巻一:琳聖海東に渡り、大内県に采邑を得る

巻一:琳聖海東に渡り、大内県に采邑を得る

始祖来朝

推古天皇の十七年、周防国都濃郡鷲頭荘青柳浦に、大きな星が現れ、松の大木の上で七日七晩に渡って煌煌と光を放った。人々がこれを訝しく思っていると、次のような神託があった。
「異国の太子が来朝するから、それを擁護するために北辰が降臨したのである」
そこで、この地を下松浦と名付け、星を祀り、妙見尊星大菩薩の社を建てて、祭祀を行った。
それから三年が過ぎて、推古天皇十九年となったとき、百済国聖明王の第三皇子・琳聖が来朝した。

この百済という国は、三韓のうち馬韓の地に建国された。初代の王は東明といい、弓の技術に優れていた。東明の後、信、昆、慶、牟都、明淹、昌、璋と続いていき、璋の息子が琳聖である。
琳聖には、如来の化身を拝みたいという強い願いがあった。昼夜を問わず、寝食も忘れて祈り続け、すでに長い年月が経っていた。ある日のこと、倭国に聖徳太子という聖人がいる、という夢のお告げをきいたので、たいへん喜び、急ぎ東へ向かった。

周防国多々良浜に着岸した琳聖は、摂津国荒陵で聖徳太子に謁見した。折しも、太子は仏教を排斥しようとたくらむ大連一味と対立しているところだったから、琳聖は太子を助けて共に大連らと戦った。王子の活躍で、敵対する者たちを討伐することに成功した太子は多いに喜び、王子はその勲功により領地を賜った。

二つの妙見社

この時下賜された地が、周防国大内県であった。琳聖から数えて八代目、正恒のとき、多々良姓を賜り、以来当代まで綿々と続いている。

先に、下松の地に立てられた妙見社であるが、地元民の北辰=妙見への信仰は並ならぬものがあり、多々良氏においても、この妙見を深く信仰し、やがて「氏神」として崇めるようになった。社は先に桂木宮(宮洲)に移され、やがて高鹿垣へと場所をかえていた。山頂に建つ妙見社が放つ光の眩さは、船舶の航行に支障を来たすほどであったから、さらにそれを鷲頭山へと移した。その上宮、下宮には百二十三殿・中堂・普賢堂・楼門等が厳かに立ち並んでいる。

その後、琳聖より五代の子孫・茂村が、妙見社を大内県に勧進した。一族の本拠地・大内県には、琳聖によって氏寺・興隆寺が建てられていたが、同じ氷上山に妙見社を移し、氏寺、氏神を一所にまとめたのである。
氷上山には神社仏楼僧坊以下の建物が多数あり、その規模は鷲頭山の十倍にも及ぶ。もちろん、本元の妙見社に対する信仰にもぬかりはなく、一族の鷲頭家がこの社に奉仕し、手厚く祭祀を執り行った。

これより先、多々良氏の隆盛に従って、氏神・妙見社の祭祀もますます盛大なものとなっていくのである。

附:新介のコメント

父上がまとめた氷上山縁起などによれば……およそ上のような話なんだけど。
残念ながらイマドキの研究者たちには「否定されて」いる。

んーー? 何やら直訳っぽい文章でつまらない、と?
恐らくそれは、「中世の軍記物を口語訳しようとしたのですが、この程度にしか訳せませんでした」風の文体にしてあるからだよ。
こほん。
曾祖父様の代から先祖伝説の製作に熱が入り、父上の代にそれは完璧なものとなった。だけど、後世の人たちからは、「製作」の痕跡がまる見え。空から星が降ってくるとか、神のお告げだとか、そういうものは非科学的であると証明できる人々の目は欺けないね。
でも、当時の人たちはそれらを信じていた。だから、言い伝えや地元民の信仰に乗っかって神がかりな先祖伝説を流すことの効果は絶大だった。意味がないことなら、やる意義もないものね。
だけど星降る伝説が麗しいと思うならば、そっとそのまま信じてしまってかまわない。そのためには上のヘンテコな軍記物をもっと文学的に優れたモノにしなくてはならないけども。

とは言え、まさか本当に神のお告げで隣の国からやって来た王子が先祖なのか? というツッコミは避けられない。そもそも、琳聖という王子は「実在しない」ことが、先生方の研究結果から明らかにされてしまっている。
聖明王には王子が二人しかいないんだよ。三人目はどこから?

人物説明

琳聖王子とは――――大内家の始祖とされる伝説上の人物。伝説上の人物、としたが、実際紙に記された記録として、系図にも載っている。だが、繁栄のさなかに滅亡した大内家の系図は現代まで続くものではなく、ことに先祖などについては、意図的に[…]