山口県山口市黒川の広沢寺とは?
広沢寺は元々古熊の地にありました。大内輝弘の反乱で、寺院は焼失しましたが、その後再建されて存続していました。明治時代、この地にあった泉香寺という寺院が廃寺となった際、跡地に移転してきたのです。
泉香寺は大内盛見が建立した寺院で、平安時代に製作されたと考えられる多くの貴重な仏像が伝わっていました。それらはすべて、現在の広沢寺に受け継がれ、山口県の重要文化財となっています。
なお、広沢寺は大内教弘の兄弟とされる、教幸の菩提寺だった寺院です。
広沢寺・基本情報
住所 〒753-0851 山口市黒川 1483
山号・寺号・本尊 泉香山・廣澤禪寺・薬師瑠璃光如来
宗派 曹洞宗
広沢寺・歴史
広沢寺は元々古熊の地にあった大内教幸の菩提寺です。大内教幸は周知のように、応仁の乱に際して法泉寺さま(政弘公)に叛旗を翻した人物です。とは言っても、それを以て叛乱者扱いして非難するのはよろしくありません。そもそも、南北朝期も、応仁の乱の時代も、親子兄弟争ったりした例は数えきれません。この方だけではないのです。
さて、この寺院も「元は古熊の地にあった」わけなので、現在地には移転してきております。常栄寺や洞春寺ほどではないにしても、またしても寺院の変遷でややこしいことになっております。
廃香泉寺とその文化財
この地には元々、泉香寺という寺院がありました。
『山口県寺院沿革史』には「泉香寺」について、およそ以下のように書かれています。
「もとは臨済宗の古跡で、青鼈山泉香寺といった。開基は大内盛見公である。国清寺開山・仏悟恵光禅師(応永九年三月二十二日寂)を招いて開山とした。その後、元禄元年(1688年)、古熊村の万年山永福寺・春盛和尚を招いて、曹洞宗に改宗した。それから、一八三年後、泉香寺が廃寺となったので、明治五年(1872)五月、跡地に古熊村にあった万年山・広沢寺を引寺しそのままの山号・寺号を名乗ったという」
現在、寺院の山号は「泉香山」となっていますので、広沢寺の「そのままの山号」ではなくなっています。元々この地にあった「香泉寺」の寺号を山号に変えて残したのだと思われます。
寺院が廃寺となった経緯はわかりません。けれども、仏教に深く帰依していた盛見さんゆかりの寺院ゆえにか、すごい文化財が伝えられております。といっても、いずれも平安時代に製作されたと考えられている仏像ですので、盛見さんが造らせたというわけではありません。ひょっとしたら、この地には平安時代くらいから続いていたような寺院があり、盛見さんはそれを修築、再興したのかもしれませんね。
それらの仏像というのは、現在の広沢寺本尊となっている薬師如来像と二天王立像(増長天、持国天)です。いずれも山口県指定の有形文化財となっています。⇒ 関連記事:大内盛見
広沢寺と大内道頓
移転してきた「広沢寺」について。同じく『寺院沿革史』を見てみます。なお(※)は『趣味の山口』を参照して、補足したものです。
「広沢寺の由来は大内持盛の子・大内掃部教幸公の位牌所である(※開山は闢雲寺中興覚隠禅師の高弟・雪心真昭和荷)。教幸公は法名を広沢寺殿南栄道頓大禅定門といい、文明二年に亡くなった。開基・創建後、大内輝弘の乱(※永禄十二年、1569)で、諸堂は悉く焼払われてしまった。残ったのは、山中に大内家崇敬の東山嶽の観音堂と本尊、そしてその上の唐笠松という名木で、現在もある。焼失後、堂宇は麓に移した。当時の人々は岩崎の観音と呼んだ。馬場に観音石という大石が一つあったという。
本堂:四百年前開基当時のものか。釣屋:享和年間、庫裏、位牌堂(宝楼閣):新築
寺宝 本尊:薬師如来(御丈四尺六寸二分)、行基菩薩の真作という釈迦如来、安阿弥作と伝えられる四天王像二躰、正観世音像(大内教幸の守本尊で死後当寺に納められ、二十年ごとに開帳)」
教幸が大内持盛の子となっていますが、誤植なのか、このご本が書かれていた頃の定説だったのかは分りません。現在は、築山大明神さま(教弘公)の兄弟ということで落ち着いております。寺院の解説だけを見ていると、伯父(もしくは叔父)と甥が争ったとか、その結果伯父は戦死(というか自害)したなどという物騒なことは書かれておりませんので、いたって平穏なご生涯だったかのような印象を受けます。しかし、大内輝弘の反乱ですべて焼払われてしまったというのは尋常ならざることです。
しつこいですが、国難というか家臣の叛乱や、毛利元就の防長経略に際しての戦闘で山口の貴重な文化財が燃え尽きたと考えておられる方は勘違いです。むろん、叛乱や戦闘で略奪したり放火したりする不届き者はゼロとは思えません。ですが、そのほとんどは、大友晴英の側近・内藤隆世と杉重輔の同士戦で焼け野原となり、燃え残りもしくは再建物も大内輝弘が豪快に燃やしてしまったのです。仮に反乱成功してお家復興とかなったとして、家屋敷を焼け出されたり、信仰していた寺社仏閣を燃やされた民衆の支持を得られるはずがありません。大友宗麟の傀儡になって命を繋ぐのがやっとでしょう。まあ、輝弘にも「お家再興」なる大願があったわけで、そのために必死に戦ったのですから、ワルモノ扱いしたら気の毒ですが。毛利元就公 + 有能すぎる三人の息子たちに喧嘩売って勝てるはずもない「身の程知らず」なことをしなければ、寿命は全うできたと思うのにね。その意味で、「焚付けた」大友家が悪いと思うわけです。と、他県の人物のせいにしてまるく納める。
そのいっぽうで、大内教幸さんは細川勝元なんかの誘いに乗ってしまい、あわよくば自らが甥にかわって当主の座に就き、この庭園の主になれると、これまたとんでもない勘違いをしてしまったようですが……。主の留守にも国許にはこの主にしてこの臣下とも言うべき最強の将が残っておりました。
救国の英雄・陶弘護
うわぁ。お祖父さまだ♪
うんうん。我らが城主さまだよ!
お父上だな。
……。
反乱は鎮圧され、教幸も亡くなりました。勝利者サイドから見たら明らかな敵対分子ですが、菩提寺はきちんと残され、大切に管理されていたのですね。お父上の兄弟としてのお気遣いも忘れなかった法泉寺さまのお人柄も垣間見られるのでした(というより、別に叛乱者だからといって菩提寺まで処分するようなことはしないのがフツーなだけかもですが……)。
教幸さん自身の生涯には謎が多く、死亡した場所や時期についても、通説とは違う理論を展開している研究者の先生もおられ、確定できません。⇒ 関連記事:大内教幸
※なお、大内輝弘の乱で焼け残った観音堂、本尊、唐笠松、観音石については『山口県寺院沿革史』に書いてある当時のものです。『趣味の山口』には、兵火にかかった後、再建されたと明記されていますので、恐らくはきちんとメンテナンスを行いながら明治時代まで存続してたものかと。なにゆえに現在地に引っ越したのかはわかりませんが。ただし、元の場所にあったとされる唐笠松については、引っこ抜いて持っていったとは思えませんよね。また、ご覧になれば分る通り、現在の寺院さまは目茶苦茶綺麗で、最新設備って感じですので、どうにせよ改築されてることは間違いないです。
広沢寺・みどころ
すさまじい数の文化財が残されているのは、元々大内盛見さん建立の香泉寺のものを引き継いでいるからで、すべてが仏像や経典で、建築物は一件もありません。残念ながら、大内輝弘さんに燃やされた後再建されたとは言っても、年代モノの物件はないようです(あれば文化財指定を受けているはずです)。
山口県指定有形文化財:広沢寺薬師如来坐像、広沢寺ニ天王立像。
これらの仏像が、元は泉香寺に伝えられていたものであったことは前述の通りです。このほかに、応永十六年(1409)前後に書写されたといわれる「大般若波羅密多経五百八十八巻」があります。この経典書写のうち八巻には「勅版大般若経」が含まれていますが、この「勅版大般若経」というのは高麗の高宗が勅命で刻させたもののことをいいます。『趣味の山口』には、「寺蔵大般若経六百巻(內十巻闕ぐ)の內に高麗王廿三代高宗廿四年丁酉彫造七巻及び、其翌年戊戌彫造一巻計八卷が交つて居る。他は應永年間書寫のもので、元と宮野村關屋正安寺の旧藏であつたものが轉入したのである」とあります。つまり、大般若経は全六百巻あるらしく、そのうち、五百八十八巻伝えられているということは、うち何巻かは欠けてしまっているということになります。「勅版大般若経」はその中に極めて貴重なものが混じっていたということになりますが、「元正安寺」から転入したのは、それらの貴重なもの以外の写し(といっても、応永年間の写しであるから、それ自体も年代モノですが)だけなのか、まるっとこの寺院から広沢寺に移ってきたものなのか、ちょっとこの本文からはわかりません(読解力低ですみません)。
石段
それなり上ります。しかし、両脇に手すりがついており、きちんとご配慮がなされております。
ちなみにですが、この石段は車で来ると上らずともすみます。それゆえ上から見下ろしている構図なのです。何ならば、車道を行けば徒歩で来ても階段をスルーできそうに思えますが、毎回車のお世話になっているため、そこに気付いておりませんでした。それに……あるいは、寺院さまの御由緒看板類も、石段下にある可能性があります。
よく考えてみたら、山門も通った記憶がない、涙。おーーい、何をやっているんだ!? という気がして参りました。二回もご参詣しているのに……。
寺号碑
この立派な寺号碑。前回ご参詣した時には気付きませんでした。あまりにも真新しくて美しいので、もしかしたら、その後新たに建立されたものなのでしょうか。
薬師如来座像 & 二天王立像
文化財の仏像類というのは、有料で拝観可能な場合もありますし、寺院さまによっては事前連絡をしてお願いすれば、見せていただけることもあります。ただし、たいていの場合、仏像研究者以外にはあまり需要がないのかな、と思います。しかし、観光客の方にも、仏像に詳しい方は少なくないですので、そのような方は一日中拝観していても飽きないのだとか。どこそこ寺の ○○ 像さまが素敵とか、もはやついていけない境地に達しておられます……。
仏像? ただの仏様を像にしたものだよね? というレベルの観光客にはほぼほぼ需要はなく、文化財案内看板を拝見しても、こちらにはそーゆーものがあるんですね、どまり。ただし、やけに強調されているので(案内看板が二つありました。同じ内容のものが)、看板自体観光資源かと思えてきた……。看板を要約すると、以下のような仏像があるそうです。
「広沢寺薬師如来坐像」
平安時代末期の作といわれ、坐像としては大きい144.8センチメートルで、桧材の寄木造り。後世の補修がほとんどなく、当時の特徴をよく現わしている。
「広沢寺ニ天王立像」
四天王のうち、増長天と持国天で、薬師如来坐像と同時期の作。 ともに133.5センチメートル、桧材の一木造り。当初は彩色されていたものと思われるが、現在は剥落し素木のようになっている。
『寺院沿革史』には、現光沢寺の「寺宝」として、これらのほかに、「正観世音像、大内教幸の守本尊也死後当寺に納められ、二十年毎に開帳す」と書いてあります(前述)。これだけが重要文化財指定を受けていないのは、現在は失われているということなのか、あまり価値がないのかどちらかであるような。
ところで、教幸さんの守本尊が正観音(聖観音)であり、大内輝弘の反乱で焼け残った「観音堂」といった記述などから考えて、元々教幸さん菩提寺としての広沢寺の本尊は聖観音だったんじゃなかろうか、と考えてしまったのですが、違いますかね? だって、薬師如来は元々この地にあった泉香寺のものなわけで。本尊もそのまま引き継がれたのではないでしょうか。一観光客の推論です。
本堂
本堂には「檀信徒会館からお入りください」との張り紙があり、下の写真が、その檀信徒会館。『寺院沿革史』には、「本堂 六間ー四間 四百年前開基当時のものか」と書いてあるのだけれど(前述)、現在はご覧のようにたいへん立派な建物であり、開基当時から続くものとはちょっと考えにくいですね。ご本が書かれたのちに、改築が行なわれたのでしょうか。
檀信徒会館
このような立派な檀信徒会館があるのは、広く信仰されている証です。ただ、通りすがりの観光客的には「檀信徒」ではないため、入ってはならないのかな、と感じてしまうことも事実です。ご本堂に入れないと、お賽銭いれられないのですが……。
広沢寺古墳
なんと、広沢寺にはすごい古墳があった! 時間の関係で探すことはできませんでしたが……。看板のあるところがそうなのか、かなり奥まっているのか事前に調べていなかったので、ちょい前進して無念にも引返しました。まさか、こんなところに、古墳あるなんて、夢にも思わなかったのです。そもそも、看板も真新しく、数年前にご参詣した際には、なかったような?
このタイプ(?)の案内看板の場合、説明されているモノは看板の付近にあるはずですが、意外にも見落としが多いです。看板のすぐ下にあったりとか、設置場所の確保が難しいため、現物は看板背後の細道をずっと進んだ先にあったりとか。何度も看板だけ撮影して帰宅という失態をやらかしているため、ものすごく敏感になりました。
この看板の背後には、かなり長い道が続いております。ただ、そんなに狭苦しい道ではないですので、古墳の脇に看板を置くことも十分に可能と感じます。なのに歩けども歩けども何も見付けられなかったというのはちょっと考えられないので、恐らくは見落としです。再訪決定ですね……。
広沢寺(山口市黒川)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒753-0851 山口市黒川 1483
アクセス
最寄り駅が大量にありますね……。このような場合、どの駅からも歩けばかなりある感じです。ただし、矢原駅が最も近いように思えます。恐らくは歩けると思うのですが、今のところ、二回訪問して、ともにタクシーです。歩けると言っても、駅から往復したらそれなりですし、付近にほかの観光資源も特にないことから、あまりオススメはできない気がします。
タクシーを使えば、鰐鳴八幡宮のような場所も一緒に回れる範囲内に入ってくるので、ぐっと効率がよくなります。
ただ……よく見ると(地図)、山口駅から瑠璃光寺までと、矢原駅から広沢寺までの距離って同じくらいのように見えますよね。瑠璃光寺は山口駅から徒歩圏ですから、広沢寺も矢原駅まで出れば完全に徒歩圏です。ただ、山口線の本数がとても少ないこと。周辺はごく普通の町並みであって山口市内とはやや異なることなどから、歩いて行くべきかどうかはご本人のご判断によります。
参考文献:『山口県寺院沿革史』、『趣味の山口』、文化財説明看板
広沢寺(山口市黒川)について:まとめ & 感想
広沢寺(山口市黒川)・まとめ
- 大内教弘の兄弟・教幸の菩提寺
- 元は古熊の地にあり、大内輝弘の反乱で焼けてしまったが、再建されて存続していた
- 明治時代に現在地に移転
- 元々この地にあった、大内盛見が開基の泉香寺所蔵の仏像などを継承。それらは山口県の重要文化財となっている
- ほかにも、応永年間書写の大般若経が伝わっており、その中に高麗王朝の高宗による「勅版大般若経」が混じっている
- 付近に古墳があり、「広沢寺古墳」と呼ばれている
何と言いますか、本堂はじめ、境内は整備され、清潔感漂う寺院さまです。立派な檀信徒会館もあり、地元の方々に広く信仰されていることがわかります。元々古熊にあった大内道頓菩提寺が、廃寺となった泉香寺の寺地に移ってきたという、県内あるあるの変遷を経て存続している寺院さまとなります。しかし、寺地変遷はいたってシンプルでして、そんなに頭が痛くなることはないです。
山口県の重要文化財指定を受けている仏像が三体もある上、高麗王朝の国王に関わる経典も伝えられるなど、貴重な文化財の山である上、付近には古墳もあるというものすごい寺院さまでもあります。
ゆかりの地関連としては、前述のように、大内道頓の菩提寺。この人は法泉寺さま(政弘公)に叛旗を翻し細川家に味方するなど、とんでもないことをしでかしてしまった方ではありますが、この方なければ、我らが陶のくに・城主さま(若山城を造ったとされる弘護さま)の活躍もなかったわけで、輝かせてくれてありがとうという意味でなくてはならないお方です。
まあ、現在普通に拝観に訪れている方の中に、そんなどうでもいいことを気にかけている方はほぼおられないと思います……。貴重な仏像が三体もある寺院、観光客的にはそれがすべてです。それよりも、現在の話題は、古墳かもしれませんね。次回は何としても現物を見て帰らねば。しかし、基本は観光資源ではなく、檀家の皆さま、信徒の皆さまに支えられている、またそれらの方々を大切になさっている寺院さまです。
こんな方におすすめ
- 重要文化財がある寺院に関心がある方
- 古代史、古墳に関心がある方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
先代のお父上に叛くなんて、とんでもない先祖だけどさ、この人のお陰で、お祖父さまが大活躍することになったんだよね。
身内同士が弓矢のことに及んだというのに、「お陰で」なんて言い方は納得できないよ。実の伯父上と戦わざるを得なくなった父上がどれほど辛い思いをなさったか。君も一族のひとりなら、もう少し言葉を慎んで欲しい。
すみません。正義感の強い子なので、「叛く」なんてことをする人は成敗して当然って反応になっちゃってるだけなんです。
ううむ。父上(← 細川勝元)の攻略が見事にハマって西軍は目茶苦茶になったのだが。一番腹が立つ大内のところで成功しなかったとは想定外だ。十幾つの子どもが筆頭家臣などという空っぽ状態の分国だったというのに……。気の毒なことになった道頓殿のために参詣していくか。
来なくていいので即刻消えてください。
※この記事は 20231120 に加筆修正されました。 大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。 続きを見る
五郎とミルの部屋