人物説明

ご先祖さまたち(始祖から弘幸公まで)

2022年3月27日

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ミル

琳聖さまから弘幸さまに至るまでの、古い時代のご先祖さまたちのページです。飛鳥時代から鎌倉時代にかけてのお話となります。

大内氏歴代当主世代順 始祖から弘幸まで

大内氏歴代の世代順の数え方は以下の通りです。これは近藤清石先生の『大内氏実録』とは異なり、御薗生翁甫先生の『新編大内氏系図』に準拠したものです。詳しくは以下の記事をご参照ください。⇒ 関連記事:歴代当主の世代順について系図の話

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家系図の話

戦国初期に滅亡し、系図を保管し伝えて行く子孫が途絶えたことで、大内氏の系図には完全なものがない。不完全な断片や、信憑性に欠ける言い伝えなどから研究者の方々が整理、修正したものが現在の「定説」。なおもかなりの伝承的な部分があり、不完全。

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始祖:琳聖太子
二代~七代:不明
八代 ⇒ 正恒
九代 ⇒ 藤根
十代 ⇒ 宗範
十一代 ⇒ 茂村
十二代 ⇒ 保盛
十三代 ⇒ 弘真
十四代 ⇒ 貞長
十五代 ⇒ 貞成
十六代 ⇒ 盛房
十七代 ⇒ 弘盛
十八代 ⇒ 満盛
十九代 ⇒ 弘茂
二十代 ⇒ 弘貞
二十一代 ⇒ 弘家
二十二代 ⇒ 重弘

関連記事:歴代当主子の子ら

人物(超簡易)説明

二十四代・弘世さん以前の当主さま方については、正確なことはわかりません。いわゆる「史料」にそのお名前が出て来ないためです。先祖が国衙の役人であったことから、国庁内での地位が上がっていくに従い、役所発行の文書には名前が出てきていたことと想像されます。しかし、残念ながらそれら「役所発行文書」は、すべてが現在まで保管されているわけではありません。幸運にも史料から名前が確認できるのは、盛房がはじめとなります。

それ以降はわずかながら、そこここの史料に名前が散見されるようになり、確かに存在しておられたことが歴史的に証明されています。ゆえに、盛房以前については( )書きにすべき方々ではあります。

多々良正恒

始祖・琳聖太子は推古天皇即位十九年辛未歳に帰化した。琳聖の子孫が正恒で、はじめて多々良氏を賜った。⇒ 琳聖太子
系図では、正恒を琳聖七代の孫としている。通俗本の類では、琳聖と正恒との間に琳龍太子、阿戸太子、世農太子、世阿太子、阿津太子の名を加え、山口龍福寺の牌にもこの五太子の名が残る。これは故人多賀大宮司高橋有文氏が著書中でいったとおり、大系図に七代孫とあることから、後世の人が偽作したものである。
弘護肖像賛では、姓とするが、多々良は姓ではない。中古から姓と氏とを混乱している。もともと大内氏はもと多々良氏にて姓は宿祢であるが、後には朝臣と書いている。
 ※注――正恒は、現在では八代ということになっています。この辺りから計算が微妙にズレます。七代とするならば、上記の琳龍太子以下を加えると初代琳聖、二代琳龍~六代阿津、七代正恒となり、辻褄が合うわけです。それゆえの偽作ですね。

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多々良正恒 雅な和歌に清水が湧き出た・初賜多々良姓

初めて多々良の姓を賜ったとされる八代当主。下松の妙見社(現降松神社)「和歌水」に、和歌を詠んだら清らかな水が湧き出したという雅な伝説が残る。

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多々良藤根、宗範、茂村

天慶年間に藤根という者があって大内氏を継いだという。

宗範は藤根の子、茂村は宗範の子である。

茂村は妙見を鷲頭山から氷上山に勧請した。
あるいは茂材ともいう。
初名を保盛といった、もしくは、保盛を茂村の子とする(近藤先生作『系図』注)。
 ※ミル注――御薗生先生、米原先生の系図だとこの後者の意見採用で、保盛を十二代としている。

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多々良茂村 妙見社を氷上山に勧請し氏寺と一所に

大内氏第十一代当主。下松の妙見社を氏寺のある大内氷上山に勧請した人物として知られる。ただし、知られているのはその一点のみ。

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多々良弘真、貞長、貞成

弘真はあるいは弘貞ともする。吉敷郡宮野村風土注進に、大内殿居館址という所があり、一本系図に弘真宮野郷本主とあるから、弘真の居館の址だろう、という。

貞長は弘真の子である。あるいは弘長ともする(同上)。

貞成は貞長の子である。初名を貞盛といった(同上)。

多々良盛房

貞成の子。周防介になる(一本系図権介とする)。これより本国の介あるいは権介を世襲して大内介と称した。

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多々良盛房 流刑地から恩赦で帰国・文字史料初出の人

大内氏十六代当主。流刑地から帰国したことが『玉葉』に記され、多々良一族の実在が証明された記念すべき人。大内介という名乗りもここから。

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ミル

(素朴な質問)どこから見出しを大内さんにすればいいかな? この人から? それともこのつぎからがいいの?

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五郎

……(じつは分からない)。気にしなくていいんじゃないの? 俺も、サインする時、先祖と同じで OK だからさ。ここの連中と見分けつかなくなって嫌だよな……。

多々良弘盛、満盛

弘盛は盛房の子。周防権介となる(系図、佐波郡牟礼村阿弥陀寺所蔵正治二年十一月文書、同東佐波令廃国庁寺所蔵同年月文書)。
『吾妻鑑』文治三年二月、周防国在庁官人等言上二箇条の連署中に、「権介多々良宿祢在京」とあり、この弘盛のことである。また「建久三年正月十九日壬辰、……大内介弘成聊所成違乱也……」とある「弘成」は、弘盛の孫に弘成があるがその弘成ではなく、弘盛の盛字の皿が欠落したのであって、これも弘盛のことであろう。

満盛は弘盛の子。系図に周防権介とあるがほかに所見がない。

元暦の戦いの時、父子は源氏に味方して軍功があった。
※『中国治乱記』で、源平合戦の時、頼朝公の味方に参上し、大内権介多々良の宿祢と名乗り、四国九国の軍で忠功があったとしているが、弘盛とも満盛とも名をしるしていない。系図・弘盛の条に、元暦年中、平家追討の時、功賞として長門国を賜るとあるが、長門一国を賜ったのではなく、長門の内に若干地を賜ったのである。今どこなのかということもわからない。

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大内弘盛 源氏に味方して功績大・鎌倉幕府草創期の当主

源平合戦の時にいち早く源氏に味方した一人として有名。東大寺再建事業のために下向した重源の杣出しを妨害したことでも知られる。

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多々良弘成、弘貞

弘成は満盛の子。系図に周防介とあるがほかには所見がない。

弘貞は弘成の子。系図に周防介、従五位下とあるがほかには所見がない。法名を覚浄という。
弘貞が没したのは正嘉正元文応年間で、『吾妻鑑』建長二年三月朔日の件に見える大内介はこの弘貞ではあるまいか、と思う。

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大内弘貞 元寇の時に活躍した当主(父・弘成、子・弘家)

いわゆる元寇が起こった時の当主。海外への玄関口にあたり、異国侵攻の被害をもろに受ける西国。近辺諸国も恐怖のどん底。一致団結して敵に対抗・撃退した。皆と協力し、活躍したのがこの人。

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多々良弘家、重弘

弘家は弘貞の子。弘家大宮太郎と称した。
系図に矢田太郎、周防介、大宮殿、正六位上、正安二年庚午三月廿八日死去、法名:大宮寺殿本州大別駕円浄大禅定門とあり、大宮と称したことは成慶院牌に見えるが、その他は所見なし。

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大内重弘 国司上人をクビにした周防国衙在庁官人のリーダー

弘世の祖父。この頃、大内氏は周防国衙の中で、在庁官人のリーダー的存在となっていた。その実力は国司上人を罷免させるほど。あらゆる意味で、基礎固めが完成した時期の人。

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大内弘幸

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大内弘幸 影薄い当主から南朝転向で一発逆転

叔父・長弘が家を導いているような状況下にあり、当主としてやや影が薄いが、南朝に転向して長弘派を追い落とそうと決断したのはこの人。鷲頭家討伐は子の弘世によって実行される。

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ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

現在、ここに載せている当主さま方を独立した記事に直す作業を行なっています。いつ終わるのかも不明ですが。

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻「世家・弘幸」、「系図」より
系図参照:御薗生翁甫先生『大内氏史研究』、米原正義先生『戦国武士と文芸の研究』より

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次郎

本は山とあるのに、まとめられないのは実力がないからじゃね?

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五郎

本当のことをズケズケと言うな! ああ見えても傷つくんだよ。

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ミル

(傷つけてくれてるのは君のほうなんですが……)

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
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