簡略通史

大内庭園全年表 其の弐

ミル

何やら怪しすぎる日本語ですって? 自動翻訳機の日本語と比べてください。似たようなもんでしょ? 金谷先生、なぜと流れがわかりません……。

次郎

年表を見ながら、系図とお友達になるんだぜ? ないのか? け・い・ず! あ、それから。俺の名前がきちんと出てくるのね、これ。於児丸なんて影も形もないのにさ。へへへ。ん? 探してみて。残念ながらこのページにはないけども、俺らまだこの頃、生まれてたかどうかの年齢だぜ。

応永三年

九州探題今川貞世入道了俊が罷免され、義弘が後任となる。

応永四年

少弐入道宗間、菊池肥後守武朝、名和伯耆守顕長等が故征西将軍宮懐良親王の御子・征西将軍宮良宗王を奉じ、肥後国八代城にたてこもる。義弘は弟・伊予守満弘および六郎盛見に五千余騎を預けて九州に派遣。自身も渡海して所々で合戦。
八月廿二日、大友親世と軍を合せて八代城を落とし、九州が平定された。

応永五年

八月、朝鮮国の使者・朴敦之が来日。将軍家の命でもてなす。

応永六年

六月、京師から帰国。
十月三日、弟・盛見に不在中の分国を守らせ、新介弘茂および杉重運、平井道助等を従えて東上する。
十月十二日、泉州堺に到着。
十一月八日、前将軍・義満は管領・畠山右衛門権佐基国、同尾張守満家、前管領・斯波治部大夫義将、同左衛門佐義重等を率いて東寺に出陣した。
十一月十四日、前将軍は八幡に進み、畠山基国、斯波義将に先鋒を命じ下向させた。
義弘は堺に城を築き拠点とし、幕府軍を待ち構えた。
十一月廿九日卯刻、京勢が来て包囲する。
十二月廿一日、京勢は孤立無援と侮っていた要害を落とすことができず、火攻めの準備を始めたが雨のため出撃できずにいた。この日、雨が上がったので攻撃を開始。砦は焼け落ち、義弘は力尽きるまで戦って自害した。⇒「応永の乱」

応永七年

義弘の弟・弘茂は幕府に降伏し、防長二国を賜る。弟・盛見の討伐を命じられて帰国した。
盛見は豊後に逃れる。

応永八年

十二月廿六日、盛見が豊後から長府に帰る。四王寺山の毘沙門堂で弘茂と戦う。弘茂、敗北。
十二月廿九日、下山(豊浦郡江良村)で合戦。弘茂は再び敗れて、戦死した。
盛見は陶弘長入道道琳を守護代とし、三十日に入府した。

応永九年

正月十一日、盛見、山口に帰る。
三月九日、長門一宮に参詣。
七月、杉伯耆守重綱等を派遣し、弘茂の与党・長門厚西郡下津井地頭・箱田伊賀守弘貞を攻撃。弘貞主従三十六人を斬った。

応永十年

四月廿八日、将軍・義持から盛見討伐の命を受けた介入道と合戦。介入道およびこれを援助した国衆を悉く討ち取る。

応永十一年

春、吉敷郡上宇野令に香山国清寺を建立(祈願所および父・弘世、母・三条氏、兄・義弘の菩提のため)。
二月十七日、氷上山興隆寺本堂および仁王堂、鐘楼、上宮、山王社等が落成。
二月十九日、本堂供養会を行う。

応永十四年

四月、通文、通玉、仁方等を朝鮮に派遣し、一切経を求めた。
十二月。通文等が一切経を獲得して帰国する。

応永十五年

朝鮮国から使者が来て、去年の贈物の礼をのべた。

応永二十四年

三月廿二日、兄・義弘の牌を高野山成慶院に立てる。

応永二十八年

十一月十三日、将軍に供奉し伊勢太神宮に参詣。

応永二十九年

朝鮮に使者を派遣し、奉正大夫呉乙済、朝奉大夫鄭旅に友好を求める。

応永三十一年

六月廿七日、将軍が京屋敷を訪問した。

応永三十二年

鎮西が乱れ、叛臣三隊が周防に入ろうとした。京師から急ぎ下り、兵を率いてこれを撃破する。

応永三十三年

理趣分一千巻を印刷し、巻ごとに百銭をつけて諸国の貧僧に施与した。

応永三十四

四月九日、氷上山興隆寺で唐本一切経供養会を行う。

永享二年

六月十一日、長門国阿武郡大井郷に八幡宮を建立。

永享三年

六月廿八日、筑前国志摩郡深江で少弐と合戦。敗北し、ここで亡くなった。
七月三日、盛見が戦死し、持盛が豊前に在陣していたため、持世が自立して家督を領す。

永享四年

二月十三日、持盛が豊前から長門に帰った。
三月十五日、石見に出ていた持世が山口に帰る。
四月十六日、持世、修理大夫に転任する。
四月廿二日、長門国守護代・鷲頭肥前守盛範(後、弘忠)入府。
六月七日、持世、長府に下向。
六月九日、持世、一宮に参詣する。
八月十二日、盛見の牌を高野山成慶院に立てる。

永享五年

豊後に出陣、将軍の命を受けて大友中務少輔を討つ。
四月八日、持盛と豊前篠崎で合戦。持盛は敗死した。
八月、少弐を討ち、少弐父子を斬って首級を京師に送る。

永享八年

豊後国東神野城を攻撃して城を落とし、ついで姫岳城を落とす。

永享九年

筑前国宗像西郷で合戦(日付は、二月廿三日より前)。

永享十二年

四月二目、長門国一宮を修理し、遷宮式を執行、参詣。

嘉吉元年

六月廿四日、赤松満祐が将軍・足利義教を自邸に招いて弑逆した。⇒「嘉吉の変」
持世はこの日つき従っていて、重傷を負う。しかしながら、土塀を跳び越て幕府に還る。
七月廿八日、持世は京都で亡くなった。
養子・教弘が跡を継ぐ。
十月、赤松満祐追討の際、少弐嘉頼は幕府の命令に従わなかった。よって、教弘に少弐討伐の命が下り、筑前に渡って嘉頼を攻めた。嘉頼は肥前平戸へ敗走したから、その所領・博多、大宰府等の地をとりあげる。
十一月、嘉頼は平戸から対馬に渡り、宗氏に助けを求めた。筑前に戻った嘉頼と、上松浦で戦い、嘉頼は敗れて対馬に逃れた。

嘉吉二年

筑前国・千手城を救援した(三月十一日)。
馬見で合戦(三月十四日)
八月十七日、春日岳の戦いで敵軍を敗った。

文安元年

二月廿八日、養父・持世の牌を高野山・成慶院に立てた。
十二月二日、火災により居館が焼ける。

享徳二年

朝鮮が教弘に通信符を贈った。

享徳三年

宝珠山瑞雲寺(吉敷郡上宇野令白石)再建。

長禄元年

三月、安芸国で合戦。
三月廿一日、右田石見守貞俊、安富備後守行恒等が釈迦岳城を攻撃し、陥落させた。
五月十二日、己斐城を攻める。右田弘篤は城将・戸坂信成を斬ったが、この戦いで亡くなった。

長禄三年

二月七日、子・亀童丸(政弘)と氷上山上宮に参詣。

寛正元年

氷上山興隆寺に三重の塔婆を建立。
七月、大畠の守備兵が海賊を攻め、その首級を送って来る。

寛正五年

十一月、将軍・義政は、僧・承勲を派遣し、教弘に伊予へ軍を出すように命じた。管領・細川勝元も承勲に副えて私的な使者として僧恵鳳を送って来た。伊予の河野通春が幕府の命令にそむいたので、宇都宮家や細川家臣等が河野家を攻撃し、合戦に及んでいたのである。

寛正六年

八月廿六日、陶越前太郎弘正が安芸国府の戦いで戦死した。
九月三日、伊予に出陣中だった教弘は、船中で病になり、この日、伊予国興居島にて亡くなった。大内軍は棺を守って帰国した。

寛正七年

二月六日、山口に行脚して来ていた、前関東管領上杉安房守憲実入道が亡くなった。

応仁元年

六月十三日、山名宗全と細川勝元の間に確執があり、合戦となって各々諸国に合力をねがう事態となった。政弘は山名方となり、この日、合戦勝利の祈願状を長門国二宮に納め、分国の兵を挙げて東上した。
七月八日、備中下津井で合戦。
八月三日、摂津国有馬郡本庄山で合戦。
八月四日、武庫郡越清水で合戦。
八月十日、河辺郡難波氷室で合戦。末武大夫三郎弘春が戦死。
八月十七日、板見(伊丹)で合戦。
八月廿九日、これに先立ち摂津の敵を破って入京しており、この日加茂にて戦った。
九月朔日、花坊で戦う。
九月五日、同所で戦う。
九月十八日、岩倉山で合戦。
十月三日、相国寺で合戦。
十月四日、北小路室町、相国寺で合戦。
十二月廿六日、摂津河辺郡中島、宮原で合戦。

応仁二年

三月十七日、□□□で合戦。
五月八日、(同上)。
六月、安富備後入道等を摂津に派遣。
六月十六日、伊丹城を攻める。
十一月廿四日、陶弘房が亡くなった。
十二月十九日、細川兵が摂津神崎城を攻撃。城督・仁保上総介弘有が撃退した。
十二月廿九日、摂津国真下で合戦。

文明元年

五月、伯父・掃部頭教幸入道南栄道頓、仁保加賀守盛安が細川勝元に内通し、長門赤間関で挙兵。
この頃、豊筑の賊徒も挙兵。
七月、対馬にいた少弐嘉頼の息子・教頼は、細川方について将軍の命を受けて旧領筑前を回復。
八月十日、攝州河久良で合戦。
九月十三日、池田で合戦。
九月十七日、同上。
十一月十九日、敵軍が神崎城に来襲。仁保弘有が撃退。
十一月廿二日、陶弘護が周防国玖珂郡鞍掛山で南栄道頓と戦い、道頓の軍をおおいに破る。道頓は安芸に逃れた。
十一月廿八日、弘護は道頓の残党を江良城に攻め、道頓は安芸から石見にいたり、吉見信頼をたより、長門国阿武郡賀年に出て近郷を攻めたが、弘護に撃退された。

文明二年

道頓が再び挙兵。政弘の命で下向した益田越中守貞兼が弘護を助け、道頓は敗走して、馬嶽で自殺した。
五月十九日、摂津下島を守る将・山名弾正少弼政豊および神崎城督・仁保弘有等の軍が敗走。
五月廿五日、下島の軍が敗走したため、杉備中守秀明、椙杜孫七郎弘康等を摂津に派遣。この日福島城を落とした。

文明三年

正月元日、末武左衛門大夫氏久が阿武郡地福郷で吉見信頼と合戦。信頼に敗れて、氏久およびその子・孫三郎延忠、弥五郎幸氏が戦死。
六月十二日、兵を派遣し摂津の敵城・数か所を落とす。

文明四年

二月四日、周防国庁、火災。
八月、内藤弥七弘矩を長門国守護代とする。

文明五年

三月十九日、山名宗全が、五月十三日、細川勝元が死去。
十二月七日、摂津尾崎(あるいは尾島)、大物二城を落とす。

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