山口県山口市大内氷上の山根観音堂とは?
氷上山興隆寺からほど近いところにあります。もともとは氷上山西ノ 浴観音堂(現在地より 300 メートル東)で、興隆寺の坊のひとつでした。明治十七年(1884)、現在の地に移築されました。安置されている「木造聖観音立像」は、後世に補修された部分もありますが、平安時代後期のものと考えられ、山口県の有形文化財に指定されています。
この観音堂裏手に木喰上人作の立木仏があり、また、付近には奇兵隊軍監・福田侠平公明之墓もあります。それぞれ時代も趣も異なる史跡ですが、まとめて観光するのがよいと思います。
山根観音堂・基本情報
所在地 〒753-0231 山口市大内氷上4丁目4
山根観音堂・歴史
もとは「氷上山西ノ 浴観音堂」であったという文化財説明看板の情報以外は不明です(書いている人が知らないだけです)。『大内文化探訪ガイド No.2』によれば、このお堂は「もと氷上山興隆寺の一坊」であったとのことです。興隆寺の坊だった時のご由緒や、明治時代にこの地に移転した理由などは特に書かれていませんでした。⇒ 関連記事:興隆寺
山根観音堂・みどころ(含その周辺)
観音堂があるだけです。本尊である「木造聖観音菩薩立像」が県指定有形文化財ですが、お堂の中にあるため見ることはできません。特に秘仏などではないようですし、じつは、隙間から覗くことができそうではあります(と思いますが、覗きませんでした)。
なお、観音堂裏手に木喰上人作の立木仏と奇兵隊軍監・福田侠平さんの墓所(遺髪墓)があります。二つとも、山根観音堂とは無関係の別々の史跡ではありますが、位置的にほぼ同じところですので、まとめてご紹介します。
山根観音堂「木造聖観音立像」
「ヒノキ材の一木造りで、高さが一五一・五センチ、宝冠をいただき、 条帛を左肩から掛け、両肩から天衣(てんね)を垂らしています。右手は垂下して手の平を前にして五指をのばし、左手は屈して持物をとる形で、顔をやや右に向け、腰を少し左にひねって台座上に立っています。光背や台座は後補と思われます。全般に体部や衣紋の浅い彫り、軽やかな衣の処理などから平安時代後期一二世紀前期頃の作と見られます。
造られた時には、肉身や衣に金箔や彩色が施されていたようですが、 現在はわずか一部にその跡が残っているのみで、ほとんど素地となっています。」(説明看板)
仏像をご覧になりたい方は、観音堂をご訪問いただくか、もしくは上掲の『大内文化探訪ガイド No.2』にも写真が掲載されています。自治体様 HP の文化財紹介ページなどにもあると思います。
附・木喰仏 氷上
「もくじきぶつ」と読みます。周囲3メートルを越える楠の木です。ガイドさんと二人で木に抱きついて、お互いが手を伸ばしてやっと届くくらいでした。この木の中に、地蔵菩薩が彫ってあります。このような仏像は「立木仏」と呼ぶようです(Googlemap にもそのように書かれています)。甲斐国出身で、江戸時代の末、周防国のあちこちに仏像を彫ったことで有名な木喰上人の作品と考えられています。像を彫ったあと、樹木が生長したことで、仏像が木の中に包み込まれるような形となったそうです。ゆえに、ほとんど、仏像の姿がわからなくなっています……。(参照:案内看板)
ところで、「木喰上人」=この立木仏の作者の名前ではありません。木喰上人というのは、「米穀を断ち、木の実を食べて修行する僧侶」(参照:『大内文化探訪ガイド No.2』)のことをいいます。こちら、氷上の立木仏の作者は「五行」という人で、全国を行脚しつつ多くの木彫りの仏像を残したことで知られています。
附・福田侠平公明之墓
奇兵隊軍監・福田侠平さんの遺髪墓。墓地は下関の高杉晋作さん墓の側にあるそうです。また、興隆寺北辰妙見社には位牌がお祀りされています。近現代のことがわからないミルたちは、ご無礼ながら、お名前すら存じ上げなかったのですが、地元の方々の福田さんに対する崇敬の念には非常に深いものがあります。ご同道くださったタクシーの運転手さんは発見されてこの場所にある(しばらく行方不明だったそうです)ことをご存じなかったようで、たいへん興奮なさっておられました。
福田さんの事蹟については、興隆寺にも、この遺髪墓付近にも詳細なご案内看板がたっております。当然ながら、内容はまったく同じとなりますが、書き方はそれぞれ微妙に違っているところがあります(とっても微妙に。言葉遣いの相違程度です)。
お墓のすぐ隣にあった石碑に書かれていたものを文字起こししておきます。残念ながら、やや不鮮明なところがございますので、ほかの看板などを参照に推測しているところもあり、もしかしたら、多少現物と違う部分があるかもしれません。けれども、上述の通り、いずれの看板も書いてある内容は同じですから、史実と異なる誤りなどはないはずです(あったとしたら看板が間違っていることになるので、あり得ないことです)。
「奇兵隊軍監福田侠平
福田侠平(良輔)は文政十二年(一八二九)、吉敷郡宇野令山口河原無給通(現在の山口 市)に住む長州藩士十川右衛門の次男として生まれた。諱は公明、悠々と号した。
幼い頃から学問を好み、詩を良くし、成長して四方に遊学した。 後、大津郡伊上村(現長門市)に住む長州藩士福田貞八の長女キヨを娶り、養子となった。 文久三年(一八六三)八月、三十五歳の時、下関で結成されたばかりの奇兵隊に志願し入隊。 十月には海岸台場掛に就き、次第に隊内で頭角を現した。元治元年(一八六四)八月の四 ヶ国連合艦隊下関砲撃の際には書記に、同年末には参謀へと進んだ。さらに慶応元年 (一八六五)、士雇に昇格した侠平は、八月、山県狂介(有朋)と共に軍監(副将)を 兼務することとなった。
こうして大田の絵堂の戦い、四境戦争(小倉口)など激戦をくぐり抜けてきた侠平は、慶応三年十月、広沢 真臣・品川弥次郎と共に京都に上り、朝廷より「討幕の密勅」を受け取って、長州藩 に持ち帰った。つづく明治元年(一八六八)の戊辰戦争では奇兵隊を率いて 北越方面に出征、長岡、会津藩をはじめとする奥羽越同盟軍を相手に激しい攻防戦を 繰り広げ、勝利した。戦場で味方が不利になっても、酒を飲みながら「騒ぐな、焦るな」と陶然として指揮したという。
明治元年十一月十二日、奇兵隊を引き連れて山口に凱旋し た俠平は、下間に赴き、大酒した二日後の十 四日、卒倒して急逝した。壮絶とか悲壮とかいう言葉とは程違い、「 悠々」らしい最期であった。享年四十。
侠平は、二十代の血気盛んな隊士からの信頼が厚かったが、年長の彼を最も頼りにしていたのは、奇兵隊初代総督の高杉晋作であった。
遺言により、侠平の亡骸は、厚狭郡吉田村清水山(現下関市)にある晋作が眠る墓の側に埋葬されたが、住居としていた大内氷上の地にも同志により遺髪を納めた墓が建てられた。永らく不明であった侠平遺髪塚は平成九年七月十七日に地元の有志によって発見され顕彰された。
また侠平宅には、晋作と親交が深かった福岡出身の勤王女流歌人野村望東尼も訪れている。
侠平遺髪塚は、長らく不明であったが、平成九年七月十七日に地元の有志の手によって発見され、再び顕彰されることとなった。さらに、平成十一年十一月十四日には、近くの 北辰妙見社に、東行庵から分霊された位牌「至誠院清山公明居士」が 祀られ、彼の偉業が称えられた。
墓碑銘 (正面)福田侠平公明墓
(左側面) 明治元年十一月十四日病歿于馬関享年四十葬於厚狭郡吉田驛
(右側面) 清水寺更埋遺髪於此奉祀為平生之履歴詳于被墓表」
(案内プレート説明文)
「木喰仏」を見に行く途中で偶然にも発見しました。訪問時、運転手さんはタクシーに残られて、ガイドさんとミルたちだけでお参りしてきたよ。
興隆寺の案内看板には、この人の伝記が詳しく書かれていたのに、ミルは読んですらいなかった。俺はちゃんと知ってたよ。
山根観音堂(山口市大内氷上)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
山根観音堂・所在地 〒753-0231 山口市大内氷上4丁目4
木喰仏・所在地 〒753-0214 山口市大内御堀 362
福田侠平遺髪墓・所在地 〒753-0231 山口市大内御堀 362
アクセス
地図をご覧くださればわかる通り、「山根観音堂」「木喰仏」「福田侠平之墓」とはほぼ同じ場所です(『木喰仏』と『遺髪墓』は住所まで同じ)。なので、すべてまるっと観光してしまいましょう。
興隆寺から歩いて来ることができます。道もわかりやすいです。けれども、そもそも興隆寺が山口駅から歩くのには遠すぎるので、バスなどの公共交通機関を使うか、もしくはタクシーを呼びましょう。興隆寺から、車ならばあっと言う間の乗福寺とか、大内にある主な史跡すべてに範囲を拡大して大量にご訪問できます。ただし、お財布と相談にはなりますね……。
参照文献:『大内文化探訪ガイド No.2』、文化財説明看板
山根観音堂(山口市大内氷上)について:まとめ & 感想
山根観音堂(山口市大内氷上)・まとめ
- 山根観音堂は氷上山興隆寺の坊だった建物を現地に移築したもの。
- 本尊の「木造聖観音菩薩立像」は、平安時代の作品と考えられ、県指定の有形文化財である
- 観音堂の裏手に、木喰上人が制作した立木仏がある
- 同じく、奇兵隊軍監・福田侠平の墓もある。お墓は下関にあるので、こちらは「遺髪墓」となる
木喰仏を見に言った際に、福田侠平さんのお墓を発見。矢印看板があったので、タクシーの運転手さんが「えええ!?」となられました。じつはそもそも木喰仏の存在すら知らなかったので、どこに行くんだろ? って感じでガイドさんのご案内にお任せしていました。とりあえず興隆寺立ち寄ろう、って参拝した帰り道のことです。福田さんのお墓については、どなたも看板を見るまではご存じなかったみたいでした。タクシーの運転手さんの興奮ぶりからして、ものすごい方なのであろうとご推察しました。しばらく場所がわからなくなっていた、というご案内なので、お仕事でお忙しい中、そのご発見されてここにあるということまではご存じなかったのです。行方不明になっている、ということにいたく心を痛めておられたご様子でした。見付かって本当によかった。
維新の英雄については、素直に尊敬申し上げるとして、ミルたちにとっては、元は興隆寺にあったという山根観音堂が関連史跡っぽいです。でも、あくまで木喰仏を見るためにお連れくださったので、観音堂はほぼ素通りしており、たまたま何かお堂ある、いちおう撮影しておこう、って流れでした。後から、え? これも元興隆寺? となりましたが、写真もわずかに二枚だけで、由来もわかっていません。木喰仏が面白いと感じ、福田さんのお墓の説明文を読んで、運転手さんの熱弁を拝聴して帰宅した感じです。
大酒を飲んだ二日後に亡くなられたとかびっくりです。いったいどのくらいお飲みになられたのでしょうか? 先祖代々大酒飲みの家系に育ち、ゼミ合宿の飲み比べではそこらの男子学生なんぞに負けたことはないので、すごく気になりました。文字起こしした墓碑には書いてないのだけど、墓地入り口の看板には「明治新政が樹立したことを喜」んでの飲酒だったと書いてありました。戦争中、味方が不利になっても「酒を飲みながら」叱咤激励しておられたということなので、普段から豪快に飲んでおられたのでしょう。我が家系も酒豪だらけながら、ほとんど皆、短命でした。若くして亡くなられたのは、お酒のせいだったのでしょうか……。高杉晋作さんもそうですが、立派な方が早々と亡くなられると、もしも長生きなさっていたら、その後の歴史はどう変ったのだろうか、といつも思います。
こんな方におすすめ
- 奇兵隊大好きな方(福田さん遺髪墓)
- 仏像好きな方(観音堂、木喰仏)
奇兵隊関連の人にとっては、遺髪墓が
(運転手さんの興奮ぶりから。ただし『遺髪墓』なので、墓所にもお参りしないと完結しないことからちょいマイナス。とっくにお墓行ってるにきまってるだろうが! という方にとっては Max かも)
仏像の人にとっては
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
ミルは高杉晋作の墓見たんだろ?
へえ、君も奇兵隊好きになったわけ?
なんかカッコいいじゃん。俺もこんなふうに活躍したい。
いついかなる時代にも英雄はたくさんいるね(君もそうだったよ)。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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藩政期・明治維新・現代の観光資源
大内氏について語るというメインテーマとは外れる県内の主要観光資源についてご紹介している記事の目次ページです。当然のことながら、毛利氏に関するところが多いので、広島県内の訪問済み箇所も混じっています。
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