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降松神社(下松市河内)

2020年10月8日

山口県下松市の降松神社とは?

「星ふるまち下松」にある由緒正しい古社。大内氏に関心ある人で、この神社さまのお名前をご存じない方はおられぬでしょう。始祖・琳聖太子来朝前、太子を守護する北辰が舞い降り、異国の王子来朝の神託を告げたのは、ここ、下松にある松の木でした。降臨した北辰を祀るために建てらた社が、降松神社の起源なのです。

以後、何度か場所が遷されるなどしましたが、大内氏が繁栄した時代には、鷲頭山に上宮、中宮、下宮がありました。山口にある氏寺・興隆寺に祀られている妙見社は、この下松にある妙見社から勧請されたもので、本家本元はあくまでコチラです。神聖不可侵な領域として、大内氏に大切にされたことはいうまでもありません。同氏の滅亡とともに廃れてしまったのは、致し方ないことですが、毛利氏の時代にも整備されて現在に至ります。

神仏習合していた時代には、七つもの社坊をもつ大規模な神社でしたが、大内氏滅亡後に起った大火災によって、往時の社殿、五重塔、すべての社坊が焼失したことは非常に惜しまれます。また、神社と寺院が分かたれた際に、唯一再興されていた別当寺・鷲頭寺も市街地に移っていき、現在は若宮中心の立派な神社となっています。

なお、かつて「妙見大菩薩」を祀っていた神社は寺院と分かたれた後、天御中主神を祀る神社となりましたが、当神社も同様です。仏教系の「菩薩」名を持つ妙見は、分れていった鷲頭寺に引き取られました。

若宮は駅から車で5分ほどの場所にありますが、中宮、上宮はちょっとした登山の趣となります。

降松神社・基本情報

ご鎮座地 〒744-0061 下松市河内1984
御祭神 主祭神:天之御中主尊、配祀神:大山祇神、大物主神、崇徳天皇、素盞嗚尊、御后神、御子神、菅原道真公 
通称 みょうけんさま
主な祭典 例祭(十月十日)、春祭(四月十三日) 
社殿 上宮本殿、中宮本殿、上拝殿、下拝殿、神饌所、若宮本殿、幣殿、神饌所、拝殿
境内神社 竈神社(火産霊神・沖津彦神・沖津姫神)、住吉神社(住吉大神三柱)、降松神社(天之御中主大神) 
主な建物 鳥居、手水舎、楼門、狛犬、灯籠、御大典石灯籠、社碑、社務所、祭儀所
(参照:降松神社リーフレット、『山口県神社誌』)

降松神社・歴史

降松神社・略年表

推古天皇三年(595) 、都濃郡鷲頭庄青柳浦の松の木に大星が降臨。星は七日七夜輝き、「我は天之御中主尊なり、今より三年ならずして百済国の王子来朝すべし。その擁護のため天降りしなり」との託宣があった。

推古天皇五年(597) 三月二日、百済国聖明王第三王子・琳聖太子が来朝。青柳浦桂木山に「北辰妙見社」として「大星」の御神霊が祀られ、妙見社は鷲頭庄の氏神となる。これ以後、青柳浦は「降松」と改められた。

推古天皇十一年(603)、社殿が高鹿垣に遷される。
推古天皇十七年(609) 、鷲頭山に上宮と中宮を建立。
大内正恒が「あめつちの水はつきしと思きや渓の草木はうら枯んとは」と歌を詠んだところ、水が湧き出した⇒ 「和歌水」

大内弘世が、鷲頭山の麓・赤阪に若宮を建立。
応永元年(1394)、大内義弘が、中宮に五重の塔や仁王門を建立。七ヶ国の守護領国(義弘当時)各地に北辰妙見社を勧請した。鷲頭山は、それらの妙見社の「本宮」として篤く信仰された。

大永三年(1523)、大内義興による修築。⇒ 現在の中宮本殿

慶長十三年(1608)、火災により、中宮本殿を残して社殿を焼失。
元和年間(1615~)、赤阪の若宮を現在地に移す。
明和四年(1767)、毛利就馴が若宮を再建。⇒ 現在の若宮
文化四年(1807)、氏子中が山門を再建。

明治三年(1870)、「降松神社」と改称。
明治二十九年、参道が始まる場所に、一の鳥居が建立される
明治四十五年、公園を造営。「偕楽園」と名付ける
大正八年、長岡外史中将は、「周防第一之苑」と称えて記念碑を建立
昭和三年(1928) 、県社となる
昭和二十五年、中宮に隣接していた社務所が若宮の地に移される。
昭和三十一年(1956)、中宮・若宮の大改修が行なわれる。
平成八年(1996)、御鎮座一四〇〇年祭を行なう。
令和二年、御鎮座一四二五年式年大祭記念事業として、新たな社務所が竣工
(参照:降松神社さまご案内リーフレット、『山口県神社誌』)

『鷲頭山旧記』と『大内多々良氏譜牒』

先の略年表を見て、ん? 琳聖太子が来朝したのは推古天皇十一年つまり 609 年ではないのでは? と疑問に思った方がおられるかもしれません。確かに、文明十八年に法泉寺さま(政弘公)が完成させた『大内氏多々良譜牒』なる家譜にはそのように書かれています。けれども、研究者の先生方に言わせるとあれは、大内氏歴代が編纂したものですので、デタラメとまでは言いませんが、己の都合のいいように書かれた部分もあったかも知れませんし、年代なんて正確かどうかなどわかりません。そもそも、『譜牒』が完成するまでには、先祖伝説もあれこれと表記揺れがあったわけですし。

では、神社さまが書いておられる御由緒にある推古天皇五年(597)のほうが正しいの? と問われれば、それもまた分りません。神社さまや寺院さまの御由緒には神がかった(寺院は仏がかり?)部分が含まれていることが多く、それゆえに参考にはしても、史料的には無視してしまう研究者もいるほどです。ですけど、年代に不整合な部分があることを除けば、『譜牒』と神社さまの御由緒はまったく同じですので、ますます年代が気になってしまうところです。

降松神社さまの御由緒はどこから来ているかと言えば、戦国時代に作られた『鷲頭山旧記』というものです。これすなわち、降松神社の縁起です。地元のガイドさまにご教授いただきました。『譜牒』と比して年代に若干の相違があるものの、北辰降臨、琳聖来朝というような内容はまったく同じです。

戦国時代に作られたものなので、大内氏が滅び、統治者が毛利氏にかわるところまで記されているところは大きな違いでしょう。また、恐らくはですけれど、『譜牒』は氏神を興隆寺に遷してしまったので、本家本元の妙見社への崇敬の念は忘れなかったといえども、やはり興隆寺とその栄華を中心に書いています(そもそもコレ、興隆寺を勅願寺にしてもらうために書いたものですしね)。『鷲頭山旧記』の中身を知らないので、何とも言えませんが、降松神社の縁起なのに、興隆寺の栄華について書いてあるとは思えませんよね。恐らくそこも大いなる相違点じゃなかろうか、と思います。単に触れてない、ってだけの話にはなりますが。

最後に、『譜牒』と降松神社の縁起との最大の違いは、松の木に降臨した神様が違うことです。大内氏の先祖伝説から始まって、その完成形である『譜牒』まで、松の木に降りたのは「北辰」つまりは妙見さまです。降松神社さまも、妙見宮とお呼びするくらいなので当然、降臨したのは「北辰」、祀られているのは妙見さまです。ですけど、神仏分離して御祭神が天御中主神に置き換わっているため、縁起もそれに合せて調整する必要があったことと思います。

天御中主神は『古事記』のいっとう最初に出てくる「造化三神」とかいう神様のうちの一柱ですが、何ともよくわからない神様です。

天地初めて発くる時に、 天原に成りませる神の名は、天之御中主神。 次に御産巣日神。 次に神産巣日神。此の 三柱の神は、みな独神と成り坐して、身を隠したまふ。
(天と地が初めてひらけた時に、 天上世界に出現した神の名は、 天之御中主神。 次に高御産巣日神。 次に神産巣日神。 この三柱の神は、それぞれ一神としての単独神でおいでになって、その姿を顕らかになさることがなかった。)

出典:中村啓信『新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』角川学芸出版. Kindle 版 (Kindle の位置 No.630-640)

書かれているのはこれだけでして、いったい何をしたどんな神様なのか、まったく不明です。しかし、天御中主神というお名前からわかる通り、天の中央の主、というすさまじい属性の神様、天の根源、最高神です。しかも、「天と地が初めてひらけた時」に出現したというのですから、まさに天地開闢と同時に出現したわけです。そんなスゴい神様であるにもかかわらず、この一瞬の記述のみで、何の逸話もないため、「?」という存在でした。

ところが、神仏習合の世の中で、神様は仏様が姿を変えて現われたなんてなんたることだ。日本固有の神々こそがエラいんだみたいな主張が現われた時、それらの神道家たちの間で、最高神としてもてはやされるようになったそうな。さらに時代が降ると天の中心にまします最高神ということで、同じく星(天に輝くモノですから)の神様である妙見菩薩と習合していったようです。ゆえに、菩薩号をもち、仏教系の神と見なされる妙見さまは、神と仏が分かたれた時、すべてこの神様と置き換わりました。

ということは……。天御中主神と妙見菩薩との習合はさほど長い歴史をもつものではなく、比較的新しい思想と考えられます。なので、少なくとも、聖徳太子の時代に降臨した北辰が、天御中主神と自称していたことには違和感があります。現在の縁起はこの部分を書き換えねばならない必要性に迫られたとは言え、『鷲頭山旧記』が書かれた時代にはあくまで降臨したのは北辰、祀られたのは妙見さまだったと思います(※これは、個人的見解であり、典拠はございません)。

「妙見本宮」・降松神社

日本全国を見渡せば、ほかの神社から勧請された神社というものは数多く存在します。例えば、とある場所の春日神社の由来が、京都の春日大社から神様をお迎えして社殿にお祀りした、というような例です。この場合、春日大社は、全国津々浦々にある春日神社の総本社となっており、もっとも格式が高い神社となります。

中にはいわゆる「総本社」から直接勧請していないケースもあり、鎌倉の鶴岡八幡宮が宇佐神宮ではなく、京都の石清水八幡宮から勧請されていたり、廿日市天満宮が太宰府天満宮や北野天満宮ではなく、鎌倉の荏柄天神社から勧請されていたりという事例があります。また、中には荏柄天神社のように、天から天神様を描いた絵が降ってきたとか、あれこれの八幡宮に多く見られるように、やはりなにがしかの神様が降臨したことで、社殿を建て、その神様をお祀りした、というような由来をもつ神社もあります。それでも、天神社は大宰府もしくは北野天満宮が総本社となり、○○八幡宮はやはり、宇佐神宮が総本社ということになっています。

ということは、下松の妙見社から勧請された大内氏の氏寺・興隆寺の妙見菩薩は、どう頑張っても本家本元の妙見社を越えることができない、下松の妙見社こそが総本社である、と言えそうです。

全国各地の小さな厳島神社が、どう頑張っても宮島の厳島神社に敵わないのと同様に、やはり「総本社」である本家本元の妙見社であるコチラの降松神社こそがナンバーワンなのです!

※八幡宮や春日神社と違って、全国の天御中主神社の総本社がどこなのか、と明記している書物はなく(知らないだけだったらすみません)、実は妙見菩薩を氏神としている武家は大内氏だけではないことから、それらすべての氏神社が降松神社さまである、と主張しているわけではありません。

上記のような経緯から、大内氏もこの、本家本元の妙見社を非常に大切にし、代々敬ってきました。研究書類では、氏神と氏寺が別々の場所にあるのはメンドーなので、一箇所にまとめた、といとも簡単にサラリと解説してスルーしていますが、本当にそんなに単純な理由なのでしょうか。日々の政務に合戦にと忙しい歴代当主からしたら、祭祀のためにいちいち下松に来るのはたいへんだったかもですし、氏寺氏神一所にまとめ、神仏習合した大伽藍を整備することで、氏寺・興隆寺はさらに荘厳化されたでしょうけど。

氏寺氏神云々の枠組みと無関係な毛利氏の統治下となってからも、降松神社は広く信仰され、毛利家の当主からも大切にされました。現在の若宮は毛利家によって整備されてきたものですし、これほど繁栄しているのも毛利家のお陰です。現在に至るまで輝いているのも、「本家本元」だからこそなんじゃないだろうか、と思いました。

だって、元々の若宮跡地をみたら分りますが、とっても狭いんですよ。むろん、上宮、中宮、下宮とあって、それすべてがひとつの神社です。いわば、鷲頭山全体が聖なる領域と言っても過言ではないほどの規模で、神仏習合していた時代のことゆえ、七つもの社坊があったといいます。そう考えると、簡単に現在の若宮が立派だから云々とは言えないところがあります。

下松の妙見社と鷲頭長弘と大内弘世

大内氏は周防国衙の在庁官人出身です。いわゆる○○源氏や○○平氏じゃありません。その意味では武士の誕生みたいな本に出てくる「貴種」じゃないんですけど、お国は違えど百済の王族の子孫なので、○○源氏や○○平氏(そういや、平氏は桓武平氏以外聞いたことないね)同様、尊い血筋です。まあ、それらの○○源氏も含めてどこまで信じていいのか知りませんが。

いわゆる防長三名族なるものに、厚東氏、豊田氏と並んで、大内氏も入っていますが、前二氏は大内氏の前に平伏して歴史の表舞台から消えることに。そんなふうにして、防長の主となったのは、二十四代・弘世の時でした。まあ、在庁官人もお役目に見合う土地をもらっていたでしょうし、地元の有力者みたいな感じの人が政務を執る係になったわけで、やがて力をつけて周囲の土地を併呑していったんでしょう。とまれ、弘世代くらい以前は、さほどの大勢力とは言えなかったそうな。しかし、世代を重ねるごとに一族は繁栄し、多くの分家が生まれていました。

妙見社があった下松の辺りは、そのように分出した分家のひとつ、鷲頭家が治めていました。そして、弘世の父・弘幸の代、最も力を持っていたのは本家の大内ではなく、鷲頭家でした。というのも、当時、南北朝のゴタゴタの最中でしたが、大内氏は武家方に付き、そのおかげで周防国守護職を得ますが、守護に任命されたのは、本家の弘幸ではなく、鷲頭家の長弘だったのです。普通に考えて、惣領家の主が代表して守護に任命されそうに思えますが、そうはならなかった。つまり、武家方、足利尊氏等から見たら一番活躍して、力を持っていて、この家を動かしている人物と見なされたのは弘幸ではなく、長弘だった、ということです。

ちなみにこの、長弘という人は、鷲頭家の嫡流ではありません。弘幸の弟にあたる人で、そもそも大内長弘だったわけです。しかし、分家の鷲頭家が子宝に恵まれず(多分)、尼御前で途絶えてしまったために、鷲頭の家に入ったのです。妙見社が「鷲頭」山にあるってことからも、ああ、名字の地だ、ってわかりますね。なので、分家の当主が威張ってたと見るか、惣領家の弟が威張ってたと見るか、どっちも同じってことです。けれども、威張ってたっていう書き方は不適切で、それだけ有能だった、ということでしょう。いつの時代でも、力ある者がリーダーシップを取るべきであることにかわりはありません。

我々は結果論として、大内弘世が鷲頭家を倒して惣領家の座を奪い返したという事実を知っているので、分家のくせにでしゃばってさーとか、そういうフィルターを通して物事を見てしまいがちです。鷲頭長弘という人が、本家をも凌駕するほど力を持っていたということを素直に認めて、立派な人物だったと評価すべきでしょう。

下松の皆さんは、長弘さんの能力値を評価して、きちんと認めておられますが、山口に行くと、香山公園に大内弘世像がでーーんと立っていて、ふん、なにさ、分家のくせにーという考え方が、研究者を含め少なからずあるように感じました。所変れば見方も変るってことです。

兄弟同士が弓矢のことに及び、子が親を追い出すようなことが普通に行なわれていた時代です。叔父と甥が雌雄を決するって事態になってもごくごく自然の流れではあります。でもさ、鷲頭の連中が威張ってるの気にくわないから退治しよう。ちょうど南北朝で揉めてる最中だから、相手が武家方ならこっちは宮方つけば、戦闘するにも大義名分あるじゃん、って流れがけっこうスゴいよね。

どうも大内氏研究者で一昔前の先生方にその傾向が見られる気がしますが、「宮方」につくことが正義だ、みたいなところがあるように感じられます(あくまで個人的感想です)。ちょっとその先は畏れ多くて語れないけど。宮方についたのは単に大義名分が欲しかっただけで、何ならば、鷲頭倒した後、普通に武家方に寝返ってるじゃん。『大内氏史研究』なんて、足利義満を世紀の大悪人みたいに書いているんだけど、ちょっとついていけなくて、そのせいでいつまでたっても大内義弘について書けないんですよ。そういや、平清盛も世紀の大悪人にされてるし。すみませんね、大悪人尊敬してて。

話が逸れましたが、弘世さんがすべてで、鷲頭長弘はワルモノだ、とか、そのような考え方の人は改めるべきです。どちらもともに有能な人物、立派な方々です。ただし、天に二つの太陽は両立し得ないことから、いずれかに統一されなければならないのが世の流れです。鷲頭家は弘世の前に平伏すことになりましたが、その後も存続し、下松の地にあって、妙見社を守り続けました。

大内氏時代の妙見社

毛利のお殿様がどれだけ、妙見社を大切にしてくれたと言っても、氏神だからとかそのような繋がりはありません。すでに、地元の方々に深く信仰されていた神社さまだったので、引き続き大切にしてくださったのでしょう。領内に数ある由緒ある神社のひとつ、って感覚かと。それゆえに、江戸時代の火災によって、中宮、上宮ほか多くの貴重な建築物が焼失してしまった後、完全に元通りに再建されることはありませんでした。

もちろん、現在も再建してもらった上宮、中宮はございますが、かつて七つもあったという社坊はわずかに別当寺だった鷲頭寺のみ再建されただけです。これは、毛利のお殿様云々というよりも、氏神の本家本元として、何よりも大切にする、という時代ではなくなってしまったゆえにかと。逆に言えば、大内氏の全盛期には、どれほど広大な神社だったんだろうという、かつての姿が知りたくなりますね。

いきなりショックなお話となりますが、地元のガイドさん曰く、唯一大内氏時代からそのままの姿で今もある、というのは「池」です。これ、神社さまのパンフレットにも載っている有名なものなんですが、今は水も涸れてしまい、往時の姿を偲ぶことはできません。

現在の若宮は、大内弘世が建立した下宮を遷してきたもの。つまり、元々の下宮は「跡地」になっていて、何もありません。中宮が一番規模も大きく立派であったものと考えられますが、社殿は火災に遭い、大内義弘が建立した五重塔と仁王門をはじめ、唯一本殿だけを残してすべて燃えてしまいました。今あるものは再建物です。だったら、本殿はかつてのものなのでは? と思いますが、ガイドさんはことさらにココだけは当時のままです、と仰ってはおられませんでした。やはり、拝殿、弊殿、本殿とセットで社殿を構成しているわけなので、仮にご本殿だけが被害を免れたとしても、往時のままとは申せません。それに、神社さまのご案内でも、本殿は義興代のものとされている、のような書かれ方になっており、確証はないのかもしれません。

かなりの大火事だったようでして、中宮本殿以外はすべて焼失してしまいましたので、上宮も再建物となります。ゆえに、池だけがわずかに当時のままの姿で残っているというわけです。しかし、残っているとはいえ、水は涸れてしまっておりますし、ご案内いただかなければ、気付かずに通り過ぎてしまうと思います。

この池は昔「亀池」と呼ばれていて、三段に分れていたそうです。一段目は閼伽水、二段目、三段目には亀が泳いでいました。なにゆえに亀なのかといえば、妙見菩薩さまは玄武と関係があり、玄武は亀に蛇が巻き付いていることから、蛇と亀は神聖な生き物として、大切にされていたからです。法泉寺さま(政弘公)以下の本家の跡継が皆、「亀童丸」の幼名を授かっていたことは有名です。

この池にはさらに麗しい逸話がありまして、せっかく妙見社を鷲頭山にお遷ししたけれども、水源がなく困っていました。そこで、大内正恒が「あめつちの水はつきしと思きや渓の草木はうら枯んとは」という和歌を詠んだところ、たちまちに水か溢れだしたといいます。ゆえに、この池の水を「和歌水」と言います。

本当かいな? と思いますけど、この手のお話は信じないと楽しめませんので、信じましょう。

神社や寺院にはお勤めに使う清らかな水が必要です。そのため、水源が近くにない場所に寺社を建立することはできません。ならば、水がないところにお社を遷した大内氏の先祖が愚かだったってことになりますが、そんなはずはないです。妙見社は何度かご鎮座地を遷されて、最終的に鷲頭山に落ち着きました。お社から放たれる神々しい光に目が眩んで、船の航行の妨げとなった、というような逸話がありますけれど、どうやらこれ、水源を求めての移動だったんじゃないかとするご研究もあるそうです。

ちなみに、現在鷲頭寺となっている元別当寺は、そもそもは閼伽井坊といったそうです。花岡八幡宮にも閼伽井坊がありますので、ちょっと混乱してしまいますけど、たまたま同名であるに過ぎません。閼伽の井戸なんて名前、社坊に付けることはよくあったのではないでしょうか。

神仏分離の際、神社にあった社坊はすべて廃止されましたが、妙見社の場合、江戸時代の火事で社坊がすべて焼失してしまったために、その時点でもはや再建されなかったようです。別当寺として唯一閼伽井坊だけが残されたのですね。もしも、大内氏の時代であったら、そんなわけにはいかず、すべて元通りに再建されたと思われます。五重塔しかり、仁王門しかりです。

こうして見てくると、大内氏時代の妙見社と現代の我々とを結ぶ唯一の遺物は池である、というガイドさんのお言葉に納得すると同時に、その池も今は涸れ果てていることに心に寒風が吹きました。

降松神社・みどころ

大内氏時代からの建物は一切ありません。唯一、中宮の本殿だけが、義興代に修築されたものが、火災による焼失を免れたとされておりますが、確証はないようです(あるなら文化財指定されているはず)。拝殿と本殿ってすぐ近くに建っていますから、ご本殿だけが燃えなかったというのは、確かに謎ですよね。

かつては神仏習合した巨大な神社だったであろうことを考えると、何も残っていないなぁ……となります。しかし、中宮も上宮もきちんと再建されておりますし、若宮はとても立派です。大内氏時代からの遺産云々をこの目で見ることにあまりにもこだわる方はいっそ上には行かないほうがいいです。「跡地」しかありません。再建物でもなんでも、かつてそこにあった、という事実が大切、と考えることができる方はぜひとも上宮までお進みください。そもそも、瑠璃光寺の五重塔だって現在修理しているわけですから、あまりにも創建当時そのまま云々にこだわると、何ひとつ見るものがなくなっちゃいますよ。

若宮拝殿

降松神社・拝殿

若宮は権現造り。拝殿、弊殿(祭儀を執り行う場所)、本殿があります。拝殿の天井の木組みには、大きな木が使われており、たいへん荘厳だというご説明を受けました。なお、至る所に「大内菱」がついております。統治者が毛利家に変っても、大内氏とゆかりの深い神社ゆえ、大内菱を使用することをお許しくださったのですね。

降松神社・拝殿の大内菱

鳥居から望む鷲頭山

降松神社・若宮から中宮へ(鳥居)

若宮から中宮、上宮へと向かいます。その前に、これから向かう上宮と中宮がどこにあるのかを見ることができる、とっておきのスポットがございます。この鳥居、額には「降松神社 上宮、中宮」と書かれております。あるいは、ここから遙拝してもいいのかも……。で、枠で囲った部分、ちょっと分りづらいのですが、上宮、中宮がある「鷲頭山」が見えています。山頂が鳥居のちょうど真ん中に来る、絶妙な撮影ポイントがありまして、ガイドさん直伝です。

降松神社・鳥居から見える景色説明プレート

鳥居の脇に説明プレートがありまして、こんな感じに見えているのですが、素人写真だと、上手くいきませんね。

中宮への道 ①

降松神社・中宮への道

若宮を出たところにある標識看板。矢印の方向に、中宮まで2㎞ ある、ということがわかります。その下に、青色の文字で、「是ヨリ中宮十八丁」とありますが、この「丁」というのは昔の距離の言い方。そう言えば、宮島にもこの「○○丁」が至るところにありましたっけ。昔の人は、この標識を確認しながら登っていったのでしょうか。常に目に入っていても何なのかわからないシロモノであります。よく「○丁」付近のナントカの花が見頃を迎えております、なんて発信している方がおられますが、地元の方や旅の「通」は、それを聞いてピンと来るのでしょう。

是ヨリ十八丁

降松神社・中宮への道「是より十八丁」

で、この「是ヨリ十八丁」という標識、現在もございます。きちんと一丁ごとに設置されているというきめ細かさ。ただし、大昔のものではなくして、経年劣化で失われると新たに設置される模様でして、コチラにあるものも、室町時代から続く……というような年代モノではございません。ええと、ですが、これは……現地で実物を見ると、辛うじて読めるのですが、写真だと無理みたいですね……。

中宮への道 ②

降松神社・中宮への道

のどかな田園風景の中に民家。ほっこりする一時に、時の経つのを忘れます。左上方に飛行機雲。なにゆえにか、旅していると飛行機雲をよく見かけます。幼い日々、「飛行機雲だ!」とはしゃいでいた頃が懐かしく思い出されます。直近三回の旅で、三回とも見かけました(ここで、飛行場が近いからだろう、とか言うの野暮だからね)。

降松神社・中宮への道だんだんと、民家が少なくなり、山の中に入って行っているのがわかります。でも、右手奥、駐車場が見えてます。まだまだ先は長い感じですね。

鷲頭寺歴代住職の墓所

降松神社・鷲頭寺歴代住職の墓所

かつて、別当寺だった鷲頭寺歴代ご住職の墓所です。すべてがこちらにあるのかどうかはわかりませんが、参道途中左手のほうにございました。

中宮への道 ③

降松神社・中宮への道③

いよいよ山道に入っていきます。このドキドキワクワク感がたまりません。

是ヨリ六丁

降松神社・是ヨリ六丁

竹藪の中に「六丁」と書かれた標石がありました。「七丁」を見落としていましたね(こういうことだから道に迷う……)。

何やら広大な削平地

降松神社・削平地

この先、何カ所か、このような広い削平地がございます。明らかに人工的なものです。降松神社が七坊をもつ、巨大な神仏習合の神社であったことを思う時、こうした削平地のいずれかが、かつてゆかりある建物が建っていた跡地である可能性を捨てきれません。むろん、多くの研究者の先生方、地元の郷土史の先生方があれこれの仮説を立てておいでの場所もあれば、まだ未開の分野もございます。ココがそれらのひとつかどうかわかりませんが、地元の先生にご教授いただけた場所についてはすべてご報告します。

展望台

降松神社・展望台

矢印の方向に進むと、中宮公園の記念碑と、展望台があります。

中宮公園記念碑

降松神社・中宮公園記念碑

ここは公園です。その名も「中宮公園」。展望台の役割も果たしており、鷲頭山から下松の町を見下ろすことができます。晴れた日には、九州までも見えるそうです。また、若山城跡も、ここから見えているどこかの山の裏手にあたるそうです。樹木に覆われ、展望があまりよくない場所もありましたが、鷲頭山に来て、眼下を望むにはここが最適です。

赤坂下宮跡地

降松神社・下宮跡地

この削平地は、赤坂という地名でして、元々大内弘世公が造った下宮があった場所です。だいたい四十坪くらいとのことです。

随神門

降松神社・随神門

これは江戸時代の末に、氏子中の皆さんによって建てられた随神門です。元々は仁王門でしたが、神と仏が分かたれた時、仁王は去り、神様の門になりました。

降松神社・随神門

この門の両脇にいる、随神だけど、格子になっていてよくは見えませんが、なんか笑っているみたいで怖い……。よくみると、大内菱がついていました。

五重塔跡

降松神社・五重塔跡礎石

以前、この辺りに、大内義弘が建てた五重塔がありました。現在は跡形もありません。瑠璃光寺五重塔が建立されるより五十年も前に、国宝の塔よりは小振りながら、ココ、妙見宮にも五重塔、そして、仁王門が建てられていたのです。五重塔は再建されることなく、仁王門は再建されましたが、明治時代に随神門に変えられてしまいました。あくまでも、推定ですが、五重塔があったのはこの辺りではないかと考えられており、写真は、その礎石ではないかとされているものです。

長岡外史記念碑

降松神社・長岡外史記念碑

さきほど「中宮公園」のお話が出ましたけれど、往時ここは季節によって色とりどりの花々を楽しめる、地元の方々の憩いの公園だった模様です。それは今も変っておらず、公園はやはり公園です。しかし、あれこれと様々な楽しみが増えた昨今の人々は、以前ほどは山中で野花を愛でる暇はないのか、ちょっと閑散としていました。

この記念碑は、公園が華やかなりし頃、下松出身の著名な軍人・政治家・長岡外史という方がお書きになった「周防第一苑」という文字が刻されたものです。

中宮鳥居

降松神社・中宮鳥居

中宮の鳥居です。ここまで来ると、目的地の半ばくらい消化できた雰囲気でほっとひと息です。しかし、仁王門の辺りとはまったく光景がかわっており、完全に山の中です。十月とは思えぬ暑い日でしたが、この辺りはひんやりとして、奥ゆかしい雰囲気を醸し出しておりました。

長い長い石段

降松神社・中宮への石段

鳥居の後ろから続く、長い長い石段。見ただけでぞっとしますが、一段一段階段を上がるほうが安全な場合もございます。手摺りなどがついておらず、多少不安ではありますが。この石段を使わずに行くルートもございますが、やはり参詣前はきちんと、鳥居、石段と進むのがマナーのようですね。

帰り道は石段を下らず、山道から下りましたが、同じ鳥居に出ました。ただし、地元のガイドさんのご案内に従っていたので、個人で行く場合は素直に石段を下りたほうがよいかもしれません。山道は、ちょっと違う道へ入り込むと、迷う危険性も否定できないからです。

手水舎

降松神社・中宮手水舎

中宮の手水舎です。これじたいが文化財指定を受けている、といったような特別なものではないですが、かなりの年代モノらしき趣です。現在、手水舎を修繕する準備を進めておいでであるとお伺いし、修繕費用を寄進しました(単に賽銭箱に普通にお金を入れたという意味です)。

中宮拝殿

降松神社・中宮拝殿

中宮の拝殿は、若宮についで立派です。江戸時代の火災で焼失してしまったので、再建物です。しかし、ご由緒をよく見てみると、中宮拝殿の再建年度について書かれていないのですよね。中宮本殿だけを残して焼失という一文には、ひょっとして、本殿、拝殿、弊殿も含まれていて、中宮だけは残ったということなんでしょうか? 今頃になって浮かぶ疑問。いずれにせよ、昭和時代になって、大改築が行なわれましたので、現在ある建物はその時のものです。

中宮本殿

降松神社・中宮本殿

背後に見えているのが本殿。つまりは、ここだけが、江戸時代の火災でも焼け残った凌雲寺さま(義興公)再建の建物となります。確かに木造部分は何となく年代モノに見えますが、屋根は葺き替えられておりますし、完全に当時のものなのかは微妙なところです。この写真からは分りづらいですが、きちんと大内菱がついていました。

上宮鳥居

降松神社・鳥居

中宮までは山道がついており、山城跡で慣らしたミルたちにとっては、日傘片手でも余裕でした。しかし、中宮から上宮までの道は突然趣を変えます。この小さな鳥居だけが、上宮はこの先である、という目印となります。基本は上に上がっていくだけですが、道らしきものはなく、それなり「登山」の様相です。傘を差しながらなんてもってのほかです。救いは距離がとても短いこと。それでも油断は禁物なので、足元には十分にお気を付けください。

上宮

降松神社・上宮

本当に小さなお社です。神仏習合時代は「奥の院」とも言われていたそうです。これについては、現在もごちゃまぜになっている人がおられますが、奥の院といったら仏教系の呼び方で、神社なので上宮です。ココは、というより、鷲頭山全体が、神聖不可侵な領域でした。その点、氷上山と似ております。今でこそ、普通に観光客が参詣できる場所でしたが、かつては恐らく、女人禁制などであったものかと。

神聖不可侵な領域の頂点ともいえるのが上宮です。何人も自由に行き来できるような場所ではなかったゆえに、敢えて参道などもないのでしょうか。よじ登るようにして辿り着きました。ここまで来た証に、この記念すべき日のために取っておいたとっておきのお賽銭を入れようとしたところ、何と、賽銭箱がありません……。

宮島の浦々の神社もそうでしたが、あまりに奥まったところで参詣者も少ないようなところは、神社の関係者もお賽銭を集めに通うことが困難ですから、賽銭箱が設置されていない場所がありました。それをいいことにお賽銭を入れないのも気が引けるのですが、入れ物がなければ仕方ありません。しかし、降松神社の上宮はそこまで辺鄙な場所というわけでもありません。

同行してくださっていた観光協会のお姉さんが、そっとお社の扉を開けて確認してくださったところ、お賽銭箱はお社の中にありました。無事にお賽銭をいれることができて、本当によかったです。ありがとうございました。

上宮「神石」

降松神社・上宮「神石」

これは、上宮の背後に置かれていた石でして、「神石」と呼ばれているそうです。かつては、説明看板などもあったらしいのですが、現在はなくなっており、ガイドさんも詳細はご存じありませんでした(つまりどーでもいいただの石です)。恐らくは、いつの頃からに、どなたか参詣に来た方が、変ったかたちの石を置いたことが由来と思われます。詳しくは、誰かしらがインターネット上などに書いているかも知れない、とのご案内でした。そういうことならば、皆さま、インターネット上をご覧くださいませ。執筆者は公式サイト以外のネット情報は見ません。

和歌水

降松神社・和歌水

降松神社・亀池

大内氏と現代を結ぶ唯一の生き証人ともいうべき「池」。そう思い、山のように写真を撮りましたが、どれも枯れ果てた「池の跡地」でしかありませんでした。しかし、かつて、ここに池があったことは確実で、そのことは神社さまの御由緒案内パンフレットそのほかにも載っています。何より、この池の所在地をご存じの著名なガイドさんがご案内くださったゆえ、間違っているわけがありません。

確かに池であったらしき痕跡は認められますので、大雨が降るなどすれば、水がたまるはずです。そうなれば、いかにも池であることがはっきりするであろうと思われますが、如何せん足場が悪いです。池跡そのものはとにかくとして、池に至る道が危ないのです。

順路矢印のようなものは一切ないですし、現地にも説明看板の類があるわけではないです。かつては立派な灯籠が立っていたそうですが、それも現在は崩れてしまっており、ご覧の通りです。

相撲場

降松神社・相撲場

お祭りなどで奉納される相撲が行なわれる場所。かつてはもっと上のほうにありましたが、現在は参詣者の便宜をはかって、下に下りて来られたそうです。

降松神社(山口県下松市)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP

ご鎮座地 〒744-0061 下松市河内1984

※中宮、外宮については、地図をドラッグしてください。

アクセス

若宮までは下松駅からタクシーで行きました。車なら 5分程度ですので、歩くことも可能と思います。ですけど、あまりオススメはしません。上宮、中宮はちょっとした登山となり、特に中宮から上宮まではキツいですので、体力を温存したほうがいいためと、若宮までの道は普通に都会の町並みで、特に風情があるわけでもないためです。

重要

タクシーなどの車で来ると、若宮の拝殿前まで乗せてもらえてしまいます。楽チンで大助かりですが、この場合、参道入口の社号碑と鳥居を見落としますので、入口まで戻ることを忘れないでください(もしくは、参道入口で下ろしてもらいましょう)。

若宮から中宮まではわかりやすく、途中から山道となりますが、迷うことはないと思います。問題は上宮でして、いわゆる城跡マニアのような方、健康のために登山を趣味としている方であれば、たぶん問題はありません。けれども、正装して若宮にご参詣、という方が、そのまま上に向かわれるのは難しいです。登山装備が必要とまではいかずとも、神社の裏山感覚ではないです。上宮は神社さまのご案内にも「道らしいものはなく」とあるくらいで、普段から山城跡を登り慣れているような方であれば楽勝ですが、由緒ある神社仏閣を丁寧に参詣して回ることを喜びとしている方は目眩を覚えるかもしれません。また、和歌水は現在、水が涸れておりますし、その所在地はわかりづらく、ガイドさんのご案内必須です。興味本位で探し回るのはたいへん危険です。見てみたいと思われた方は、観光協会さまなどに事前に問い合わせをし、「山登りは苦手である」ことを告げた上でどうすればよいか相談なさることを強くおすすめします。

ココに写真が載っているから、素人でも行けるだろうとは思わないでください。きちんと、ガイドさんにお願いをして、ご同行いただいています。

参照文献:降松神社さまご案内リーフレット、『山口県神社誌』

降松神社(山口県下松市)について:まとめ & 感想

降松神社・まとめ

  1. 推古天皇の御代、鷲頭庄青柳浦の松の木に「異国の王子の来朝」を告げる大星が降臨。お告げ通りに、大内氏の始祖・百済の琳聖太子が着岸したので、桂木山に大星を祀り、「北辰妙見社」としたのが起源
  2. 妙見社は鷲頭庄の氏神となり、青柳浦は降松と改名された
  3. 社殿は、桂木山 ⇒ 高鹿垣 ⇒ 鷲頭山へと遷された
  4. その後、鷲頭山には上宮と中宮が建立された
  5. 水源が乏しいのを憂えた大内正恒が和歌を詠むと、水が湧き出し「和歌水」となった
  6. 時代は降り、大内弘世の代、赤坂に若宮(下宮)が造られた
  7. 義弘代、中宮に五重塔と仁王門を建立
  8. 大内氏の滅亡後、毛利氏の時代になっても信仰は続いたが火災によって中宮本殿以外すべての建物が焼失
  9. 赤坂の若宮を現在地に遷し、その後も再建などして保護
  10. 氏子中によって、中宮の仁王門が再建される
  11. 明治時代、妙見社から「降松神社」と改名され、別当寺だった鷲頭寺は市街地に移っていった
  12. 明治時代、中宮に公園が造園され、「偕楽園」と呼ばれた
  13. 大正時代、長岡外史中将は中宮公園を「周防第一之苑」と称えて記念碑を建てた
  14. 平成時代にご鎮座1400年祭が執り行われ、令和になると同1425年式年大祭記念事業として、社務所がリニューアルされるなど、今も地元の人々から広く信仰され、大切にされている

降松神社は若宮がすべてと思って帰宅してから数年。久方ぶりに大好きな星降る町・下松を再訪しました。今回は、きちんとガイドさんにご案内をお願いし、あれこれ学びたいとお目々キラキラで向かいました。とっても博識で優しいガイドさん、下松の魅力をひとりでも多くの人に伝えたいという情熱溢れる観光協会のお姉さんがご同行くださり、たいへん実り多い旅となりました。

帰宅後早くも一月が過ぎました。感動の余韻に浸りながら、夢のように過ごしていたら、せっかくガイドさんから教えていただいた知識も悲しいくらい飛んでしまい……。己の記憶力の乏しさを嘆くと同時に、貴重な体験が無に帰したかのような虚しさを覚えます。まあ、試験対策の暗記物ではないのだから、その場その場で感激できればそれで十分だろう、と思うことにしました。ガイドさんの名調子とお姉さんのチャーミングな笑顔が忘れられず、そっちばっかり記憶に残っております。お二人の郷土愛の深さにも感銘を受けました。

常に思いますが、どこへ言ってもかつての栄華はどこへやらというくらい、今は物寂しい光景となっています。氷上山上宮跡地しかり、コチラ妙見社の亀池しかりです。今こうして我々が住んでいる住居も、五百年先には、考古学者の発掘対象になって、当時ココは住宅地だったようですが、名もない庶民の住まいらしいですね、とかなるんだろうか。いや、五百年後は科学技術がさらに進歩しているだろうからして、もはや現在のようは手作業の発掘調査なんてせずとも、地下に埋もれた遺跡なんて手に取るように見えるようになっていたりして。

というようなことを、その勢力最大にして最強だった頃の大内氏歴代は夢にも思わなかったことでしょう。和歌水が涸れているとか、五重塔焼けたまま再建されてませんよ、とか知ったらどう思うでしょうか。でも、今もこうして、かつての姿はこうだった、と伝えてくださる親切なガイドさん方がおられ、立派に改築、修繕されながら今に続く若宮が今なお人々の信仰を集めていることに胸が熱くなります。建物は失われても、歴史は次の世代に確実に伝えられています。

念願の妙見社上宮に無事に行けましたが、確かに道なき道であり、県外の素人観光客は場合によっては迷うかも知れません。中宮までは、日傘にながらスマホとか、とんでもないNGなことをしでかしても平気な道のりではありましたが、中宮から上宮だけは本気モードになってました。幸いに距離が短かったため助かりました。レベル的には、中宮までは最高レベルに整備が行き届いた山城跡クラス(月山富田城とか)、上宮はキツいけど整備がなされている山城跡(銀山城とか)くらいかなぁーというような雰囲気です。上宮に限っては、ハイキング気分で行ける雰囲気ではないです。山城仲間に声をかけても、んーでも、神社だよね? とスルーされてしまいましたが、道のり的には山城仲間も楽しめそうでした(中宮から上宮まで限定)。

由緒ある神社なのに、山登りの初級レベルの技術は必須という複雑な状況が、上宮まで行く物好きが少ない遠因となっているのではないかな、と思います。信仰心のある方は奥の院でも平気で上がって行かれますが、観光客って我儘だし、メンドーなことは嫌いだったりするため、若宮より先まで先導するのはかなり微妙と感じました。彼らはかたちあるものを好むので、「跡地」とか「説明看板なし」とかを嫌がるからです。ただ、ほかに、御朱印マニアなる人種も存在しますので、それらの人たちは上まで行くかも知れません。ちゃんと証拠写真撮ってきた人だけに配るとかなっているのかな? そもそも、御朱印集める趣味ないですので、もらえるかわかりませんよ。

こんな方におすすめ

  • 星ふるまち下松の魅力に取り憑かれ「妙見社の本家本元はココだ!」と感激する人
  • 神社巡りが好きなすべての人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎涙イメージ画像
五郎

ケチなミルが、上宮の賽銭箱に、普段の寺社巡りで入れてるお賽銭の五百倍も入れた……。

畠山義豊イメージ画像
次郎

うひょーー。てか、お前ら……普段その五百分の一しか入れてねーの?

ミル涙イメージ画像
ミル

だって、新介さまが再建した中宮本殿が残ってる神社だもん。一番たくさん入れるのは一番上のお社で、って決めてたから。この界隈に住んでて、下松の妙見社知らない人は潜りだからね。興隆寺のお社は、勧請されたものであって、神様が降りてこられたのはあくまで下松だから。

新介通常イメージ画像
新介

大切に祭祀を守り伝えてくださっている神社の方々に感謝する気持ちは大事だけど、お賽銭は額じゃないよ。ご縁がありますように、って五円玉一枚でも、気持ちは伝わる。

ミル涙イメージ画像
ミル

(分ってます。だから普段は五百分の一なんです。ビンボーなので)どうか、中宮の手水舎修理に役立ててください。

宗景イメージ画像
宗景

(五百分の一だとあの金額だが……。中宮と若宮でも普段の百倍は入れていたな。殊勝なことだ)

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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