい、ほとんど廃寺同様の状態であった。三十二世・宗野義雄師は私財を投じて妙喜寺宗野財団を設立。三万五千の基金を積み立て、その利息は寺門の維持と徒弟の教育、ならびに布教活動の費用に充てられた。そのお陰で、寺は永続の基礎を築くことができた。すべては義雄師の誠意と努力の賜物である。

宝物:大内家御證文 一通、毛利隆元公御證文一通、毛利元就公御證文 二通、毛利輝元公御證文 二通、御老中御奉書六通、其他墨染等 十一通。これらは二巻に表装して保存されている。

妙寿寺と分離復興した際、古熊の周慶寺外に一時建立していたと伝えられている。本堂、 庫裡、山門はいずれも真如寺時代に造営された当時のままというから、慶長年間の頃であろう。

寺内には、雪舟の設計によって築かれた庭園と、樹齢五百年以上のツツジの大木がある。」
(参照『山口県寺院沿革史』、原文文語文、一部省略)

理解できない(読解できてない)のは、昌鳳和尚は江良の妙向庵に寺を移り云々以下の部分です。妙喜寺が妙寿院となったタイミングで庵に移って隠遁生活をされていたらしきことはわかりますが、この時点で、元妙喜寺は妙寿院となったように取れます。寺号がかわり、妙喜寺殿の位牌所というより、毛利家の方々の位牌所と化したので、隠居したのかなぁ、と思うわけです。そして、暫く妙向庵なる所に身を寄せておられた、と。こちらも、大内義隆母上真如寺殿の寺院というご由緒があり、住職を任せられた。そこで、真如寺殿のお名前を寺号とし、加えて、元は浄土宗だったけれども、妙喜寺時代から曹洞宗の方ですので、改宗もした。つまりは、昌鳳和尚さまは、すでに妙寿院とは無関係の真如寺のご住職となられたものかと。

ところが、つぎの段落に「その後、妙喜寺は妙寿寺と分離復興して真如寺に移った」と書いてあります。昌鳳和尚が真如寺のご住職となって、去って行かれても、妙喜寺のほうはなおも、妙寿院に合併されたかのような形で現在の常栄寺にあったという認識だったのでしょうか。寺院が合併されるとか、名前が変るなんて普通にあることですし。しかしです、「妙寿寺だった時の寺領は召し上げられ、真如寺寺領に石、敷地などを替えられた」ともあるのですが、これ、どういう意味なんでしょう。昌鳳和尚は妙向庵に移り、あらたに真如寺のご住職となられた。ということは当然、妙寿院と名前を変えた妙喜寺とは無関係となったんじゃないかと考えてしまいます(暫く引退してたわけですし)。妙向庵に移り隠居してても、(妙喜寺改め)妙寿院の寺領を管理されていたとは思えないのですよね。しかし、妙寿院としても管理者不在では困るので、毛利家から移ってきた隆元夫人の位牌所を管理していた寺院関係者などが新たなご住職とかになっていたんじゃないんでしょうかね。だとしたら、妙寿院だった時の寺領を召し上げられって、とても不可思議です。

その後の流れを見ていくと、昌鳳和尚以下の方々は、真如寺に移り寺号もかわっても、なおもずっと「妙喜寺」の歴史を引き継がれていたということがありありと分るのですが、妙寿院から真如寺に移転したあたりのこと(上述)が素人には理解しかねます。ちなみにですが、原文は「昌鳳和尚は江良の妙向庵に寺を渡し」となっているんです。譲るとか引き渡すという意味ですが、そんなことしたら、輝元さん母上の位牌所がいきなりほかの寺院に譲られちゃって困るじゃないか、その後の歴史を見ても、あそこは妙喜寺だったのが、妙寿寺になったんだ、というのがあったので、和尚さんだけが移ったと解釈しました。ココが大きな誤りの元なんでしょうか。古文わからなくてすみません。

ところで、本堂、山門、庫裡が江戸時代の建築であるとありますが、『寺院沿革史』発刊後に、大幅に改築されたと思われます。到底そのような古めかしいものとは思えません。すべて新品です。そもそも、明治時代に廃寺同然となっていたものを再興したというのですから、その際に、朽ち果てた建物を再建したはずです。あるいは、古熊の地に一時移っていた時の建物が現存しているのでしょうか。

ミル涙イメージ画像
ミル

参考にしたご本が、古文書みたいな文体で難しく、名著の復刻版なので、情報が最新ではない可能性があることをお断りしておきます。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

いちおう、イマドキの書物だよな? 何でそんなに難しんだ?

畠山義豊イメージ画像
次郎

明治時代は古文、昭和時代も最初は旧漢字だったんだとさ。どっちも、俺らには難しくて当然な。

妙喜寺・みどころ

ごく一般の立派で美しい寺院さまです。妙喜寺という寺号だけが伝えられておりますが、法泉寺さまのお母上の菩提寺は元は現在の常栄寺で、墓所もそちらです。しかし、寺号が伝えられているということが重要でして、今は他人のものとなっている菩提寺にお参りしても意味はないので、寺院そのものの歴史にこだわるのであれば、参詣する意義は重大です。しかし、墓所はないですので、二か所行かなければなりません。

本堂

妙喜寺・本堂

境内に、昭和時代の「本堂改修記念碑」がありました。石碑によると、信徒の皆さんによって、新たに改築・修繕がなされたそうです。ご覧の通り新築同様に綺麗で立派です。

山門

妙喜寺・山門

山門も立派。お姿は古式ゆかしいものの、きちんと手入れされた最近の再建物かと思われます。

妙喜寺大中興碑

「妙喜寺大中興碑」

この手の碑文はオール漢文で、とても難解。スラスラと読みこなせるならば、得るところは大きいのだとわかっているのですが。要するに宗野義雄師が由緒ある妙喜寺を復興なさった功績が称えられています。『寺院沿革史』によれば、宗野師がおられなければ、寺院の現在はなかったというくらい偉大な方だそうですから、その事蹟を知ることはたいへん大切です。そう考えると、ほかの寺社にあるこのような石碑も皆、同じように重要なことが書いてあるはずで、寺社参拝に漢文を読みこなす能力は必須ということになりますね。はぁ。

鐘楼

妙喜寺・鐘楼

庭園

妙喜寺・庭園

庭園は雪舟の設計によるものだといいます。移転や寺号変更などあれこれの変遷があった寺院であり、元々は現在雪舟庭園で有名な常栄寺がこの寺院だったので、妙喜寺に雪舟庭園があったということは紛れもない事実。ただし、移転先である現在地の庭園も、雪舟のものなのかどうかはわかりません。『寺院沿革史』の解説に従えば、雪舟のものということになりますが。

※ちなみに、最初に元妙喜寺に移ってきた隆元夫人の菩提寺・妙寿院ですが、その後、そこへ隆元菩提寺・常栄寺が移ってきたことでご夫妻の菩提寺となったとされていますが、「妙寿院」という寺院は現在も存在します。これは元々、陶興房開基の大幻院だった寺院ですが、内藤隆春が姉の位牌所としたため、「妙寿院」と名前が変ってしまったのです。内藤隆春の姉といったら、毛利隆元夫人ですので、元妙喜寺に移ってきた「妙寿寺」の隆元夫人と同一人物です。妙寿寺と隆元菩提寺・常栄寺は合体したはずですが、その後また分裂したのでしょうかね? はては、ご子息(輝元)と弟とで別々に位牌を作って拝んでいたのか。内藤隆春という方は毛利家の人という認識でよく知らないし、このわけのわからない寺院変遷は複雑すぎて永遠の謎です。⇒ 関連記事:妙寿院

畠山義豊イメージ画像
次郎

そんなのもう、どーでもいいだろ? 今あるお名前、今あるお寺、それが大事。お前らみたいにこだわる連中、いないんじゃないの?

ミル涙イメージ画像
ミル

だって、ゴチャゴチャして気持ち悪いんだもん……。

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五郎

父上の寺院が勝手にほかの人物の寺に変えられるとか、俺も気分悪い。

妙喜寺(山口市江良)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒753-0017 山口市江良2丁目8−1

アクセス

山口駅からタクシーを使いました。地図を見る限りでは、歩けそうに思えます。「歩けない」とされる常栄寺よりは手前にありますし、そもそも普通に山口駅から徒歩圏である瑠璃光寺も同じくらいの距離に見えなくもないですので。ただし、どちらかというと、宮野駅か上山口のほうが近いような。

しかし、そんなん言ったら瑠璃光寺も上山口駅のほうが近いように見えますから、いっそ山口駅から歩いてしまえ! となります。ただし、世間一般的には瑠璃光寺すら歩いては行けないようなので、公共交通機関かタクシーを使ってください。自らも歩いてはいないので、行き方のご案内はしかねます。次回試してみようと考えておりますので、その後でお伝えします。

参照文献:『山口県寺院沿革史』 

妙喜寺(山口市江良)について:まとめ & 感想

妙喜寺(山口市江良)・まとめ

  1. 現在常栄寺があるところは、大内政弘の別荘だった。雪舟が政弘のために庭園を造営するなど贅を凝らした造りであったと想像される
  2. 母・妙喜寺殿が亡くなられると、政弘はそこを母の菩提寺とした
  3. 大内氏が滅亡し、さらに、徳川幕府が毛利家を安芸国から追い出すと、毛利輝元は母・妙寿院の菩提寺を妙喜寺に移した
  4. 妙喜寺は大内義隆母の菩提寺だった寺院に移り、真如寺となった
  5. このあたりの経緯は資料も混沌としてよくわからないが、大内義隆母は真如寺殿なので、二つの寺院は合併したのち、妙喜寺として再興されたようである(つまりはいったん廃れていたらしい)
  6. 政弘母、義隆母という二人の女性が開基ということになっている(参照:『寺院沿革史』)
  7. 明治時代となり、またしても寺院は廃寺同然になるが、三十二世・宗野義雄師の尽力によって見事に復興した。ゆえに、境内には師の功績を称える石碑がある

正直、ナニコレの世界です。要するに、大内氏時代の栄華は今はなく……の典型でして、自滅した義隆の母はとにかくとして、栄華を極めた法泉寺さまのお母上の菩提寺まで目茶苦茶になっています。歴史の流れとはいえ、あまりにも無残です。ただ、それは、隆元夫人・妙寿院も同じでして、世が世なら、菩提寺は安芸国にあったはずです。

吉田郡山城跡(地図)

何度も使いまわしている図ですが、この吉田郡山城跡図には、妙寿寺曲輪跡と書かれています。元々はこの地に寺院があったのかもしれません。ほかの黄色枠の跡地にはすべて行ってみましたが、何もないただの空しい削平地となっていました。輝元さんは、やがて吉田郡山を離れて、広島に豪華絢爛な近世天守閣のお城を建てました。そうなれば、ここらにあった元就さん、隆元さんなどの菩提寺もお城付近に立派な寺院を建立して山から下りて来られたかもしれません。でも、広島を追い出されたら……もうどうしようもないですよ。

そうでなくても、滅亡した一族の菩提寺など荒れ果てて当然です。妙喜寺が今は常栄寺になっているおかげで、妙喜寺殿の墓所も、雪舟庭園も守られたのかもしれません。そのうえ、もともとの妙喜寺も場所を変えてきちんと引き継がれている。落ち着いて考えたら、こんな素晴らしいことはないかもしれません(そうでも考えないとやりきれないんです、みたいなイジワルな気持ちも正直ありますけど)。

寺院さまはとても綺麗です。庭園が雪舟のものかどうかは、ちょっとわかりませんが。日本庭園とか見る目がない人物が書いておりますので。未だにわからないんですが、そもそも、大内義隆母の菩提寺だったところが妙喜寺と合体したのであれば、義隆の母なんですから、生前から贅を凝らした寺院を菩提寺に決めてたか、夫を亡くして出家してたでしょうから、お勤め用尼寺とかあったような気がします(わからんけど)。だとするならば、名のある庭師が庭園を造ることくらい造作なさそうに思えますよね(雪舟はすでにいないけど、庭造ってた寺院を選んだとか)。ただ、息子さんがあのような亡くなり方をしていることからみて、仮にそういう場所が用意されていたとしても、そこに入れたかはわかりません。ま、叛乱家臣たちも、老母まで酷い目に遭わせることはしなかったでしょうけどね。

こんな方におすすめ

  • 檀家の方々のためにある寺院さまです。観光資源ではありません
  • 妙喜寺という寺院のご由緒に関心のある方は、信者の方々の迷惑とならないように、そっとお参りしましょう

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

ん? おすすめの人がいないのかな?

妙喜尼イメージ画像
妙喜寺さま

これ、寺院は見世物ではない。何が「おすすめ」じゃ。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

は? あんた、誰? 尼さんなのに、エラそうにしちゃってさ。

トホンホイメージ画像
ト・ホンホ

無礼な。先々代のご母堂だ。

妙喜尼イメージ画像
妙喜寺さま

大乱の昔を思い出すな。あの時の小童が、このように大きくなるとは。そなた、朝鮮に渡ったとか。元気そうじゃな。

トホンホイメージ画像
ト・ホンホ

ええ。源義経チンギスハーン説のごとく、楽しく生存しておりまするよ。

五郎涙イメージ画像
五郎

(なんなんだろ、話が見えないけど……。ミルもいないし、ま、いっか)

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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※この記事は 20231212 に加筆修正されました。なお不確かな部分があるので、調査続行中です。

  • この記事を書いた人
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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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