簡略通史

大内庭園全年表 其の参

新介

アイキャッチが父上なのに、なんだかご活躍が少ないではないか。区切り方に問題があるのでは?

ミル

気になるのはソコなのか!? あのですね、このページには、とんでもなく問題があります。課題が山積しておりますから、アイキャッチなんてどうでもいいのですよ。応仁文明の乱のど真ん中でぶった切ったことはお詫びいたしますので、お引き取りを。

於児丸

あの……アイキャッチはどうでもいい問題ではありません……庭園の主に嫌われたら、追い出されてしまいます。真面目に悩んでください!

文明六年

四月十五日、山名弾正少弼政豊が叛き、敵陣に馳せ加わる。よって諸将は大内軍に洛中の警衛を依頼した。
七月七日、六角油小路に築いていた砦が完成。杉備中守秀明を主将とした。

文明七年

五月十四日、相楽郡木津で合戦。
七月七日、瑞夢をみたので、長門国忌宮に伯耆大原真守作の打刀を奉納した。
冬、陶弘護が吉見信頼を攻撃し、阿武郡得佐で対陣した。

文明九年

東西両軍ともに兵を解いて国におもむく。政弘も将軍家に友好を申し入れ、十一月に帰国。

文明十年

吉見信頼が降伏を求めてきたので、これを許す。陶弘護を筑前守護代とした。
七月、少弐教頼を攻撃。陶弘護を先駆けとし、弘護は弟・弘詮と九州に渡り豊筑で戦った。
九月十三日、鷲岳城を攻める。
九月廿五目、大宰府で戦い、教頼の軍をおおいに敗り、教頼を斬った。筑前が平定された。

文明十一年

八月朔日、将軍・義尚から剣一口を賜わる。
閏九月廿日、隠居していたが、将軍は内藤弾正忠弘矩等に内書をあたえ、むりに引きとどめた。十月三日、防府松崎天満宮に参詣し、後御門の井中に白蛇を見る。
十五日、いにしえよりこの社頭では白蛇を崇敬しているので、将軍からたまわった剣を奉納した。
冬、筑前守護代・陶弘護はその職を弟・右田弘詮に譲って帰国した。

文明十二年

相伴衆となる。
十二月六日、長門国一宮、二宮および亀山八幡宮(赤間関)に参詣。

文明十四年

春、石見国邑智郡三原城主・小笠原元長が面会に来る。
五月、吉見信頼が面会に来る。
五月廿七日、宴席を設ける。座中で陶弘護が吉見信頼とたがいに差し違えて亡くなった。

文明十五年

故教頼の子・少弐政資が旧領をうばいとった。
政弘自らこれを撃つ。前軍を派遣。所々で合戦。
七月二日、久芳掃部助永清を旗役に命じる。ついで赤間関に下向した。更に前軍を九州に派遣した。
八月一日、九州渡海の兵船、赤間関の職務たるべき法を定める。
九月十六日、二宮に参詣し、一七日参篭する。本宮及び一宮、亀山(赤間関鎮坐八幡宮)に社領を寄進する。将軍が少弐の罪科を赦免し、本領を安堵させる。政弘は軍を収めて山口に帰った。

文明十六年

冬、周防国佐波郡阿弥陀寺、火災。

文明十七年

七月十六日、氷上山興隆寺に山門を建立。

文明十八年

二月三日、嫡男・亀童丸、氷上山上宮に参詣する。
十月廿七日、氷上山に宸筆の扁額および勅願寺とする宣旨を賜る。

長享元年

九月、将軍・足利義尚は自ら兵を率いて江州坂本に下向し、六角高頼を討った。
十月、高頼は逃れて、甲賀山に隠れた。義尚は軍を進めて、鈎里にとどまった。
十二月、京都に行く準備をしていたが、さしさわりになる事があって東上することができず、名代として問田大蔵少輔弘胤を派遣した。
十二月廿二日、弘胤が鈎里に参陣する。
十二月廿七日、従四位下であったのが上にのぼる。

延徳元年

夏四月廿六日、将軍・義尚が先月廿六日鈎里陣中で薨去したしらせが到着したので、分国中に常赦を行い、この月から来年三月廿六日まで間、殺生を禁止した。商売の釣漁狩猟は先例による。

延徳三年

七月廿七日、将軍・足利義材が六角高頼を親征し、この日京師から進発した。上洛していた政弘はこれに供奉した。

明応元年

冬、嫡男・義興が近江に参陣した。
二月十四日、将軍帰洛する。

明応二年

二月十五日、将軍義材は畠山弾正少弼義豊討伐のために河内に下向した。義興、供奉する。
四月廿五日、義豊は細川右京太夫政元に救援を求め、将軍の陣営正覚寺を襲った。畠山尾張守政長は力をつくして戦い、これを防いだが、たえられず亡くなった。政元は将軍をとらえて家人物部の家にとじこめた。
八月四日、山名松田等が乱をおこし、攻撃してこれを平定した(古文書・京師にての事である。事実つまびらかでない。また父子帰国のことも分からない)。

明応三年

二月十八日、氷上山興隆寺、火災。
三月四日、夜大雷雨。今山瑞雲寺、火災。
五月二日、興隆寺の洪鐘を鋳る。
九月、興隆寺を再建する。この秋より以後中風が再発し、家督を義興に譲る。

明応四年

当主:義興

政弘の母氏が亡くなった。
二月廿八日、義興、防府に軍派遣。長門守護代・内藤肥後守弘矩及びその子・弥七弘和を誅殺。
七月、政弘が病気になる。次第に重くなり、九月十八日夜、薨去。
七月十九日、吉敷郡上宇野令滝の法泉寺で殯する。
七月廿二日、法泉寺の後山に葬り、法泉寺直翁真正と法名す。

明応五年

十一月廿二日、少弐政資、筑前を乱す。
十二月十三日、義興、筑前出兵。

明応六年

三月十三日、博多・聖福寺門前で合戦。
三月十五日、筑紫村および城山で合戦。
三月廿三日、肥前国・朝日城を攻撃し、陥落させる。
四月十四日、小城城で少弐政資を囲む。
四月十六日、義興、周防国五社参詣。
四月十八日、小城城陥落。政資は逃亡。
九月、内藤掃部助弘春、長門守護代となる。
九月十八日、義興、父・政弘の牌を高野山成慶院に立てる。

明応七年

八月廿七日、仁保左近将監護郷等、肆基、養父両郡で敵を撃破。
九月十七日、三根郡・中野の要害を撃破。
十一月、右田右馬助弘量および末武左衛門大夫長安等を豊後に派遣。日田、玖珠二郡を攻撃。
十一月七日、玖珠郡青内山の戦いに敗北。弘量戦死、長安負傷。

明応八年

正月十七日、吉敷郡仁保・瑠璃光寺、火災。
七月廿五日、杉新左衛門尉弘国を派遣、豊前を攻撃。
八月廿九日、企救郡小倉津で合戦。
十一月、大宰筑後太郎頼総等、筑前を乱す。
十一月十九日、大分村で頼総等を破り、八幡馬場及び内野坂に追撃。天野式部大輔元連の兵・河村豊後、太宰四郎を斬った。

明応九年

三月五日、周防に逃れて来ていた将軍・足利義尹(義材)を居館でもてなす。

文亀元年

二月朔日、将軍に仕える荻野三郎光豊が今八幡宮で、尊氏将軍が建武三年豊前宇佐八幡宮に奉納した由来をしるした旗を見付けた。
二月三日、将車は剣と馬を、義興は家宝の菊銘の太刀や馬を今八幡宮に寄進する。
二月四日、旗の模本を造り、相良正任に裏書を命じて、今八幡宮に納める。
閏六月廿日、大友、少弐、豊前・馬岡城を攻撃。
閏六月廿四日、神代与三兵衛尉、安楽平、高祖両城内の兵を引率し、援軍として馬岡城に入る。
仁保左近将監護郷、仲津郡沓尾崎で戦死。
七月六日、氷上山妙見社で九州の凶徒退治祈願。家宝の剣・鳶切を奉納する。
七月廿三日、杉木工助弘依等を援軍として馬岡に派遣。城兵と合撃し大友・少弐兵を退けた。

永正四年

十一月廿五日、義興、将軍を奉じ山口を出発して防府に至り、中西国九州の兵を召集する。

永正五年

四月、細川右京大夫高国が先駆を承り東上する。
四月九日、細川右京大夫澄元および三好希雲等、京師から逃亡。
四月十日、細川高国が到着し、従父弟・中務丞尹賢に命じて、摂津国池田城を攻撃させた。
四月十六日、将軍・足利義澄は近江国に逃亡。
四月廿七日、義興は将軍を奉じ、堺浦に着く。
五月十日、細川尹賢が池田城を落とし、城主・池田筑後守を斬った。
六月八日、将軍入洛。
七月朔日、将軍復職。
八月朔日、義興、従四位下を授かる。
九月十四日、義興、従四位上にのぼる。
十二月八日、厳島神主・四郎興親が病死。神主家断絶。

永正六年

八月、少弐の残党、筑前で蜂起。軍を派遣し、これを攻撃。

永正七年

四月、本郷扶泰に若狭国の本領を安堵させるよう、将軍に推挙。

永正八年

七月、細川右京大夫澄元が挙兵。細川右馬助政賢は和泉、淡路守は摂津に出陣。細川高国は二国に兵を派遣。
七月廿六日、灘で合戦。
八月、高国の兵は敗走し、鷹尾城、伊丹城等が陥落。
八月十六日、将軍は丹波国守護代・内藤肥前守貞正の屋敷に下向。後陣の兵が千本口で合戦し、追撃する敵軍を退けた。
八月廿三日、将軍は高雄に、義興は細川高国等と長坂山に、敵は紫野船岡今宮林に陣を置く。
八月廿四日、義興は先鋒を承り、陶興房を先駈として、船岡に向かう。敵陣はことごとく敗れ、細川右馬助政賢以下数十人が戦死し、澄元は逃走した。
九月朔日、将軍入洛。
十二月廿五日、義興、嵯峨野に遊び、西芳寺にて歌を詠む。

永正九年

従三位を授かる。

永正十一年

将軍が馬および国宗の太刀を氷上山に寄進。

永正十二年

十一月十三日、氷上山妙見に菊銘の太刀、行平の刀を寄進。
十二月二日、将軍の三条の新館が落成。義興は病気のため、杉越前守に太刀と折紙を献上させてこれを祝った。

永正十三年

摂津有馬の温泉で湯浴み。

永正十四年

二月十三日、嫡男・義隆、氷上山上宮に参詣。
十二月、武田元繁が山県・有田城を攻撃。
十二月廿二日、毛利幸松丸の叔父・元就が有田を救援。武田元繁を斬った。

永正十五年

八月二日、堺を出発。
十月五日、山口帰着。
十一月、山口に神を勧請をするため、高嶺山の麓で地相を占った。
十一月十三日、釿始(ちようなはじめ)の式を行う。

永正十六年

十一月三日、高嶺内宮落成。
十一月九日、祇園社、遷宮。

永正十七年

四月八日、高嶺外宮落成。
六月六日、祇園社落成。
六月七日、祇園仮殿より今道の御旅所に神幸。
六月十四日、祇園還幸のはずが、雨天によって延期。
六月十八日夜、遷宮。今道より直接新殿に還幸した。
六月廿六日、神明の御体代を奉送し、伊勢から下向して来ていた吉田神主・御師高向二頭大夫光定が、儀式をととのへ本日より参篭。
六月廿九日夜、遷宮式を行い、父子参詣。
十二月十日、長門国豊浦郡阿弥陀寺、火災。

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