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正八幡宮(山口市秋穂西)

2023年11月27日

正八幡宮・入口

山口県山口市秋穂西の正八幡宮とは?

嵯峨天皇の御代、弘仁五年(814)に宇佐八幡宮の神さまをお招きしたのが起源です。応仁年間に火災に遭った後、大内盛見は再建を計画しつつ果たせず。応仁元年(1467)、政弘代に再建されます。その後も火災に遭うなどしましたが、文亀元年(1501)、義興代に「ご神託」によって現在地に移転、再建されました。

江戸時代、元文五年(1740)に毛利宗広が造営したのが、現在の社殿です。以後も、補修事業が続けられて現在にまで続き、国の重要文化財指定を受けています。

正八幡宮・基本情報

ご鎮座地 〒754-1102 山口市秋穂西 337
御祭神 品田和気命、足仲津比古命、気長足比売命(注:要するに応神天皇、仲哀天皇、神功皇后です)
社殿 本殿、弊殿、拝殿、楼門、翼楼
境内神社 松尾社(大己貴神、少名彦名神、猿田彦命、棚織姫命、武内宿祢命)、厳島神社(三女神)
主な建物 鳥居、灯籠、宝物庫、御饌所、社務所、鐘楼ほか
主な祭典 例祭(旧暦八月十五日)、祈年祭(春祭、四月一日)、新嘗祭(十一月二十三日)
特殊神事 筒粥神事、頭屋祭(殿様行列)
(参照:『山口県神社誌』)

正八幡宮・歴史

往古、秋穂の地は異国の軍勢にたびたび襲われたといいます。そこで、嵯峨天皇の御代、弘仁五年(814)、宇佐八幡宮から勧請した神さまを「西戎降伏の鎮護の神」とし、□□(※看板文字不鮮明。二島古神の地)にお祀りし、八幡二島宮とお呼びしました。嵯峨天皇から、御宸筆の勅願と紺紙金泥の法華経が下賜されたそうです。

その後、火災に遭い、応永の頃、大内盛見が改築を計画しましたが、実現しなかったようで、応仁元年(1467)、法泉寺さま(政弘公)の代に再建されました。明応二年(1493)、再び火災に遭い、多くの貴重な品々も焼失。文亀元年(1501)、凌雲寺さま(義興公)によって現在地に移されました。この移転は「神託」によるものだそうです。

江戸時代、蛾害に遭い、元文五年(1740)、毛利宗広が現在の社殿を造りました。「山口県を代表する近世神社建築」(文化財説明看板)と称えられる、大規模かつ特徴的な建築物となっています。

大内氏、毛利氏の信仰がたいへんに篤かったほか、秋穂二島の惣氏神とされてお祭りなども盛大に執り行われていました。

拝殿周辺に溝が彫られているのは、そこに塩水を入れて、シロアリの被害を防止するためだったそうです。

(参照:神社さま御由緒看板。※やや判別不明な箇所あり)

正八幡宮・みどころ

文化財案内看板に、「山口県を代表する近世神社建築」とありますので、参詣後、その社殿の貴重なお姿をしっかりと拝見いたしましょう。

なお、御由緒看板によれば、社宝として、勅願、御託宣、連歌式目、四天王像、太刀一口、能面十面があります。このうち、能面は、山口県指定の重要文化財となっています。ご参詣して拝めるものではないですが、文化財案内看板によれば、文明年間のもの四面、延徳四年のもの一面、刻銘はないものの室町時代の製作と思われるもの五面の計十面ということです。つまりはすべて、大内文化の遺産といえます。現在は、県立山口博物館で保管されているそうです。

一ノ鳥居

正八幡宮・一ノ鳥居

こちらより、たいへん長い参道が続いております。

県社碑

正八幡宮・県社碑

この県社碑から二ノ鳥居に至る途中の参道右手方向に、放生池と厳島神社があったはずなんですが、まったく気が付きませんでした。

二ノ鳥居

正八幡宮・二ノ鳥居

鳥居脇に置かれた文化財案内看板によれば、この鳥居は寛文二年(1662)、惣氏子中により建立されたものです。「歴史的に貴重な建造物」として、山口市の指定文化財となっています。

長い長い参道

正八幡宮・参道

とにかく参道が長いのなんのって。両脇にはずらっと灯籠が並び、広範囲で篤く信仰されている歴史がうかがえます。真っ直ぐに伸びる参道ですから、遙か遠くからも社殿のお姿が拝めます。

社殿

正八幡宮・社殿

『山口県神社誌』によれば、「神紋 名称不詳」となっており、見たこともない紋が載っているのですが、拝殿にはしっかりと大内菱がついていました(黄色枠内)。これまた拝殿と楼門がドッキングした楼拝殿造りでして、もはやこの建築様式を見慣れているためか、何ら珍しく感じなくなりました。しかし、山口独特のものです。

現在の社殿は、江戸時代の再建物ですが、「正面の一部に室町期の蟇股が残っている」そうです。

脇からも拝見いたします。

正八幡宮・社殿(脇から見た図)

鐘楼

正八幡宮・鐘楼

社殿と同じ元文五年の建築物。神仏習合していた名残かと思われます。県下に同形式の鐘楼が残されている例が少ないこと、神社に残されている例はないこと、古い時代の建築物なのに建築された時期がはっきりしていることなどから、非常に貴重なものとされ、山口県の指定文化財となっています。

神社由緒碑

正八幡宮・由緒碑

『神社誌』の境内図から、これがどうも由緒碑ではなかろうかと推測。読めませんけども。亀趺なんですね。これって、それなりにレアなものらしいのですが、県内ではすでにいくつも見かけております。ゆえにもはや珍しくもないような気がします。

境内神社・松尾社

正八幡宮境内神社・松尾社

夥しい数の石祠群

境内には実に夥しい数の石祠がございます。境内神社としてご紹介があるのは、上述の「松尾社」だけなのですが、どうみても個人が寄進した灯籠などの類とは違います。大きな神社さまなので、例によって、小さな社や祠が整理された際にこちらに移されてまとめられたものではなかろうかと推測しますが、確信はありません。にしても、あまりにも数が多かったので驚きました。ご紹介するのは、そのうちの、本当にごくわずかです。

正八幡宮・石祠群

正八幡宮・石祠群(2)

松尾芭蕉・句碑

正八幡宮・松尾芭蕉句碑

「はるもやや 景色ととのふ 月と梅」という句が刻されております。元禄六年(1693)の作品だそうです。当時、この神社さまには、玉垣の傍に立派な紅梅があったゆえ、それを詠んだのです。残念ながらその紅梅も、今は枯れてしまいました。石碑は文政十年(1827)に製作されたもので、植え替えられた紅梅とともに名句を伝えております。

石造庚申塔

正八幡宮・石造庚申塔

庚申って、古文常識の参考書などに必ず出ているかと思うんですが、ヘンテコな虫が悪いことをしないよう、皆で徹夜するってやつですよね。それとかかわりがあるのか知りませんが、庚申塔なる石碑も至るところにございます。で、こちらの「石造庚申塔」は、またしても山口市指定文化財となっておりまして、まさに指定文化財だらけの神社さまです。

文化財説明看板によれば「県下最古の刻銘のある『庚申碑』で貴重ということです。塔ではなく、「碑」なんですね。さて、問題はこのなかにあるどれがその庚申碑であるのか、です。何か山と固まってありますからね。残念なことに、案内看板が、草木に覆われてしまっていて、全文を把握できなかったのですが、「笠があって、○○(見えない)上に立つ、塔身の正面を舟形○○……邪鬼を踏まえた青面金剛像を○○……上方に日月、下方に三猿、雌雄の鶏が彫られ○○……」というような具合でして。

笠が載っていて、正面に何かの像が画かれているものは向かって一番左側のものだけです。ただし、彫られた画像はほとんど判別が難しく、鶏や猿は確認できませんでした。思うに、それ以外のものも、かなりの年代モノみたいですね……。

正八幡宮(山口市秋穂西)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP 

ご鎮座地 〒754-1102 山口市秋穂西 337

アクセス

もはや MAP に最寄り駅がないです。あきらめてタクシーに乗りましょう。公共交通機関があればいいのですが、秋穂は山と回るところがありますので、地元の道に詳しいタクシーの運転手さんにお任せすれば、効率良く回れます。気持ち的には歩きたいのですが、八十八箇所とかあるくらいなので、みどころ数えきれませんから。

参考文献:神社さま由緒看板、文化財説明看板、『山口県神社誌』

正八幡宮(山口市秋穂西)について:まとめ & 感想

正八幡宮(山口市秋穂西)・まとめ

  1. 弘仁五年(814)、宇佐八幡宮から勧請した神さまを「西戎降伏の鎮護の神」として、祀ったのが起源。八幡二島宮と呼ばれた
  2. 応永年間に火災に遭って後、大内盛見は改築を計画したが実現しなかった
  3. 応仁元年(1467)、政弘代に再建される
  4. 明応二年(1493)、再び火災に遭い、文亀元年(1501)、義興代に現在地に移転。神託によるという
  5. 江戸時代、蛾害に遭い、元文五年(1740)、毛利宗広が現在の社殿を造営
  6. 「山口県を代表する近世神社建築」とされる貴重な社殿であり、国指定の重要文化財
  7. 大内氏、毛利氏の信仰、また地元の人々の信仰ががたいへんに篤かった。その信仰は今も受け継がれている
  8. 国指定の重要文化財となっている社殿のほか、山口県指定の重要文化財として、能面がある。また二ノ鳥居は山口市の重要文化財

広くて立派。鳥居も社殿も重要文化財という由緒ある神社さま。じつは、法泉寺さま再建、凌雲寺さま移転再建という、とんでもなくゆかりある神社さまです。現在の社殿は江戸時代のものながら、拝殿に大内菱がましましています。これはとりもなおさず、大内氏と深く深く結びついていた証です。

雅なことには不案内ですが、能面がスゴいことに。文明、延徳とかいう元号を聞いたら卒倒ものです。その頃に造られたということは、当然のことながら、その頃に使われたこともあったであろう、という畏れ多い貴重品です。残念ながら、能も能面も、恐らくは見てもさっぱり分らないと思いますが……。

それよりも、境内にある大量の小さな祠のほうが、じつは気になっているのです。どうみてもこれは、どこかから移されたものですよね? この神社ではなく、他県でのことですが、元あった場所に、その人を祀っていたはずの祠がなくなっており、明治時代に大きな神社に合祀されたとのこと。ところが、どこに合祀されたのかについては諸説あって、どれが正しいのかわかりません。おそらくは、こちらにあるように小さな祠だったと思われるのですが。合祀されたとされる大きな神社すべてを回りましたが、どこにも名前はありませんでした。そもそも、それらの大きな神社さまは、合祀と同時に元の祠類は整理してしまったらしく、境内はすっきりしていました。

こちらには、きちんと祠が残されています。まさか、すべての出所を知りたいとは思いませんが、中には同じように行方不明になった元祭神を探している人がどこかにいるかも……。しかし、これだけの数あると、整理されてしまうのも当然かな、と思ってしまいました。そのうち合祀社とかできるんでしょうかね。

こんな方におすすめ

  • 由緒ある古社をご参詣するのが好きな方
  • 重要文化財がある神社で、それらの貴重な文化遺産を拝見したい方

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎涙イメージ画像
五郎

なんかさ、毎日毎日八幡宮ばかり更新してないか?

ミル涙イメージ画像
ミル

たまたまだよ。検索で来た人には連続して八幡宮だらけとか分んないし、そもそも毎日見に来てくださるようなファンの人はココにはいないよ。つまり、誰も気付かないよ。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

ファンがつかないのはミルのせいだ。

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ミル

あんまりじゃん……。もうやめようと思ふ。

畠山義豊イメージ画像
次郎

そんなことより、「蛾害」って何なの? 蛾って、建築物を喰うのか? シロアリ対策までやってたのに。

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ミル

きかないで……それ、謎だから……。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

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全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
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