陶のくにの人々

陶武護

2022-12-08

宗景イメージ画像
宗景法師・俗名陶武護

基本情報

すえたけもり
鶴寿丸 → 三郎(五郎とするものもある)→ 宗景
生没年不詳
中務少輔

陶弘護の嫡男。大内家重臣らの陰謀に巻き込まれ、実の弟・興明と争うことに。紀伊国に渡り、僧侶になったといわれる。陶弘護の三人息子のうち、嫡男と次男は系図上「早逝」したことになっている。そもそも、大内氏じたいが滅亡の憂き目に遭った家なので、きちんとした形で系図が伝えられて来なかったため、歴史学の先生方も頭を悩ませておられたようだ。それでも、不完全な史料を丹念に調べ上げて来られた結果、弘護の息子三人が実在したことは確認が取れている。

陶弘護の遺児たち

系図

陶弘護一家系図イラスト付き

三人の息子

大内氏の重鎮にして、第一の功臣だった陶家の当主・弘護は石見の国人・吉見信頼に殺害され、若くして突然に世を去った。後には幼い三人の息子が残された。やがて父と同じく、大内本家のために生涯を捧げることになる忠臣・興房は弘護の三男だった。興房が有能な人物であったことはのちの歴史から証明されるけれど、幼児だった時点でそうとわかるものではない。「嫡流の長男が家を継ぐべき」というルールがあったわけではないものの、順当に行けば家督を継ぐのは興房の兄たちだったはず。なのになぜ? 

いわゆる「大内氏系図」によれば、興房の兄たちは全員が「早死」した。それゆえに、残された興房に家督が回ってきたのである。残念ながら、どのような経緯で、弘護の遺児のうち二人ともが早死にし、本来ならば家督相続からは一番縁遠かったはずの興房が当主となったのかは分からない。当然のことながら、現代のように医療の発達していなかった時代、「早死」もけっして珍しいことではなかっただろう。

ただし、どうやらこの「早死」は単なる病死や合戦関連死ではなかったらしいという見方がある。それは、当時の公家日記や寺社日記、また、書状といった一次史料から、研究者の先生方が導き出した成果による。残念ながら確たる史料が存在ないため、限りなく真実に近いと思われても推論の域を出ないのが現状ではあるが、先生方の努力により、系図の空白は徐々に埋められつつある。

弘護の遺児たちについて、先生方のお考えのうち、今回の主役・武護に関するものは以下の通り。

一、嫡男の武護は家督を継いだ後、いったん出奔した
二、姿を消した兄に代わって、弟の興明が一定期間当主を務めた
三、武護はその後帰国し、騒乱を起こしたため、当主の義興によって討伐されたらしい

このうち、二については確たる証拠がある。一についても、「家督を継いだこと」については確認できる史料があり、「出奔」したこともほぼ確実ながら(そうでなければ『二』が成り立たない)、その「理由」を説明する史料がない。三については史料が「日記」に書かれた文章や主家の書状等だけであり、謎に包まれている。

名門陶氏の嫡男

弘護の死は突然だったから、後継者を誰になどということは当然、定まっていなかったはず。とはいえ、順当に行けば長男が跡を継ぐことになるので、その地位は嫡男である武護のものである。

家督相続と叔父の後見

文明十四年(1482)、武護は父・弘護の死によって、家督を継いだ。

弘護の急死で陶の家はたいへんなことになった。遺児たちは幼少だったため、叔父・右田弘詮が主・大内政弘から彼らが成長するまで家のことを任される。これらの経緯については、弘詮記事と重複するため、ここでは割愛する(⇒ 関連記事:陶弘詮をご覧くださいませ)。この時、遺児たちの年齢はいくつくらいだったのだろうか?

父の死の翌年、将軍から陶の家に上洛要請(武働き要請)があった。播磨定男先生は確定はできないとしながらも、この時点で武護は元服済みであり、その年齢を「十二、三歳」(参照:播磨定男『山口県の歴史と文化』、8ページ)と推定なさっておられる。だとするならば、父の死の時点で武護は十一、二歳ということになる。

目茶苦茶ビミョーな話にはなるけれど、実際にはもうちょい幼かったのではなかろうか、と思っていた。武護が義興の遊び相手的役割を果たしていたとしたら(後述)、弘護が亡くなった年、義興は五歳くらい(1477生まれ)なので、武護は七、八歳くらいではないかと考えた。そこで、彼が当主としての活動を開始した、とされる年齢を元に逆算してみた。

つまり、室町幕府将軍の判始めが十五歳、それより幼い未成年の将軍だとハンコが効力を持たないから、管領が代わりを務める。ということは、以下に出てくる「当主として」の活動ができるようになった時点では十五歳になっていたとして(そもそも、将軍とただの守護代に同じルールが適用されるのか不明だけど、下は上をならうの不文律からそうかと思う)、それは武護「遵行状」がある文明十八年(1486)なので、この時点で十五歳だったとして逆算すると(数え年)武護の生まれは文明四年(1472)となり、義興よりは五歳年上。父の死の時点では十歳となる。

子どもというのは成長が恐ろしく早いので、五歳も年上のお兄さんだと、遊び相手的にはかなり上の印象。なにゆえにこんな些末なことにこだわるのか上手くお伝えできないけれど、ものすごい重要事項。お父上と死に別れた年齢にしても、八歳と十歳とでは大違い。八歳ではわからないことも、十歳にはわかってしまったりするわけで、この辺りも相当に辛い思いをしたのであろうなと思い、目頭が熱くなる。

つぎに「元服済み」の問題について。これも、何年何月何日に元服した、と書いた史料があるわけではなく、ここらは先生方も素人も含めて想像するしかない世界となる。播磨先生のご本にも書いてあり、ほかの先生方のご本でも至る所でお見かけしたから、もういちいち典拠を挙げることは困難であるけれども、この当時、元服の年齢には相当に幅があって絶対に十五歳で成人して、判始めして、とかそういう決まりはないのである。だから、それこそ「当主としての活動」が確認できる史料から類推していくほかないのであって、この辺りは超有名人ではない人物の宿命ともいえる。

「当主としての活動が確認できる史料」というのは、宛行状だったり、遵行状だったりということになるけれども、それ以外にも、書状だとかあれこれ、ホンモノであろうと断定できるものならばなんでもいい。そこに成人後の名前が書いてあれば、その時点ですでに「元服済み」だった、と確定できるのである。武護の場合、幕府から督促状が届いたけれども、まだ幼すぎてとても軍勢を率いて上洛はできない、となって政弘から叔父・弘詮に、この件についても代行お願い、と書き送った書状から「元服済み」がわかっている。政弘の書状に「三郎はまだ幼すぎるので云々」と書いてあり、この「三郎」というのが、鶴寿丸から武護になったことの「証」なのである。今のところ、これが確認できる最古の史料であるらしい。今後それ以前の何かが出てきて、そこでも「三郎」もしくは「武護」となっていたら、「この時点で既に元服済み」の「この時点」が早まる可能性はある。

と言うような訳で、歴史学というのはこのように、一枚の紙切れ(書状ですので)でやっと、どうやらこの時点では元服済みだったと思われる、というようなことが証明できるという限りなく面倒かつすっきりしない学問なのである。現在我々が、オダノブナガだのトヨトミヒデヨシだのの歴史書を読んで、おおお、こんなことをなさっておられたのか、と感激することができるのは、過去から現在に至るまで、研究者の先生方が地道な作業を積み重ねてこられた結果なのである。我々は何の苦労もせずに、その果実の部分だけを享受して喜んでいるに過ぎない。だから、そのようなご本を読む際にはいちいち、先生方に手を合せなければならないのである。

とはいうものの、オダノブナガとかトヨトミヒデヨシならば、史料は山とあるはずなので、先生方の作業もサクサク進んで、達成感半端ないだろう。問題はそのような史料がきわめて少ない方々についてのご研究であり、陶武護もむろん、そこに入る。現在は、寺社日記や公家日記などを信頼できる史料として愛用する先生方が多いように感じるけれども、そんなところに、○年○月○日、△△様宅、若君御誕生、などと書かれているのは相当身分の高い著名人だけだ。そのた諸々の人々については、「□□家文書」みたいに山ほどの記録を保管している名門以外、調べようがない(陶家はもちろん名門だが、滅亡してしまったから当然、『陶家文書』はない……)。あまり名門とは思えないけれど、著名人ゆえに、生没年がわかっている場合、それらは「亡くなった年月日から推定している」ケースがほとんどである(親切なご本なら、推定理由が明記されている)。

つまり、先の寺社日記、公家日記でも何でもいいが、仮に誕生日を書いてもらえていない人でも、どこかに、何年何月何日に何歳だった、という記述がラッキーにも書かれていたら、そこから逆算して出生年が導き出せる。ほとんどの場合、出生以外に大きなニュースとなるのは亡くなった年。下々の者についての記録が日記類にないことは同じなので、やはりそれらの史料は望み薄だけれど、合戦の記録などからオダノブナガ家臣○○が△△の合戦で戦死□歳、というようなことはかなり大量に載っていると思われ、恐らくはそこから引き算しているのだろう。同様に、墓碑銘(墓あるくらいなら生まれ年も書いてありそうだけど)などからも逆算可能。戦死してない(したけど記録がない)、墓も位牌もない、となると、残念ながら「生没年不詳」以外、もうどうしようもない。

現状、死亡年月日の記録もなく、墓も位牌もない武護は典型的な「生没年不詳」となる。

当主としての活動

播磨先生によれば、武護が「当主としての活動」を開始したと思われるのは、長享二年(1488)「頃」。証左は『大内家壁書』に、同年の「陶中務少輔」宛文書が存在すること。以下のものがそれ。

大内氏家臣連署奉書写(大内氏掟書)
一就京上井所々御用以下、為兵船所被点置之船事、御支配諸人之時、有限日別糧米令下行可乗用之、然上者、船賃同水手賃不可有其沙汰之、前々為此分之处、去年点船御支配之時、諸船舟賃事等申掠歟、如廻船商売船之准拠、 恣依可執賃糧米之由申間、上洛之御勢大略以私故実儀令 乗船云々、以外次第也、所詮背此御法、或及異儀、或有隠船具足等事者、執其船預御支配之仁、任心可受用之由、 御評議一同畢、此旨可令存知之由、所被仰出也、仍執達如件、

長享二年正月廿日
大炊助判弘-
左衛門尉 判 武明
左衛門尉 判 武道
近江守判房行
肥後守判弘矩
 陶中務少輔殿

※『大内家壁書』は『大内氏実録』『群書類従』で全文を確認できるほか、『戦国遺文 大内氏編』、山口県および県内各自治体発行郷土史や諸先生方の論文の中にも多数引用あり。ここでは、『戦国遺文 大内氏編』を拝見していて、通し番号「六六三」の資料となる。

延徳二年(1490)、十月八日付「宛行状」も残されている。富田保内下上村武井、神上神社宮の坊に、上村内井谷稲名伍石の土地を支給したというものであり、この時すでに、官位をもらっていたことも分かる。(播磨上掲書、9ページ)。

陶武護宛行状写 (防長風土注進案神上宮坊)
富田上村内井谷稲吉名伍石地事、為神上宮ノ坊領宛行者也、朝暮勤行可有其沙汰、然者守先例知行不可有相違状如件、
延徳弐年十月十八日
中務少輔武護(花押影)
神上
宮□□家 
(『戦国遺文 大内氏編』、通し番号「七〇二」)

我々が現在目にすることができる史料は、武護がその生涯において発行した数え切れない書類のうちほんのわずかに過ぎない。加えて、そのわずかな史料のうち一番古いものが、武護に関わる最も古い史料であるかなど不明であり、反対に、最も新しいものが最後の発行書類であるかだって不明だ。ゆえに、「当主としての活動時期」をいつからいつまで、と確定することは残念ながら不可能。

ついでに、播磨先生のご本には例として上の「宛行状」だけが載っていたが、必死に探した結果、以下の「遵行状」も見付けたので、面白くもないけれど載せておく。

大内氏家臣連署奉書(杉隆泰家文書)
周防国玖珂郡日積村北方内五拾石地杉九郎次郎弘澄跡事、任今日文明十八六十一 御下文之旨可被打渡下地於杉木工助弘依代之由、所被仰出也、仍執達如件、
文明十八年六月十一日
左衛門尉
三河守(花押)
陶三郎殿
(参照:『戦国遺文 大内氏編』、通し番号「六一〇」)

陶武護遵行状(杉隆泰家文書)
周防国玖珂郡日積村北方内五拾石地杉九郎次郎弘澄跡事、任去十一日 御下文・同日御奉書旨、打渡下地於杉木工助弘依代之、執請取之、可有注進之状如件、
文明十八年六月十六日
多々良武護(花押)
野上平兵衛尉殿

野上護景打渡状 (杉隆泰家文書)
周防国玫珂郡日積村北方内五拾石地事、任去十一日御同日御奉書、今日文明十八六遵行十六遵行等之旨、奉打渡下地……(以下略)
(同上、通し番号「六一二」)

ミルイメージ画像
ミル

この文書は三通一セットになっているもの。命令は上から下へと順番に伝達されていくから、施行状 ⇒ 遵行状 ⇒ 打渡状というような順番になるよ。野上平兵衛尉さん文書(六一一)には武護さまのお名前はないので、省略してる。

さらに、奉書もあったのでおまけ。

陶武護袖判同家臣連署奉書写(萩藩譜録河内山甚右衛門光通)
伊保庄中村内奥安名五石地事、四ヶ村田所給被補御給所之間、右地事不可有御給所役通房資一筆備上覧候、御心得之由候、恐々謹言、
延德三
六月廿五日
温科掃部助
護親 判
由利七郎右衛門尉
護忠 判
安岡和泉守房道判
奈良橋七郎殿
(同上、通し番号「七一四 」)

出家遁世

延徳四年(1492)七月二日、前年から将軍・足利義材の六角討伐親征に従軍していた大内義興に従って、武護も在京していた。ところが、この日、武護は突然「出家遁世」してしまう。

有り難いことに(?)この件については、いわゆる公家日記 & 寺社日記に記載があるお陰で、先生方が史料としてこぞって引用なさっている。しかし、考えてみたらこれらの日記、お公家さんやお坊さんたちが、その日の出来事とともに、巷の噂話的なことまであーだこーだと書き込んでいるフシがあるから、どうして先生方がこのようなものをお好みになるのか、素人にはまったく理解できない世界である。

武護出家遁世についての記事を書き付けていたのは『蔭涼軒日録』および『晴富宿祢記』。むろん、ほかにもあるのかもしれないが、引き合いに出されるのはこの二種類。ありとあらゆる史料を丹念に調査された中で、これらの史料に武護についての記事があることを発見し、紹介してくださったのは播磨先生だったりするわけだから、素人は先生のご本に引用されているそれらの文書を拝見して、そうなのか! でもちろん、かまわない。それでも、自分でもそのなんたらいう日記を見てみたいな、とか何となく思う人はいるかも。

つまり、こんなボロなサイトなんて、論文でもなんでもないから、気にする必要はゼロなんだけど、学術的に何かを書いている人たちは、ほかの研究者の先生が引用されたものを見て、あ、ラッキー! ここに載っているからわざわざ自分で本探さなくていいや、ということをしてはならないことになっている。ゆえに、面倒なこときわまりないが、どこにその本があるかを探し、所蔵されていることがわかった東大図書館なんかに行き、「持ち出し禁止です」と言われ、泣く泣く大量にコピーして戻る。これは別に著作権などの問題ではなくして、引用なさっている先生が、その史料を全文引用しておられるかどうかわからない(その先生がココは重要ではない、と思った部分に、より必要な部分があるかもしれない。どこが『必要な部分』かはその人の研究テーマによって違うからだ)、(あり得ないけど)引用した先生の翻訳、現代語訳などが間違っているかもしれない等々のためなのだそうである。で、もしも、論文を書かなくては……の方(もしくはそうじゃないけど、何となくの方でも)にとって、朗報がある。これら寺社日記等の引用元を見たいと思い、とはいえ、必要なのはわずかに数行(数文字)だから、いちいち国会図書館なんかに行くことはできない(行ったとしても活字本なかったらどないするぜよ?)と思ったらそこらの図書館に行って『山口県史』を見ればいいだけ。

『山口県史 史料編』には、そのような公家日記、寺社日記、歴史書、軍記物……と、ありとあらゆるものから取材して、およそ山口県のだれそれについて調べたいと思ったらココだけでOKって箇所を拾い集めてくださっている。むろん、紙幅の関係ですべての史料を網羅することは不可能。割愛せざるを得なかった部分もあり、編集者の方々はそのことを大いに悔やんでおられる。同じような傾向は山口市発行の『山口市史 史料編 大内文化』にも見られ、およそ大内氏の誰それについて言及されていれば、すべて拾い集める、というようなとてつもなくミラクルな事業を展開なさっておられる。これはほかの自治体でもそうなのか、山口県だけが特別なのかわからないけれども、文字通り県庁、市役所に足を向けては寝られないと思うのである。この場を借りて御礼申し上げます。

で、我らが宗景法師についても、『山口県史 史料編 中世1』から、播磨先生が引用なさっておられた史料を素人自らも確認することができる。それによると、武護は延徳四年(1492)七月二日に出家遁世してしまい、行き先は摂津国天王寺とのこと(『蔭涼軒日録』延德四年七月二日条に「大内被官陶遁世在天王寺云々」とある)。同じことが、『晴富宿祢記』にも書かれているけれど(「防州大内一族陶以前榷介上洛時、在京之内令遁世」)コチラは明応四年三月二十一日条であり、出家遁世したことよりも、むしろその後の事件(それが明応四年三月二十一日前後)に主眼を置いている。

いずれにせよ、これらの日記のお陰で、武護の出家遁世は「疑いのないこと」と見なされるのである(お坊さんが噂話書き留めてるだけなんじゃないの? という思いは、やはり拭い去れないんだけど)。しかし、日記には前後の出来事も、裏の事情も書かれていないので、なにゆえにいきなり出家遁世なんかしたのだろうか? ということについては、これだけを見ても一切不明。武護出家遁世の理由ついては先生方の推論があり、あとでまとめてご紹介する。

ただし、理由はどうあれ、武護がこの時期に「行方不明」となったことは事実のようで、それはこの「事件」後、陶家の家督が武護の弟・興明に移ったことが確認できるからである。⇒ 関連記事:陶興明

兄弟間の争い

名門の当主が在京中にいきなり姿を消してしまった。残された家人にとったら、とんでもなくショッキングな出来事である。陶の家では手を尽して武護の行方を探したであろう。例の「大内被官陶遁世在天王寺云々」があるということは、天王寺にいたこともわかっていたわけだ。けれども、彼の意志が固く帰国を拒否したゆえにか、あるいは身を隠したい事情があって、噂にまでなって知られてしまった「天王寺」からはすでにいなくなっていて、尋ね当てられなかったのか、理由は不明ながら連れ戻すことはできなかった。

陶家や当主である政弘の、この件についての反応については何も史料がないみたいで、誰も言及していない。ただし、いかなる家でも、主の地位を空席のままにしておくことはできない。では誰が武護の跡を継ぐのか。順当にいけば「息子」である。しかし、姿を消した時点で武護は弱冠二十歳(くらい)。すでに息子がいたとしても、それこそ幼すぎてまたしても「叔父」なり「大叔父」なりのサポートが必要。その辺もかなりのゴタゴタがあったことが想像されるが、わかるのは武護の家督を継承したのは、弟・興明であったということだけだ。

興明は当主として普通に家を切り盛りしていたようで、そのことは武護同様、彼に関してもそのような書類が残されていることからわかる。ちなみに、この興明は義興と同じ1477生まれなので、兄出奔時点で十五歳。将軍様ですらハンコを押せる年齢だから、そのまま当主としてのお仕事開始である。

このまま興明が当主として老年になるまで勤め上げれば、この話もココで終わり。しかし、そうはならなかったのは、彼もまた「早死」してしまったため。長兄は出奔、次兄は早死にでそのつぎが興房だったのか、ということだけれど、そう簡単ではない。そもそも系図上は、武護も「早死」ということだから、出家したのち早々と亡くなったのか(今なら失踪後七年たったら自動的に死亡扱いだし)と思うけど。

先程チラと出てきた『晴富宿祢記』(明応四年三月二十一日条)はここで大活躍するのである。これも、単なる公家が噂話書き留めてるだけかも知れないじゃん? という思いが拭い去れないのだけど、書いてあることがすべて事実とすれば(つーか、研究者の先生方はそもそも引用している時点でまるっと信用なさっているわけですよね)、行方不明となっていた武護は何年何月何日のことかはわからないけれど、再び周防に帰国していた。

そして、明応四年(1495)二月十三日、弟・興明の屋敷で、興明を殺害したという。つまりさっきの「防州大内一族陶以前榷介上洛時、在京之内令遁世」という引用には続きがあって、「今又帰防州、舎弟陶継家居兄遁世之跡之处、二月十三日為舎兄之所為、押寄舍弟当陶宅討伐之」という恐ろしいことが書いてあるのだ。

思うに、兄弟が家督をめぐって相争うということは、古来山とあるわけで、そのような内輪揉めの末、武護が弟を殺害し、元通り家督に復活する、というストーリーもこじつけられないことはない。ただし、それは当主クラスの家の話であって、家来の家でこうした揉め事が起り、殺害事件にまで発展した場合、ダメな弟を成敗したのでもう一度家督にしてください、と武護が申し出て許されるかどうかは、主の裁量に任される。

唯一の信頼できる手がかりがこの公家日記だけだとすると、そこから想像される武護のイメージは、勝手に出家遁世した兄が、ふらっと帰国したと思ったらいきなり弟を殺害した、みたいなことになって、どんだけ目茶苦茶な人物なのだろうか、というもの。突然に出家遁世して家を放り出したことは無責任極まりないし、兄の出奔のせいでかわりを務めていた弟をいきなり殺害するなどというのは、あまりに身勝手かつ非情である。

むろん、弟は兄がいきなりいなくなったお陰で家督が自分のものになった、ラッキー! とは1ミリも思っていなかったとは言い切れず、この辺りから一種の家督をめぐる争いなのだ、と思おうとすれば思えなくもない。「お前、なんで俺のものである家督を勝手に継いでるんだ?」「兄上がいきなり家出なんかするから悪いんだ」「もう帰ってきたから、元の持ち主に返せ」「いまさら何て勝手なことを言うんだ。返せと言うくらいなら家出などするな」……という感じで、「返せ」「いや返さない」という押し問答の末に、みたいな。

また、いきなり押し入って殺害とか、そこらの強盗まがいみたいだけど、これも当然そんなはずはない。仮に、イマドキのエンタメものみたいに、武護が武芸の達人でそれこそニンジャみたいに塀を乗り越えて来ない限りは。興明の屋敷、つまり陶家の屋敷といったら(そう言えばコレ、この公家日記だけでは山口の屋敷なのか、富田の屋敷なのかすら不明だが。現在までの研究の成果として、富田の屋敷と断定されており、それについては興明のところに書いた)、セキュリティは万全なはずなので、仮にエンタメ路線でやって来て、一人自室で休んでいた興明を幸運にも殺害できたとしても、危急を知って駆け付けた五万といる警固の者たちにどう対処するのか? 入って来た時と同じように、誰にも見付からずに密かに出て行ったとして、それではただの怨恨による殺人事件にしかならない。

さすがに血を分けた兄弟なんだから、流血沙汰にまでおよぶ恨みがあるとしたら、それは家督をめぐる争いくらいなのである。だとしたら、興明を密かに殺害しただけでは、そうまでして取り戻したいと願っている家督の回復なんて無理な話である。だって、当主が何者かに殺害されて亡くなってしまった、早々につぎの当主をどなたにするか決めなければ、となった時、もはや出家遁世して行方不明の武護なんて、候補にもあがらない。百歩譲ってエンタメ路線を認めたとしても、弟を殺害した後は、大音声あげて、「勝手に家督を我が物に」していた弟はすでに始末した。自分こそが正統な当主である、とやらなくてはダメということになる。そこで家人たちが、一斉に平伏するとは到底思えない。

そもそも「押し寄せて」と書いてあるから、それなりの人数を率いて来たように感じる。その場合、興明を奉じる家人たちは武護とその一味に倒されてしまい、家が乗っ取られそうではある。ただし、これとても想像に過ぎず、かなりの大人数を集めない限りは例のセキュリティを突破するのは難しいし、仮に成功したとして、興房はどちらの兄の側についたんだろうとか、考え始めたらキリがない。山口の屋敷でのことだったら、興房は国許にいたこともあり得る。こうなると、今度は武護の暴挙(?)を許せない忠臣みたいなのが、興房を奉じて抵抗し、両派に分れての大戦争に発展する可能性だってなくはないわけで、史料なき推測は延々と不毛な空想に陥るだけである。

結論から言うと、どうやら武護・興明兄弟の間では戦闘が起り、その結果興明が敗れ、武護が勝利したようである。史料はないけれども。兄弟二人の合戦については、興明の項目に書いたので、そちらをご参照ください(⇒ 関連記事:陶興明)。となれば、ますますもって、武力を以て揉め事を制圧したほうが主となるという暗黙のルールに乗っ取って武護が正式に家督の座に返り咲いたってよさそうなものである。しかし、そうはならなかった。そもそも、「家督を誰が継ぐか」にも「主の許可」が必要なのだ。意味不明な出奔と再入国の末、弟を死に至らしめてもう一度家を継ごうなどという「暴挙」を、主の家は許さなかった。

逃亡者

興明の死から十日後の二十三日、主である大内家は、武護の追討を命じた。これについては、義興が記した「追討状」が現存しており、素人も活字化されたものを読むことができる。あああ、やはり上に主がいるから、兄弟げんかは御法度なのか、と思うけれど、研究者の先生方の間では「義興が武護を誅殺した」「彼が誅殺されるに足る謀叛に等しい悪行をおこなったゆえにである」という推論が展開されていて、この「追悼状」はその典拠の一つとなっている(後で説明する)。

大内義興書状(萩藩閥閲録阿曽沼次郎三郎)
為陶中務入道宗景対治令進発候、即時没落無念之至候、落所未聞候、猶以隠置能美嶋候歟、可糺明候間、海上之儀別而御奔走可為祝着候、其外被凶徒居住之在所候者、尋求討捕候様、可被加下知之条肝要候、 仍左京大夫得此旨、可申之由候、恐々謹言
(明応四年)
二月廿三日
義興 判
阿曽沼民部大輔殿
(同上、通し番号「七八五」)

先生方は「追討状」なんて分類しているけれど、古文書分類的にはただの「書状」。義興が色々なところに武護の指名手配書を配ったということ。どこ宛てに、どのくらいの枚数書かれたかわからないけど(すべてが現存するなんて奇蹟はない)。この「阿曽沼」という人は安芸国のそれこそ能美島ら辺の人。だから、あなたの縄張り範囲の捜索お願いします、てな感じ。十日の間、主の家も、武護もどこで何をしていたのかは不明。ただ、手配書を見るに、武護は念願通り(?)弟の殺害に成功したけれど、家督を取り戻すことは許されず、どこかに身を隠したようである。探しても見付からないから手配書が出ているわけなので。

先の日記はなおも延々と続き、興明が亡くなった後、大内政弘が家臣の内藤弘矩を自宅に招いて殺害。父親を殺害された息子が(仇討ちのため以外考えられないけど)主に叛いて挙兵。その後、政弘は息子の義興に命じて内藤の息子を討伐させた……。と、何やら血生臭い話が続くのである。日記には、「陶舍兄遁世僧也、名宗景云々、継家舍弟十三日討伐者陶五郎云々、内藤者宗景僧伐舍弟陶五郎之時令同意、左京兆及此沙汰云々」とあり、弟殺害時点での武護は「宗景」という僧侶になっていたこと、内藤父子が討伐された一件は何やら武護と関連がありそうなことをうかがわせているが、それ以上のことは書かれていない。

そもそも、武護が姿を消した延徳四年(1492)から再び現われた明応四年(1495)まで三年間の空白があるけれど、三年もの歳月を墨染めの衣に身をやつし、どこぞの寺で黙々と仏事に専念していたのだろうか。仮にそうだとして、なにゆえにまた、帰国して家督を取り戻そうなどと考えるに至ったのだろうか? 後から取り戻したいと思うくらいなら、それこそ最初から「捨て」なければよかったのに。武護の謎すぎる行動と、それを説明する有力な史料の欠落とが、研究者の先生方によるあれこれの憶測を呼んだ。武護にとっては不本意で、身に覚えもないことかもしれない「謀叛の企て」をした「重罪人」というレッテルを貼られてしまうことになったのだ。

どうもエンタメ路線が抜けないせいで、出家遁世とかきくと、成人済みの男性であるし、一人でどこへでも行けるだろう。と考えてしまうけれど、そもそもそうなんだろうか? たとえば『平家物語』の「維盛出家」。大内と陶の家の繁栄ぶりから察するに、平維盛のように、武護の家来も付き従って出家するなど、そこまでの悲壮感はないはずだけれど。要は、そこらの一般庶民でない限り、身分のある人には常に誰かしらが付き従っているのである。上洛は武護じしんが義興の家臣として随行しているわけだけど、陶の家くらいランクが高ければ、武護にもまた随行員はいたはず。少なくとも腹心のひとりくらいは連れて来ていただろう。

何が言いたいかと言えば、身分のある人が、いきなりすべて放り出して坊さん修行とか、やるにしてもそこまで粗末な暮らしはできかねると思うのである。出家遁世して修行中に、付き人がいたかどうかなんてことは重要ではないけれども、誰かしら援助してくれる人々がいなければ、何をするのも難しいと思う。周防国に帰国して弟と戦闘になった時も、戦闘になった以上は、武護に味方する軍勢がいなくてはならない。それが必ずしも陶の家の将兵でなかったとしても。つまりは、内藤父子が討伐されたことは、日記にも書かれているとおり、武護と興明との間に起った騒動と何らかの関連があるとする先生方のご研究(後述)には説得力があると思える。そうだとしてもこの一件、政弘が内藤弘矩を自宅に招き寄せて殺害する、というなんだか「謀殺」みたいな形をとっていたりすることの奇怪さとか、考えれば考えるほど謎だらけで奥深い闇の中に陥ってしまうのである。

武護が逃亡し、主はすぐに追討したけれども、どうやら捕らえるのに難儀したようである。そもそも、最終的に捕らえて処罰したかどうかすら曖昧である。ここは単に史料が欠落しているだけである可能性ももちろんあるけれど、『晴富宿祢記』が「僧宗景即時没落、赴高野云々」と記しているように、とうとう捕まえることができず、高野山に逃れて行って、その後はどうなったか誰にもわからないのかも知れない。

追討状が出されてから、四ヶ月ほどたった頃。大内義興が東福寺の僧侶に宛てた書状が残されている。

大内義興書状(東福寺文書)
陶中務少輔入道宗景企不儀候之間、就加成敗候、尊書拝見仕候、早々示預候、誠為恐候、次御寺領之儀不可存等閑候、委細之趣猶自是可申入之由、可令披露給候、恐惶敬白、
(明応四年) 六月十九日
義興 (花押)
東福寺 衣鉢侍者御中
(同上、通し番号「七九七 」)

ここにさらりと書かれた冒頭の挨拶文。これが、武護の末路を示しているものであるのか否か。これだけでは何も証明することはできないような気がしている。

播磨先生は数ある「系図」のうちひとつにある「於姫山討死」を引っ張ってきて、さらに先程の『晴富宿祢記』(明応四年三月二十一日)「(……左京兆及此沙汰云々、)僧宗景即時没落、赴高野云々」も加味して、武護はいったん追討の網を逃れて高野山に辿り着いたのかも知れず、その場合、姫山で討たれたというのは「しばらく後のこと」になろう、と書いておられる。姫山というのは内藤家の居城があったところなので、最終的に「一味」であった彼らを頼るしかなかったためと思われるけれど、このご説には無理がある気がする。せっかく高野山まで辿り着いたのに、わざわざ帰国する意味がわからない。系図のコメント、日記の記録、すべてを総合し、どうでも武護が「討伐された」ことを証明しようとするとそうなるけれど、播磨先生ご自身が「没落後の武護の消息は依然不確かなまま」と書いておられるので、ここはもう、正直「わからない」のである。

ここでも思い至るのは、エンタメ路線。そこここでミラクルな救世主が現われたり、武護自身が武芸の達人で見事に追手の手を交わし続けたということもあり得ぬことではない。けれども、恐らくは道中に援助してくれる人々がいたのである。さもなくば、どうやって高野山まで辿り着くことができよう? 

もしも、武護を援助してくれる人々がいるとしたら、何らかの「協力関係」にあったらしき内藤父子を除けば、腹心の家臣か親類縁者だけだ。主の家は、その辺りもきちんと考慮していた。

大内氏家臣連署奉書 (益田家文書)
就今度陶宗景所行、無御一味之趣、殊於以後不可被仰通之次第、次对屋形両所至不儀之仁者、不可有御知音之旨等、御神名之一通、則令披露候、御懇承候、誠以祝着之至候、 此方又向後
八幡大菩薩可有照覧之候、聊不可被存如在等閑之儀候、尤以書状雖可被申候、爰元每事繁多之間、先得其心可申入之由候、此等之趣自私具可令啓之旨候、併期後信候、恐々謹言、
(明応四年)
二月廿九日
左衛門尉武道(花押)
兵庫助弘隆(花押)
謹上 益田孫次郎殿

(同上、通し番号「七八六 」)

単なる友人知人の類でどこまで助けてくれるかなど、たかが知れている。まして、主の家がこれほどまでに必死に探しているとなれば、関わり合いになることは自殺行為だ。何やら、武護が無事に高野山に逃れられたとしたら、本当にエンタメ小説ができてしまいそうである。

陶の家の(元)当主で、その最期がまったく不明なのは彼だけなのではなかろうか。興明も兄同様、「早死」で片付けられていた。しかし、彼にはきちんと供養塔があり、残された身内の人たちから追悼されていたことがわかっている。史料がないと言うこと、何も分らないということは本当に悲しい事である。死者には弁明の術はなく、史実とは違うことが流布していたとしても、このまま行くと、彼は永遠に謀叛人のまま。高野山で第二の人生を全うしてくれていたらいいな、と思うのである。

武護という人物の謎

武護には、父・弘護の後を継いで、名門陶家の嫡男として、何不自由ない将来が約束されていた。にもかかわらず、現存の史料などからは先生方もこれ以上確定できない「原因不明」の突然の出奔をし、しかもその後、これまた突然に帰国して実の弟と合戦におよび、弟を倒す、という不可解、かつ、どう考えても褒められたものではない行為(弟殺し)を行っている。

武護がとった謎の行動の数々については、現状、推測の域を出ることは不可能であり、逆に言えば、いくらでも浪漫を膨らませることが可能。とは言え、マニアが思い付きでやっても何の説得力もないから、以下に、先生方のご意見を紹介しておく。

結論から言うと、武護の一連の行動の裏には、内藤、杉といった大内家の重臣たちが絡んでいた、というのが「定説」。彼らは、大内家の当主(跡継)の地位に、政弘が定めた義興ではなく、その兄弟である高弘を据えよう、と謀っていた。何のためにそんなことを企んだのか? ということはここの主題ではないが、重臣たちの間にもあれこれの権力闘争があったのであろう。

内藤弘矩が大内政弘によって討伐されたことが、それより先に起った武護と興明の兄弟間の争いと関係がありそうなことは『晴富宿祢記』に書かれていた。素人にすらわかることを研究者の先生方が見落とすはずはなく、ここから武護・興明兄弟と内藤氏の誅殺が繋がるのである。とはいえ、日記からわかることは、単に内藤弘矩が武護による弟殺害に同意していた、ということどまり。それがいきなり、義興廃嫡と高弘擁立の企てであると推論するのは研究者の先生方のお仕事である。

上の「定説」と、全く違う新しいご説とお二人の先生のご意見を紹介する。どちらの先生のご説もそれぞれに説得力があり、どちらをとるか、あるいは、どちらともなるほどと思うか、または、第三の説を唱えるか、すべては歴史愛好家の自由と思う。

今後、先生方のご説を裏付ける決定的な史料が世に出ることがあれば勿論、それが正統なものとなっていくのであろう。あるいは、それこそ、第三の説についての史料が出てくる可能性とて否定できないのである。しかし、播磨先生の長年のご研究の中でも、今のところ、そのような史料はでていないのであるから、悲しいことに、それらを見つけることは、かなり絶望的なのではないであろうか。奇跡が起こることを切望する次第である。

藤井崇先生の推論

藤井先生は、大内義興についてまとめた伝記的ご著作『大内義興』をお書きになったが、その中で、この「武護出奔」についても触れておられる。出奔と、その後の経緯紹介については、同じ史料を典拠とされておられるので、ほぼ播磨先生と同じであるから割愛する。目を奪われたのは、以下の部分である。

武護は父弘護の年齢からして、当時二十歳未満と思われる。このとき十六歳の義興からすれば、武護は数歳年上のよい遊び相手であったと思われる。案外、武護の出奔は義興との小さい諍いが原因であったかもしれない。出家も若者らしい短慮によるものではなかろうか。
藤井崇『大内義興』44ページ

先生のこのご意見には諸手を挙げて賛同する。いかにも、現代風な分析であって、たいへんに好感が持てる(エラそうにお許しください)。上のほうで、武護の年齢について考えたとき、五歳も年上だと遊び相手としては云々と、書いたけれど、それは藤井先生のこの説に賛同しているから。十六歳と二十歳くらい。かたや成人したて、かたやとうに成人済み。遊び友達というよりも先輩みたいになってしまう。だから、武護の年齢はもっと幼くないといけないと思った次第。ただし、播磨先生のご研究、および自らの計算でもだいたいそうなったわけで、かなりのお兄さんが正解でしょう(多分)。

あれもこれも取り入れ、変な裏の事情を考えていくと、極めて単純なことが、とんでもない腹黒い陰謀説に膨らんでしまったりする。それはそれで貴重であるとして、見方を変えれば、事実は意外にどうでもいい単純な事である可能性もまた、大なのではないか、と思うのである。そうした意味でも、藤井先生の「若者らしい短慮」というご説は斬新な上に的を射ているんじゃないかな、と思う。

さて、同じく、藤井先生は、武護の帰国と、興明との争いについても「武護には家督を奪われたという被害者意識でもあったのであろうか」(上掲書45ページ)と、さらりと書いておられる。

これもまったくもって、同感である。「家督」を巡る骨肉の争いなど、古来より枚挙にいとまがないのであって、「若者らしい短慮」で出奔してしまった武護も、弟に家督を奪われてしまったとなれば、考えはかわるだろう。そもそも、そういう理由の遁世であれば、頭を冷やした後、帰国するであろうことも、当然の結果である。

とは言え、「定説」を無視するわけにはいけない。それに、若気の至りによる一時的な出家遁世と、その後の家督争いが真相だったとしても、日記に書いてある内藤弘矩が陶兄弟の揉め事に「巻き込まれ」て命を落としたことに対する説明ができなければならない。

播磨貞夫先生の推論

播磨先生は、武護の弟・興明の存在を世に知らしめたお方であり、それについては興明の項目でお書きする。

先生は、武護の奇怪な出奔劇や弟殺害という行為の裏側に、内藤弘矩はじめ重臣たちの陰謀が絡んでいる、としておられる。いわゆる「定説」で、このご説を唱えられたのは播磨先生が最初なのかも知れない(未確認です)。

播磨先生以前の先生方のご研究だと、内藤弘矩の誅殺は、内藤家に造反の動きがあると武護が「讒言した」ため、それを信じた義興(政弘)が討伐に動いた、とされていたという。しかしながら、播磨先生はそれらの定説を否定した。つまり、内藤弘矩による造反は、事実、そのような企てがあったのであり、武護はその内藤弘矩と内通していた。仲間である弘矩を讒言などするはずはないのである(この『讒言』云々について。播磨先生は武護の讒言というよりもむしろ、彼らの陰謀を察した興明が、それを主らに告げたのではないかとする。だとしたら、興明の忠心は立派であり、武護による弟殺害はそのことに対する恨みともなる。これについては陶興明のところに書いた)。

内藤弘矩は、主・政弘と同世代であり、長門守護代を務める名門として、大内家政庁の重鎮ともいうべき人物である。さらに、娘を、杉家、吉見家に嫁がせるなどして、大内家内部の重臣、さらに吉見家のような有力国人などとも太いパイプをもっていた。その内藤が、大内家一の名門である陶家と結べば鬼に金棒である。とは言え、陶家では弘護が亡くなった後、子らはまだ幼く、武護にしても、大それた陰謀を企てるにしては経験値が足りない。

この陰謀とやら、武護が首謀者というよりも、内藤がボスである、という先生の推論はここから来ている。だとすれば、内藤側から武護に声をかけたのか、あるいは、武護が思い付きで持ち掛けた話に内藤が乗っかってリーダーとなったのか、それについては言及されておられなかった。

父の仇討ち説

ここでひとつ、上の藤井先生はご著作の中で、陶弘護が吉見信頼に謀殺された事件について、主君・政弘による「陰謀」かもしれない、というようなことを書いておられる。

(前略)いずれも状況証拠に過ぎないが、政弘と吉見信頼の間には、陶弘護暗殺の黙契があったのかもしれない。
藤井崇『大内義興』29ページ

この事件には不可解なところが多いとかで、藤井先生のこのお考えに賛同する素人は少なくないようで、ウィ×ペディアのような信頼できないものに誰かがそれを堂々と書き込んだことによって、ますますこの「説」が一人歩きしている。ウィ×ペディアはともかくとして、自治体郷土史でもこのことに触れている場合があるから、藤井先生以前からあれこれの「憶測」は存在したものと思われる(むろん、藤井先生も含め、『何やら不可解なところが多い』程度の触れ方であり、自治体郷土史がこの説を提唱しているわけれはない。念のため)。

こんな「憶測」は、我らが昌龍院さまの忠節に対し、大内本家法泉寺さまが厚い信頼を寄せておられたこと、水魚の交わりとまで語り兄弟同然に接してくださった主に対し、常にその傍らに侍して忠勤した昌龍院さま(太守曰、吾国全而□者、寔弘護之力也、逐託魚水之深期、定金襴之密契、盟以兄弟、夜則侍寝、昼則稠人広座之間周旋……)の故事を無視した「憶測」で、あんたら『陶弘護肖像賛』を読んでないのか? と言いたい。

まだ足りぬのならば、昌龍院さまが亡くなられた後、法泉寺さまが弟君・鳳梧昌瑞さまに宛てた書状(弘護事旨儀有之、与吉見相果、是以対当家忠儀之段更々無是非候、不慮之事出来、 口惜残念無申計候……)を読んでいないのか? と言いたいです。米原正義先生なんて文字通りこの書状から、政弘がどれだけ辛い思いをしたかってことを書いておられたよ。

(弘護の功績の数々について書いているが省略ー引用者)政弘が、弘護に対して「国全くして安きは寔に汝が力なり」といって、兄弟の盟りをしたゆえんである。弘護が文明十四年五月二十七日、政弘のひらいた酒宴の席で、吉見信頼に刺され、二十八歳で斃れたとき、政弘は弘護の弟右田弘詮に「不慮のこと出来、口惜し残念、申す計り無く候」と書きおくっている。政弘は右翼をもがれた思いであったに相違ない。
米原正義『大内義隆』52ページ

大切に思っていた忠義の家臣が同僚(吉見なんて同僚にしていいのか不明だけど)との諍いの結果、不運にも命を落としたことに政弘は言葉に尽くせないほどのショックを受けた、ってだけのことでしょ? 武護の件を、単なる「若気の至り」と「相続争い」にすぎぬと軽く流された同じ先生が、こっちにはこだわる理由がわからない。まあ、そのくらい、武護のことはどうでもいいってことなんだろう。先生仰るところの「状況証拠」とやらは確かにいくつかあるし、仰る通りそれらは不可解であるけども。

武護の件だって、事実は単純極まりないのですよ。ただの「若気の至り」による出家遁世してみちゃったかも。でもやっぱりつまらないから帰宅しよう、弟邪魔、って感じの一見今風で稚拙な考えがじつは当たりかもしれないのです。吉見信頼が領地関係そのた諸々から昌龍院さまに恨みを抱いていた(これは双方ともに問題ありなので、どちらが悪いなどとは言えない)。それで、ついには怨恨の末に謀殺事件にまで発展。我慢の限界に至ってたんでしょう。素直にただそれだけのこと。とはなにゆえに片付けられないんでしょうか? 

とはいえ、世間の「流れ」がそうなっているようですので、コチラもそれに乗っかろうと思います。

百歩譲って、「陰謀説」が正しいとするならば、聡明な武護には、父・弘護の死に関して、当主・政弘のこの事件への対応に対し、あれこれの不満があったに違いない。まして、政弘が裏でこの事件を操っていたとしたならば、彼にとって主(主の父)はもはや「親の仇」以外何者でもないということになる。武護が藤井先生やみなさん同様、「真相」に辿り着いていたとすれば、政弘およびその後継者と見なされている義興に対する謀叛にも似た企ては、彼にとっては「父の仇討ち」でもあるわけで、話を持ち掛けたのが、武護の側であったという推論とてなりたつ。播磨先生が仰っておられるように、大それた計画を思いつくには武護がまだ幼稚すぎるのであるとすれば、内藤らは彼の「父の仇を討ちたい」という純粋な心につけ込み、それを利用して仲間に組み込んだのである。

播磨先生のご本につぎのようなお言葉がある。

武護は肉親の実弟を手に掛けただけでなく、主君・大内氏が下した措置にも叛した重罪人ということになるが、しかしこれは結果論であって、武護には大内氏への不満が事件発生前にすでに心底にあり、 そのために大内氏の措置を無視し反抗的行為に至ったものと解されるのである。この武護の動きに長門守護代の内藤弘矩が予め同意していたことはすでに述べたごとくで、陶・内藤の両氏が大内家臣団の中枢にあるだけに背後に潜む 問題は大きいのである。
播磨定男『山口県の歴史と文化』

これは今後もこの問題についてよくよく考えていかねばならない、という主旨でお書きになったものなので、「武護には大内氏への不満が事件発生前にすでに心底にあり」という一文が欲しいという理由では、引っ張ってきてはならぬ部分である。しかしながら、いかに経験値が足りない若者であったにせよ、主に弓引く企てに参画するには相応の覚悟と正統な理由がなければならないことくらいはわかるであろう。代々名将の誉れ高い人物を輩出してきたこの家で、この代だけ突然変異で不忠な愚か者が出るとは思えないからである(ただし、これは単なる希望的観測であって、代々善人ばかりの家、代々マナー違反の人ばかりの家、のような分類は非科学的である)。

弘護の死に、政弘が関わっているか否かの問題を面白おかしく想像するのは個人の自由なので、敢えてあれこれ言う資格はない。ただし、藤井先生や自治体郷土史は、けっしてこの「憶測」をそうである、と「断定」してはいない(先生方や郷土史はもしかしたら、このような『見方』もできるのでは? という気持ちで書いておられる。このことを『絶対に』見落としてはならない。ウィ×ペディアの類はけっしてまるごと信じてはいけないものだ。出典がないとか検証が必要云々とか明記してあるページだらけ。つまりは、サイト自身が『信じてはいけない』と警鐘を鳴らしてくれている。検索者はその点に留意すべきなのだ。微妙な問題については『絶対に』そのまま信用してはならない。『何であれ、その80%くらいは事前にネットで情報を調べられます。しかし、ネットにあることは真実とは限らないということを常に忘れずに。信用していいのは自治体HPや寺社仏閣HPだけです。文化財については文化庁の記載で確認しましょう(某国家資格更新試験オンライン講習)』と叩き込まれた。その意味で、このページも単なるネット上のページであることを忘れずにお読みを)。

さて、政弘による弘護「殺人教唆陰謀説」が「根拠」としているらしき不可解な点とやらについて。

それはここではなく、弘護の項目で書くべき事だけどリライト中なので、こっちに書いておくと、
一、弘護を死に至らしめた吉見信頼の残党(というか吉見家の人)を討伐するために政弘は軍勢を出したけれど、最後までコテンパンにやっつけて吉見家を滅亡させるようなことはせずに、途中で引き揚げてしまった。それでも、あきらめきれない陶家および親戚益田家の人たちはなおも居残って戦い続けた。なので、これはたまらんと思った吉見家が幕府に助け船を出した(御家人だからね)。それで、幕府から撤退命令が出て、陶 & 益田勢も引き揚げざるをえず、弘護の仇討ちは中途半端に終わってしまった(幕府から陶軍撤退させろ命令が出るのは大内家宛て。大内家はそれに従い陶家に撤退を命令する。主に注意されたら、家臣である陶家としては従わざるを得ない。益田家は御家人なので微妙に違うけど同じこと)。
二、吉見信頼が弘護を刺殺するのに使ったのは重代の家宝だか知らんがヘンテコな名前がついた短刀(「鵜噬」「ウクイ」とかなんとか読むらしい)。これを、大内政弘はのちに、吉見家の罪を許すと同時にその「宝物」を信頼の子孫だか身内だかに返還してやった。
三、内藤弘矩が吉見信頼を弘護殺害のその場で成敗してしまった。

というようなところが、マニアのネタになっているみたいだけど、これ三つとも疑いの目で見れば、限りなく疑わしいけど、素直に見れば何てことないから。

疑いの目:一について、大内本家には弘護の仇討ちなんてどうでもよかったから(だって死んで欲しかったから教唆したくらいなので)、テキトーに形だけ「討伐に出かけ」、戦ってる「ふり」したけど、兵損もったいないからとっとと引き揚げた。二について、「(教唆した通りに任務を遂行してくれた)信頼が(命を落とすような結果となってしまい)申し訳ないことをした」、家宝(単なる形見の品?)はきちんと預かっておいたから、確かに返還する。これから「も」大内家のために尽して欲しい。と、政弘の吉見家に対するねぎらいを示している。三について、じつは吉見信頼に弘護殺害を頼んであったなんてことがばれたらヤバいのでその場で口封じした。つまりは、この「教唆」案件について、信頼を殺害した内藤弘矩も知っていたということになりますね。無事に謀殺実行した後は、信頼にも消えてもらうということを最初から決めており、その任務は内藤弘矩に頼んであったわけです(この説を唱える人々にはなおも続きがあって、現在話題にしている大内政弘が内藤弘矩を自宅に招いて殺害云々は、吉見信頼口封じのそのまた口封じだというからお疲れ様です)。もしもこんなことが事実だとしたら、どんだけ腹黒いんだよ、大内政弘という人は。⇒「あり得ない」

素直な目:一について、身内である陶、益田の人たちが最後の最後まで仇討ちを遂げようと望むのは当然のこととして、石見国をおさめていかなければならない大内家としては、吉見家ともできれば争いを広げたくはないという事情もある。それに、幕府に訴え出られたりしたらなおのこと、もうどうしようもない(それに、この陶、益田 vs 吉見の争いには益田家がこの機に乗じて常日頃から領地紛争が絶えない吉見家との間で優位に立とうと頑張ったフシもある)。二について、一と重なるところが多いけど、当人同士が相打ちして亡くなって、残された身内から謝られ、今後は忠義を尽します、と言われたら迎え入れるのが主の家の態度として当然。手土産(?)として、没収保管してあったものを返したとしてもどうということはない(あえてこの日のために保管してたとしても、いずれは吉見家にも配下になってもらわにゃいかんってことはかわらないから。そのために取っといた。もしくは重要事件の証拠物件として単に保管してた。それ以上の嫌らしい想像はNG)。三について、この事件が起きた場所は宴席だったはず。主も在席する晴の席で狼藉者が暴れたら、即刻取り押さえるのは当然の成り行き(嘉吉の変再来だったらどないすんの?)。相手が抵抗したら、主の身を守るために成敗もありだ。もしくは、何てことをしやがった! という怒りのあまり、「取り調べ」の手順を踏むべきことも忘れて「成敗」を命じたとしたならば、むしろ政弘の信頼への憎しみと弘護を惜しむ思いから出た行動である。

ま、そんなわけで、弘護謀殺を主・政弘が裏で操っていたという説を唱える方々がおられるくらいならば、武護がそれに気付いて主に恨みを抱いたと説明したとて別段袋叩きにあうこともないだろう。

……というように、信頼のおける史料を欠く状態では素人が己の気に入った人物であるがゆえに、彼に都合の良い「推論」をでっち上げることすら可能なのである。著名な権威である先生方と違って完全に無視される「意見」というか「戯言」であったにせよ、「推論の域を出ない」という点ではまったくの同列だし、「推論」するという行為は万人に許されたものである。

どの道、ここは明確な史料がないので、誰がどう考えようと「推論」にしかならない。

ついでに。内藤弘矩謀殺にはほかのご説もあって、今ちょっと典拠が思い出せないからメモ程度に書いておくと、政弘が弘矩を殺害したことにはやはり意味があって、それは弘矩の陰謀のこともあるけれど、それに +α として息子・義興のためである。病重く、すでに隠居していた政弘は自らの死後のことを考えた。その時、若い義興が年より風を吹かせる老臣たちのために、思うままに政治を執れない事態に陥ることを想定した。

その時、そうやって威張りくさって若い当主を困らせるであろう筆頭として弘矩の顔が浮かんだのだろう。だから、政弘は先回りして、自らの生前に将来邪魔となりそうな弘矩を片付けておいた。悪名はすべて己が被り、家の為に尽してきた功績は認めざるを得ない重臣をひとり消したのである。まあ、殺害は謀叛を企てたことによる誅殺なので自業自得とはいえ、自宅に招き謀殺という奇怪な形式となったのは、政弘が我が子のために邪魔物を消しておく、という行為でもあったためだ(出典調査中)。

播磨先生の推論(続き)

さて、ここまで大掛かりな陰謀は、主・大内家転覆のためであったのか、ほかに何らかの意義があったのか、それは分からない(推論としては、のちに山口の貴重な文化遺産の数々を灰にしたことで有名な大内輝弘、その父親・大護院尊光(義興の兄弟)を、当主の座につけようと企てたものであったとされる)。事を起こすならば、政弘が病に倒れ、まだ経験が浅い義興が、その政務を代行していた頃(裏を返せば、政弘は自身では何もできないほどの重態だったといえるが)、その時をおいてはなかった。

しかし、彼らの陰謀は事前に大内家に知られることになってしまい、失敗に終わった。

播磨先生は、計画が発覚したのは、武護の「軽挙」のせいであったのだと分析する。どういう形で漏れたのかまでは分からないし、そもそも「推測」ではあるが、大それた企てを主の側に知られてしまった。それで、身の危険を感じた武護は出奔し身を隠した。そう考えると、なんでいきなり出奔なんかしたのかよ? という不可解な謎がすんなりと説明付けられるのである。

はっきりとそれと分かる形で明るみに出たのなら、武護にはその場で追討令が出るし、内藤家すら無事にすむとは思えない。なので、武護の出奔騒ぎは、ちょっとした噂話ていどのことに過剰に反応し、身を隠したのであろう。ただし、そのようは「噂話」がある中での原因不明の出奔劇は、主人の側から見たら完全に「怪しい」と映る。

そして、後に武護が帰国し、興明を殺害したころ、この時は、上述のように、政弘の病が悪化し、義興が政務を執っていたときだから、陰謀を企てた一味にとっては絶好の機会であったのだ。かくして、武護は邪魔な弟を排除し、内藤らとともに陰謀を実行に移そうとしたが、それは未遂に終わった。内藤父子誅伐については、数々の史料にもあきらかだし、『大内氏実録』にも明記のとおりである。

以上、播磨先生のご説について。だいたいこんな感じかなと。敢えて引用の形はとらなかったし、こちらの意味の取違いもあるやもしれない。

播磨先生には、ご自身がその存在を明らかにした、弘護の次男・興明に対する深い愛情を感じる。いっぽうで、武護については手厳しい。今後、彼の供養塔も出て来て、先生方の手で、さらなる隠された真実が明らかになれば、その評価も変わるかもしれない。そのことを切に願う次第である。

しかしながら、咎人(謀叛人)として、討伐されたとしたら、彼の供養塔などないのかもしれないし、高野山に逃れたのであれば、供養塔もそこにあるのかもしれない。

ただ、興明の供養塔を作った生母・益田の奥方様にとっては、たとえ兄弟が相争い、実の子が実の子に殺害されたとして、その時点で、同じく腹を痛めた息子である武護への思いは、ただの憎しみしかなくなったのであろうか? 母として、同じ息子である武護の霊を何らかの形で弔ったのではないか、そんなことを考える。その場合、やはり、主の家に対する憚りもあるし、それとは分からないように、こっそりと作っていたかもしれない。そんなものが、どこかにひっそりと残されていたら、そんなことを考えた。

好ましくない出来事は、敢えて記録に残さない、ということは現代でもある。重臣たちは反乱を企てて、新たなる当主はそれらを颯爽と討伐した。名家の遺児二人は不幸にも「早死」し、残された弟・興房の時代となったが、彼がまた、歴史に名高い忠義の家臣であった。何とも麗しい物語である。

聞こえが悪いからと「早死に」という簡単な記述で誤魔化し、覆い隠された記録(系図)のせいで、後世の我々は歴史の空白を推測せねばならなくなり、歴史家の先生方のご苦労が増えたのであった。

参照文献:播磨定男『山口県の歴史と文化』、藤井崇『大内義興』、『戦国遺文 大内氏編』、『山口県史 史料編 中世1』、米原正義『戦国武士と文芸の研究』、同『大内義隆』

ミルイメージ画像
ミル

こっから下は陶のくにオリジナルの話なので、じっさいにそのような「伝説」があるわけじゃないです。興味ない人はここから先は飛ばしてください(だから、参照文献もこの上に書いてるよ)

宗景法師伝説

陶のくにとしては、兄と弟が相争うとか、しかも兄は腹黒い重臣ら(れいの『陰謀』には、内藤だけでなく、杉とかも絡んでいるのですよ。だけどこれは、むしろ大内義興の項目で扱うべき内容ゆえ、ここでは割愛してます)の陰謀に平然と乗っかっていたとか、そんな悲しい想像は絶対にしたくありません。かといって、身内だけを礼賛して他の人をワルモノにして片付けてしまおうなどという行為は、陶のくにの歴代当主さまが絶対にお許しにならないことです。

なのでここでは、周囲の諸々はほっておいて、武護の最期について考えてみたいです。系図上弟ともども「早死」したという彼は、結局、どこで、どのような最期を迎えたんでしょうか? 興明のほうは「兄に殺された」という史実(推測?)があるけれど、武護にはそれがないので。

大内義興が大量に「指名手配書」をばらまいて、その後、「退治しました」と宣言していますが、どこで、どんな風に「退治された」のでしょうか? そもそも、「指名手配書」のお陰で見付けることができたのでしょうか? どこに潜んでいたのでしょうか? 何一つ、わからないではないですか。

そこで、陶のくに的結論として、彼は「退治されてはいない」と考えています。だって「高野山に逃れた」ってあるじゃないですか。「宗景」という法師名もあるわけで。

宗景

宗景法師・茶色のキウイ様画

じつは雅な人?

先程、平維盛の話を書きましたが、なにやら『晴富宿祢記』を見て以来、エンタメ路線が花開いてしまい、本質を見失っている気がしています。藤井先生の若気の至りによるいきなりの出家遁世、でもやっぱり弟に当主面されるのは気にくわないと思い帰国して争論に、というような説に大賛成しておいて何なんですが、私見として、そこに、同じ藤井先生の弘護謀殺事件の黒幕がじつは主かもしれないというご説を加えたら、「父の仇を討つ」ために主の家に叛旗を翻すという構図が成り立つのではないかと思うのでした。

となると、その「参加目的」がやや異なるものの、播磨先生の内藤らと手を組み云々説も同時に成り立つわけです。いやもう、どんだけヒロイックでカッコいいんだこの方は、と思っていたのですが、どうやらそうではないような気が最近になって強くなりました。

つまり、文武の家の家臣として、弟の興房など、文芸関係の活動も盛んに行なっていたわけですが、「早死」したこともあろうけれど、「肖像賛」に歌が上手かった、などと書かれている弘護も、武護、興明も、どこにも彼らの歌など残っていない(「肖像賛」は「賛」である以上、『歌が下手で有名だった』とは書かないはずですが、それならば、歌の件はスルーすればいいわけで)。一族の中で雅筆頭と思われる弟君・弘詮さまとてその事情は同じで、歌詠みというより「吾妻鏡」の人になってしまっている。ただ、しつこく書いているように、世の中の史料なんてほとんどが欠落しているわけなので、歌を詠んでいたのに、残っていない、という可能性は十分にあるわけです(というか、残っているほうが珍しいのですよ)。

というところで、文武の家臣かどうかの「目安」のひとつとして、文化人との交流、というものがございます。つまり、宗祇でも誰でもいいですが、そのような人が下向してきたらこぞって自宅に招き連歌の会を開く、というようなもの。むろん、「雅を装う」必要に迫られ、関心もないけれど接待したということもあり得ます。しかし、そのような著名人と交流していると、彼らの著作が後世に伝えられたりしているおかげで、それらの中に「○○宅歌会にて」とか、「△△邸にて詠める」などの文字列を見付けることができ、「盛んに文化人と交流していたか否か」はわりとわかります。

なんと、それらの歌会の中に、我らが宗景法師主催と思われるものが何回かあるのです。「陶中務少輔」という五文字しかわからないのですが、それこそ開催年月日から、誰なのかほぼ特定できます。もちろん、そのような作業は研究者の先生方のお仕事で我々は結果を享受するだけですが。たったそれだけの理由で、武護を文武の将とは断定できませんが、古来雅な人というのは、出家遁世したがります。まして、弟との間でそのようなことがあったとしたらなおさらです。まあ、「雅な人は出家遁世したがる説」をとるならば、第一回の出家遁世の時点でもう俗世は捨てたはずですので、何でいったん帰国してやっぱ家督欲しい、となるのかが説明できませんが。

最初の一回目が若気の至り、二回目が本当の出家遁世だとすれば、すんなりと繋がる気がします。

じつは生きていた?

源義経が大陸に渡ってチンギスハーンになったとか、そういう「じつは生きてた伝説」そこら中にあるじゃないですか。加えて、武護さんが亡くなったことは、源義経ほどはっきりそうとはわからないです。せいぜい大内義興の、すでに討伐しました云々書状があるだけなわけで。どなたか、ご遺体をご覧になったのですか? 思うに、書状ならずとも、このような「史料」、インチキである可能性はとても大きいということを否定はできません(まあ、こういうことを言い出すと、歴史学という学問そのものが成り立たなくなります。いわゆる『信憑性のある』史料なるものは、研究者の先生方が、長期に渡り様々な角度から検証した結果『信じてもいい』と見なされたものです。この義興書状如きを、そこまで検証なさった先生がおられるとはあまり思えません。結局のところ、絶対的に信用できるのは、『当事者本人たちによる証言』だけです。むろん、書状に嘘を書くのと同じく、証言についても嘘をつくということが十分想定できますから、そんなこと言ったら何一つ信じられません。だいたい、数百年前に亡くなっている人々からどうやって証言を得るのか? その意味で、歴史を証明するためにはタイムマシンの発明が絶対に不可欠。それが無理である以上、歴史なんてもう、テキトーにお好みで想像してろ、ってワタクシは思います)。

あまり詳しくないので、テキトーに書いてますけれど、明智光秀などなんたらいうお坊さんになってじつは生きてて、徳川家康補佐したとか、そういう伝承あるわけですよね? 亀童丸時代から遊び友達、ご学友みたいな関係にあった鶴寿丸こと武護ですよ。時候の挨拶でどこかのお坊さんに送った手紙一通で、もう討伐しちゃいましたので、とか。たまたまこれ一通が残っていただけとしても、実際には同じ時期に、大量に似たような時候の挨拶を色々な人に出しているでしょう。これ一種のカムフラージュなわけですよ。つまり、「討伐しちゃいました。お騒がせしました。ご協力ありがとうございました」と書いて至るところで「宣伝」しておいて、じつは、「出家して亡き父や弟の菩提を弔え。高野山辺りに身を隠せ」とか言って逃がしたことは十分にあるわけです。

「ど素人がいい加減なことを言わないでください。どこに、そのような史料があるのですか。証明できません」という、先生方のお叱りの声が聞こえてきそうですが、「生きていたこと」を証明できないのと同じくらい「確実に死んだこと」も証明できないのでは? そう考えると世に出回っている「史料」とやらも、その裏にはどのような真実が隠されているかは、どなたにも証明することなんてできないのです。

明智光秀すら生きていたことにでき、源義経がチンギスハーンと同一人物であると言って許される寛大な日本人の思想。そんな中、本州の端っこの名も無い家臣の家の人物ひとり、「生き延びて高野山で修行してた」ことにしたところで、どなたにもご迷惑はおかけしません。

さらには、弟を殺害したとかいう件についてですが、これも、平重衡が南都焼き討ちしたのが、自ら号令して、大がかりに伽藍燃やさせたのか、兵士 A(平家物語には名前も出てるけどね)が付けた火が周囲に延焼しちゃったかの問題と同じです。実の弟殺害してるケースとか歴史上大量にあるわけで(たしか、織田信長とかも殺してるよね? よう知らんが)、これとても、自ら騙し討ちして手を下したか、兄弟戦闘におよび、結果戦死してしまったかでかなり色合いが変ってくると思うわけです。

とにかく、このお方おひとりだけが、法名すらなく(宗景がそうなのかもだけど、意味合いが違うわな)、供養塔すらなく、墓すらない。それほど酷い事をしたんですか? 戦国乱世ならフツーにあることでは? 何なら大内盛見とか弟殺してることになるやん。なんで彼だけが特別「無視」状態になっているのか、納得がいかない。

というわけで、武護は高野山に行き、そこで修行しつつ余生を送りました。彼もまた、伝説の中に生きているのです。

興明供養塔が見付かったのも一種の奇蹟みたいな偶然でしたから、武護供養塔だってどこかにあるのでは? 別に弟と戦闘状態になったからと言って、その後の人生全否定とか、そんなこと普通はないわけですよ。勝ってしまえば、そっちが家督になるだけです。今川義元なども、確か兄殺してましたし、武田信玄なんか父親追い出してるし(間違ってたらごめんなさい。詳しくないので)。織田さん、今川さん、武田さんなどと違い、「上に主がいる」ことがネックになりそうではあります。兄弟同士で戦争するとか、国内の治安を乱していることになるわけなので。とはいえ、史料が語る範囲では、この兄弟喧嘩に関しては、一連の「謀叛」騒ぎの一部と見なされており、単なる家督相続に関する揉め事による騒動とは思われていないようです。それゆえに、武護は「謀叛人」扱いとなり、「追討」「成敗」という道を辿ったのです。

播磨先生によれば、陶家家系図が「早死」となっているのは、「謀叛人」が出たという不名誉な事実を押し隠すために陶家の人々が敢えて曖昧にしてしまった可能性があるみたいです。なんだかあんまりだと思いました。「謀叛」の企てに参画していたわけではなく、単に兄弟が家督を争っての末に起きた悲劇だとしたら、許されたのか? と言えば、そうも思えません。そもそも、武護は順当に当主の座に就いていたのですから、いったんそれを捨てて出て行ったのにまた舞い戻って返せと言って来られても、興明側からしたら何をいまさら……となりますし、興明にはそれこそ何の罪もないわけです。挙げ句命を奪われるなど、悲劇以外の何ものでもありません。

とはいえ、親子兄弟が平然と家督をめぐって争うのが日常であった時代の出来事を、現代の感覚で判断することはできません。恐らくは、一連の出来事は先生方のご推論通りなのだと思います。理由はどうあれ、武護は主に弓引く企てに参画し、それに関連して謎の出奔をしたり、再び帰国して弟と争って死に追いやったり、あれこれの「悪さ」をしでかしたのでしょう。

その結果、彼は弟を失い、家督も失い、故国を追われる身となりました。しかし、無事に逃げおおせて高野山に至り、そこで「宗景」という新しい人生を生きたのだと思います。俗世と完全に決別した彼は、若気の至りを恥じ、弟と争ったことを悔い、無念の死を遂げた父や自らのせいで命を落とした弟の菩提を弔いつつ余生を送ったものと信じます。

最愛の夫と二人の息子を失った奥方さまはどれほど悲しまれたことでしょうか。主の家にはバレないように、どこかにそっと、長男の供養塔も造っておられたはず、そう思うのです。それには銘もなく、誰のものなのか、わかることは永遠にないかも知れません。でもどこかにきっとある(あった)のだ、何となくそんなふうに感じました。龍文寺にはあれほどの供養塔があり、どれがどなたのものなのかはわからなくなっています。大幻院にもありました。元陶家の領国には恐らく、まだまだ至る所にあるかもしれません。その中にきっと、出家遁世した法師のそれもあるはずです。そしてそれは、高野山にも。

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宗景

……。鬱陶しいから俺にかかわるな。

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ミル

嫌です。宗景さまの無念を晴らします……。

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次男

兄上がわけわからん思いつきで出家なんかしたせいで、ややこしくなったっぽい。「若気の至り」とやらの代償が大きすぎたな。ちなみに、母上が私の供養塔しか造らなかったとは思えないので、兄上のもどこかにあるはずだぞ。私もともに探そう(ついでに、互いに弓矢のことにはなったが、兄上に殺されたりしたとは思っていないからな)。

ミルイメージ画像(涙)
ミル

お願いします、探してください……。ボーナス全部あげます。

この記事は 20221207 に加筆修正の上移転されました。
初出:2020年4月18日、「五郎とミルの部屋」転載日:2020年9月29日 22:14

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ミル

この記事ってさ、かなり長期に渡って使い回されてるんだよね(ドメインとか置き場所が何度も変遷した)。そのわりには中身は進展してないケド。

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五郎

俺の伯父上どうしが、殺し合いしただとか、「謀叛人」だったとかなんだか嫌な話だな。

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ミル

だからさ、すべては「推論」だよ。エラい先生だってこれ以上何も言えないよ。すべてはミルたちが宗景さまの無念を晴らすべく生涯をかけるしかないよ。まずは、高野山に行って供養塔を探そうと思ふ。

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五郎

ええっ、高野山にも行けるの? 絶対探し出すぞ”

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宗景

だから俺のことは放っておけと……。

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次男

兄上のものもないが、甥のものもないな……。この際、ともに探すか。

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ミル

いいえ。この子のは、廿日市にも陶にもあるんです。

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五郎

ん? 俺の墓ってなんで、廿日市にあんの? あそこには確か陶入道のが……

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次男

いや。そなたのものも見付かっていないのだろう。龍文寺にないはずがない。

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五郎

(そもそも、陶入道って何者なんだ? 俺、まだ会ったことないんだった)

-陶のくにの人々