関連史跡案内

築山館跡(山口市)

2020年10月10日

築山館跡

築山館跡・基本情報

所在地・アクセス

所在地 〒753-0035 山口市上竪小路100
問い合わせ先 山口市観光交流課
最寄り駅 県庁前バス停から徒歩10分

指定範囲図

築山跡指定配置図

(築山跡公園化整備地四阿ベンチ内説明看板より)

築山館跡・歴史

「築山跡」とは、大内氏別邸築山館の跡地のこと。現在の八坂神社、築山神社の境内敷地にあたる。

築山館は八十間四方を土塁で囲み、外面には大石を積み上げていたと想像される。土塁は天明三年(1783)頃までは存在していたらしいが、その後、今も残されている西北の隅以外、くずされてしまった。土塁をくずした土は庭園の池を埋めるために使われ、池も失われた。

大内氏が本拠地を山口に移したのは14世紀後半から15世紀前半とされていて、初期には当主たちが在京していたため、居所である館も最低限の政務をこなせれば十分という規模だったと思われている。その後、当主が在国するようになると、その機能は拡大し、「首都」としての役割を与えられていったとされる。寛正二年(1461)の「掟書」にそれに関する記述がある。居館は政務をとる場所としてだけでなく、当主の居住空間としての機能も充実させていき、やがて接客用スペースとして、「築山館」が建てられた。

築山館を建てたのは、教弘とされ、幕府と衝突し家督を息子に譲らざるを得ない事態を引き起こしていたことから、こちらを住処に隠居していたともされる。「築山殿」と呼ばれていた教弘は、その死後、政弘によって神格化され「築山大明神」と呼ばれる祖先神として祀られることになる。政弘は神となった父を社殿に祀っており、それは大内氏館の北側にあって、元の築山館の場所ではないかと考えられている。

考古学的研究の成果から、なるほど築山館跡地には、15世紀後半から幅3メートルを超える堀が埋め戻されたことが判明しており、元々の施設(館)の性格に変化が生まれた可能性があるという。研究者の先生方はこの変化がすなわち、築山館が元々の御殿から、宗教施設としての社殿への改築であると指摘なさっている。

それと同時に、接客施設であった時期の史料も残されおり、築山館で日ごと行われていたであろう、雅な文芸行事の数々や、訪れた著名な客人たちについての逸話を知ることができる。

かの連歌師・宗祇が「池はうみこずゑは夏のみ山かな」と発句したのは、当主・政弘から、連歌会で庭園の風景を詠むように、と所望されてのことだった。この句は今は「跡地」となった築山跡に、句碑として刻まれている。

築山館跡・みどころ

跡地内には八坂神社と築山神社がある。

江戸時代の末までは庭園跡が残っていたとされるが、今は失われており、発掘調査でも今のところ確認できていないという。

現在はわずかに土塁が遺されるだけである。当時の石垣も残されてはいたが、毛利敬親代に藩庁を山口に移した際、その建築用材として使われた。ゆえに、現在地ではなく、藩庁跡地のほうで石が保存されている形となっている(後で説明する)。

跡地は全体的に樹木で覆われ、その中に築山大明神址や市川元教墓が残る。

大内氏ゆかりの地であることから、顕彰碑の類が多数あるほか、解体・放置された石材がある。
⇒ 宗祇句碑、修大内義興墳墓碑(石造・明治二十三年)、月見松跡碑、箏曲組歌発祥の地碑、市川少輔七郎墓

築山館跡土塁

今もわずかにその面影を留めているものとして、築地跡の土塁がある。北西隅の西面および北面にL字型に遺っており、居館の位置、規模を示すものとしてたいへんに貴重な土塁遺構となる。

土塁の写真

ミル涙イメージ画像
ミル

ええーーっ、土塁はどこ?

五郎涙イメージ画像
五郎

草ボウボウじゃないか……(絶句)。

じつはこれ、撮影日が初秋だったので、土塁が草に覆われてしまっているのである。よって、土塁というよりは単なる叢にしか見えない。しかし、きちんとガイドさんのご説明をおうかがいしているから、間違いなくココである。

基本的に、自治体関係の資料にある通り、八坂神社&築山神社境内の周りに土がぐるりと盛り上がっているだけなので、草が刈り取られた後ならば、それなりわかりやすいと思う。大内氏館跡や勝栄寺の土塁と見た目的に同じである。

築山跡土塁

冬に再確認したところ、こんな風になっていました。上の写真とちょい場所的にズレているみたいだけど、やはりイマイチわかりにくい。ひょっとして、間違ってる? 築山跡付近の盛り土であることだけは確かです。

築山館跡にあった石垣の石

土塁とともに、館跡の石垣も残されていた。しかし、毛利敬親が山口に藩庁を移した際、その建築用材として使われてしまったので、「築山館跡」には石垣の形としては残されていない(逆に言えば、藩庁建築時にはまだあった、ということ)。

場所などどうでもいいので、石垣の石を見たいということであれば、かつての藩庁に行けばよい。とはいえ、残念ながら、藩庁も跡地としてしか残っていない。石垣を再利用したのは、藩庁だけではなく、その後も公園などの建設で使われたことがあったようなので、探せばほかにもあるかもしれない。ここでは、現在の山口県庁の辺り、香山通りにあるものを紹介している。これもガイドさんに連れて行っていただいたので、正確なものである。

石垣の写真

立派な石垣である。

宗祇句碑

宗祇句碑の写真

昭和二十八年に造られた石造の句碑。「池はうみこずゑは夏のみ山かな」という発句が刻まれている。

月見松跡碑

月見松跡碑の写真

あまりにも有名な「大内氏月見之松」を偲んで建てられた石造記念碑。
なお、この付近に本当に松の木があるが、木は当時のものではないので、誤解しないように。

箏曲組歌発祥の地碑

箏曲組歌発祥の地碑の写真

夜毎雅な宴に明け暮れた日々。ここから生まれた芸能も数知れないだろう。そのうちのひとつが「箏曲組歌」と伝わる。文芸は難しいので詳細はわからないが、石碑の近くに詳細な説明看板がある。

箏曲組歌発祥の地説明看板の写真

ガイドさん曰く、このような「発祥の地」というのは、様々な地域が我々のところが発祥地です、と名乗り出るのが常で、いったいどこが実際の発祥地なのか、見極めることは難しい。史料から確証を得られたことならば、はっきりとそうとわかるし、それ以外の場所があれこれと名乗り出ることもなくなるだろう。この看板にも書いてあるけれど、ここが本当に発祥地なのかはわからないという。

発祥地かどうかが事実かは別として、そのような伝承が生まれるほど、文芸が盛んであった、という点が大内文化の姿を伝えていて興味深いのである。なお、この石碑は昭和四十年に造られたものである。

市川少輔七郎墓

市川少輔七郎墓の写真

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

市川少輔って誰? なんで毛利家臣の墓がここにあるんだ?

ミル涙イメージ画像
ミル

お墓がここにある、ということは当然、この場所に関係があるからだよ。

市川少輔七郎という人は、名を元教といい、市川元経の長男だった。父親のほうは名前をきいたことがある。どこできいたのだろう、と思ったら、大内輝弘が山口に侵攻した時の山口奉行だった。庭園はとっくに滅んでいたから、知らなくても当然だ。しかし、ガイドさんがこの人にかかわる悲劇のお話をご案内くださったので、記憶に残っている範囲で記録に留めておく。

市川元教は大友宗麟からの手を組もう、との誘いに乗り、毛利家を裏切ってしまった。大内家滅亡後、毛利家と大友家が九州の地で長らく合戦したことは周知の通り。そんな敵国と内通するなど、絶対にあってはならないことだ。しかし、元教の裏切りは主に知れる前に、父・元経に知られてしまった。主君の家はもちろん、自らの家のため(家から裏切り者が出たら、最悪家は潰されてしまう)、元経は息子を処罰する道を選んだ。父として、我が子が愛しくない人などいないはずで、どれだけ辛い決断であったことか。このとき、元教が処刑されたのが、この場所(この付近と仰ったかも知れず、記憶が曖昧になってしまった)。のちに、供養のためにこれらの供養塔やらが造られたのである。

盃状石が刻まれた巨石

盃状石が刻まれた巨石の写真

「盃状石」というのは「死者をよみがえらせたり、豊作を願ったりすることを意味する刻印」との説明看板があった。朝鮮半島の支石墓の蓋石にも刻まれていたということであり、国内最初の発見例は、大内の神田山石棺群の箱式石棺墓墓石に刻まれていたものだと書いてあった。国内最初の発見が県内であったこと、それも大内であったこと、大内氏と朝鮮半島は関係が深いこと、別に大内氏とは無関係に、朝鮮半島の支石墓とそっくりな古墳は西日本でよく造られていたこと、などなどを思い出したけれど、なんで、この築山館跡にこれがあるのかは謎だった。

築山館跡の見学に来ていたから、ガイドさんからもこの石についてのご案内はなく、お伺いすることも忘れていたから、確かめようがない。

ガイドさんからのワンポイント

ソテツは大内氏のシンボルみたいな木です。

築山館跡ソテツの写真

石碑の向かって右側に生えている。大内氏館跡にもあった。館や別邸、庭園内にソテツがあるのは大内氏の外交・通商の範囲が広大な地域に渡っていたことの現われ。今でこそ、どこにでもフツーにありますが、かつてはなかったもので、時代に先駈けて海外から持ち帰ったのです。現在あるものが、当時からの木であるかはわかりません。庭園やゆかりの地の復元整備事業などに際して、象徴的に意識して植えられたりしています。最初は大内氏のような海外に開かれた裕福な人々しか持ち得なかったソテツですが、以後はほかの権力者や寺院の庭園、やがては現代の一般庶民の庭にまで広まっていったのです。

築山神社拝殿
築山神社(山口市)

築山神社。山口市。大内氏築山館跡敷地内にある神社。社殿は江戸時代の建築で県指定文化財。元は氷上山境内にあった東照宮の建物。

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八坂神社石段前にて記念撮影
八坂神社(山口市上竪小路)

大内弘世が京都祇園社を勧請したといわれ、かつては祇園社と呼ばれていた。所在地は移転、名前も変わったが、本殿は永正年間義興代再建当時のもので、神事・鷺舞はじめ祇園祭も途絶えることなく存続している。

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築山館跡写真集

ミル通常イメージ画像
ミル

築山館跡の復興整備計画はついに完了し、本年度中(2022)に公園として生まれ変わります。開園セレモニーより早く訪問しすぎてしまいましたが、次回もまたぜひ、訪れたいと思います。

五郎笑顔イメージ画像
五郎

いまよりもっと、楽しい場所になるね!

追記:公園となった築山跡

築山跡が公園化される、セレモニーには蹴鞠のイベントがある。イベントより先に行ってしまったーー。と喚いていた(↑)ので早速、「公園化された築山跡」を再訪してみた。

築山跡公園プレート

ミル通常イメージ画像
ミル

な、なんと、雅で麗しいお方……。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

(雅で麗しいのは看板じゃなくて、平安貴族風コスプレの俺の兄上イラストじゃないか……)

築山跡公園敷地

九月の時点ですでに、この辺りはきちんと整備されていた気がする。それ以前がどうなっていたのかは思い出すことができないけれど、要するに綺麗にしてベンチや看板を置いた、というだけな気がする。いったい何を期待していたのだろうか。真冬ということもあって、子どもたちの歓声もなく、長閑にベンチに腰を下ろす休憩中の方々のお姿もなかった(小雪がちらつく寒い日だった……)。

○○跡地が自治体によって整備されるとこのように、整然とした公園に生まれ変わり、大切な遺跡がこれいじょう宅地や産業用地として切り崩されていくことから守られる。予算の関係でちゃちなレプリカ館が建つよりも、これがもっとも麗しい保存方法なのだろう。

2019年に教育委員会から出された「史跡大内氏遺跡保存活用計画」が、いちばん最初にこの記事を書いた時の参考文献となっていたようだ。確かにその時、このように整備して説明看板やらベンチを置くと読んだ記憶がある。何を期待していたんだろう(しつこい)。

築山跡公園のベンチ

この綺麗な四阿式ベンチの中に、築山館のことがまるっとわかる説明プレートがあり、公園敷地内にもそれぞれ、この場所は昔こうだった、というような発掘調査の成果を記したプレートが埋め込まれている。

築山跡公園プレート

「南側出入り口」と書かれたプレート。写真には発掘調査の結果が紹介されている。現在は大内館庭園と同じく、保存のために埋め戻されている。つまり、この地面の下に、かつての築山跡が埋まっている。

整然とした広大な敷地に佇み、「池はうみこずゑは夏の……」雅の宴は今となっては、歴史の中にしか存在しないのだと言うことを痛感し、何とも言えない気分となった。

附・河村写真館

河村写真館

築山跡公園の傍にある。明治時代の洋館がおしゃれで、当時を偲ぶ貴重な文化財として、県の重要文化財となっている。前回どこで紹介しようか迷っていたけれど、築山跡が公園化されたことで、まとめてしまう。

なお、現在、写真館さんはここで営業を続けられてはおられない。

五郎通常イメージ画像
五郎

ミルが期待していたのは、蹴鞠のイベントだったんじゃ? 出演者は全員、平維盛だと信じて。もしくは緑髪将軍とか。当日に来れなくて残念だったね。

ミル涙イメージ画像
ミル

あああ、三位中将と緑髪将軍って、どっちがよりイケメンなの? やっぱ法泉寺さまがいちばんだよね?

アクセス

山口駅から町歩きで。敷地内には築山神社、八坂神社が、付近には大内氏館跡があるので、かつての町並みを偲びつつ歩かないともったいない。

参照文献:山口市教育委員会「史跡大内氏遺跡保存活用計画」2019年 PDF、『大内氏の文化を探る』勉誠出版

※この記事は20230104に加筆修正されました。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記。ついでに本拠地・周南の宣伝もしちゃう。

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