築山館跡(山口市)

築山館跡・基本情報

住所 〒753-0035 山口市上竪小路100
問い合わせ先 山口市観光交流課
最寄り駅 県庁前バス停から徒歩10分

築山館跡・歴史

「築山跡」とは、大内氏別邸築山館の跡地のこと。
現在の八坂神社、築山神社の境内敷地にあたる。
築山館は八十間四方を土塁で囲み、外面には大石を積み上げていたと想像される。
土塁は天明3年(1783)頃までは存在していたらしいが、その後、今も残されている西北の隅以外、くずされてしまった。
土塁をくずした土は庭園の池を埋めるために使われ、池も失われた。

大内氏が本拠地を山口に移したのは14世紀後半から15世紀前半とされていて、初期には当主たちが在京していたため、居所である館も最低限の政務をこなせれば十分という規模だったと思われている。
その後、当主が在国するようになると、その機能は拡大し、「首都」としての役割を与えられていったとされる。寛正2年(1461)の「掟書」にそれに関する記述がある。
居館は政務をとる場所としてだけでなく、当主の居住空間としての機能も充実させていき、やがて接客用スペースとして、「築山館」が建てられた。

築山館を建てたのは、教弘とされ、幕府と衝突し家督を息子に譲らざるを得ない事態を引き起こしていたことから、こちらを住処に隠居していたともされる。
「築山殿」と呼ばれていた教弘は、その死後、政弘によって神格化され「築山大明神」と呼ばれる祖先神として祀られることになる。
政弘は神となった父を社殿に祀っており、それは大内氏館の北側にあって、元の築山館の場所ではないかと考えられている。

考古学的研究の成果から、なるほど築山館跡地には、15世紀後半から幅3メートルを超える堀が埋め戻されたことが判明しており、元々の施設(館)の性格に変化が生まれた可能性があるという。
研究者の先生方はこの変化がすなわち、築山館が元々の御殿から、宗教施設としての社殿への改築であると指摘なさっている。

それと同時に、接客施設であった時期の史料も残され、築山館で日ごと行われていたであろう、雅な文芸行事の数々や、訪れた著名な客人たちについての逸話が再現されているのである。

かの連歌師・宗祇が「池はうみこずゑは夏のみ山かな」と発句したのは、当主・政弘から、連歌会で庭園の風景を詠むように、と所望されてのことだった。
この句は今は「跡地」となった築山跡で、句碑として刻まれている。

築山館跡・みどころ

跡地内には八坂神社と築山神社がある。
江戸時代の末までは庭園跡が残っていたとされるが、今は失われており、発掘調査でも今のところ確認できていないという。

現在はわずかに土塁が遺されるだけである。
築地跡土塁:北西隅の西面および北面にL字型に遺っている。
これらの土塁遺構は、居館の位置、規模を示すものとしてたいへんに貴重である。

跡地は全体的に樹木で覆われ、その中に築山大明神址や市川元教墓が残る。

大内氏ゆかりの地であることから、顕彰碑の類が多数あるほか、解体・放置された石材がある。
⇒宗祇句碑、大内義興碑、大内氏月見之松記念碑、箏曲組歌発祥之地碑、神徳碑、築山大明神址、大石

「月見之松石碑」

築山館跡・月見之松石碑
あまりにも有名な「大内氏月見之松碑」。
なお、この付近に本当に松の木があるが、木は当時のものではないので、誤解しないように。

宗祇句碑

築山館跡・宗祇句碑

箏曲組歌発祥之地

箏曲組歌発祥之地石碑
夜毎雅な宴に明け暮れた日々。
ここから生まれた芸能も数知れないだろう。
そのうちのひとつが「箏曲組歌」と伝わる。

「組歌」説明板

伝・市川元教墓

伝・市川元教墓
毛利家家臣の墓。

神徳碑

神徳碑

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参照:山口市教育委員会「史跡大内氏遺跡保存活用計画」2019年 PDF、『大内氏の文化を探る』勉誠出版

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