簡略通史

大内庭園全年表 其の肆

2022年3月27日

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五郎

「ねんぴょう」ってさ、フツーはコンパクトにまとまっているものだよな? 

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ミル

中世の童がこんぱくとなんてワードを使いこなせたとしても、ねんぴょうのあるべき姿だけは知らなくっていいからね。

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於児丸

コンパクトになってしまうと、このページ、ボリュームが足りないよ。文字数で分割したから。まさか、キチンと推敲せずに公開していたとは……。これって、まんま人物説明に使うはずの文章下書き版なのでは?

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ミル

大丈夫。「最後の」は山と寄進して、山と官位もらって、つまらない一行記事が大量にあるから、いくらでも増やせる自信あるよ! なんなら、厳島後もココに入れてしまおうと思ふ(吹き出しでも増やしている)。

大永元年

十月朔日、氷上山本堂を再建、本日上棟式を執行。山に登り、これを祝った。

大永二年

正月、陶興房に命じ安芸国佐東郡を攻撃。
正月十三日、興房、軍令を布告。
三月、興房、佐東に出て藤丸に軍を配置。
三月十八日、仁保島で合戦。
四月六日、上八屋で合戦。
四月十六日、同所で合戦。
八月、毛利元就に命じて、山県郡壬生城を攻撃させる。
八月十六日、壬生城陥落。
この月、興房は陣を解いて軍勢を解散した。

大永三年

夏、出雲国能儀郡富田月山城主・尼子伊予守経久が安芸に出撃。毛利元就は経久の招きに応じて、尼子軍とともに坂城を攻撃。坂城陥落。尼子兵は佐東郡に入り、鏡山城を攻撃。城は落ち、城主・蔵田備中守信房は戦死した(月日不詳)。
閏四月十一日、友田興藤が叛き、自ら厳島神主となる。 
八月、陶興房、大野の門山に陣を置く。
八月五日、友田で合戦。
八月十八日、弘中越後守、警固船の将として来て厳島を取る。
十月三日、佐東兵が厳島に来襲、迎え撃って敗走させる。
十一月朔日、佐東兵が石道城を攻撃。城主・木幡興行は降伏。同じ日、弘中越後守が五日市を焼く。
十一月五日、再び五日市を焼く。撤退の際、攻撃を受け、野間刑部大輔等二十余人戦死。

※この年、寧波の乱が起る。

大永四年

五月六日、陶興房、大野城を攻める。
五月十二日、友田興藤、武田光和は大野救援のため女滝に出陣。大野城主・弾正少弼は興房に内通して城に火を放ち、興藤と光和は逃走した。興房はこれを追撃。
六月、義興父子、厳島に出陣。
この月、杉修理亮は筑前で戦い、宗像四郎等が合力した。
七月三日、陶興房等、桜尾城を囲む。義興は厳島の勝山に仮館を造って本営とし、日々桜尾に渡り兵士の活動を取り締まった。
七月廿四日、陶兵が二墩に切り込んで戦った。
七月廿三日、また戦う。
七月廿五日、また戦う……(これより八月朔日に至るまで日々戦う)。
友田方、和睦を願い出る。
十月十日、興藤嫡男・藤太郎、義興に拝謁。

大永五年

正月廿八日、厳島社に参詣。
二月十日、陶興房は岩戸陣から厳島に渡り、義興をもてなす。
二月廿二日、義興は大野に渡り門山の地を見る。
二月廿六日、厳島から門山に陣を移す。
四月五日、陶興房、矢野に進軍。
六月、興房は賀茂郡に入り、天野民部大輔興定の志芳庄・米山城を包囲。尼子氏と断絶して味方になっていた毛利元就が、米山に使者を派遣し、興定を諭したので、興定はそのすすめに従って内通した。
八月六日、興房は天野興定と合流して、志芳奥尾で佐東兵と戦った。
八月廿七日、志和別府で合戦。
十二月廿七八両日、大友氏からの援軍一万ばかりが厳島に到着。
※この年、筑前国で一揆が蜂起したので、これを平定して張本四人を誅殺した。

大永六年

春、大友兵とともに、佐東□中城を攻撃。敵は降伏した。大友兵は本国に流言があり、帰国。た
七月五日、佐西郡草津で合戦。
九月十七日、防府松崎天満宮、火災。

大永七年

二月七日、石道新城で合戦(去年開城したが、大友兵帰還の後、旧に復した)。
二月九日、安南郡熊野城を落とす。
三月七日、新城で合戦。
三月八日、陶興房は毛利元就、天野興定、益田尹兼と合流し、安南郡世能鳥子城を包囲した。
三月十日、鳥子城で合戦。
十八日、鳥子城、降伏。城主・野村木工允、切腹。
四月七日、安南郡・府中城を攻撃。
五月五日、府中城で合戦。
五月六日、府中城の西固屋を落とす。
五月八日、府中城で合戦。
五月十二日、同上。
五月十三日、武田兵が府中城に来援し松笠山を攻撃。迎え撃って撃破した。
五月三十日、佐東郡久村で合戦。
六月廿一日、府中城で合戦。
八月九日、陶興房、備後国三谷郡和智郷細沢山で尼子伊予守経久と戦う。
九月、僧源松を明に派遣し明主の即位を祝賀。
十一月廿七日、興房、備後国三次郡三次で合戦。

享禄元年

二月十三日、吉敷郡鯖山禅昌寺、火災。
七月、義興は病に罹り山口に還る。
七月十四日、義興の病は日を追って重くなる。佐東から陶興房、野田興方、右田□□、杉興重、内藤興盛、門山から杉民部入道、右田右京亮が厳島に戻る。
七月廿日、興藤次男・広就、義興に拝謁。
十二月廿日、山口にて療養していた義興が薨ず。
十二廿三日、友田興藤、広就を山口に派遣(廿八日帰還)。

享禄二年

十二月廿三日、義隆、従五位上にのぼる。

享徳三年

四月十九日、大永六年、火災にあった防府松崎天満宮の再建を開始する。
十月三日、松崎天満宮が落成し、十四日に遷宮式を執り行った。

天文元年

八月十二日、黒川隆尚は豊後国玖珠郡春田で大友兵と戦った。
十月廿九日、正五位下を授けられた。
十一月十五日、少弐討伐のため、陶道麟が九州に渡った。

天文二年

二月十一日、陶隆康を目代として陶道麟の軍に行かせた。
三月三日、肥前国三根郡千栗村で合戦。
三月廿二日、立花城を攻撃、少弐資元は高祖に逃れた。
四月 六日、神崎郡石動村、大曲村で合戦。
十二月、道麟は軍を筑前にもどし、武蔵城を落とす。

天文三年

正月、朝日山城を落とした。
閏正月十六日、筑後国生葉郡大生寺城を攻める。
閏正月十七日、合戦。
二月十四日、豊後国具浦で合戦。
三月廿六日、玖珠郡で戦い、小半田明塚に放火する。
四月六日、山香郷で戦い、大牟礼山の敵軍を破る。また薄野浦で戦う。
四月三十日、正五位上にのぼっていたのが、この日従四位下を授けられた。
この春、朝鮮に使者を派遣し、五経正義および両寺の扁額を求めた。
五月十八日、高田で合戦し、敗北。薄野浦でまた戦う。
七月十五日、上春田、香原で戦い、上春田に放火する。
七月廿日、 惣福山の敵を破る。
九月十八日、大生寺城を落とし、城将・星野常陸介親忠兄弟を斬った。
十月、また勢福寺城を囲んで攻撃する。少弐冬尚は力尽きて降伏し、肥筑が平定された。
十一月廿日、義興の牌を高野山 成慶院に立てる。

天文四年

二月、道麒が九州より凱旋した。
三月廿四日、大友義鑑と和睦する。
六月、旱魃、法印・円政寺貴快に命じて請雨経法を行わせた。

天文五年

五月十六日、天皇即位の大礼資用を進献した功により、太宰大弐を授けられ、昇殿を許される。その勅使として従三位権中納言広橋兼秀が下向した。
十一月七日、杉小次郎長相、弘中下野守等を派遣して尾張守弘保を助け、安芸国賀茂郡頭崎城主・平賀蔵人大夫興貞を攻撃した。
十五日、頭崎で合戦。

天文六年

正月六日、従四位上にのぼる。
十二月六日、毛利元就の息子・少輔太郎が面会に来た。
十二月十九日、毛利少輔太郎に加冠し、一字を契約し、隆元 と名づけた。

天文七年

二月、安芸國・厳島大願寺の僧道本に書状と勘合を与えた。
二月廿五日、香積寺門前、火災。
二月廿七日、氷上山興隆寺塔頭円林坊、火災。
三月四日、築山門前、火災。
三月七日、本町、火災。
六月、左兵衛権佐から兵部権大輔に転任。太宰大弐は元のとおり。
六月廿八日、鰐石町、火災。
九 月九日、福屋上総介が□□城を攻撃、須子和泉守惟重等が迎え撃って退けた。
十月、これに先立ち五經大全、および佛廬僧房の榜額を朝鮮に求めていたが、更に朱氏新註五經および水時計を求めた。

天文八年

正月五日、正四位下を授かる。
二月十三日、氷上山恒例二月会。大頭・安富竹寿丸はその費用を支払うことができず、所領を収めてこれを埋め合せた。
三月、「三韻一覧」を刻し跋を加えた。
八月 (上旬) 、洪水、僧都性徳院日誓に命じて止雨法を行わせた。
八月四日、長門国豊浦郡、大風。忌宮宝殿および若宮等破壊転倒する。
この月、勘合船が明国から帰る。
九月、厳島大願寺の道本が一切経を求め朝鮮に送っていた使僧は、手に入れることができずに帰国。
椙杜善兵衛尉、宇野修理亮、杉二郎左衛門尉等を安芸に派遣。

天文九年

正月九日、義隆父子、防府に出陣。
二月十四日、椙杜善兵衛尉、宇野修理亮等、佐東川口で合戦。
二月廿二日、同上。
三月廿四日、伊予介を兼任する。
五月五日、佐東箱島で合戦。
八月七日、厳島社に剣馬を寄進する。
八月十三日、小原隆言を将として伊予に派遣していた警固船が、中島で合戦。
この月、防府から都濃郡野上村に陣を移し正雲寺に宿営。さらに玖珂郡本郷に進み、宿営する。
九月四日、尼子民部少輔晴久が大挙して安芸国高田郡に入り、毛利元就の吉田の郡山城を包囲した。
九月十三日、佐東金山城主・武田光和が六月九日に死去し、親族の伴某がその遺跡を沙汰したが、尼子氏に内通していた。本日事実が発覚して平城の前原で切腹させられた。
九月十廿六日、尼子兵・湯原弥次郎宗綱が坂豊島辺を侵略した。賀茂郡竹原小早川中務少輔興景の軍監として坂を守備していた杉二郎左衛門尉隆宣が迎え撃ち、宗綱を斬った。
九月廿七日、厳島社人・棚守房顕が下向して、本日面会した。
この月、本郷から岩国横山に進み、宿営する。
十月、陶隆房、内藤興盛等を派遣して、郡山城を救援する。
十月四日、隆房等厳島に渡る。
十月十七日、厳島社に御供を献上した。弘中武長を名代として渡海させる。
十月一日、陣中祈祷のため厳島に定燈を献ず。
この月、氷上山真如坊を名代として厳島に参詣させる。
十一月廿八日、去年から建て替えていた厳島外宮が落成、遷宮式を行った。太刀一腰、料足十二貫文を寄進する。 
十二月三日、隆房等は高田郡に至り、山田中山に陣をはる。白井房胤が海上で佐東兵と戦う。
十二月十一日、隆房は郡山城および五龍城の宍戸安芸守元源に連絡し、尼子の陣営・宮崎長尾を攻撃した。

天文十年

正月三日、弘中右衛門大夫興勝が尼子の陣営・青山を攻撃した。
正月十一日、夜大雪、隆房等は天神尾に陣を移す。敵はこれに気づかなかった。
正月十二日、桜尾城主・友田興藤が叛き、野島、呉島、因島の警固船を派遣して厳島を取る。
正月十三日、毛利元就と小早川兵が、宮崎長尾の敵営を襲撃・放火、三沢(三郎左衛門尉)高尾等を斬る。隆房はこの機に乗じて晴久の本営を衝かんと軍を三塚山下に進める。晴久の従祖父・下野守久幸が山上より下りて迎え撃ち、隆房の兵・深野平左衛門尉、口新右衛門尉、宮川善左衛門 尉、脇藤兵衛尉以下十四人が戦死し、江良伊豆守は負傷した。しかし終に久幸以下十五人を斃した。夜になって尼子は壊滅し、晴久は本国に逃亡した。
正月十五日、厳島を攻撃。三家の警固船は敗走、友田方の在島兵は廿日市に退き、厳島を押さえた。
正月十七日、棚守房顕が岩国に来て、十八日に面会する。
正月十九日、藤懸七尾で、内藤正時等が戦死。
二月朔日、嚴島に神供を献上し、 弘中武長を名代として渡海させる。
二月二日、厳島両社に剣馬を献ず。
二月十日、棚守房顕を防州の御師職に命じ、十五石の地および段銭三十弐貫を与えた。
二月廿三日、房顕が神事田社家知行段銭等の事を歎願。これを許可し、毎月社頭に太刀二腰、神 馬二疋を寄進することとする。
三月十八日、岩国から安芸に進み、大野の門山に陣をはる。
三月十九日、藤懸七尾に陣を移すため内藤左京大進隆時、弘中三河守隆兼等を派遣し、その地形を調べさせた。桜尾兵は帰還する味方を追撃。後軍は敗北して隆時の弟・彦二郎正朝および南野藤右衛門尉、宮川大蔵大輔等十余人が戦死した。隆兼が引き返して戦い、これをしりぞけた。陶隆房、佐東で合戦。
三月廿三日、義隆、七尾に陣を置き、桜尾を囲む。
四月五日夜半、城内の兵は逃亡。興藤は自殺した。
四月六日、軍を派遣し、友田広就が逃れていた五日市城を囲む。
四月八日、五日市城主・宍戸弥七郎は広就に切腹させて、その首を鼓桶に入れて 弘中隆兼におくる。
四月九日、七尾にて実検し、 桜尾城にて勝鬨式を行った。
四月十七日、厳島に渡る。
四月十八日、厳島社参、経会舞楽を執行させる。
四月十九日、神事祭礼目録等を一見して七尾に帰陣した。
五月五日、厳島端午の神事、部将等流鏑馬を催す。恒持、これを視察。
五月七日、七尾から厳島に渡って、外宮に参詣。御供ならびに太刀二腰、馬二足を献じて帰陣。五月十三日、佐東金山城の兵は尼子晴久が郡山で敗北した後、投降を望んだのでこれを許していたが、隠謀の噂があったので、笠井帯刀左衛門尉を使者とし、毛利元就を先鋒として金山を攻撃。金山兵は和を望んだのでこれを許したが、重臣・内藤武藤以下の者だけは土矢倉に追い払い、昨夜から今日までに悉くこれを攻め殺した。
五月十八日、毛利元就は武田氏の佳宝・新羅二郎義光の楯無の鎧を手に入れて陶隆房に贈った。陸房からこれを献上されたので厳島社に寄進する。
五月廿四日、七尾から佐東金山に陣を移す。
六 月(五日以後)、山里四郷を厳島に寄附し、二十日市東西の地領銭三十五貫を転経の三日の御供、社家供僧の堪忍分として与える。
六 月十八日、伊予国上中島警固として、小原隆言に白井房胤をつけて派遣する。七月廿六日まで滞在して三島、甘崎、岡村、能島、印島等で戦った。
八月廿二日、安北郡三入の観音寺に移陣する。
十一月十五日、佐東郡久村城主・久村才法師を誅す。
十一月廿日、棚守房顕を厳島の神主とした。
十二月廿七日、従三位を授けられた。大弐は元のとおり。

天文十一年

春、七年に朱氏新註五經および水時計を求めた使者が、朝鮮から帰国した。
二月、棚守房顕が嚴島に寄進した神馬のおろしは神主の所得とする古例であるが、去年正月十八日以後は房顯の沙汰となった。馬数はここにいたって八十三疋、請求に応じて 譲与したが、悪馬だったと返して来たものがあり、古例のように 神主・景教に贈りたい旨を言上した。 その言葉に道理があることをほめて、彼の馬足を景教に与える。
三月、伊予国中島警固兵が棚林城を攻める。
四月十一日、中島警固兵が援軍を願い出たので、小原隆言、村上掃部介を将とし、神代又太郎兼任等を派遣した。
六月、尻子晴久が郡山で敗走した後、従属する芸備石諸族の多くが内通し、そのうえ去年の十二月十三日、晴久の祖父・経久が死去したので、この機会に乗じて尼子氏を倒そうと、先陣の兵を出雲に入れ、飯石郡赤穴の瀬戸城を取らせた。
六月七日、瀬戸城を攻める。城主・赤穴備中守光清がよく戦ったので敗北し、安北郡三入城主・熊谷信直の弟・平三直続および陶隆房の兵・粟屋内蔵助等二十余人が戦死。
六月廿八日、三入より河本に陣を移す。
七月廿七日、瀬戸城を攻める。赤穴光清が出撃してまた敗北し、死傷者が甚だしく多かった。この日光清は矢に中り、城中に帰って死んだ。毛利元就は光清が死んだと知り調停した。光清の父・久清は二孫・満五郎盛清を伴って月山に篭城しており、城中には、嫡孫・与次郎詮清と、光清の弟・新兵衛尉定清がいたが、毛利元就の調停に従って降伏を求めたので、これをゆるして城地をとりあげ、詮清と定清を筑前に送置した。(十二年五月、敗戦の後、久清は石見佐波の泉山城を攻め取って盛清に与え、自らは出雲来島賀田城に居住した。詮清定清は筑前で自殺した)これ より出雲の諸城主は悉く内通した。
七月廿九日、飯石郡田木に陣を移す。
八月廿七日、出雲郡日御崎社に参詣し剣馬を寄進した。
九月三日、冷泉隆豊が鯛浦で合戦。
九月五日、意宇郡大根島で合戦。
十月、三刀屋峰に陣を移す。
十一月上旬、高津の馬場に陣を移し、ついで意宇郡馬潟の正久寺に陣を移した。

天文十二年

正月廿日、宍道の畦地山に陣を移す。
二月十二日、経羅木山に陣を移し、月山城にせまった。
二月十三日、富田で合戦。
三月十四日、月山城の鐘尾寺口、菅谷口等で合戦。
四月二日、「尼子御敵」退治の下知下された。
四月十二日、毛利兵、塩谷口で合戦。
四月三十日、あらたに投降した備芸石兵・吉川興経、三刀屋久扶及び三沢、本荘、広田、宮、桜井、江田、池上等が月山城と結んでいて、河を渡って月山城に入ってしまった。味方陣はこのために動揺した。
五月二日、城兵味方陣を犯す。
五月七日、城兵は浪士を集め、味方の糧道を断ち切っていたため、意宇郡出雲浦に退ぞいた。敵の追撃は甚だ急であり、父子はかろうじてのがれ船に乗る。晴持の船は転覆して、晴持溺死した。陶、 内藤ならびに備芸石の国衆は陸路から退ぞいたが、敵の追撃が止まず、毛利元就父子は屡々引き返して戦った。この退口で亡くなった者はその数を知らない、国衆である安芸の小早川美作守正平は敵に迫られて出雲郡林木で亡くなった。
五月廿五日、義隆、帰国。兵を安芸の沼田金山に派遣し、また安芸諸城主に敵兵来侵の防御を命じた。
六月廿七日、備後兵が安芸国豊田郡椋梨に侵攻した。毛利元就、乃美安芸守隆興、椋梨常陸介盛平等が迎え撃った。
七月七日また合戦。安芸国国役人として弘中隆兼を西条槌山に派遣した。
十二月廿三日、冷泉隆豊は伊予で戦い、梁瀬市助の船一隻を奪った。

天文十三年

正月五日、侍従を兼任。
三月(上旬) 、卜部兼右が山口に下向し、神道行事を授かる。弘中隆兼が備後に軍を出す。
三月十一日、毛利兵、田総で戦う。
七月廿八日、府野で合戦。

天文十四年

正三位を授かった。
五月、相良武任、辞任する。

天文十五年

春、柳原大納言資定、 持明院左衛門督基規 および竹田法眼定慶、 神光寺住僧某等と経書を輪講 し、疑問点を外記清原頼賢、官務小槻伊治に問い質した。これに先立ち、近習、小座敷の者に四書五経を講釈し、頼賢の祖父・宣賢入道環翆軒宗尤の「四書五経諺解」を銭五万匹を贈て借写した。
二月十六日、冷泉隆豊、伊予国平智島で戦う。
八月六日、中途表で合戦。
八月十五日、同上。

天文十六年

二月、将軍家の命で明に船を派遣。
三月十九日、兵部卿を兼任する。両職元の通り。
四月廿一日、天野興定、渋谷城を攻める。
四月廿八日、毛利氏、小川氏と合流して備後国外郡五箇庄で戦い、坪生の要害・龍王山を落とす。
五月八日、伊予警固兵、中途表で合戦。
八月、小原隆言を安芸に派遣。
十一月廿七日、安芸国厳島の鳥居を修築し、勅額を望んでいたところ、宸筆を賜る。
十二月(下旬)、小原隆言が安芸に出ると、尼子兵が備後兵の援軍として国境を守備していたので、賀茂郡志波で毛利元就と相談し、外郡に出陣した。外郡がおおよそ味方に属したので、尼子兵が帰国したことを知らせるため、本日山口に還る。

天文十七年

義隆の養女(内藤興盛娘)が毛利隆元の妻となる。
六月二日、毛利元就は国衆をひきいて備後安那郡神辺を攻撃し、村尾城主・山名宮内少輔理興と戦った。杉甲斐守、小原隆言も出張していて弘中隆兼とともに毛利氏の軍を監察した。
六月五日、神辺で合戦。
六月十八日、村尾城に迫り、塀ごしに戦った。
六月廿日、また戦う。
八月、相良武任入道を再仕させる。
この年、従二位を授かった。

天文十八年

正月、麻生余次郎が家人・小田村備前守を殺害したが、陶隆房は余次郎と兄弟の契約をしていたから、このことを知っていた、と所々から注進してきた。隆房に問いつめたところ、 契約状を捧げ、備前守の事は知らなかった旨を述べた。
三月朔日、毛利元就が面会に来る。
三月五日、元就をもてなす。
三月十五日、長門小守護代・勝間田左近将監盛治は「長門国守護代記」を編し守護代・内藤興盛に献上した。
四月六日、備後神辺で合戦。
四月十二日、元就がその宿舎・浄光寺で酒宴をした。
四月十六日、神辺で合戦。
四月十七日、また戦う。
四月廿六日、薬湯(くすりゆ)をしつらえ、元就を招く。この月、平賀太郎左衛門尉隆宗が神辺陣中から、一つの城を取るために大軍を他郷に置くのは不利であると意見を述べてきた。隆宗は以前から山名に恨みがあるので、隆宗に任せて欲しいと願い出たので、隆宗に城攻めを命じた。五月十五日、元就を宴会に招く。
五月十七日、元就の宿舎に赴く。
五月十八日、元就帰国の途に就く。
九月四日、平賀隆宗は去年四月以来、神辺に在陣し村尾城を包囲していたが、病に罹り、七月三日に死去した。家臣等はその遺志を果さんと攻撃をやめなかったので、遂に城中は力尽き、この夜、山名理興は囲みを衝て逃走した。
九月十三日、平賀兵が村尾城を取ったとはいえ、城主・理興が逃亡したので、弘中隆兼、青景隆著を備後に派遣し、隆著に村尾城督を命じた。
冬、嫡妻万里小路氏と離婚して京師に送り返し、妾小槻氏を嫡妻とした。
この年、内藤興盛の娘を養女とし、毛利隆元にめあわせた。

天文十九年

八月十五日、仁壁神社、今八幡宮の例祭が執り行われた。これに参詣しようとしたとき、数年来相良武任をにくんでいた陶隆房が、遠江守(相良)が両社参詣に供奉する途中で襲うとか、参詣の後に相良の屋敷を攻撃して恨みを晴らすとかの浮説(噂)が起こったから、参詣をやめ、右田右京亮に代参させた。
八月十六日、浮説をきいた近郷の兵が山口に駆けつけ、屋形を警衛した。隆房は無実を訴えた。杉重矩、内藤興盛は陶に同意したという噂があったから、各々実子を質に出して、よこしまなき旨を述べた。それでも、陶追討の兵が差し向けられるとか、尾張守に切腹させるとかの浮説がまた起り、隆房はその防御をした。夜になると相良武任は逃げ出した。
八月十七日、陶安房守隆満、杉民部入道與重、吉田若狭守興種に、家人をあつめ武器を用意するのは何のためかと隆房に問いつめさせると、来年の氷上山二月会大頭になったので、役者定めのために、侍共を少々呼寄せただけであり、武器についてはいつわりである、と述べた。かくてさまざま申し開きにつとめて、事はようやくしずまったのだった。
十一月、陶隆房は所領・都濃郡富田に帰った。

天文二十年

二月十三日、氷上山恒例二月会。本年の大頭である陶隆房は出仕しなかった。
四月、相良武任が帰国し再び出仕した。
八月五日、夜半、館内に光り物が飛び、関の声が挙がった。宿直がその場所を調べたがまったくあとかたもない。 この頃、不思議なことが頗る多かった。
八月十日、相良武任が再び出奔する。
□□日、豊後国主・大友義鎮の使者が来る。
八月廿三日、陶尾張守が謀反し、廿八日を以て現形するといって山口が動揺した。
八月廿七日、大友家の使者をもてなし、 能を興行した。ふだん能興行の時は庭上に市街の者がおおぜい集まるが、世間が騒しいので参入する者は一人もなかった。夜になって能が終り、戌刻ばかりなって宴が散じ、使者が退出した後、陶尾張守が謀反して徳地口から攻め入った。防府口からは江良丹後守、宮川甲斐守等攻め入ったと所々から注進があり、館内はただ仰天し、人々はたがいに胸中を疑い、正気をなくした。
八月廿八日、諸将士が集まったのに、杉重矩、内藤興盛は出頭せず、 このことを言上する者がいたが、杉と内藤は謀反しない、とうたがわなかった。しかしながら、両人がなおも出頭しないので、飯田興秀と 仁保隆慰を遣わして出頭を命じ、待っていたのに来なかったので、再三催促したけれども出頭しなかった。冷泉隆豊は、杉と内藤が陶の仲間であることは紛れもないので、隆豊に兵士を預けたならば、杉・内藤の屋敷に押寄せ、彼等に腹切らせましょうと願い出たが、何事もなく和解するように勧めようといって許さず、武官たちと防御の相談をする。屋形で一戦して御自害なさるべきである、というと、屋形は平地なので防戦に不向きであるから、法泉寺に退いたほうがよいという者が多かった。佐波隆連はとても助かる道のない戦いで、大将が一歩でも退ぞくことは末代までの恥辱である、ただ屋形にて御自害すべきだと言い、天野隆良も賛成したが、安富源内、清ノ四郎が無理に法泉寺に退ぞく利を言うと、それがよいとして、屋形をすてて法泉寺に入った。ともに随う兵は三千余、寺家を本営とし、冷泉隆豊、黒川隆像、佐波隆連、江口五郎等 に嶽の観音堂、求聞寺山を守らせた。この時にいたるまで、使者を遣わして内藤興盛に出頭を促していたが、法泉寺に退去したと知るや否や、興盛は杉重矩とともに陶の陣に馳せ加った。
八月廿九日、昨夜本営の兵の多くが脱走したので、隆豊等を召還した。日中になって賊兵五千余が迫って来た。隆豊等が出て戦おうとすると一兵士がすすみ出、敵の不忠を大声でなじった。賊はこれをはばかって前に出ない。味方もまた前に出ず。敵味方矢戦だけでしりぞいた。二条前関白尹房、法性寺および外記を興盛の陣営に派遣し、大弐が隠居し曹子に家督を相続させて和睦しようと命じると、興盛はその命をうけたまわらず、今に及んでのて調停など、思いもよらぬことである。大弐は自害なされ。御使の両人も一命は助けるから陣中にとどまっておられよ、と言い捨てて、幄(とばり、陣営の幕)中に入って二度と出て来ない。両使が報告すると、義隆は自害しようとしたが、清ノ四郎がこれをとどめ、義稙将軍の故事を例に挙げ、どこへでも逃れて九州の兵を挙げ、賊を討つべきであるとすすめたので、義尊を同朋龍阿に抱かせて、二条左中将良豊、持明院基規入道をともなって長門へ逃れた。冷泉隆豊、黒川隆像、岡部隆景、天野隆良、 太田隆通、 岡屋隆秀、 祢宜右延、小幡義実等がこれに従った。陶隆康は法泉寺にとどまり、追撃兵をくいとめて戦い、亡くなった。

岡部隆景は所領が美祢郡岩永にあったので、道案内をして綾木村まで来た。義隆および良豊 は足指をいため歩行することができず、隆景が駄馬(荷物を背負って運ぶ馬、下等なつまらない馬、荷馬)をさがしてこれに乗せ、岩永にゆきつき、即心菴で食事をさせた。東方が明るくなる時分、大津郡仙崎に着き、船頭・後根壱岐の船に乗り、一里ばかりこぎ出すと、風が吹いて波がたち船がまったく進まないので、漕返させて上陸し、深河の大寧寺に入った。義隆は沐浴(湯水を使って神谷からだを洗い清める)して長老異雪に、法要を問訊して弟子となり、 先に法名を大瞻宗雄と号していたが、さらに瑞雲珠天と授かった。

こうしてそれぞれ絶命の辞を作り、寺僧が朝餉(かれいい)をごちそうし食事しているときに、 賊兵が追躡し(おいかけ)て来て山門外で鬨の声がおこった。隆豊は席を立ち 山門に出て、ここに向かって来ようというのは、各方面衆のうちの誰であるか、尋ねたい仔細がある、かく言うは大夫判官隆豊である、と大声で叫ぶと賊が一人すすみ出、面々衆のうちは一人もおいでになっていない、陶尾張守が郎党共であると答えた。隆豊はこれをきいてどう思ったのだろうか、二言とも問はず、方丈室に戻り、義隆に自害をすすめ火を放った。 そこで義隆は隆豊に介錯させて死んだ。享年四十五歳。天文二十年九月朔日巳刻のことである。隆豊等はこれに殉じた。

天文廿二年

七月、内藤興盛、備後に出陣(十月帰還)。

天文廿三年

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