人物説明

山口開府の父・大内弘世

2020年5月14日

大内弘世イメージ画像

大内弘世・アイカワサンさま画

大内弘世とは?

大内氏第二十四代当主。活躍した時期はちょうど南北朝期にあたる。この頃、父・弘幸の弟にあたり、分家・鷲頭家を継いでいた長弘が一族の中で勢力を拡大しており、北朝武家方の周防守護に任命されていた。弘世は南朝宮方につくことで、鷲頭家に対抗。家督相続後、同じく代替わりして長弘の子・弘直が継いでいた鷲頭家と全面対決の上、これを撃破。ついで、長門を地盤としていた厚東氏を滅ぼし、防長二ヶ国を統一。

周防・長門の守護職を認めさせることを条件に、武家方に転向するなど、南北朝という特異な時代の特徴を巧みに利用して勢力を拡大した。防長両国はその後も終始一貫変ることなく、大内氏の根幹地であり続けたが、それはすべて弘世の功績。また、本拠地を名字の地・大内から山口に移したのも、弘世であり、「山口開府の父」とされる。

大内家という室町期西国を制した大国の基礎を作った人。

大内弘世・基本データ

生没年 ? ~1380,11,15
父 大内弘幸
母 ?
幼名 孫太郎
通称 大内介
官位等 周防権介、修理大夫、周防、長門、石見守護(防長二州守護⇒帰順時、石見⇒貞治三年)、従五位上 
法名 正寿院殿玄峯道階大居士
墓地等 乗福寺に供養塔(墓?)
(出典:『日本史広事典』、『新編大内氏系図』、『大内氏実録』等)

南北朝動乱と防長統一

弘世の功績その一は、防長二ヶ国を統一したこと。後に、大内家の版図はさらに広大なものとなっていくが、幕府との関係が変化するたびに、分国の地図は書き換えられた。しかし、最初から最後までけっして変わることがなかったのが、根幹地ともいうべき周防長門の二ヶ国。この二ヶ国の支配が確立されたのが、弘世の代だった。

武家方と大内氏

鎌倉幕府を倒すために協力した、後醍醐天皇ら宮方と足利尊氏をリーダーとする武家方とはやがて対立するに至った。全国の武士たちもいずれかの陣営に与して戦うことになる。

このような状況下で、大内家は武家方につく。武家方としての活躍ぶりについては、太平記にもその記述がある。すなわち、尊氏が南朝側に敗れて西下した際、兵庫から防長に尊氏を運んだのは大内長弘と厚東武実が提供した軍船であった。武家方はその後、九州で再起し東に上り、宮方を打ち破って京都に入る。ここで新たな天皇を立てたから、後醍醐天皇の南朝、武家方の北朝という二つの朝廷が並び立つ状況となった。

防長の大内家と厚東家は先に武家方として貢献した功績により、それぞれ周防と長門の守護職に任じられる。一見すると、大内家の周防国支配はここに始まり、すんなりとこのまま進んだかのように見えるが、実際には違う。このとき、周防守護職に任じられた大内長弘は、惣領家ではなく、分家・鷲頭家の当主だったからだ。

惣領家と重弘、長弘

系図

大内惣領家の家督は盛房ののち、弘盛 ⇒ 満盛 ⇒ 弘成 ⇒ 弘貞 ⇒ 弘家と続き、弘家の跡は重弘が継いだ。重弘の子息は弘幸だったが、当時一族内で力を持っていたのは弘幸よりも重弘の弟・長弘のほうだった。つまり、弘幸の叔父である。この時、分家・鷲頭家は跡継ぎに恵まれず断絶しており、長弘はその鷲頭家の家督を継いだ。

鎌倉時代、多々良氏の一族は、それぞれが己の根拠地と勢力をもっていた。ちょうど、惣領制が崩れていく時代の流れの中にあり、惣領としての大内介が圧倒的統率力で一族をまとめていたわけではなかった。大内介は周防在庁官人のトップとはいえ、多々良氏同族どうしが惣領の下で主従関係を結んではおらず、それぞれが実力により、国衙要職を分掌していたのである。

力ある者の発言権が強くなり、誰がリーダーとなるかも力関係によるのは当然のこと。恐らくは、長弘は有能な人物で人望もあったものと思われ、弘幸はそれに敵わなかったのだろう。しかし、長弘が亡くなって子息の弘直が守護職をそっくり継ぎ、いっぽう病を得た弘幸にかわり弘世が父の跡を継ぐと、事情が変わってくる。弘直には長弘ほどのリーダーシップはなく、逆に弘世のほうは極めて有能な人物であったらしい。惣領家の地位と権力をあるべきところに奪い返すこと、それこそが弘世の願いであり、それを成し遂げる実力も十分に備わっていた。

系図の隅っこ

大内弘世には実に多くの子女がいた。ここには聞いたことのある名前しか書いていないが、系図にはほかにも、「某」と記された男子数名と多数の女子が載っている。重要となるのは女子である。政略結婚で思いもかけないところと姻戚関係になっていることがあるから。

系図にある女子は七名。うち、「母」もしくは「妻」と記されている者の嫁ぎ先は以下の通りである。
 少弐冬資、大友親世、山名晴政、宗像大宮司氏重、厳島神主
※鷲頭家の者でこの図以下にも後継者が記されているのは、弘員と盛継
※大内弘幸の弟、鷲頭長弘の息子はともに「弘直」で、同名であることに注意。

宮方と大内氏

領国支配の確立のためには領内の統一が、領内の統一のためには一族の団結が必要となる。しかし、大内家の一族はけっして一枚岩ではなく、惣領家の地位を巡って争っており、それは大内・鷲頭両家の対立に集約された。

弘世が一族間の権力闘争に勝利するための戦いに乗り出した時、国内は南北朝対立の混乱期だった。倒すべき相手である弘直が、武家方の北朝勢力から周防守護に任命されていたことから、弘世は北朝と対立する南朝勢力に与力することを決める。

弘世の心の中まで透視した史料はないから、武家方につくべきか宮方につくべきか、実際のところどちらを望んでいたのかは分からない。だが、単純に、「敵の敵は味方」ということだろう。弘直が武家方だったから、弘世は宮方についたということだ。

武家方が弘直を周防守護にすれば、宮方は弘世を周防守護に任命。同じ周防国に二人の守護が存在することになった。南北両朝は本来共存できない。周防守護も当然、南北二人は相容れないものだ。こうして、弘世と弘直、惣領大内と鷲頭両家の争いは、南北両朝の内乱の中に組み込まれていった。もう少し正確に言うと、いきなり南朝の門を叩いたのではなく、先に、足利直冬一派に属していたという経緯がある。

足利直冬は尊氏の長男だが、父親に認められず叔父である直義の養子となった人物。世にいう「観応の擾乱」にともない、西国にて「第三の勢力」を形成していた。弘世は直冬が南朝にくだると同時に、ともに南朝方に転向したのだった。

ミルイメージ画像
『足利直冬』

読んだ本:瀬野精一郎『足利直冬』吉川弘文館。ターゲットに関心がなかったため、特に感想もない。

続きを見る

鷲頭家との内訌

大内惣領家の地盤は、在庁官人として活躍していた歴史から分かる通り、国衙領があった現在の防府市辺り。いっぽうの鷲頭家はかつて、大内盛房の三男・盛保が都濃郡鷲頭庄の地頭を拝領し、鷲頭姓を名乗った分家である。琳聖太子のところで出てきたように、都濃郡鷲頭庄は北辰降臨の場所、現在の下松あたりとなる。

全面対決に際して、双方は準備を進める。大内側は鷲頭家との対戦に先立ち、配下の陶弘政を陶の地から富田の地に移す。

五郎通常イメージ画像
五郎

ご先祖様……✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

いっぽうの鷲頭側は来る弘世の侵攻に備え、同じく配下の内藤氏に城を築かせ、守りを固めた。

弘世は鷲頭家の本拠・都濃郡鷲頭庄に侵攻し、白坂山において合戦が始まった。弘直の弟・鷲頭貞弘や内藤藤時らが応戦し、高鹿垣、新屋河内真尾と戦いは続き、藤時の弟・内藤盛清は命を落とした(白坂山・高鹿垣の戦い)。

鷲頭家は弘世との争いに敗れ、弘世は惣領として一族の中での地位を固めていくことになる。そして、こののち、この惣領の地位は弘世の直系によって世襲されていく。

ミル通常イメージ画像
ミル

鷲頭家はここで滅亡しちゃったわけじゃないよ。もっと後になるけど、また出てくる機会があるからね。

厚東氏との戦い

鷲頭氏を倒し、一族を統率する地位に就き、名実ともに周防国の支配者となった弘世は長門国への進出を開始する。自らの勢力基盤を広めるための戦いへと移っていったのだ。

大内長弘とともに、武家方を支持していた厚東氏は長門守護に就いていた。厚東氏は防長の三大名族に数えられる家柄で、その先祖は古代史に出てくる物部守屋だと言われている。その子孫が今の宇部市付近に移り、在地勢力となった。

防長三名族(始祖&はじまりの地)

大内氏:百済聖明王王子・琳聖、大内県

厚東氏:物部大連守屋子息・武忠、厚東郡

豊田氏:藤原北家法興院摂政兼家嫡男・関白正二位道隆、豊浦郡

厚東武実は大内長弘と同時期、長門守護に任命され、以後最後の当主・義武に至るまでその地位を世襲した。防長平定を目指す弘世にとって、厚東氏の勢力は邪魔。都合のよいことに、宮方についている限り、彼らとは敵同士だから、戦う理由もある。

厚東氏では先に、武実が京都で客死。跡を継いだ武村も、南朝側・弘世配下の陶、杉らの軍勢に敗れ、長府・四王司山城にて自刃、城も陥落した。弘世の加入もあったためかと思うが、南朝側の勢いは激しく、長門守護職を継いだ厚東義武は前途多難であった。そんな中で、先々代・武村の弟・武藤が南朝に寝返るなど、一族内部も混乱。

この機に乗じて、弘世は着実に支配を広げ、延文三(1358)年、ついに厚東氏の本拠地・霜降城を陥落させる。長府に逃れた厚東義武は、長門を離れ豊前国へと落ちて行った。

厚東氏の抵抗はなおも続き、一時は長府に戻って失地回復を目指したが、ついに成功することはなかった。同時期に、豊浦の豊田氏も弘世に降伏。南朝は弘世を長門守護に補任し、防長二国が大内家の支配下に入った。

厚東義武はその後も生き延び、大内氏と和解して霜降城へ戻ったという。だが、それ以後史料から消えてしまい、滅亡したとされている。

北朝帰順

興味深いのはその後の弘世の動きである。防長二ヶ国をしっかり押さえて意気揚々としている大内家の存在は、宮方にとっては心強いが、敵対する武家方からみたら大事件だ。元々は大内(長弘)・厚東の両氏ともどもが味方で、防長の地は安泰だったはず。一挙に勢力圏が塗り変わってしまった。

武家方は弘世に対して働きかけをする。帰順したならば現在お持ちの周防長門領国の守護職はそのまま安堵してあげますよ、という破格の条件を提示したと思われる。弘世はその申し出を受け入れ、武家方に寝返ってしまった。楠木正成だ、新田義貞だ……と南朝びいきのエピソードに夢中になる面々は、大内弘世の変わり身の早さに幻滅するかもしれない。

最初は「宮方」の武将として出発した彼が、いともたやすく「武家方」に鞍替えするところ、当事者たちはさぞびっくりし、恨んだり喜んだりしたことだろう。ただ、この時代はそういう時代だったのであり、「昨日は宮方、今日は武家方」という事象が普通にあった。だから、弘世の行動が特殊というよりは、楠木、新田らの忠誠心物語(?)のほうが感動的、かつ伝説的すぎるだけだ。

弘世の転向は貞治二年(1363)のこととされている。

この時期は、様々な文書で、南北それぞれの元号が使われていた。武家方は北朝元号を、宮方は南朝元号を用いて記録したのである。大内家に関わる現存文書でも南北両方の元号が使い分けられている。しかし、近藤清石先生によれば、大内家関連文書で北朝年号が使い始められた年代にはばらつきがあり、弘世の転向時期を元号から読み解くことは難しいらしい。

諸説あるが、正平九年(1354)から十八年(1363)のあいだのいずれかの年である。歴史書によっては「この頃」という表現を使っており、断定を避けている。

おおよその目安としては、北朝側が弘世に位階を授けた記録があるので、その年にはすでに帰順していたことが明らである(従五位上昇進、貞治4年12月20日付「後光厳天皇口宣案」)。

翌年、早速上洛した弘世が新渡の唐物と多額の金銭を都にばらまいたという『太平記』の逸話は、とても有名である。

大国の基盤

大内家の特色とは何だろう? 色々あって難しいが、ひとことで言い表すならば、「大きくて強い国」である、ということ。大きくて強い、つまりは領土が広くて国力が強大なのだ。なにゆえにこんなミラクルな国ができたのか? と考えてみると、朝鮮との友好関係――というよりも対外貿易の成功によって財をなしたこと、がもっとも大きいのではないだろうか。

歴代の当主が皆、優秀であったという点も重要ではある。でも、巨大な軍事力も、西の京・山口文化サロンの繁栄も、それを支えることができた財力があったればこそだ。すべてを金銭に帰結させるのはつまらない。でも、突き詰めればここなんでは? 先の『太平記』の逸話から分るように、弘世の代にはすでに、財力の基盤ができていたと思われる。

博多と赤間関

当時国内有数の貿易港だったのが、博多。大内家が博多商人と結び海外貿易で莫大な利益を得ていたことは教科書にも書いてある。南北朝の対立が続いていた頃、九州は南朝勢力の支配下にあり、特に博多を擁する大宰府は南朝征西府の根拠地だった。さすがにこの時点では、大内家の支配下にあったということはできない。

もう一つ、博多と同じく、重要な貿易港と言えるのが赤間関、現在の下関だ。こちらは長門国にある。そうは言っても、元々長門は厚東氏の地盤だった。弘世の長門進出が始まったのが、正平十年(1355)。二年後の同十二年には、住吉神社に凶徒退治願文が奉納されていることから、この時点ですでに、長門瀬戸内沿海部を掌握していたとわかるそうだ。

赤間関が海外通交における重要拠点であることは、地図を見てもわかる。鎌倉時代、元の襲来に備え、九州に異国警固番役が置かれた時、長門国にも長門警固番役なるものが置かれた。九州(博多湾)同様、関門海峡も異国が攻め寄せてくる恐れがある要警戒地域だったということだ。平和な時代なら来航するのは敵国の軍隊ではなく、友好国の外交船や貿易船となる。

赤間関は外国にも通じる、瀬戸内海の西の玄関口みたいなところ。ここを押さえることで、軍事的、経済的にどれほど有利な立場に立てるか。説明は不要だろう。

首府・山口の始まり

大内氏の根拠地は「大内」だった。鎌倉時代末期の時点で、すでに周防国内に多くの領地をもっていたことは史料によって確認されている。在庁官人であったため、活動拠点は国府、つまり防府中心であったろう。そこから山口に拠点を移したのは、大内弘世の時代だとされている。

弘世は厚東氏との戦闘前に、拠点を大内から山口に移したと言われている。「大内氏関連町並遺跡」の発掘調査が始められたのは平成二年のことで、これまでに様々なことが明らかになった。考古学的成果から、山口での町づくりが開始されたのはだいたい 14 世紀頃ということが分っている。いわゆる「山口大内氏館」は義弘代にはすでに存在しており、その起源は父弘世の頃まで遡るとみられるのだ。

香山公園・大内弘世像

山口はやがて西の京といわれる繁栄した都市に成長していくが、すべては弘世の山口移転から始まるのである。弘世が山口を京の都に似た町づくりにしようと考えた、というエピソードがあれこれ残っている。とはいえ、完全に都そっくりな町づくりとまでも言えないようである。

例えば、京の都は碁盤の目のような町並みになっていることで有名だが、山口はそうではない。人工的な碁盤目状の街並みというより、一之坂川にそった、地形に合わせた町づくりがなされたとか。完全なコピーではなく、地形に合わせた都市計画も行っていたあたり、そこがまたいい(とはいえ、基本は碁盤目のように、わかりやすい区画整理がなされていたことは明らか。それは現在の山口市内の『道』がわかりやすく、観光資源が見付けやすいことから明白)。

その後の弘世

石見平定

都で華々しいデビューを飾った弘世は、周防長門に加えて、石見守護の地位を得た。石見はかつて南朝とともに並んで一大勢力を形成し、のちにはそっくり南朝側となった足利直冬の拠点となったこともある地域。なおも政情不安定であったから、弘世の力で統一して欲しいという願いが武家方にはあったのだろう。

石見の豪族益田氏は一足先に弘世側に与していたが、弘世に協力して石見で連戦し、短期間のうちにその平定を成し遂げる。

さらに、石見を足掛かりに安芸にも進出。幕府の命を受け、横領行為を行っていた豪族らを制圧して回った。

九州の火種

弘世は鷲頭家と厚東氏を鮮やかな手並みで打ち破ったが、連戦連勝の生涯というわけでもなかった。当時、九州では南朝勢力が優勢。征西宮懐良親王を奉じる菊池氏のような猛将相手に、少弐、大友といった幕府側はどうにも旗色が悪かった。北朝に鞍替えした以上、猛威を振るう九州南朝勢力を敵にしなくてはならない。

幕府は九州探題として渋川氏を派遣したが、九州に入ることすらままならぬ有り様。武家方に与した大内家もともに敗北し、一同は長門・赤間関まで逃げ帰った。

続いて、今川了俊が新たな探題として派遣されてくる。弘世は着任当初こそ、息子の義弘とともに了俊を助けたものの、その後は手を引き、九州よりも石見国を拠点に、安芸国への進出を試みる。このような態度が、非協力的と見なされ、石見守護職は剥奪されてしまった。それでも弘世が了俊に協力することはなく、父よりもむしろ、積極的に了俊を助けた義弘が、やがて幕府の九州平定を完了させることになる。

ミル通常イメージ画像
ミル

九州平定への道のりについては、続く義弘様のお話をお読みください。

畠山義豊イメージ画像
次郎

『お読みください』ってもう何年も続き待ってるんだけど? いったいどんだけ時間かかってるのよ?

弘世の妻

転法輪三条家の荘園は長門にあった。深川荘、日置荘、大津荘などがそれ。長門が正式に権力地盤に組み入れられたのち、大内家と三条家の交流が始まった。

皇族や名門貴族、寺社の荘園は全国各地に散らばっており、京や本拠地から遠いこともあった。領主たちは在地勢力の者を荘官に任命したり、配下の者を派遣したりして荘園の経営にあたらねばならなかった。

長門の三条家荘園にも、京から管理の者が下向してきて、大内家との間に友好関係を築いていったようだ。守護である大内家と良好な関係を保っておくことで、三条家の荘園経営は安泰だった。大内家側にも、名門一族に便宜をはかっておけば、朝廷とやりとりする際、有利に事が運ぶよう手助けしてもらえるというメリットがある。両家の関係はたいへん友好的だったらしく、この後も歴代当主と深くかかわった人物が多数出てくる。

長い友好関係の始まりも弘世期のことで、このときの当主は公忠だった。弘世の妻は三条家出身の女性である。弘世の子沢山は系図のところで触れたが、京出身の夫人は、盛見の母であるらしい。

新介涙イメージ画像
新介

曾祖父様に半分京の血が流れているとすると……祖父様には四分の一……父上には……。

法泉寺さまイメージ画像
法泉寺さま

……。

新介涙イメージ画像
新介

えーーと……。

畠山義豊イメージ画像
次郎

いつまで計算してんだか。血筋とか生まれとか、そんなんどーだっていーのよ♪

転法輪三条家

三条家は藤原北家閑院流の嫡流というバリバリの公家。

四代公房の時、兄弟の公宣が姉小路家、公氏が正親町家に分れたので、区別して嫡流を「転法輪」三条家と呼ぶようになった。

おまけ・惣領制と相続争い

鎌倉時代の武士は「惣領制」だったと、教科書にもある。惣領を中心に、家の子、郎党と一族皆が、将軍に尽くしていた。

「惣領を中心に」というところがポイント。常に一族皆が惣領に従って、同一の行動をとる。ひとたび主に叛くとなれば、一族全員が叛旗を翻すことになるから、かなりの兵力が動員される大がかりな合戦に発展する。造反は成功するケースのほうが稀だから、返り討ちに遭って一族全滅の大惨事となってしまう。足並みを揃えない者もたまにいて、主のお情け、もしくは事前にこっそり告発した功績などで、赦されることもあるが。そのくらい、一族の団結は強かったとされている。

この頃のもう一つの特色として、分割相続が挙げられる。土地(というよりは地頭『職』というべきだが)の相続は分割して行われることが普通だった。代替わりのたびに、先祖代々の土地を大勢で分割するから、新たな土地を手にしない限り、代を追うごとにもらえる面積が狭くなっていく。ゆえに、わずかな土地しか持つことができない御家人たちは次第に困窮していった。

これじゃいかんだろう、というわけで、だんだんと「惣領による単独相続」に変わっていく。分割相続が行われていた時なら、土地を分けてもらえていた惣領以外の人々(庶子)は、何ももらえなくなる。

すべてもらえるか。何一つもらえないか。――――惣領の地位というものは以前にもまして魅力的に思える。というよりも、惣領になって土地や様々な権力を手に入れることができるか否かは死活問題となってくる。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

俺、どこかで言ったはずだよな? 兄上だけが何でももらえるのはおかしい、って。

ミル涙イメージ画像
ミル

だからお願い、ケンカはやめて! 実の兄弟じゃないの!

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

ちょっとばかり俺より先に生まれただけじゃないか! 俺のほうがずっと優秀なのに……。こうなりゃ腕尽くで俺が跡継になってやる!!

ミル涙イメージ画像
ミル

このような争いが、全国各地で起っていました……。(五郎のお兄さんは早くに亡くなったので揉め事にはなりませんでしたが)

ただし、長男、もしくは正妻の生んだ子どもが必ず家督を継ぐ、というような明確なルールはなかった。年上か、母親が正妻か否かで継承順位が上がることもない。それでも何となく、なにごともなければ正妻の長子が継ぐのが順当みたいなイメージはある。

だから無能な長男や、出来損ないだらけの正妻の息子たちといったときに、優秀な弟や庶子らの激しい突き上げが起こった。そこから血みどろの果たし合いに突入していくことも。こうなると、家臣たちもそれぞれが推しの主候補について分裂。家中(国中)が大騒ぎ。このようなそこら中が火種だらけの時代、大内家と鷲頭家との争いもごく普通のことだった。

惣領家の直系・弘幸ではなく、叔父とされる長弘のほうが惣領のように振る舞っていたのは、それなり有能で勢力基盤もあったゆえにだろう。跡を継いだ息子に父ほどのリーダーシップがなければ、当然ほかの者に追い落とされる。一切れのパイを巡る争いは、その後も絶えることがなく、世代交代のたびに紛争は繰り返された。

凄まじいまでの権力争いを勝ち抜いてきただけあって、歴代当主は皆優秀。最後の代だけ何の奪い合いもなかったことは奇跡的だが、単に競争相手がいなかったのである(政弘代と義興代も家督交替時の身内の流血はなかったが、当主となってから造反者が出ている。そんなこと言ったら、最後の代はもっともスゴイ造反者が出て命まで落としているが……)。

ミル通常イメージ画像
ミル

でもさ、実際には弟たちにもちょっとは取り分を遺してくれるしだし。分家して新たな家を作れたりだし。ま、いずれにしても惣領以外は、家来になっちゃうんだから、誰しも頂点を目指すよね。

分割相続から単独相続への移行は一筋縄ではいかなかったし、惣領制が崩壊していく過程も複雑で、ともにあれこれの地域差があったり、家毎に違いもあった。ゆえに、おまけ程度で説明することは不可能。やがていつの日か詳細がまとまるのをお待ちください。

参照:『大内氏史研究』御薗生翁甫 マツノ書店 平成13年復刻、『中世日朝関係と大内氏』須田牧子 東京大学出版会、『大内氏の領国支配と宗教』平瀬直樹 塙書房、『室町戦国日本の覇者・大内氏の文化をさぐる』大内氏歴史分家研究会、伊藤幸司 勉誠出版 2019年、『増補大内氏實録』近藤清石 マツノ書店
おまけ:日本史講義と受験参考書から。

ミル涙イメージ画像
ミル

これらの本を読んだことは確かなんだけど、どこのページに何が書いてあったか忘れた……。とりあえず、典拠不明でごめんなさい。

附録・『大内氏実録』記事まとめ

本文中で触れなかった(まだリサーチ不足)ところで、今後組み込んでいくべきテーマは多数。そこで、根本史料の『実録』中の記事で抜け落ちてしまったことをこちらにメモしておく。覚書のようなもので、何のまとまりもないけれど、なかには重要なことが現段階では抜けているケースもあるので、補足の意味も兼ねている。
※基本は原文イマドキ語変換です。なお、いくつかは本文と重複している箇所もあり、削除予定です。

系図に載る官職の流れ:正平四年四月十日、同十二年七月十二日、同十八年八月十日の文書に散位、また貞治三年二月十七日の文書に大内介とある。
系図には修理大夫の名があるが、ほかに所見がない。

観応元年庚寅(南朝正平五年)冬十月一日、一族但馬権守弘員が内藤徳益丸と高越後守師泰の代官山内彦二郎入道を攻めてこれを斬り、守護代・乙面左近将監を敗走させた。
正平七年壬辰(北朝文和元年)春二月十九日、都濃郡鷲頭荘白坂山で、北軍散位貞弘、内藤肥後彦太郎藤時(前述の徳益丸である)等と戦った。二月二十日また戦う。閏二月十七日高志垣で戦う。二月十九日熊毛郡新屋河内真尾で戦い、藤時の弟内藤新三郎盛清を斬った。三月廿七日、新屋河内真尾で、合戦。三月廿八日、同所で戦う。夏四月九日~廿九日、鷲頭荘白坂山で戦う。秋八月三日、散位貞弘と合戦した。これは本文中の鷲頭氏との内訌の年譜みたいなモノです。年表がきちんとできたら要らなくなりますね。

※これに先立ち南朝に帰順していた。帰順の事は、弘幸の項目で述べることだが、考証すべき文書が皆、弘世のものであるためここで述べる。もともと帰順の年月はいつなのだろうか。長門国豊浦郡忌宮神社に正平四年四月十日、散位弘世とする文書があるので、これより以前のことであるとは思われるが、貞和六年十二月、内藤肥後徳益丸が将軍家に捧げた軍忠言上書によって見ると、いまだ北朝方で南朝に帰順していない。ここに至り帰順は明らかなのに、仁平寺本堂供養日記、また乗福寺所蔵の文書は観応の年号をいている。また貞治二年春は北朝に属していたのに、その年の八月十日の文書ではなお正平十八年と書いている。そういうわけで、年号を以ては南とも北とも定めにくい。本文で帰順の年は、文書からは分からない、と書いていあるところの典拠です。

正平七年三月六日父・弘幸が没した。
正平十一年丙申(北朝延文元年)秋九月廿一日、父・弘幸の牌を高野山成慶院に立てる。

正平七年三月十五日、父・弘幸が没したことから延期していた仁平寺供養会を、この日執り行う(仁平寺本堂供養日記)三月十六日、童舞。
本文でまったく触れていないのですが、仁平寺関係のことは、郷土史にも詳しく載っている重要事項です。

正平十年乙未(北朝文和四年)長門の北軍厚東氏を攻める。
正平十四年己亥(北朝延文四年)冬十二月廿六日、厚東氏の居城豊浦郡四王寺山を攻めて之を落とし、厚東某及び富永又三郎を斬る。
厚東氏についての典拠はコレ

正平十二年丁酉(北朝延文二年)秋七月十三日、長門国一宮住吉神社に朝敵退治の祈願状を納める。
正平十三年戊戌(北朝延文三年)夏六月廿三日、これに先立ち長門国守護職となっていたが、この日長府に入り、一宮(往吉)二宮(忌宮)に参詣した。
これも盛り込み過ぎて混乱するので今のところ無視されていますが、寺社の建立、修築そのたのイベントは大量にあります。

貞治二年癸卯(南朝正平十八年)春、北朝についた。更に周防長門の守護職となる。太平記諸本は皆、貞治三年としている。金勝院本のみ二年とする。貞治三年二月十七日、足利義詮が佐々木彦六郎、また小野弾正左衛門尉に与えた書に、豊前国柳城兇徒退治事、去年十二月十三日合戦之時、自身被疵之由、大内介弘世所注申也とあるので、二年である。今金勝院本に従う。

貞治二冬十二月十三日、豊前国柳城を攻める。
貞治二三年甲辰(南朝正平十九年)春二月、南軍・名和伯耆権守顕長、同小次郎長生、菊池武勝、厚東駿河守等が攻めてきた。弘世は馬岳で迎え撃ったが、敗れて香春岳に退いた。顕長等は追撃して香春を囲んだ。弘世はどうすることもできず、名和長生との円弧を頼り、誓書を贈り、降伏を望んで帰国した。

ついで東上し将軍義詮に拝謁した。敢えて九州の敗状を明らかに言わず、多くの金帛(貨幣と絹織物)を将軍の侍臣にまいない(そでのした)として贈った。そこで、甚だ声誉(よい評判)を得た。この歳、石見守護職となる。

貞治五年丙午(南朝正平二十一年)、剃髪して道階と名乗った。
貞治六月廿日の文書に弘世とあり、九月三日花押のみの文書に「大内弘世入道道階の」と当時の加筆がある。ゆえに剃髪はこの年六月廿日から九月以前の間である。七月に石見に進発しているので、六月の末のことであると思う。

貞治五年秋七月石見に進発し、十三日、青龍寺城を攻めた。
先に、貞治三年九月、国人益田越中守兼見に奉書申沙汰してあった。兼見はその月廿六日に三隅城の向かい椛見嶽に陣をはり、十月五日に大寺に要害を築いてそこに在陣していた。この日になって弘世が軍を出したので、兼見は十六日に有福城を落とし、廿二日福屋の大石城を囲み、廿五日、兵を分けて久佐金木城を攻めて之を取り、廿六日大石城を落とした。こうして石州が平定されたので、弘世は安芸に進入して諸城を降し、貞治七年になって帰国した。
コチラは石見平定の典拠。元はこんなに詳しい。

応安三年庚戌(南朝建徳元年)春三月十一日、先に、丁酉の歳、長府一宮に当国九州凶徒退治事を祈願していたが、早速達所存者、当社於一宮遂修造幷臨時之祭礼、令参詣可精誠との状(かきつけ、ふだ)を納めた。厚東氏等を滅ぼした戦争で忙しく、漸くここにきて社殿造換(つくりかえる改築)の功をなしとげ、本日遷宮式を行って参詣したのである。

応安四年辛亥(南朝建徳二年)、今川貞世が九州探題となり、九月廿四日防府に来る。将軍は弘世に援軍を命じた。よって嫡男・義弘に兵士四千余を預けて貞世に従わせた。
応安四年冬十月七日、貞世は防府を出発して九州に下向した。

永和元年乙卯(南朝天授元年)夏四月十日、氷上山妙見社を修造し遷宮式を行う。
永和元年秋八月十日、防府松崎天満宮の幣殿を建立する。

永和二年丙辰(南朝天授二年)秋閏七月十四日、石見国守護職の事で武家を恨み、この頃南朝に降参するたくらみありと京師に聞えていたのだが、管領細川頼之はこの日、弘世の代官として在京していた者に、大内介周防長門両国守護の事に於ては子細はないことを諭した。

康暦二年庚申(南朝天授六年)、冬十一月十五日死去。吉敷郡御堀村正寿院に葬られた。
正寿院は乗福寺の塔頭である。寛文年間、乗福寺は火災に遭い、正寿院を改めて乗福寺とした。墓は寺内にある。大内殿有名衆、大内殿家中覚書に正寿寺とあり、正寿寺ともいったのだろうか。闢雲寺と闢雲院と二寺がある例とは違うと思う。

法名:正寿院玄峰道階

大内氏が山口に居館を置いたのは弘世に始まる。
系図によれば、始遷吉敷郡山口、此地之繁栄起于此代、山口祇園清水愛宕等建立之、統遷帝都之構様とあり、異本義隆記に、その後防州山口という所に屋形を立られ、築地の数どもあまた出来云々と見える。誰と名を指していないが弘世の時のことと思われ、系図と符合する。故人高橋有文が著書中で、大内氏は御堀村乗福寺から山口天華村大蔵山に城を築いて移り、数世を経て築山に移る、というのは大蔵山古城墟なるを以て、推量しているのだろう。大蔵山は思うに中国治乱記で、「弘世は又将軍家へ参りければ、長門に厚東と豊田と、周防に山口なんど申宮方の大名有て、数年の合戦ありけれは弘世悉く追討せしめ云々」。言延覚書に、「長門国には厚東ならびに豊田殿と申す国人、周防国には山口殿と申す人、其外人体歴歴候づるを次第次第に被任御存分、近年大内様御分国に及びたる儀に候」、と見える山口氏の旧墟だろう。大内氏は城にはいなかった。上掲の異本義隆記に、築地の数どもあまた出来とあるが如くである。さて厚東氏豊田氏のことは、いささか文書等も残り伝わるが、山口氏のことは上の二書の外には所見がない。
菩提寺についての考察がやたら詳しいのは『実録』の特徴の一つかも。ただし、明治時代と今とではさらに景観がかわっているであろうこと、その後発掘調査でわかったことなどの最新の成果もあろうことなどから、よほどページボリュームがたりない時を除いてあまり立ち入らないところです。

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻二「世家・弘世」より

  • この記事を書いた人
ミルアイコン

ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

あなたの旅を素敵にガイド & プランニングできます

※サイトからはお仕事のご依頼は受け付けておりません※

-人物説明
-