
妙喜寺・基本情報
住所 〒753-0017 山口市江良2丁目8−1
電話 083ー923ー3056
山号・寺号・本尊 楞伽山・妙喜寺・
宗派 曹洞宗 常恒會地
妙喜寺・歴史
現在の毛利隆元菩提寺・常栄寺の場所に、元々存在していた妙喜寺。まずは、隆元夫人の菩提寺・妙寿寺にとってかわられ、のちに、隆元夫妻の菩提寺となって今に至るのは周知の通り。しかし、元々の妙喜寺のほうも、場所を変えつつ現存しているのである。
妙喜寺の変遷
現常栄寺の地に政弘が母の菩提寺を建てた(妙喜寺)⇒ 毛利隆元夫人の菩提寺・妙寿寺が妙喜寺の場所にやってきた ⇒ 妙喜寺の住持は江良の妙向庵に場所を移し、実宝山・真如寺と名を改めた ⇒ 妙喜寺は妙寿寺と分離復興し、現在に至る。
妙喜寺:現常栄寺の地(後から来た妙寿寺と一緒になり、名前が妙寿寺に)⇒ 妙向庵の地(妙向庵を真如寺と改め、最終的に元の妙喜寺の名前で完全復活)
というような流れだと思うのだけれども、この寺院には大好きな由来説明立て看板が存在せず(見付けられなかっただけの可能性もある)、仕方なく難しすぎる典拠にあたった。
『山口県寺院沿革史』というご本によれば、およそつぎのようなことが書かれている。
「この寺は初めは現在の常栄寺の地に創建された。開基は大内政弘卿で、同室の牌所(位牌を安置しておく場所)であった。このほかに大分の寺領もくわえられ(政弘の)自書がある。 ⇒ 法泉寺殿御証文(文明三年)
のちに、毛利家も妙喜寺を菩提所とした。法泉寺殿の御掟書通りに寺領を与えられたが、その後は減少して百六十余石となった。毛利元就公時代の証文が伝わる。
開山は大功忠圓和尚(文明五年二月十七日寂) 、二世・英山希雄、三世・西湖良景(普門寺の開山、文亀二年三月二十五日寂)、四世・九江慈淵(法明院開山、大永五年二月二日寂)、七世・延芝宗視(天徳寺開山、天正五年十月六日寂)、九世・福林宗菊(元答院開山、天正五年六月二十五日寂)、十一世・脱周金頓(龍華寺開山、慶長六年十月九日寂)。
慶長年間、十二世・桐菴昌鳳の時、毛利氏が防長に移って来た。萩に在城した毛利輝元は、安芸国吉田郡山にあった隆元夫人の牌所・興禅寺をこの寺に移した。夫人の法名から、妙寿寺と名を改められ、隆元夫人の位牌所となり、また、隆元夫妻の位牌所となった。
そこで、昌鳳和尚は江良の妙向庵に寺を移し、二、三年間、勤めを離れ静かに暮らしていた(退いた妙向庵は大内義隆公母君の位牌所だったという)。のちに住職を仰せつかると、浄土宗妙向庵だったことから、すぐさま実宝山真如寺と改めた。
その後、妙喜寺は妙寿寺と分離復興して真如寺に移った(ここがよくわからない。『その後』とあるから、昌鳳和尚が妙向庵に移った時点ではなく、真如寺と名を変えてから移ったように読める。昌鳳和尚はいなくなったけど、妙喜寺は後からきた妙寿寺に飲み込まれるようなかたちとなったままでしばらくは存在。つまり合併したみたいな感じ? その後、正式に分離独立して出て行った、とそのように理解しましたが、間違っているかも)。その間十三世・天室林模(福寿寺開山、元和八年六月二十二日寂)、十四世・頭室長線(海禅寺、洞泉寺開山、万治元年八月十七日寂)。十五世・一峰宗逸代は妙喜寺を再興したことから中興と呼ばれる(享保九年八月十七日寂)。
当寺開基 妙喜寺殿宗崗妙照大姉 永享 七月二日寂
同 真如寺殿芳林慶興大姉 永祿元年二月二十一日寂
開山・大功圓忠和尚は泰雲寺開山・石屋和尚三世の孫で、中興・覚陰和尚の弟子。泰雲寺輪番(寺役を順番に交替して務めること)の元祖。輪番の掟書は数百年来、断絶することなく今にいたっている。覚陰和尚には多くの弟子がいたけれども、その中でもっとも優れた弟子だった。
明治初年以来、寺院は廃れてしまい、ほとんど廃寺同様の状態であった。三十二世・宗野義雄師は私財を投じて妙喜寺宗野財団を設立。三万五千の基金を積み立て、その利息は寺門の維持と徒弟の教育、ならびに布教活動の費用に充てられた。そのお陰で、寺は永続の基礎を築くことができた。すべては義雄師の誠意と努力の賜物である。
宝物:大内家御證文 一通、毛利隆元公御證文一通、毛利元就公御證文 二通、毛利輝元公御證文 二通、御老中御奉書六通、其他墨染等 十一通。これらは二巻に表装して保存されている。
妙寿寺と分離復興した際、古熊の周慶寺外に一時建立していたと伝えられている。本堂、 庫裡、山門はいずれも真如寺時代に造営された当時のままというから、慶長年間の頃であろう。
寺内には、雪舟の設計によって築かれた庭園と、樹齢五百年以上のツツジの大木がある。」
※大内政弘卿、同室の牌所とあるが、妙喜寺殿は政弘夫人ではなく、母上。
※妙喜寺殿とともに、大内義隆の母・真如寺殿も開基となっている。
※大功忠圓和尚のお名前は、大「切」となっているところがあり、いずれかが誤りと思う。

参考にしたご本が、古文書みたいな文体で難しく、名著の復刻版なので、情報が最新ではない可能性があることをお断りしておきます。

いちおう、イマドキの書物だよな? 何でそんなに難しんだ?

明治時代は古文、昭和時代も最初は旧漢字だったんだとさ。どっちも、俺らには難しくて当然な。
妙喜寺・みどころ
寺宝にあたる文書類が重要なものとなるが、一般観光客にも目に見える形で見学自由なものとしては、宗野義雄師の功績を称えた妙喜寺大中興碑などがある。また、本堂、庫裏、山門は真如寺時代からのもので、つまり、慶長年間の建築だと考えられている。
本堂
昭和時代の「本堂改修記念碑」がある。石碑によると、信徒の皆さんによって、新たに改築・修繕がなされた。
山門
妙喜寺大中興碑
この手の碑文はオール漢文で、とても難解。スラスラと読みこなせるならば、得るところは大きいのだとわかっているのだけれど。要するに宗野義雄師が由緒ある妙喜寺を復興なさった功績が称えられている。『山口県寺院沿革史』によれば、宗野師がおられなければ、寺院の現在はなかったというくらい偉大なので、その事蹟を知ることはたいへん大切である。そう考えると、ほかの寺社にあるこのような石碑も皆、同じように重要なことが書いてあるはずで、寺社参拝に漢文を読みこなす能力は必須ということになる……。
庭園
庭園は雪舟の設計によるものだという。移転や寺号変更などあれこれの変遷があった寺院であり、元々は現在雪舟庭園で有名な常栄寺がこの寺院だったので、妙喜寺に雪舟庭園があったということは紛れもない事実。ただし、移転先である現在地の庭園も、雪舟のものなのかどうかはわからない。『山口県寺院沿革史』の解説によれば、雪舟のものである。
※ちなみに、「妙寿院」という寺院が現在もある。これは元々、陶興房開基の大幻院だった寺院だが、内藤隆春が姉の位牌所としたため、「妙寿院」と名前が変ってしまった。内藤隆春の姉というのが、毛利隆元夫人だから、元妙喜寺に移ってきた「妙寿寺」の隆元夫人と同一人物である。妙寿寺と隆元菩提寺・常栄寺は合体したみたいだけど、その後また分裂したのだろうか? もはや、内藤隆春なんぞ毛利家の人という認識でよく知らないし、このわけのわからない寺院変遷は複雑すぎて永遠の謎である。⇒ 関連記事:妙寿院

そんなのもう、どーでもいいだろ? 今あるお名前、今あるお寺、それが大事。お前らみたいにこだわる連中、いないんじゃないの?

だって、ゴチャゴチャして気持ち悪いんだもん……。

父上の寺院が勝手にほかの人物の寺に変えられるとか、俺も気分悪い。
アクセス
山口駅からタクシー。Googlemap には、雲谷庵が見えているけれど、駅から歩けるとはとても思えない。仮に歩くとしたら、まる一日かける覚悟で行く必要があるかも。
参照文献:『山口県寺院沿革史』 可児茂公先生 防長史料出版社 復刻版 昭和52年
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五郎とミルの防芸旅日記
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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