陶武護

すえたけもり
鶴寿丸→三郎(五郎とするものもある)
生没年不詳
中務少輔

弘護の嫡男。大内義興の幼馴染にして、最愛の友。知勇兼備の美男。謀殺された父・弘護の仇を討つためにその生涯を捧げた。やがて、主であり、友である義興や、実の弟・興明と争うことに。紀伊国に渡り、僧侶になったといわれる。陶弘護の三人息子のうち、嫡男と次男は系図上「早逝」したことになっている。そもそも、大内氏じたいが滅亡の憂き目に遭った家なので、きちんとした形で系図が伝えられて来なかったため、歴史学の先生方も頭を悩ませておられたようだ。それでも、不完全な史料を丹念に調べ上げて来られた結果、弘護の息子三人が実在したことは確認が取れている。

陶弘護と三人の子ら

明らかになった系図の空白

残念ながら、どのような経緯で、弘護の遺児のうちが二人とも早死にし、本来ならば家督相続からは一番縁遠かったはずの興房が当主となったのかは分からない。当然のことながら、現代のように医療の発達していなかった時代、「早死」も珍しいことではなかっただろう。
だが、現状、当時の公家日記や寺社日記、また、書状といった一次史料から、以下のことが判明しており、それによって、歴史学者の先生方からほぼ信頼に足ると思われる推論が導き出されている。

    一、嫡男の武護は家督を継いだ後、いったん出奔した
    仁、姿を消した兄に代わって、弟の興明が一定期間当主を務めた
    三、武護はその後帰国し、騒乱を起こしたため、当主の義興によって討伐されたらしい

略年譜

文明十四(1482)年、父・弘護の死によって、家督を継ぐ。この時、既に元服済みで、推定十二、三歳(播磨『山口県の歴史と文化』、8ページ)

長享二年(1488)年「頃」、当主としての活動を始めていた。(証左は『大内家壁紙』に、同年の「陶中務少輔」宛文書が存在すること。『大内氏実録』142ページ)

延徳二年(1490)、家督保持者・新当主として活動していたことが確認できる。十月八日付で、富田保内下上村武井、神上神社宮の坊に、上村内井谷稲名伍石の土地を支給した「宛行状」が残されているのがその証拠であり、この時すでに、官位をもらっていたことも分かる。父の生前に元服を終えていたことから推理して、官位を得たのは十七、八歳頃(この項目、播磨上掲書、9ページ)。

延徳三年(1491)、足利義材の六角討伐に従軍するため主・政弘が上洛。
※ここが、リサーチ不足でよく分からない。藤井崇先生によれば、「政弘には健康面の不安があったのであろうか、自身は上洛せず、名代として息子の新介義興を派遣することとした」とあるからだ(『大内義興』37ページ)。ほかにも、上洛するつもりだったが、先遣隊だけで親征そのものが終わってしまったので、本人は行かなかった、名代を派遣したとの意見もあったと記憶している(出典調査中。暫くお待ちくださいませ)

延徳四年(1492)七月二日、前年から将軍親征に従軍していた大内義興に従って、武護も在京していたが、この日、突然「出家遁世」して、摂津天王寺に入り、「宗景」と称した(『晴富宿祢記』※公家日記。武護のこの事件について記した「史料」は他にも何点かある)。
※武護遁世の「原因は不明」とされているが、これについては先生方の「推論」があり、後に詳述する。

明応四年二月十三日、出家・遁世していた武護が周防に帰国。この日、家督を継いでいた弟・興明と合戦におよび、興明を殺害した。

明応四年二月二十三日、陶兄弟の争いと、興明の死から十日後、主である大内家は、武護の追討を命じた。これについては、義興が記した「追討状」が現存しており、先生方の間ではこれが「典拠」とされている。
※この書状については、原文の活字化されたものがある。後日掲載する。

なお、その後武護は高野山に逃れたとする意見がある(『晴富宿祢記』「宗景僧即時没落赴高野云々」)。
いっぽうで、武護は「山口の姫山で討伐された」という記述もあり(※ここメモに出典書き洩らしたのであとで補充します※)、また、義興が、陶武護が騒ぎを起こしたものの、現在は討伐完了して平穏です、のような書状を書き送っており、これも武護が討伐されたことを示す有力な証拠品です(※この書状も蔵書にあるので、後日載せます)

というようなことで、武護は、父・弘護の後を継いで、名門陶家の嫡男として、何不自由ない将来が約束されていたのである。にもかかわらず、現存の史料などからは先生方もこれ以上確定できない「原因不明」の突然の出奔をし、しかもその後、これまた突然に帰国して実の弟と合戦におよび、弟を倒す、という不可解、かつ、どう考えても褒められたものではない行為(弟殺し)を行っている。
これについては、「推測」の域を出ることは現状不可能であり、逆に言えば、いくらでも浪漫を膨らませることが可能。とは言え、マニアが思い付きでやっても何の説得力もないから、つぎのページでは、先生方のご意見を紹介しておく。

兄弟間の争い

現在分かっている事実により、恐らくは武護が起こした「騒ぎ」というのは、兄弟間による家督の争いであろうというのが通説。それによって、敗れた興明は死に、勝利した武護もまた、義興に討伐されてしまったというわけだ。
この兄弟間の争いには、内藤、杉といった大内家の重臣が絡んでいたともいわれ、むしろ、若い陶家の遺児たちよりも、老練なこれらの重臣らの謀であったとも。
なぜ、ここに内藤らが出てくるかと言えば、政弘が病にかかり、若い義興が跡を継いだ時、重臣の内藤弘矩親子は「陶武護と共謀して造反をした」咎によって、これまた義興に討伐されているからだ。こちらは、史実的に確証がとれているようだが、陶武護と共謀して云々に関しては明らかではない模様。
単に濡れ衣を着せられたのかもしれないし、本当にそのような企てがあったのかもしれないし、それこそ、本人たちに聞いてみる以外はないであろう。ただ、当主交代のどさくさにまぎれて起こった出来事であり、用意周到にこの機を狙って謀られたことであったのか、あるいは、若い当主の治世が始まるにあたって、年寄り風を吹かせて邪魔になりそうな重鎮には消えておいてもらったほうが都合がよかったのかなどは、想像の域を出ないからである。
好ましくない出来事は、敢えて記録に残さない、ということは現代でもある。重臣たちは反乱を企てて、新たなる当主はそれらを颯爽と討伐した。名家の遺児二人は不幸にも「早死」し、残された弟・興房の時代となったが、彼がまた、歴史に名高い忠義の家臣であった。何とも麗しい物語である。
聞こえが悪いからと覆い隠された記録のせいで、後世の我々は歴史の空白を推測せねばならなくなり、歴史家の先生方のご苦労が増えたのであった。
ともあれ、それすらもあくまでも「推測」。タイムマシンでもなければ、本当のところは分からないであろう。紙に残された記録すら、実証が必要である。歴史学とはあまりに煩雑な学問である。

武護という人物の謎

いまのところ整理できたのは、以下のお二人の先生方のご意見だけであり、ほかにもあるのかすら分からないが、見かけたら今後リライトしていきたい。

藤井崇先生の推論

藤井先生は、大内義興様についてまとめた労作『大内義興』を書かれておられるが、その中で、この「武護出奔」についても触れておられる。出奔と、その後の経緯紹介については、同じ史料を典拠とされておられるので、ほぼ播磨先生と同じであるから割愛する。
目を奪われたのは、以下の部分である。

武護は父弘護の年齢からして、当時二十歳未満と思われる。このとき十六歳の義興からすれば、武護は数歳年上のよい遊び相手であったと思われる。案外、武護の出奔は義興との小さい諍いが原因であったかもしれない。出家も若者らしい短慮によるものではなかろうか。
『大内義興』44ページ

先生のこのご意見には諸手を挙げて賛同する。いかにも、新進気鋭な若手研究家らしい、今風な分析であって、たいへんに好感が持てる(エラそうにお許しください)。

あれもこれも取り入れ、変な裏の事情を考えていくと、極めて単純なことが、とんでもない腹黒い陰謀説に膨らんでしまうが、それはそれで貴重であるとして、見方を変えれば、事実は意外にどうでもいい単純な事である可能性もまた大なのではないか、思うのである。

さて、同じく、藤井先生は、武護の帰国と、興明との争いについても「武護には家督を奪われたという被害者意識でもあったのであろうか」(上掲書45ページ)と、さらりと書いておられる。

これもまったくもって、同感である。「家督」を巡る骨肉の争いなど、古来より枚挙にいとまがないのであって、「若者らしい短慮」で出奔してしまった武護様も、弟に家督を奪われてしまったとなれば、考えはかわるだろう。そもそも、そういう理由の遁世であれば、頭を冷やした後、帰国するであろうことも、当然の結果である。

播磨貞夫先生の「推論」

さて、引き続き、陶氏研究の重鎮・播磨貞夫先生の「推論」を紹介する。

播磨先生は、武護の弟・興明の存在を世に知らしめたお方であり、それについては当サイト興明の項目でお書きする。

先生のご説には、文字通りの陰謀説が関わる。上で藤井先生のご説を喜んだ管理人にとっては耳の痛い内容であるが、どちらの先生のご説もそれぞれに立派であり、どちらをとるか、あるいは、どちらともなるほどと思うか、または、第三の説を唱えるか、すべては歴史愛好家の自由であると思う。

もしも、先生方のご説を裏付ける、決定的な史料が今後世に出ることがあれば、勿論、それが正統なものとなっていくのであろう。あるいは、それこそ、第三の説についての史料が出てくる可能性とて否定できないのである。

しかし、播磨先生の長年のご研究の中でも、今のところ、そのような史料はでていないのであるから、悲しいことに、それらを見つけることは、かなり絶望的なのではないであろうか。奇跡が起こることを切望する次第である。

先生は、武護の奇怪な出奔劇の裏側に、内藤弘矩の存在を指摘しておられる。

大内義興様が実質上、家督を継いで間もなくの頃、内藤弘矩・弘和親子が造反の罪で誅殺されている。

これについては、播磨先生以前の先生方の研究だと、内藤家に造反の動きがあると、武護様が讒言したため、それを信じた義興様が討伐に動いた、とされていた。

しかしながら、播磨先生はこれらの定説を否定した。

つまり、内藤弘矩による造反は、事実、そのような企てがあったのであり、武護は、その内藤弘矩と内通していた。仲間である内藤を讒言などするはずはないのである。

内藤弘矩は、主・政弘様と同世代であり、長門守護代を務める名門として、大内家政庁の重鎮ともいうべき人物である。さらに、娘を、杉家、吉見家に嫁がせるなどして、大内家内部の重臣、さらに吉見家のような有力国人などとも太いパイプをもっていた。

その内藤が、大内家一の名門である陶家と結べば鬼に金棒である。とは言え、陶家では弘護様が亡くなった後、子らはまだ幼く、武護にしても、大それた陰謀を企てるにしては経験値が足りない。

この陰謀とやら、武護が首謀者というよりも、内藤がボスである、という先生の推論はここから来ている。だとすれば、内藤側から武護に声をかけたのか、あるいは、武護様が思い付きで持ち掛けた話に内藤が乗っかってリーダーとなったのか、それについては言及されておられなかったが、創作とはいえ駄文作者・伊東愛の想像では、武護には、父・弘護の死に関して、大内家主の政弘に対し、あれこれの不満があったため、話を持ち掛けたのは、武護ということになっている。

どの道、ここは明確な史料がないので、誰がどう考えようと「推論」にしかならない。

さて、ここまで大掛かりな陰謀は、主・大内家転覆のためであったのか、ほかに何らかの意義があったのか、それは分からない。しかし、事を起こすならば、政弘が病に倒れ、まだ経験が浅い義興が、その政務を代行していた頃。裏を返せば、政弘は自身では何もできないほどの重態だったといえるが、その時をおいてはなかったはずだ。

しかし、彼らの陰謀は事前に大内家に知られることになってしまい、失敗に終わった。

播磨先生は、計画が発覚したのは、武護の「軽挙」のせいであったのだと分析する。どういう形で漏れたのかまでは分からないし、そもそも「推測」ではあるが、大それた企てを知られてしまった。それで、身の危険を感じた武護様は出奔し身を隠すほかなかった。

>はっきりとそれと分かる形で明るみに出たのなら、その場で、武護には追討令が出るし、内藤家すら無事にすむとは思えない。なので、ちょっとした噂話ていどのことに過剰に反応したのであろう。

そして、後に武護が帰国し、興明を殺害したころ、この時は、上述のように、政弘の病が悪化し、義興が政務を執っていたときだから、陰謀を企てた一味にとっては絶好の機会であったのだ。

かくして、武護は邪魔な弟を排除し、内藤らとともに陰謀を実行に移そうとしたが、それが未遂に終わったことについては、数々の史料にもあきらかだし、『大内氏実録』にも明記のとおりである。

以上、播磨先生のご説についてざっくりまとめてみた。

敢えて引用の形はとらなかったし、こちらの意味の取違もあるやもしれないが、大筋は間違っていないと思う。

播磨先生には、ご自分でその存在を明らかにした、弘護の次男・興明に対する深い愛を感じる。いっぽうで、武護については手厳しい。今後、彼の供養塔も出て来て、先生の手で、さらなる隠された真実が明らかになれば、その評価も変わるかもしれない。そのことを切に願う次第である。

しかしながら、咎人(謀叛人)として、討伐されたとしたら、彼の供養塔などないのかもしれないし、高野山に逃れたのであれば、供養塔もそこにあるのかもしれない。

ただ、興明の供養塔を作った生母・仁保の奥方様にとっては、例え兄弟が相争うことになったとして、実の子が実の子に殺害されたして、そのことで、同じく腹を痛めた息子である武護への思いは、ただの憎しみしかなくなったのであろうか? 母として、同じ息子である武護の霊を何らかの形で弔ったのではないか、そんなことを考えた。その場合、やはり、主の家に対する憚りもあるし、それとは分からないように、こっそりと作っていたかもしれない。そんなものが、どこかにひっそりと残されていたら、そんなことを考えた。

この項目書きかけです
※播磨先生の論文について参照頁記入と、この項目全体について典拠となる史料についての出典記載がまだ未完了です。また播磨先生のところは引用符もまだついていません※

参考文献:播磨定男『山口県の歴史と文化』
藤井崇『大内義興』

Name
この伯父上は出奔した後、出家したとされていて、先代様の書状にも『陶入道』って書かれているよ。
Name
この××入道って表記は史書では頻出だけど、なーーんか魅力が感じられないよね。ま、あーーだこーーだ言って、みんな最後は出家するから、××入道になるんだけどね。
Name
ほっといてくれ。これ以上、俺にかまうな
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ふふっ
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おお、なんか硬派でカッコいい……。でもどうして伯父上は出家なんかを? 出奔してた間は何してたんだろ?
Name
出典不明だけど、宗景さんは討伐されることなく逃げおおせて、高野山に行った、って説もあるよ。誰しも、何となく何もかもが嫌になって逃げ出したくなることってあるよね。でも、良家の子弟がつまらないこと考えたらダメだからね。
『五郎とミルの部屋』的講評:
統率:★5
武勇:★5
知略:★5
政治:★3.5
教養:★2
ルックス:容姿端麗、英姿颯爽
総合:★4
性格:自信過剰(女にもてすぎる、萌え要素だらけの男の行きつく場所)。執着心が強い(どうでも父の仇を討たんとし、そのせいですべての幸せを失った)。ルールに縛られない自由人(将軍権力、当主への畏敬の念などが欠けている。感情の赴くままに動いた)。ミルの親友・伊藤愛の駄作、『秋風清々』(大内義興伝奇巻之一)の主人公。主人公ゆえ、容姿端麗にして、強くて賢いという設定である。
しかし、実際には、何の史料もなく、先生方が、残された書状、寺社日記の類から人物像を「推測」している段階。ただ、それによると、かなり残念な設定とならざるを得ず、泣きの涙である。ただし、何も残されていない=想像の余地があるわけなので、先生方の素晴らしいご研究は、それはそれとして、うちの武護はこれでいいのである。
恐らくは、武将としての、父・弘護の良い所を多分に受け継いだ勇猛果敢な人物であったはずだ。ただし、頭が切れすぎたがゆえに、父の死の真相に辿り着き、その仇を討つことにすべてを捧げた。
そのために、名門陶家の嫡男としての幸せをすべて犠牲にしてしまった。その意味で、とても悲惨な人生であった。

初出:2020年4月18日「周防山口館」陶家猛将伝 改編
「五郎とミルの部屋」転載日:020年9月29日 22:14
最終更新:現在の「投稿日」日時