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顕孝院(山口市鋳銭司)

2023年11月7日

顕孝院・観音堂

山口県山口市鋳銭司の顕孝院とは?

大内政弘の妹が開基となっている大内氏ゆかりの寺院です。とはいえ、毛利氏の時代となっても、深く信仰されていました。無住になってしまうなど、衰頽した時期もありましたが、現在は綺麗な本堂と、立派な山門の堂々たる寺院さまとして存在し、地元の方々の信仰を集めておいでです。

鋳銭司や陶のあれこれの場所にあった観音像などが引き取られていたりするのですが、特筆すべきは、なんといっても、かつて陶ヶ岳の観音堂にあった十一面観音です。これは、聖徳太子が作成し、大内氏の始祖・琳聖太子に与えたとされる観音さまで、かつて人々に広く信仰されていたものでした。現在は顕孝院内の観音堂に安置されています。

顕孝院・基本情報

所在地 〒747-1221 山口市鋳銭司黒山 3919
山号・寺号・本尊 慈雲山・顯孝禅院
宗派 臨済宗・東福寺派

顕孝院・歴史

開基は大内氏の女性

『山口県寺院沿革史』には、およそつぎのようなことが書いてあります。

「当寺院の開基は、大内政弘公の妹君で法名を妙英大姉という人で、鋳銭司村の大円というところに庵を結んで住んでおられた。その遺言によって(庵は)寺院になった。地行高五十石と境内五丁四方を寄附されたという。(境内は)三町四方、八町四方という説もあり、いずれが正しいのかは不明だが、広大な土地を寄附されたことは事実だったろう。

明応七年七月十三日権介多々良朝臣から、当寺院への寄進状がある。また、二十八代・教弘公の娘御・華山岳比尼の遺言によって、永正十四年七月二十五日、従三位大夫多々良朝臣義興公から住職へ宛てた命令書もある。

以上のことから、この寺院の創建が今から四百余年前(※この本が書かれたのは昭和初期)であることは明らかである。

当寺院は大内氏、つづく、毛利氏の信仰もたいへんに深かったのだが、何時の頃か無住の時もあって、寺門は衰えてしまった。寺領、敷地、山林にいたるまで悉く召し上げられ、わずかに畑地三畝余歩高二石二斗特に差し除かれたが、明治三年採地返納の際に、返納された。なお、古記録によれば、以下の通りである。

寺地敷地(詳細略)、天神山(同左)、八幡山(同左)、茶園畠(同左)、中間屋敷(同左)

開山は吉敷郡小鯖村鳴滝第三世泰雲寺住職(?※この疑問符は原文のママ)九江慈淵大和尚(大永二年二月二日示寂)で曹洞宗だったが、いつ頃臨済宗に改められたのか年代が不明である。こうして、第十三世大雄師の時代に、大円という部落から現在地に移転した。天明元年本堂を建立、庫裏は第十六世祥雲の代、天保三年十一月二十四日棟上落成した。この間に、中興として越山宗徹の師、第六世・松嶺春鶴師がおられた(ここ、原文はこうなっている ⇒『越山宗徹師第六世松嶺春鶴師』。お二人の名前が引っ付いています。お二人とも聞いたこともないお方なので、師弟関係とかまったく分らないので、これで合っているのか自信ない。読解力低でごめんなさい)。師は当寺院が無住となったのちに、入山して再興したらしい。

宝物として、聖徳太子の作と伝えられる十一面観音座像(九寸五分)と弘法大師の作とされる毘沙門天と不動尊を安置してある」(参照:『山口県寺院沿革史』原文文語体)

政弘の姉妹・妙英大姉という女性については、政弘の父・教弘の娘として、系図にも載っています。⇒ 関連記事:大内氏歴代当主の子ら二十八代・教弘の子女

十一面観音縁起

顕孝院さまの十一面観音像は、元々陶ヶ岳にあった、岩屋寺観音堂のものでした。『陶村史』では、陶ヶ岳について一章を割き、特にその麓にあった岩屋寺とそこにあった観音堂について、古記録を紹介しつつ詳説しています。最新かつ簡潔明瞭な寺院さま現地案内看板を読めば一目瞭然(この観音は元々岩屋寺のものであった、ということがすべて)ではありますが、せっかくなので、『陶村史』を拝読して学んだことをまとめておきましょう。

いきなりですが、『注進案』に以下のような記述があるそうです。

 寺伝に曰く、本尊観音は聖徳太子より大内の始祖琳聖太子へ附与ありし累世の守護仏たりしを、陶越前守弘護観音尊崇なるによりこれを授給ひしかば嘉村崎に一宇の堂を建立せり、観音此山上(陶ケ岳)に来り夜々光明を放ちたまへり、よって一宇を建立す、これ陶ケ嶽観音なり、此観音は当国三十三番の其一員なり、凡当国三十三番観音は大内弘世朝臣これを定めらるといへり云々

五郎通常イメージ画像
五郎

陶ヶ岳なんて名前の山、まんま俺の(一族の)ためにあるみたいだよな。しかもお祖父さまがお堂を建てたなんて♪

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ミル

待ちなさい! この一文は、とてつもなく間違っているんだよ。血縁深い子孫がまったく気付かないなんて恥ずかしいにも程があるよ。

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五郎

えっ、そんな……。陶ヶ岳にお祖父さまが観音堂を建てたって書いてあるだけじゃないか……。名字の地にお堂を建ててどこがおかしんだよ……。それに、お祖父さまの功績からいって、本家が大切にしている観音様をもらえたとしても不思議はないのに……。

畠山尚順アイコン(卜山)
卜山

弘世公の時代に定められた三十三番観音であれば、お祖父上とは世代が違っておろう。それに、お祖父上の代には貴殿の一族はすでに富田にあって、陶にはいなかったはず。チェックポイントはそこだな。

まずは、先の文章にある「嘉村崎に一宇の堂を建立せり」とあるように、そもそもこの観音堂は陶ヶ岳に「遷されてきた」ものです。で、この「嘉村崎」という場所ですが、Googlemap では探せません。合併などで地名が変ったのかもしれませんが、調べています。観音が祀られていたのは嘉村崎「山」であるとされ、それは「西岸寺の背後の殿山という毛利藩の山がその場所」(『陶村史』)とのことです。この「殿山」というのも map からは見付けられないのですが、西岸寺のほうはわかります。寺地が遷されていなければ、寺院の裏山辺りという感じになりそうです。

『陶村史』では、『注進案』、『鋳銭司志』、さらに他国の人が鋳銭司・陶地域滞在中に綴ったとされる「陶ケ嶽観音様縁起」なるもの、さらには陶ヶ岳観音堂の古図面や、文書ではなく口頭で伝えられてきた古老の話などを比較検討して、陶ヶ岳、岩屋寺、その観音堂について考察をしています。読者たる我々は有難くその研究成果を享受させていただけばよいでしょう。

在りし日の岩屋寺(想像)

所在地 陶ヶ岳
山号・寺号・本尊 金剛山・岩屋寺・聖観音(脇侍:広目天、増長天。本尊脇侍ともすべて春日作)
宗派 禅宗
顕孝院末寺
※開山不明
★観音堂:聖德太子一刀三礼御作(脇侍:弘法大師作不動、毘沙門) 
主な建物(観音堂以外):本堂、★通夜所、★足擢行者堂、行者堂、鐘楼門、地蔵堂
仏像など:★寝釈迦(峯の岩に彫付たもの。作者不明)、★十六羅漢像(同左)、五智如来石仏像(観音堂に入る岩の間にある)、★子安観世音石仏(丈二尺二寸)、三十三番観音石仏、★荒神棒石、★法起菩薩棒名、★供養塚
境内社:金比羅社、柊明神(石祠)
※麓にある岩屋寺は「下の堂」、山頂にある観音堂は「上の堂」と呼ばれていた。

『注進案』+『鋳銭司志』などによる。★は古記録より前に画かれた『古図面』と寸法が完全に一致していたもの(= 記録が事実である可能性が高いもの)

何となく、まとめみたいに書いてあると完全なる事実と誤解する方があるといけないので、強調しておきますが、あくまで想像です。むろん、執筆者による完全なるデタラメではなく、研究者の先生方による「推論」みたいなものです。何せ現在は寺院が消滅しておりますので、往時の姿は古記録・古図面や残された遺跡から想像するほかないからです。

『注進案』では観音堂にある十一面観音をズバリ「岩屋寺」の本尊としてしまっているようですが、『鋳銭司志』では聖観音となっていて、十一面観音は同じ寺院内の別の建物、仏像という扱い。「陶ケ嶽観音様縁起」だと岩屋寺の本尊は子安観音になっています。どれが正しいのかなんて、今となってはもうわかりませんが、いずれの仏像も実在していたことは確かなようです。

通りすがりの観光客が陶ヶ岳や観音堂にお参りし、感激のあまり筆を取って「縁起」なるものをしたためたほどですから、往時はたいへんに繁栄し、賑わっていた場所だったのでしょう。ただし、「縁起」の筆者によれば、この時点ですでに、岩屋寺のほうは廃れてしまっていたようです。そもそも、岩屋寺には「上の堂」「下の堂」という呼び方があって、「上の堂」は観音堂を、「下の堂」は岩屋寺そのものを指した模様です。で、「下の堂」つまり、岩屋寺は「天保十四年の社寺整理」の時に、「上の堂」にまとめられ、「上の堂」のほうは「慶安三年当郡御祈願所となって」大いに栄えたとか。どうやらこの「縁起」、他所者が記したゆえにか、ちょっと問題があります(琳聖太子の故事についてもよく知らなかったそうな)。先の『注進案』でもヘンテコだった、陶弘護が観音堂を造ったという誤りをさらに脚色し、大内氏滅亡後も生き残った彼が先祖由来の観音を守り伝えていたかのように描いているらしい。物語的には面白いかもですけど、明らかに間違っているので、内容については省略します。唯一、岩屋寺が観音堂に吸収合併されたことは事実のようです。

そんなわけで、この「縁起」は言わずもがな、『注進案』も『鋳銭司志』もどれひとつとして、完璧な真実を伝えているとは言えないものの、岩屋寺やその観音堂が当時の人々の関心を集め、話題に上るような存在であった事実を証明するに足るという点で、とても貴重なのです。完璧な史料なんてものが存在するケースは、極めてレアですから、役割としては十分です。

なくなってしまった寺院の姿を完全に思い描くことなど困難ですが、観音堂にあった琳聖太子由来のものとされる観音像は顕孝院さまに伝えられて現在に至ります。聖徳太子が造り、琳聖太子がそれを下賜されたとか、史実だと証明できるの? と聞かれたら困りますけど、麗しき先祖伝説に包まれた観音様に対してあれこれ邪推するような人は、わざわざ飛行機乗ってまで鋳銭司に来ないでしょう。

ちなみに、『陶村史』は岩屋寺は「大内弘世の発願によって建てられた」としています。でもって、「この寺にあったといわれる真っ黒な観世音の木像は現在ロンドンの博物館にあるということである」と結んでいます。思うにこれは、琳聖ゆかりの十一面観音とはべつの仏像であるはずですが、なんだかびっくりですね。単に日本製で珍しいというだけでは、海外の博物館に保管されたりしないと思われますから、かなりの価値がある文化財と思われます。なにゆえ遙々海を越えてしまったのでしょうか。本にはこの件についての出典がないため、それ以上のことはわかりませんでした。

なお、岩屋寺は失われ、観音様は顕孝院さまに引き取られていきましたが、石仏だとか、鳥居だとか、かつての観音堂「跡地」に当時のままに残されているものもあるといいます。かつて観音様を拝むために陶ヶ岳に登っていた人々の信仰を追体験したいと望む方は、陶ヶ岳に登ることで、何かを感じ取ることができるかも知れません。(参照:『陶村史』)

顕孝院・みどころ

十一面観音像といいたいところですが、残念ながら「秘仏」です。ご開帳は四十年に一度だそうで(『陶村史』)。生きている間に四十年に一度を何度も経験することは難しいですので、成人してから「見たい」と思い、なおかつ遠く離れた地に住んでおられたらハードル高いですね。ですけど、この目で見ることは叶わずとも、寺院様にお参りして、ここにおいでになる、と考えるだけで十分です。

ほかにも琳聖太子云々の品は大量にありますので(いえ、大量にはないかもですが……)、ほかのところでそれらを見るか、重要文化財扱いになっていて、自治体様などで画像を公開しているものを見ましょう。

寺号碑

顕孝院・寺号碑

綺麗な寺号碑がありました。手入れが行き届いた清潔感溢れる寺院さまであるということがわかりますね。

山門

顕孝院・山門

山門から本堂まで一直線。立派な門です。石段があるのですが、きちんと手すりをつけてくださっているのが有難いですね。最近の寺院さまの多くは、バリアフリーが手厚くなっていますが、このような細かいところからもその寺院さまの細やかなお心遣いがわかって印象がかわります。

三界万霊

顕孝院・三界万霊

「三界万霊」って正護寺にもありましたね。何なんだろう? って謎でしたが、そんなことまで『陶村史』に解説がありました。何とも学びの多い宝物みたいなご本です。

「三界」とは何を指すか、については色々な考え方があります。

一、過去・現在・未来
二、怒界・色界・無色界
三、世の中の迷い・悩み ・苦しみ・悲しみを総称したもの
四、凡夫の生死流転の世界を三分したもの

並べて書き出すと、ずいぶんと中身が違いますけれど、(どのように理解しようとも)「精神に変わりはない」ため、「結局は同じこと」です。

台の上にお地蔵さん(坐像)を安置し、台石に「三界万霊」と刻みます。お寺や路傍に多く見られるそうです。(参照:『陶村史』)

ところで、よく見ると、中央の坐像を挟んで両脇に各三体、計六体のお地蔵様がおられるので、(書いてないけど)六地蔵も兼ねておられるのかもしれません。

観音像

顕孝院・観音像

『陶村史』によると、『注進案』や『鋳銭司志』に「馬場村ノ観音」という観音像についての記録があるそうです。当時は堂宇もあって、「乳安観世音菩薩」という観音様が本尊となっていました。子育て中の女性たちが多く祈願に訪れていましたが、明治時代に堂宇は廃止整理されてしまい、観音像は顕孝院さまに移されたそうです。「本堂入口に現存する」とありますので、これがそうなのかな、と思った次第です(説明文などは見付けられず)。

本堂

顕孝院・本堂

ご本堂も目茶苦茶立派ですよね。現在も広く信仰されているという証左であります。

観音堂

顕孝院・観音堂

いよいよ観音堂です。この中に始祖さま由来の十一面観音像が安置されています。観音様のお姿を拝むことはできませんが、廃れてしまっていた貴重な観音像が、地元の方々の熱意によって、こんなに立派なお堂に納められることになった経緯には胸を打たれます。それについては、下のご案内看板に詳しく書かれています。

顕孝院・観音堂説明看板

この観音堂は平成時代に建てられたものですので、昭和時代に書かれた『陶村史』を参考に前述した内容とは少しく異なっております。要は平成時代のことはこちらの看板説明文にしかないということです。当たり前ですが。

「周防国第二十七番霊場 顕孝院の十一面観世音菩薩
顕孝院の観音さまは、もとは陶ヶ嶽山麓にあった岩屋禅寺(下の堂)の観音堂(上の堂)に安置されていたものです。 しかし、明治維新の廃仏毀釈の嵐の中で、下の堂 (岩屋寺)は明治三年に廃して上の堂(観音堂)に合置。 明治四十一年(一九〇八年)、存続嘆願も空しく、ついに上の堂 (十一面観音) も尊像を顕孝院境内に遷座されました。寺の山林はことごとく没収。
涙とともに堂宇解体。 大正三年に元の要木を活用して顕孝院西の現在地に現在の観音堂を建築。その後は敗戦と思想信教の混乱が相次ぎ、再建の機を得ずして八十年近くを経過し老朽化しておりました。
しかし、昭和の終わりから平成にかけて再び観音信仰への目覚めと、観音霊場復興の機運に恵まれた時代になり、ことに由緒深い十一面観音の妙智力にあやかり、檀信徒をはじめ、多くの有志からの浄財が寄せられ、観音堂の再建はもとより、尊像や厨子の修復も行い、平成三年に宿願の落慶法要が営まれました。
この十一面観音の由来は、聖徳太子が自ら一刀ごとに三礼し、心を込めて造像され、これを大内氏の始祖、琳聖太子に授けられたもので、さらに脇士、不動・毘沙門は弘法大使(原文のママ)の作と伝えられており、周防国主大内氏にとっては 歴代これを「守護佛」とされてきたという、誠に由緒深い観音さまで、地元はもとより、全国的にも深い信仰がよせられております。
臨済宗 東福寺派 慈雲山 顕孝院」(寺院さま観音堂説明看板説明文)

「下の堂」は江戸時代の時点で、すでに「上の堂」にまとめられてしまったというのが、『陶村史』から学んだことでした。こちらの説明看板だと、明治三年に二つのお堂がまとめられたとなっています。いずれが正しいか不明、ということではなくして、単にまとめられたと言っても、岩屋寺そのものが完全消滅したわけではなかった(『上の堂』も『下の堂』もともに岩屋寺のものだったわけで)のが江戸時代。明治になると問答無用で単なる「観音堂」になっちゃったという感じですかね。何せ、明治時代は全国の寺院さまにとって受難の時でしたので。

それでも残してもらえた「観音堂」さえも解体されてしまったので、顕孝院さまが引き取ってくださった。しかし、その後も戦争とかあれこれたいへんな時代が続いたために、遷座後の観音堂も老朽化したまま放置せざるを得ませんでした。平成の御代になって、漸く現在のような立派な堂宇に改められたというわけです。

顕孝院(山口市鋳銭司)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 〒747-1221 山口市鋳銭司黒山 3919

アクセス

最寄り駅は山陽本線四辻駅です。もう何度も書いている気がして嫌になるのですが、鋳銭司関連の史跡と陶の史跡をまるっと回るのはこの駅が起点となります。「が」四辻駅からすぐと思われる神社仏閣さまでも、その手前に小郡道路(国道二号バイパス)が通っているため、陸橋とか、地下道とか、信号機 + 横断歩道などを使わねば辿り着けなかったような(そろそろ記憶が曖昧になってきました)。車通りが多いため、渡ってはいけない場所から強引に渡ることは絶対にやってはいけません。

もちろん、立派な道路ができたおかげで、向かい側に行けなくなってしまった……なんてことになるはずがないので、至る所に渡り口はあります。地元の方々はそれらをご存じなので、すいすい最短距離で道路の向こうに渡って行かれることと思います。ただ、行きずりの観光客にはそれらのポイント地点がわからないため、けっこう難儀します。今回、初回の鋳銭司訪問だったので、まだ道の繋がりが理解できておりません。ただ、ココだけははっきりしているのですが、顕孝院さまは一番最後に参拝した寺院さま(その後すぐ駅に戻って電車に乗った)であることから、駅からの往復はいとも容易いロケーションだったと記憶しています。ほかの方や車に気を付けて、安全な場所で Googlemap を立ち上げてナビゲーションを使ってください。 

参考文献:『陶村史』、『山口県寺院沿革史』、寺院さま案内看板

顕孝院(山口市鋳銭司)について:まとめ & 感想

顕孝院(山口市鋳銭司)・まとめ

  1. 大内政弘の妹が開基であることから、大内氏ゆかりの寺院である
  2. 元は曹洞宗だったが、現在は臨済宗となっている。改宗された時期は不明らしい
  3. 大内氏に続いて、毛利氏からも信仰されていたが、無住になるなど不運が続き、大量にあった寺領なども失い、衰頽した時期もあった
  4. 現在は立派に再興されて、清潔感溢れる立派な寺院のお姿に戻っている
  5. かつて陶ヶ岳にあった、聖徳太子が作成し、大内氏の始祖・琳聖太子に与えたとされる十一面観音は、当寺院に引き取られた
  6. 寺院に厳しい政策がとられていた時代、戦後の混乱期などの期間、由緒ある観音像はその存続も危ぶまれるほどだったが、寺院さまはもちろん、地元の方々の熱意によって現在は立派な観音堂の中に安置されている

最後に参拝した寺院さまだったゆえ(参拝順序は重要度とは無関係で、単に道なりに行ったらそうなりました)、すでに疲れてヘトヘト状態。半ば廃れた寺院さまで何もなかったらどうしよう(事前知識何もなし)と思ってお立ち寄りしたところ……とっても清潔感溢れる、立派な寺院さまが目の前にお姿を表わしました。さらに、とてつもないお宝が! いえ、お宝などという語彙を使うことは許されません。大内氏にゆかりある品として、これ以上ないくらい貴重な文化財が安置されておられました。

寺院さまも神社さまも基本は檀家、氏子の皆さまのためにあるもの。しかし、例えば瑠璃光寺の五重塔だったり、厳島神社の大鳥居だったりのごとく、信仰しているしていないとは無関係に、観光資源として観光客がゾロゾロとなっている場所もございます。それはそれで貴重な文化遺産を見学しているという点で意義があるのですが、どうも、「見学」のほうに重きが置かれて、信仰とはかけ離れてしまいますよね。それがいけないことなのかどうかは、正直わからないのですが。

こちらの寺院さまも、観光資源を売りにしているというよりは、地元の方々に信仰されている地域密着型系寺院さまと思われます。しかし、いきなり、琳聖太子云々が出てきたのでビックリしてしまいました。説明看板にも書かれておりましたが、この太子ゆかりの品を信仰している方というのは、地元だけではなく、全国規模でおられるのだとか(そんなに有名なものがあることを知らずに立ち寄っているのって、なんなんだか……)。

こんな方におすすめ

  • 琳聖太子、聖徳太子由来の十一面観音がある、ときいたら「行きたい」と思ってしまった方(しかし、秘仏ですので、ご開帳に合せないと直接は拝めません)
  • 大内菱がついている寺院に行かないはずはないだろう、と感じた人(分る人にはわかる)

オススメ度


当たり前ですが、この目で観音像を拝めた方と、機会を逃した方では感じ方が変るはずです。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎涙イメージ画像
五郎

俺、なんだかこの観音様を見たことがある気がするんだけど、気のせいだよね?

ミル涙イメージ画像
ミル

(確かにあり得ぬことではないのだが……)いや、あり得ないよ。「秘仏」だもん。十年ごととかにご開帳だと、ハードルはぐっと下がるんだけどね。

五郎通常イメージ画像
五郎

俺なら四十年待つのなんてへっちゃらだよね。平均寿命は五十年ってのはイマドキには通用しない。ミルも「いちおう」大丈夫だよな。

ミル涙イメージ画像
ミル

(この野郎ーと言いたいところだけど、三十代で亡くなった君に、40 年後はないことを思えば怒りより悲しみだけだよ……)

宗景イメージ画像
宗景

安心しろ。ここでは我らは永遠に年を取らない。@ SITEOWNER とやらが破産しない限り、永遠の生命力だ。しかし、つぎのご開帳はいつになるのだろうか? そもそも、四十年に一度しか拝めぬ「秘仏」というのも、寺院には明記されておらぬな。

  • この記事を書いた人
ミルアイコン

ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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