敵を知る講座:其の壱・出雲の「謀聖」尼子経久 ①
※前置き不要の方は「尼子氏とは?」(リンク先。十行でまとめてあります)に飛んでください。
「彼を知り己を知れば百戦殆からず」って、小学生でも知ってる言葉のように思える。かの毛利元就など、観察眼が半端なく、敵のすべてを見抜き、その行動パターンまで分析してしまうバケモノみたいな能力値の高さ。常に思うが、厳島の合戦で、敵がどう動くだろうか、ということを敵本人よりこの人のほうが知っていたんだろうなぁ、と。
む? 安芸国に侵攻するのならば、『絶対に』厳島を経由するぞ。先代(=凌雲寺さま)も常にそうであった。あの島こそが水陸の要衝なのだ。毛利如きにちゃちな城など建てさせるものか。徹底的に破壊する。何ならば、水陸両方から攻め立ててやるわ。
えーーと、それがですね、その、門山城が壊されちゃってまして、陸路からは進軍できそうにありません。それに……水陸両方とか、そんな大軍集められるんですか、そもそも。あなた、嫌われているみたいですし、そこら中反旗飜してますけど……。
うるさい! 決めるのはこの俺だ! 陸路がだめでも問題ないぞ。毛利など踏みつぶしてくれよう。
このような、自己中心的で周囲の意見に耳を傾けない人物が総大将をつとめる敵軍だと、毛利元就のような智者の経略にまんまとはまる。囮城造って誘い込んで……っていうのは、軍記物の脚色で、そんなものなくとも、絶対に海路を行ったと信じる。これ以外の行き方は絶対にしなかった人であるはず。そのような敵の習性を知り尽くしたからこその戦略で、さもありなんじゃなかろうか。愚かだから計略にハマったというよりも、己の道を信じて進み、挙げ句ド派手に散っていった……。そこがカッコいいところでもあるし、愛すべきところ。
前置きが長くなってしまったが、「敵を知る」ってことはとても大事。敵について完璧に理解することができたとしたら、その戦、もはや勝ったも同然である。けれども、そういう芸当ができるのは、毛利元就のような智者だけである。普通はそこまで知り尽くし、完全なる勝利を手にするなんて無理な相談だろう。まあ、我々凡人にできるのは、せいぜい、出来る限り知るように努力するだけ。常にアンテナを張り巡らせ、情報収集を怠りなく、ということくらいか。
有難いことに、大内氏歴代にとって、毛利元就さんは「味方」である。敵対勢力として相対したのは、最後のお殿さまを追い出した叛乱家臣たちと彼らが擁立した傀儡当主だ。なので、ココでは取り上げる必要がないお人、となる。
で、記念すべきトップバッターとして、まずは尼子家について考えてみたいと思う。中国地方で一番の大物は誰か? って問われたら、結局皆、最後に勝利した毛利元就ってことになってしまうのだろう。けれども、ある意味、尼子経久という人もすさまじい大物である。如何せん年齢が行き過ぎていたから、早々に第一戦を退いてしまったけれど、もしも、もっと若かったなら、中国地方を統一したのは、毛利ではなくて尼子だったかもしれない。そのくらいスゴい人物だと思う。凌雲寺さまはわずかに五十代そこそこで無念にも旅立たれたが(マジ、尼子経久も毛利元就も、どんだけ長寿なんだろ……しぶとくて嫌な感じ……仇だからご無礼を承知で言ってます)、仮にもう少し時間が残されていたとして、尼子との戦はどうなっていただろうか。想像するととても怖い。最後のおっとりした当主さまがやられてしまったのはレベルが違う過ぎるゆえ(生きる世界が違うお方です)コテンパンになってしまったのも分るのですが(やられたのは、経久ではなく、孫の晴久にではありますが)。お父上が存命であったとして、果たして尼子を潰せたであろうか。
尼子氏とは?
室町時代から戦国時代にかけて、出雲国を中心に活躍した一族です。宇多源氏佐々木氏の末裔、室町幕府・四職家の名門・京極氏の一門です。近江国甲良荘尼子郷を名字の地として「尼子」氏となりました。のちに、京極氏が守護を務める出雲国に、守護代として入国。尼子持久の時のことです。難攻不落の堅城として著名な月山富田城を拠点としました。
持久の孫・経久の時、主家・京極家を凌駕して守護の地位に就き、山陰地方を支配する大勢力となりました。足利義材の将軍復職を助けて在京中だった義興の留守に、大内氏の領地を掠めるに至り、中国地方は風雲急を告げる事態となります。義興が早くに亡くなったため、尼子家との対立は跡を継いだ義隆代まで持ち越されます。
経久孫・晴久代には、十一ヶ国の守護職を得る(山名氏につぐ、第二の『六分の一殿』)など、その勢力は最大となりましたが、晴久の死後、大内氏同様、毛利氏によって滅ぼされてしまいました。尼子家の再興に命をかけた山中鹿之助の物語など、あれこれの逸話があり、今なお地元の方々に愛されてやまない人々です。
尼子氏の起源
源頼朝の頃、「佐々木氏」が出雲守護に任命されたことが、尼子家とこの国とのかかわりの最初です。けれども、佐々木氏といっても大勢力(系図がデカい)ですので、正確に言うと、ちょっと系列の違う人たちの入植が最初って感じです。順番に流れをみてみましょう。
「宇治川の先陣」佐々木高綱
全国見渡せば、佐々木さんという苗字はそうレアではないですね。それらすべての佐々木さん方の先祖が同一かどうかなどわかりませんが、頼朝から守護職を賜った「佐々木氏」は宇多源氏の子孫です。
同じ源氏でも、頼朝などの清和源氏とは流れが異なるわけです。当然「宇多」天皇のご子孫である、ということになります。で、頼朝の頃で、佐々木と言ったら、梶原源太景季と「宇治川の先陣」を争った佐々木四郎高綱が有名です。今『平家物語全訳注』を見たら、佐々木の先祖は高綱の曾祖父・経方の時に初めて、近江国「佐々木」に住まいしたとあります。高綱の父・秀義はその「佐々木荘」の荘官でしたが、平治の乱で源義朝についたことでしばし没落し、東国で逼塞していた模様です。でもって、頼朝が反平氏の旗印を掲げて挙兵した時に、馳せ参じたという流れでしょう。
系図を見ると、佐々木秀義には六人の息子があって、高綱は文字通り四番目なのですが、ほかの人の名前はあまり聞いたことがないような気がしますので、一番活躍したのでしょう(多分)。『平家』注には「備前・安芸ほか数カ国の守護となり」とあり、功績に応じた褒賞を得たことがわかります。
(『平家』巻十『藤戸』に出てくる嫌らしいサイテーの男が、この系図に出ている佐々木盛綱(三男)だった……。人名解説が空欄だったので、既出の人であると思われ、ほかにも登場ヶ所があるかと。なにゆえに「サイテー」かと言えば、以下の逸話によります。
一番乗りしたいがために、海を渡ろうとした盛綱は、地元の人に付近の地理について尋ねます。実は歩いて渡れるほど浅いところがある旨情報提供してもらい、そのおかげで無事に一番乗りを果たします。ところが、『こういう卑しい人物は聞かれたら誰にでも話してしまい、ほかの人にも知られてしまう。せっかくの耳より情報を独り占めできなくなる』という理由で、情報提供してくれた地元の人を殺めて、しかもそのご遺体を粗略に扱うという非情なことを平然とやってしまいます。
こういうことは当時の武士的には普通だったようでして、特に批判されているわけでもありません。なるほど似たような逸話は、ほかにも主役をかえてじつに様々描かれています。それにしても、このような残忍で非情な行為が描かれているのはたいてい『源氏方』でして、平家の人はあまりそんなことしません。あと、『卑しい人物』というのは『身分が低い = 一般庶民』ってことですが、そんな理由で馬鹿にされ、命まで奪われたらたまりません。この海のどこが浅いかなんて、親切に教えてやるものではないな、と思った次第です。尼子氏の方々ってこういうのの血を引いているのかと思うとガッカリしますね。)
なお、佐々木高綱さんは、東大寺再建の頃、長門の守護となり、重源上人の杣出しとかに協力しています。
出雲守護・塩谷氏
高綱の子孫は子・光綱以降途絶え(系図上)、むしろ、普通に秀義の長男である定綱の系統が延々繁栄しています。定綱の息子・広綱と信綱のうち、信綱の二人の息子がそれぞれ「六角」と「京極」の始祖となっています。室町時代的にはこっちのほうが有名です。
けれども、最初に出雲国の守護職となったのは、秀義の五男(高綱の弟)義清という人でした。それより数代の間、途中兄弟間での相続なども挟みつつ、順調に推移。時代的には、だいたい鎌倉時代~南北朝期までの頃です。出雲国の佐々木氏はのちに、「塩谷郷」という地域に居住したので、そこが名字の地となって「塩谷氏」と名乗ります。
義清以下はつぎのように広がりますが、泰清以下は何やら怪しいですね(息子の数が異常に多い)。政義 ⇒ 泰清と、時清 ⇒ 頼泰は、兄弟間で家督が動いたようです(系図が正しいのならば)。塩谷の祖は頼泰、高貞で断絶(後述)しますが、こんなに大勢がひとつ系図に繋がっているわけなので、「ゆかりの人」が大量に出雲国に根付いていたとして不思議はありません。でも、ここら辺、「史料」の出所も曖昧で、物好きが仰天するのと裏腹に、研究者の先生方からしたら「よくわからない」世界のようです。はっきりしているのは、宇治川の先陣佐々木高綱の一族である人が出雲国の守護となり、南北朝期頃まで続いた、ということ。
出雲守護としての塩谷氏最後の人となったのは、七代目の高貞という人です。時は南北朝の動乱期、同じ源氏繋がりだからなのかなんなのかわかりませんが、高貞は足利尊氏方について活躍をしたので、出雲、隠岐、因幡、伯耆と四ヶ国もの守護職をもつそれなり大勢力となりました。
けれども、力をつけると妬まれるのは世の常。塩谷氏のことまで詳しくはしりませんが、尊氏の執事・高師直の「讒言」によって高貞は死に追いやられてしまいました。空きができた出雲守護になったのは、かの有名な婆娑羅大名・佐々木道誉(高氏)です。
系図がいくつにもなってメンドーなのですが、佐々木道誉も、元をたどれば「宇治川の先陣の……」と同じ一族ですので、まったくの異姓他人ではないです。けれども、既に何代も経ているので、塩谷氏の縁者だからとか、元々は佐々木一族のものだったので、とかいう意味合いは強くないと思います。単に、尊氏が親しい道誉に与えたのでしょう。
山名氏と佐々木道誉
のちに「六分の一殿」などといわれる大勢力となる山名氏は、北朝方の主力として活躍しており、尊氏の命令に従い、塩谷氏討伐を執行したのも彼らです。けれども、どういうわけか尊氏と不和になってしまいます。この辺りの事情はなかなかに複雑に入り組んでおり、深く追求していくと混乱するので放置しますが、出雲国やその付近は山名氏やその息がかかった人々の勢力が強い地域です(だから塩谷討伐も頼まれてるし)。なので、佐々木氏が守護に任命されたといっても、山名氏はまだ出雲国内で屯していました。佐々木道誉は尊氏のサポートを受け、この機に乗じて邪魔な山名氏を追い払いました。
この道誉という人は、ド派手すぎるのがいけないのか、あらゆるところで火種の元を作りますが、この時も、山名時氏・師義親子と険悪となり、怒った山名氏は南朝方についてしまいました。そもそも、尊氏と山名氏が不和となったについても、裏でこの人が画策していたという説もあるくらいです(出典忘れ)。
出雲守護代・尼子持久は京極の分家
南朝方は山名氏を出雲守護としたので、出雲国には南北両方の守護が並び立つ事態となりました。山名氏は幕府に討伐されてしまった塩谷氏の系統の人を守護代としたので、塩谷氏も復活です(初代・義清系列の佐々木氏系図も異常にデカいので、仮に嫡流が討伐されて途絶えたとしても、縁者はそこらじゅうにいる状態。上の『系図』で青色の『富田秀貞』という人が山名氏に立てられた守護代です)。
山名氏はその後しばらく、南朝方として活躍し、武家方を困らせました。仕方ないので武働きで手に入れた領国はすべて安堵するので、また戻って来て味方になってちょうだい、と幕府への帰順をお願いするほかありませんでした。なんだか同じようにして周防長門を安堵された大内弘世を思い出しますね。「そりゃどうも」ってコトで、山名氏は再び大きな顔で出雲国に居座ることとなり、佐々木氏の出番はなくなってしまいました。
そんなわけで、佐々木氏が再び出雲国の統治を行なえるようになったのは、明徳の乱で山名氏が敗北したのちのことです。このとき、佐々木(というか京極)の当主は高詮という人でしたが、本人は近江にあり、また、在京して将軍を助けねばなりませんから、ほかの家々同様、飛び地でもある出雲国は「守護代」に任せました。とはいっても、そこらの地元有力者なんぞを守護代にするのも信用できませんから、自らの甥を任命しました。これが持久という人でした。
この持久さんは近江国「尼子郷」に住んでいたので「尼子」と名乗っていました。いよいよ尼子氏が出雲国に入ったってことです。とはいえ、その後も紆余曲折ございまして、一足飛びに大勢力とはなれません。ともあれ、明徳の乱で山名氏が出雲国の支配力を失ったのちがスタート地点なので、大内義弘の応永の乱って時分には、まだ単なる一守護代にすぎなかったわけです。
ここまでのまとめ
- 尼子氏は佐々木氏から出ている。その佐々木氏は「宇多源氏」
- 先祖にあたる佐々木髙綱は『平家物語』の源氏方武将として有名な人物
- 高綱の弟・義清が、出雲守護に任命され出雲国に入った。「塩谷郷」に住んだため、塩谷氏と名乗った
- 南北朝期、義清の子孫・塩谷高貞は足利尊氏方について活躍したが、高師直に追い落とされて滅亡の憂き目に遭う。後任の出雲守護には佐々木道誉が就く
- 塩谷氏討伐で活躍した山名氏と佐々木道誉とが不仲となり、山名氏は武家方を離れ南朝方に寝返り、「南朝方」出雲守護となる
- 山名氏の勢力が強大であることがメンドーになった幕府はすべての領国(とても広大だった……)を安堵することを条件に帰参を求めて和睦(大内弘世が北朝についたのとまったく同じような流れ)
- その後、デカすぎる山名家が足利義満の有力守護抑制策により整理され(明徳の乱)、ようやく佐々木氏が再び出雲国を統治することになった
- 近江佐々木氏は、六角と京極に分れており、出雲を領したのは「京極」のほう。本家は近江にあって、在京して政務も執らねばならぬので、出雲国については守護代に任せた
- こうして、京極高詮により守護代として出雲に派遣されたのが「甥」の持久。近江国では「尼子郷」に住み、尼子を名乗っていた。これがのちの西国の雄・出雲尼子氏の始まりである
持久・清定父子時代の出雲国
非現地有力国人守護代
荘園管理などについてもそうですが、所有者本人が現地入りして管理することが難しい場合、本国から誰かを派遣し代理をつとめさせるか、もしくは、現地の有力者を「代官」のような職に任命してお願いします。いずれの方法を選ぶかはケースバイケースなので、どうとも言えません。
現地の有力者であれば、特に苦労することもなく、任務をこなすことができます。けれども、荘園の持ち主なり、彼らを守護代に任じた守護なりの意向を無視し、特に荘園なんかはいつの間にか管理を任せたはずの人物に横領されてしまう、なんてこともないとは言えません。そう考えると、自らの腹心を送り込むほうが正解のように思えますが、現地にウジャウジャいる有力者たちが、いきなり派遣されて来た見ず知らずの「代官」の命令に素直に従ってくれるとも思えません。
大内氏の守護領国でも、守護代を派遣して現地の政務を代行させていたわけですが、周防国を陶氏が治めていて地元有力者の反発にあって苦労が絶えなかったというような話はあまり聞いたことがない気がします(多分)。これは、大内氏の支配が強力で、現地の有力者とやらも、いつの間にかほとんどがその被官になってしまっていたりして、文句を言えるような輩が存在しなかったからかと思われます。周防長門はとにかくとして、ほかの地域、守護職を与えられたり、没収されたりしたような地域、地元の国人たちの自立性が強く、なかなか被官化が進まなかった地域などもありました。そういうところでは、ほかの守護たち同様、支配に苦慮した地域もあったかもしれません。
少なくとも、出雲国は元々山名氏の勢力が強くおよんでいた地域ということもあり、また、地元有力国人たちの勢力も強く、統治するのは難しい場所でした。そんなところに投げ込まれた尼子持久の苦労は並大抵なものではなかったと想定されます。けれども、メンドーなので、地元有力者に丸投げしたら、それこそいつの間にか、守護は「名ばかり」になってしまいかねませんから、きちんと身内である持久に任せる方策をとった主君・京極高詮も賢明でした。
そもそもですが、わかりづらくなるため、上では省略してしまっていますが、高詮も出雲守護補任即持久派遣としたわけではありません。じっさいには、山名氏と明徳の乱の経過がとても複雑です。本来ならば、省略はできない話なのですが、目茶苦茶となるので場を改めることにしています。まずは出雲国内に楯籠もって抵抗している山名方国人らの討伐などがありました。その間は持久とは別の人が守護代として着任していました。騒ぎが落ち着くまでの大変さ、一筋縄ではいかなそうな現地有力者たち、などのありさまを鑑みて、信頼できて、なおかつ、有能な人物を派遣するのがふさわしい、ということに考えが至ったものと思われます。裏を返せば持久が、海千山千の出雲国で、その任に堪えうる人物だった(少なくとも、主家の高詮の目にはそう見えた)、ということになりましょうか。
明徳の乱についてはこっちです(執筆中。多分完成しない……)。
初代・持久の治世
尼子持久が出雲国を治め(守護京極家から管理を任される)ていた時代については、史料がほとんどないようです。けれども、何にせよ、「初代」であるということは貴重です。どこまで正確なところが把握できているのか定かではありませんが、持久代までに成し遂げられたと考えられていることとして、以下のようなものがあげられます。
一、経塚山に経塚を造った
二、東徳寺本堂を新築した
これだけしかない、ってことはないと思われますが、史料の欠落って、本当に悲しいですね。
契機としての応仁の乱
1467年、応仁の乱が勃発した時、出雲守護は京極持清、守護代は尼子清定とそれぞれ代替わりしていました。京極家、およびそれに従う尼子家とは、東軍・細川勝元方に属していました。ここで、ちょいと「東軍」メンバーを確認しておきましょう(※山名持豊と大内政弘は東軍関係者ではありません。後述)。
それこそ話が複雑化するので、やめるべきですが、この「超」略系図は、かなり適当に東軍関係者をチョイスして作ったものです。恐ろしいのは東軍幹部・細川勝元と西軍幹部・山名宗全(持豊)とが身内であるということ。まあこれ、周知のことではありますけどね。でもって、そういう繋がりがある関係上、細川政元と西軍の英雄・法泉寺さまとが、ひとつ系図に載ってしまうという奇怪なことにもなってしまうわけです。つまり、細川勝元に嫁いだ宗全の養女二人が実の姉妹なので、犬猿の仲の二人は血筋的には母方の従兄弟どうしってなっています。
教弘夫人・妙喜寺殿
東西の意外な血縁関係の話はここの主題ではないので置いておくとして、京極持清は畠山政長の舅にあたります。そうでなくとも、勝元派の京極家ですが、血縁関係でも結ばれていたことになります。政長の嫡男・尚順の生母が誰なのか、という問題について明確に記してある史料を見たことがない(それらを提示なさっている先生方の論文類も含めて)ため、於児丸に京極家の血が流れているのか否かは不明です。
あれだけ血統云々して、この俺を馬鹿にしている於児丸が、母親が誰なのかもわからないって!? その嘘、本当かよ?
単に記録が残っていないだけだ。お前の祖父のように、身分卑しい行きずりの女性と一夜をともにするようなこと、父上は絶対になさらない。管領家の当主として、由緒ある家柄の女性としか婚姻関係は結んでいない。
そんなん、本人たちにしかわかんないじゃん。「史料」ないんだから。
この問題はかなり「重要」で、もしも京極家の血を引いていたとしたら、尼子経久とも遠縁ということになる。非常に気になるのであります。それよりも、遅れて出てきた尼子家ですが、どうでもいい家来の下克上でもなんでもなく、そもそもが名門だということがわかります。大内家における陶家のようなものです。やがて、本家本元の京極がぱっとしなくなったことを考えると、ますますもって、似ておりますね……。
そうでなくとも山名の残党がうようよいる出雲国。周囲はほぼ山名家の領国。主・京極持清は京都のことで精一杯ですので、出雲国については、清定頑張ってよ、って感じで丸投げです。ここで武運拙く近江に逃げ帰っていたらその後の尼子家はなかったのですから、むしろ清定は騒乱を逆手にとって自らの勢力範囲を広め、基盤を強固にするのに成功した勝ち組と言えます。
西軍(山名)方国人衆との戦い
西軍とか山名方とか書いてますが、じっさいにはどこまで山名に義理立てしてたかは、その人の人柄や立場にもよります。そのた大勢の人たちにとって、東西に分れて揉めている混乱の時代は一旗揚げるチャンス以外なにものでもありません。
何せ、東西どっちかに所属していることを「言い訳」にして、敵方に所属している連中と大きな顔で戦闘できるからです。平穏な時代に、いきなりあいつ腹立つから侵攻して領土掠めようとかやり始めたら、周囲から総スカンなので。南北朝時代に気に入らない相手が属してるのと反対の勢力に所属して正々堂々喧嘩できたのとまったく同じ原理です。
けれども、そこらの無位無役の人はとにかくとして、「守護代」とかの身分があるとなると、その地の治安を乱す者を抑えて回らなくてはなりません(ということも、領土拡大の言い訳に使えたりするから同じことだったりしますが)。山名に属している(た)国人たちは、後から派遣されて来た山名家とは無関係の尼子氏が鬱陶しくてたまらないので、この機にじゃんじゃん叛旗を翻しました。むろん、背後に山名家の後押しがあったことは当然です。
何のかんの言って皆、究極の目標的には領土拡張したいだけなので。山名にしろ、細川にしろ、その下についている守護たちにせよね。仮に直轄地にできなかったとしても、自らの息のかかったものたちが多少なりとも領土を拡大できたらそれもまたグットです。
ここでまた、尼子清定が山名方にボコボコにされてしまったらそこまででしたが(なってくれてたらよかったかもね。その後の歴史を思うに……)、さすが経久のお父上、強いんですよね、この方。あちこちで燻った山名方火種をすべて揉み消し、逆に自らの勢力範囲を広め、反抗した連中を傘下に収めてしまったのですよ。
尼子家と戦った山名方国人衆そのほか
この頃、出雲国にどのような人たちがいたかというと……。そんなん、わかるはずがない! でも、応仁に乱前後に尼子家の「代官」をつとめていたとされる人々として、記録に残っているのは以下のような人たち。
三沢対馬守(横田荘地頭)、神西三河守(神西荘地頭)、牛尾神五郎(淀本荘地頭)、松田備前守(安来荘地頭)、下河原周防守(出雲郷地頭)
もちろん、何もしていない住人のほうが多いわけなので、これですべてではないです。応仁の乱勃発後、赤穴、三刀屋といった人たちは上洛して、京都での戦闘に参加しました。出雲国内で騒ぎを起こしたのは、上洛することのなかった人たちとなります。その筆頭が、松田、三沢両氏でした。
おや? 上洛して戦闘に参加しなかったんだから、大人しく「代官」やっていたんじゃないの? って思うけれども、守護の身内すら寝返ってしまう世の中です。そこらの代官など……。もともと、この「松田」とか「三沢」とかいう人々は、尼子氏より先に長いこと出雲国にいた地元の名士みたいな人たちです。こういうの、大人しくいうことをきいてもらうのが極めてメンドーな部類ですよね。松田さんは地元有名神社神官の家柄。三沢さんは木曾義仲の子孫だとか。
松田氏、十神山城、安来庄:日御碕神社宮司小野氏の分家。新補地頭
三沢氏、三沢城、仁多郡惣地頭:先祖は木曾義仲の孫、三沢は名字の地
松田の背後には伯耆の山名氏もついていたといいます。こうなるともう、そこらじゅう、どっちかに味方して立ち上がり、どさくさに紛れて勢力範囲を広めようってことで日々是合戦と化していた状態でしょう。
ややこしいのは、それこそ日本全国すべてがこんな感じなので、出雲国内ではおさまらないってこと。勢力範囲や交流範囲が隣国におよんでいる「またがり」状態の人もいるであろうし。
で、ちょっとお隣ら辺まで目を向けてみると、だいたい以下のようになっていたらしい。
安芸国
東軍:安芸武田(吉川、毛利、福原、宍戸、熊谷、沼田小早川) vs 西軍:大内(厳島神社、阿曽沼、野間、平賀、天野、竹原小早川、安芸島嶼部海賊衆)
備後国
東軍:山名是豊(備南、外郡国人衆)vs 西軍:山名持豊(備北、内郡国人衆)
小早川は同じ小早川が「沼田」と「竹原」とで分れてしまっているし、山名にいたっては、持豊(宗全)と息子の是豊とで分れてしまっている……。要するに、家、一族内部に矛盾を抱えているとこれを機に分裂してしまい、雌雄を決するまでいかなくとも、気にくわないから敵に味方しよう、ってなる。
ちなみに、これらの組み分けも終始一貫してこうだったわけではなく、うまい話を持ちかけられたりすると簡単に寝返ったりしたので、まさに混沌としていました。
ナニコレ、目茶苦茶でよくわかんない……。どうなってんの?
そもそもわかりにくい部分なんだ。昨日と今日でつく相手を変えるとか、はっきり型にはめることなんかできないよ。
結論から言ってしまうと、尼子清定は出雲国内をいちおう「平定」します。もうこれにつきるでしょう。この間、本国では主家の京極持清が亡くなり、跡を継いだ勝秀も亡くなってしまったので、家督は兄弟間で移動しました。勝秀の弟・政経が当主となったのです。政「経」ときいて、おや? と思えた人はかなーり通です。そう、尼子家の三代目として、主・政経から「経」の一字を頂戴した、尼子経久がいよいよ登場します。
ここまでのまとめ
- 近江守護京極氏は出雲国守護職も得た。時の当主・高詮は在京せねばならぬこと、近江国の政務のこともあり、出雲には甥・持久を守護代として派遣した
- 持久は、近江国尼子郷を名字の地として、尼子氏を名乗っていた。これが、のちに山陰の雄となる尼子氏と出雲国との最初の出遭いとなる
- 出雲国は山名氏の勢力が色濃く残っている地域だったので、統治は一筋縄ではいかなかった。
- 持久を継いだ子の清定代、応仁の乱が勃発。山名氏の息がかかった国人たちは容赦なく守護代・清定と対立する。清定はこれを逆手にとってそれらの反対勢力を鎮圧していき、出雲国を治めることに成功した
- 東軍のボス・細川勝元の与党、京極持清と畠山政長とは舅と婿の関係。史料が欠落しているゆえ、確定できないが、政長嫡男・尚順(於児丸)は持清の孫である可能性が高いと言われている。つまり、於児丸は尼子氏と遠縁である可能性が(たとえそうであったとしても、特にどうという意味は無い)
謀聖・経久登場
こうしてみてくると、尼子経久も彗星のように現われたというわけではなく、父、祖父と積み上げてきた努力があったからこその登場です。その辺は、大内弘世がいきなり全国区で有名になったために、琳聖以降歴史を築いてきた先祖たちが消し飛んでしまっているのと同じで、やや気の毒なことになっておりますね。
ところが、経久自身も父祖の地盤を継いで順調に人生を歩んでいったかというとけっしてそうではなく、彼自身が「一度すべてを奪われて追放される」というとんでもない逆境に陥っています。そこから不死鳥のように這い上がってきたところもまた、この人のスゴいところです。
雅な楽園で若子さまやっていた凌雲寺さまと比べると、かなりの苦労人です。そこら辺りが、尼子の「強さ」だったりしたら、最後の殿様がコテンパンになったのも当然と言えます。
見るがよい、我が亀童の愛らしいこと。
おっしゃるとおりですわ。でも幼くても凜々しいところはあなた様にうり二つです。早く西の京に連れて帰りたいものです。
尼子経久は 1458 年の生まれ。凌雲寺さまより、二十歳ほど年上なのである。つまりは、応仁の乱で目茶苦茶になった騒乱の世をその目で見ている。けれども、十一年続いた応仁の乱がギリギリ終わっていない 1477 年に京都で生まれた凌雲寺さまは、まだ襁褓の中に包まれて、麗しいご両親の期待を一身に受けるも、戦乱の京を目に焼き付けられる年齢ではなかった。
?
どうでもいいことですが、たいして優秀でもない人物の場合、まったく努力をしないので、恵まれすぎた家で苦労せず育つと、スケールの小さい人物となります(凌雲寺さまのことじゃありません)。
?
経久出雲守護代を継ぐ
尼子持久についてはほとんど何の史料もなく、尼子清定についても、果たして何年に亡くなったのかなどわからないようです。それゆえに、経久が何年何月から出雲守護代となったのか、についても詳細は不明。例によって例のごとく、何らかの史料に名前が載っていた時点で、「すでに守護代となっていた」ことがわかるのみです。ゆえに、清定から経久への相続も、隠居によるものなのか、亡くなったからなのかわかりません。
清定の時点でだいたい出雲国は落ち着いてきたらしいことを見て来ました。でも一体全体、何を以て「落ち着いた」とか「平定」されたとか言ってよいものか、非常に難しいです。猿や狸の天下統一に至るまでは、地域的「平定」も何度繰り返されたかわかりません。九州など、大内家歴代が何度も「平定」していますが、しばらくするとまた燻り、「平定し直し」となっていますから。安芸国なんぞに至っては、そもそも「平定」されたことなんてなかったんじゃないでしょうか。
出雲国も似たようなものであったらしく、経久が相続した時点では、一見平穏に見える国内もいつ何時また燻ってもおかしくない状態だったんではなかろうかと想像します。そのような状況下で、常人を超越していたこの人は、平然とものすごいことをやってのけました。
滞納と横領
ものすごいこと、とか書いてしまいましたが、じつはこれ、「たいしたことではない」です。緑髪将軍・足利義尚が近江に六角討伐のために親征したのは、六角高頼の「横領」行為が目に余るからでした(横領ってつまり、公金横領とかの意味ではなく、寺社領の横領ですよ)。
将軍家の権威を意にも介さぬ輩は、この義尚がすべて成敗してくれよう。
ですけど、これはたまたま、六角の領国・近江が京都から近かったことからターゲットになったのであり、何か大がかりなイベントを執り行って将軍としての威厳を見せつけたかったという義尚の思いが込められた遠征です。「横領」行為なんていくらでも行なわれており、言ってみれば「皆がやってるのに俺だけやってないとか損」ってくらいなものです。義尚が長生きしていたら、近江を皮切りに日本全国遠征して取り締まりを強化するつもりだったのかどうかは知りませんけど。
で、尼子経久は出雲国でこの「横領」行為を大胆不敵に繰り返しました。ほかにも国に納めるべき「税金」を滞納しました。滞納ってか、そもそもすでに「払うつもりはなかった」んだと思われますが。税金って何? ってことですが、関所の通過料と段銭です。こういうものは、国に払うといっても、守護である京極家に払うものですね。守護代は守護の下請けですから。やがてオダノブナガなんぞの時代になれば、誰もこんなもの払わなくなったでしょうし(知らないけど)、横領だってもはや注意すべき将軍なんて名前だけです。けれども、ちょっと最先端を行きすぎたせいか、主家・京極家はブチ切れ、幕府から「けしからん。決められた通りにきちんとやれ」とお達しが来てしまいました。
追放と流浪の旅
経久は守護に睨まれようが、幕府に言いつけられて督促状が届こうが、素知らぬ顔で「やってはならない」ことを続けました。そこで、とうとう幕府から「経久討伐」の命令が出てしまいました。「幕府が怒ってる? だから?」って平然と無視できるところがスゴいところではあるのですが、如何せん、まだまだこの時代は将軍からの命令が有効。でもって、「一見平穏に見えた」国内はじつのところ、経久や尼子家を快く思わない者たちの集合体でした。
応仁の乱の頃、いちおう清定に打ち負かされて大人しくなっていた連中が燻り始めたのです。何せ「討伐せよ」という幕府からのお墨付きをもらったのですから、大手を振るってやっつけることができるわけです。上のほうに名前が出てきていた、三刀屋とか、浅山、広田、桜井、塩谷、古志などなどの人々が寄って集って、経久を出雲国から追い出してしまいました。文明十六年(1484)のことです。
守護代追い出されるとかみっともないじゃんとか、思った人多いかもしれません。けれども意外と、こういう事例多いです。例えば? と問われてすぐに答えられないので意味ないですが、いわゆる「国人一揆」とやらで、守護代どころか、守護まで交替したことあったような気がします。「この人気に入らないので」と訴えて出て、それが理にかなっていればですが。無能な人、何もしないでヒマしている人は気を付けないとクビになってしまう危うさもあったわけです。
経久の場合は、無能だから追い出されたのとは違いますが。「横領」して領地を広げ、地元の国人たちを配下に組み入れていこうとする……なんてことを行なえば、彼らに「快く思われない」のは当然です。同じようなことをやっても、大内家歴代は追放されたりしたことないけどね。けれどもここで終わってしまっては尼子家のその後もありません。むしろ、この「追い出された」経験がこの人をさらに強くしたのだと思います。その後、月山富田城を拠点に大活躍をしたことから分る通り、経久はまた、出雲に帰ってきます。それこそ、一回りも二回りも大きくなって。けれども、しばしは追い出されたがゆえにの放浪生活が続くのでした。
ちなみに……尼子経久=お年寄りって思ってしまいますが、放浪生活は二十代後半くらいのことです。お年寄りになってから放浪していたら、命にかかわるし、見聞広めるとか会稽の恥をそそぐ前に寿命尽きてしまう恐れも。ちょっとココ、イメージ違うので気を付けましょう。
月山富田城奪還
尼子経久の「放浪期間」はだいたい二年間ほどだった模様。なぜかなら、二年後の文明十八年(1486)には、月山富田城は経久に奪還されてしまうからです。このサイトが「尼子家の砦」ではなく「大内庭園」である以上、文明十八年が大内家にとってどのような年であるか、についても確認しておく必要があります。
文明十八年といったら、法泉寺さまが興隆寺を勅願寺化し、築山大明神さまが贈位増官された記念すべき年です。まさに、大内家がもっとも輝いていて、その煌めきが最高潮に達した頃です。そんなときに、のちに我が子・凌雲寺さまが嫌がらせにあう鬱陶しい蠅みたいな尼子家がちょうど活動を開始していたんですね。この時点では、尼子の「あ」の字も出てきませんから、たんなる守護代交代劇が行なわれていた、程度の認識だったんでしょう。それがやがては、国を悩ます好敵手にまでのし上がるとは……。まさに、戦国乱世の嵐はすぐそこまで迫ってきていたわけです。けど、ちょっとこの代ではまだ、そこまで想像もつかなかったでしょう。
話を経久に戻します。国を追い出された経久は再起の時を待っていましたが、城も家臣も失い、どうしたら? って感じでした。いっぽう、経久が追い出された後の出雲国では塩谷掃部介なる人物が新たな守護代となっていました。塩谷というからには、れいの塩谷郷を名字の地とした、尼子以前の佐々木氏系統の人々の末裔かと思いますが、ちょっと詳細なプロフィールがわかりません。
経久の家臣たちは京極家に出仕して何とか食いつないでいたので、出雲国内に残っている人は少なかったようです。その数少ない国内に残っていた人たちの中に「山中」という家臣がいました。これ、山中鹿之助と関係ある人たちなのか!? と思いますけれど、違います(といっても、このことは和田恭太郎先生の小説『毛利元就』で読んだので、史料の出典は書けません。和田先生はいい加減な『創作』を加えることを絶対になさらない作家さんなので、事実であるはずですが)。
山中以下数名の出雲国内に残っていた家臣と経久とは相談し、「賀間」という人たちに協力を求めることにしました。山中さんも含めて、部外者である我々からしたら、どなた? って感じになりますが、この方たちは、毎年新年に月山富田城内で祝賀の舞を披露する役割を担っていました。よくわかりませんが、芸人一座みたいな感じでしょうかね。つまりは、正月を祝う行事として、城内に入り、賑やかに舞い踊る人々なので、その際には「出入り自由」。お祝いムード全開の新年、彼らを招き入れる城内もほっこり和やかとなる一時です。経久はこの賀間の人たちが出入り自由であるという特例と祝賀ムードによる城内の気の緩みとを利用しようと考えたのです。
この計略は見事に功を奏しました。賀間の人たちが新年の舞を披露している間、城内の人たちは皆、めでたいイベントを見るために集まってきました。当然、のちの惨劇のことなど、夢にも思いません。経久と味方する家臣たちは、守りも手薄となったその隙に城の裏手からこっそりと内部に忍び込むことに成功。いっぽう、賀間の人たちも舞装束の下に密かに武具を身につけていました。そして、合図と同時に、経久一同と賀間の人たちがいきなり無防備の城内の人たちに襲いかかったわけです。
すべてが想定外の出来事だったので、何の準備もしていなかった城内の将兵は驚き慌て、ロクな抵抗もできなかった模様です。守護代・塩谷掃部介も「今はこう」と自ら命を絶つほかに術がなかったようで。ですけど、城内には当然、将兵以外にも、守護代の家族はもちろん、女性や子ども、高齢者なども大勢いました。そのような人たちには、何の罪もないにもかかわらず、ほとんど大量殺戮というほかないほど、城内の人々はその大勢が犠牲となりました。
城の奪還のためには手段を選ばない、という気持ちは理解できますし、そのくらいの気概がなければ……というご意見ももっともです。ですけど、罪のない人を大量に巻き込んでしまった、という点では例のオダノブナガ並に冷酷非情と思えなくもないのですが(むろん、尼子経久ほどの大人物をオダなんたら如きと同列視する気持ちは欠片もございません)。大内氏歴代はこんな非情なことはどなたもやっていないです。最後の殿様など、蟻一匹殺せなかったのでは? 世の人はそれを「無能」と呼び、戦国乱世では淘汰されてしまうわけですが、オダノブナガみたいに人を人とも思わず何でも焼き討ちしてしまったりとか、乱世とはいえ、ヒドい話です。
この一点を以て、尼子経久を悪人とか、残虐とは言えず、「そういう時代だったんだ」という話にはなりますが、なんとなく後味の悪い気分となりました。
有力国人らの屈服
尼子経久が月山富田城を奪還し、再び出雲国を掌中に収めると、付近の小領主などは保身のため大人しく経久に従うことになりました。正直、殿様なんて誰であれ、一般庶民にとってはどうでもいいことですし、戦争に巻き込まれることなく、日々平穏に暮らせればそれにこしたことはないわけです。天下国家を論じるような力のない人は皆そうです。
ですけど、一筋縄ではいかない「デカいの」はどこにでもおります。本当に実力がある場合と、単に「名門」であるがゆえに、お高くとまっているだけのケースとありますが。出雲国は京極家が守護職をつとめ、尼子家は単なるその配下の守護代だったはずです。いつ、どの時点で京極家が出雲守護職を失ったのか定かではありませんが(書いている人が知らないだけです)、のちに経久の孫・晴久の代には山名家二号みたいな「六分の一殿」になってしまいますから(=十一ヶ国の守護)正直もう、経久が月山富田城奪還した時点で、出雲国は京極家とは無関係と言ってしまってよい気がします。だって、「経久追い出し」たのは京極家なわけなので、「取り返されて」そのまま放置せざるを得ない時点(再度の追放はなかったので)で「終わってます」。
さて、経久は出雲一国を完全に手に入れるため、大人しく配下に馳せ参じない「デカいの」を屈服させる必要がありました。具体的には、三沢、赤穴、三刀屋といった連中です。ご存じの通り、大内家と尼子家が揉め始めた頃には、これらの人たちは完全に尼子配下のようになってますから、「恐れ入りました。以後は仰せに従います」となる過程があったはずです。当然、武力による制圧ってことになると思うのですが、敵も然る者なので、そう簡単にはいきません。
月山富田城奪還とて、「計略」勝ちといったところがありますから、尼子経久という人は、毛利元就同様、「策を弄して」無駄を省く傾向が強いお人と思われます(まあ、正面切って戦っても勝ち目なかった、といえなくもないけど)。『陰徳太平記』には、経久が「策を弄して」三沢家を騙し、まんまと屈服させた話が載っています。真偽のほどは知りませんが、ほとんど兵損なしで、頭脳戦で意図も容易く勝利したって感じです。
その流れだけまとめると以下の通りです。
一、経久の家臣山中が、経久の家臣を斬って逃亡。三沢家に身を寄せる。怒った経久は、三沢の妻子を捕らえて投獄する
二、山中は三沢の家臣として、二心なくつとめたので、三沢は山中を信用するに至る
三、山中は三沢に次のように語った。家臣同士が喧嘩して相手を斬ってしまうなどどこにでもあること。しかし、経久は何の罪もない山中の妻子を投獄するなどあまりにヒドすぎる。超腹が立つので、経久に思い知らせてやりたいと思っている。ゆえに、力を貸してほしい。
四、山中の説明によれば、月山富田城には、山中に力を貸してくれると約束している身内が数人おり、内側から呼応してくれる手筈となっている。山中は月山富田城の内情を知っているから、三沢が精鋭を貸してくれるのなら、彼らと協力し、経久を討って鬱憤を晴らすことは容易とのこと。
五、もともと尼子経久は気にくわないから、山中の手引きで倒すことができるのであればこれに勝ることはない。と考えた三沢は山中に精鋭をつけて月山富田城に送り込む
何やらあからさますぎて笑うこともできませんが、この類の話、『陰徳太平記』にはほかにも大量にあります。『陰徳太平記』がワンパターンの逸話を繰り返したというよりは、嘘か本当かわかりませんが、よくある例だったみたい。
この山中という人が、先の月山富田城奪還の時の山中とどういう関係にあるのか、それともたんなる同姓なのかは不明です。山中の話は「すべて嘘」で、経久の家臣を斬って出奔したところからずっと「演技」でした。斬られた家臣というのは、重罪人で処刑されるのを待っていた人。妻子の投獄は気の毒ですが、リアリティーを持たせるため、しばらく我慢して本当に牢屋に入っていたかも知れません。
かくして山中と、三沢の家臣たちはともに月山富田城へ向かいましたが、山中は「中にいる身内が約束通り待ち合わせ場所にいるかどうか見てきますので、皆さまはこちらでしばしお待ちくださいー」と言い残して、一人中へ入っていきました。ところが、その後、待てど暮らせど山中が戻って来ません。三沢の家臣たちはさすがに「怪しい」と感じましたが、時既に遅し。
城内から繰り出した経久の将兵によって、三沢の家臣たちはそのほとんどが討ち取られてしまいました。うち、数名は辛うじて逃げ帰りましたが、三沢のショックは計り知れません。何せ、経久さえ倒せればしめしめと思い、選りすぐりの配下を送り込んでいたので、そのほとんどが命を失ってしまったとあっては、配下には小物しか残っていないという状態です。兵士の数も減ってしまいました。そんなところに、「経久が攻め込んでくる」という噂が。恐ろしくなった三沢はもはやこれまでと思い、経久の配下に降りました。
……というのが、『陰徳太平記』に載っている尼子経久が策を弄して三沢を騙した話です。三沢のこの有り様を見たそのほかの、赤穴、三刀屋なども、いずれ同じ目に遭うと考えると逃れる術はなかろうと同じく経久の配下となりました。こうして、出雲国のうるさい国人たちはそのほとんどがロクに戦いもせずに、経久の統治下にはいったのでした。
ここまでのまとめ
- 清定の子・経久が跡を継いで出雲守護代となる
- 経久は 1458 年生まれ。義興は 1477 年生まれである。両雄の間には二〇歳ほどの年齢差がある。1467 年から始まり、11 年も続いた応仁の乱を、十歳くらいになっていた経久は記憶しただろう。義興は、京都生まれとはいえ、未だ美しい両親の腕に抱かれた愛らしい赤子だったから、目にしているはずはない(そのことが、その後の両雄の対決に何らかの影響を与えたということは、もちろん、『ない』)
- 経久は、関所の津料や段銭を滞納するなど、守護代としての権限を逸脱した大胆な行為を繰り返し、幕府からの督促も無視して我が道を貫いた
- 時代の最先端を行き、富国強兵を目指した経久だったが、先走りすぎたせいで幕府から討伐命令が出てしまい、出雲国を追放されてしまった
- 追放と流浪の憂き目に遭った経久は、困難な時を堪え忍び、再起の時を待った
- 智謀に長けた経久は、謀を巡らせて月山富田城を奪還。経久の帰還を快く思わない有力国人たちをも屈服させて、名実ともに出雲守護となる
- 尼子経久が月山富田城を奪還したのは文明十八年(1486)のこと。同じ年、大内氏では当主・政弘が氏寺興隆寺を勅願寺化し、亡き父・教弘を築山大明神として神格化するなど、大内氏にとって、盛大なイベントが数々行なわれた輝かしい年だった。やがて、子の義興が、この年やっと追い出された城に戻ってきた経久と、のちに永遠のライバルになるなど、誰が想像できたろう
以上で「尼子家」についての話は一旦休止いたします。続きは「尼子経久」と凌雲寺さまとの全面対決までお待ちください。関連記事:『陰徳太平記』曰く「尼子経久の陰謀」
尼子経久の流浪の旅と月山富田城奪還の話は『陰徳太平記』が面白いので、そっちを見てください。かなりインチキだらけの本なので心配だけど、この部分はそこそこまともだったぽいよ。
嘘だろ。父上が兄上殺したとか書いてあった本じゃないか!
「あれ」は陶「持長」なる人物が「義清」なる息子を手にかけた話。父上とも私とも無関係だ。それより、稚拙な訳文を読まされるほうが苦痛なのだが……。
あの文章を書いたのは僕じゃありません……(涙)イマドキの童じゃないから訳文要らないし……。
いいじゃないの。ヘンテコな訳からも、何となくどんな話かだけはわかったぜ。
参照文献:日本史広事典、平家物語全訳注、大内・尼子・毛利六十年戦争史ほか(文献、出典整理中です)。