陶のくにの人々

右田氏

弟君
城主さま
城主さま

我らはもともと、右田氏の分家だ。最も近しい身内だから、互いに行き来し、父上も、弟も養子に入ったことがある。とはいえ、いずれも本家本元が大内氏であることにかわりはなく、その親族、重臣という立場なのだ。

右田家の起こり 

まとめ

右田氏を名乗ったのは弘俊が最初だが、始祖は本家から分かれて右田の地に入った盛長である。

盛長、盛綱、弘俊、重俊

大内盛長は八世・貞成の子で、九世・盛房の弟であり、佐波郡右田荘を領した。右田摂津守。実子がなく、兄盛房の子・盛綱を養って子とした。

盛綱、盛房の六男(六郎、散位)。『実録』附録系図によれば、盛綱には三子がある:盛俊(王寿丸、小太郎)、某(五郎)、俊貞(六郎)

弘俊、盛綱の孫(同上系図、盛俊の子。八郎、小大夫)初めて右田を氏とした。弟が弘賢で陶氏の祖となった。一山国師弟子、法名:浄通。

弘俊の子・重俊は法名を浄観と号した(八郎太郎、夢窓国師弟子)。
二子があり、重貞(三郎、尾張守、法名:浄空)、貞弘(八郎太郎、伊予で戦死、二十八歳)という(同上系図、ほかにも盛氏、九郎がいた)。ともに和歌に優れており、臨永集の作者に名を連ねた。

重貞の子は直重(三郎太郎、早世)、僧(英山、悟山寺西堂)、弘房(あるいは弘総、二郎三郎、越前守、越前入道、法名:昌清)、弘直(下野守、大内義弘に属して泉州堺で戦死)。

弘房の子は貞俊(三郎、石見守、石見邇摩郡代、赤間関で討死)。

貞俊の子は貞安(三郎、右京進、摂州で戦死)、弘篤(弥六、大内教弘とともに安芸銀山城主・武田某と合戦。寛正三年五月十二日、銀山城支城己斐城を囲む。弘篤は力戦し城主・戸坂播磨守信成を討ったが、その身も戸坂家人のために戦死した。二十四歳)。

貞安の子は弘量(弥三郎、左馬助、右馬助、明応七年十一月七日豊後国玖珠で戦死、三十七歳)、弘如(石見守)、弘高(下野守)、正忠(雅楽守)。

弘量の子は興量(あるいは貞量、弥三郎、京都で死去)。

興量の子は興安(左馬助、但馬守)。

興安の子は重政(最初隆量、左馬助、伊豆守、但馬守、従五位下)

重政の子は女子(早世)、康政(始め隆俊、市郎、左馬助、御郷と称す)、康秀(豊前守)。

家督の流れ

盛長 ⇒ 盛綱(甥、養子)⇒ 弘俊(盛綱子・盛俊の子)⇒ 重俊(弘俊の子)
重俊の子・重貞 → 子・弘房 → 子・貞俊 → 子・貞安と弘篤
貞俊の子・弘篤 ⇒ 戦死により、陶弘房が継ぐ。
貞俊の子・貞安 → 弘量

右田弘量

右馬助となる(系図に弥三郎、左馬助の名があるがほかに所見がない。左馬助は右馬助の誤りと思われる)。

右田重貞の曾孫・石見守貞俊の孫である。大内義興に仕えた。

明応七年十一月七日、将として豊後国玖珠郡青内山で戦い、敗北して、亡くなった。三十七歳だった。

右田隆量、隆俊

右田隆量、同隆俊という人は、史料によって食い違いがあり、確定するのが難しいようである。そもそも『実録』に、「系譜、系図にこの名見えず」とある。むろん、項目が立てられているのだから、ほかの史料には登場しているわけだ。近藤先生はあれこれ比べた上で、「猶よく考ふべし。今暫く系譜に従ふ」と書かれている。その後のご研究で明らかになったことも多いだろうけれども、今のところはあれこれ目移りせず、一冊に絞って順々に覚書きしているところであるから、先生が確定なさっておられないところも含めて『実録』の記述だけに拠っている点をご理解ください。

右田隆量

左馬助となる。
 ※系譜に右京進、系図に但馬守とあるが、ほかに所見がない。有名衆に右田市郎はあるが、隆量の名はなく、小座敷衆に右田右京亮がある。この右田右京亮が隆量であり、系譜の右京進は右京亮の誤りだろう。通俗本に右田右京亮の名を隆次として、大寧寺の殉死に加えているが、甚だしい誤りである。

右馬助弘量の孫で、左馬助興安の子である。
 ※系図 ⇒ 弘量の子は興量、興量の子は重政となっており、興安の名前はない。
  古文書 ⇒ 興安の名前は出てくるが、興量は所見がない。
 興安と興量は同一人物ではなかろうかと思われるが、なおよく考えるべきである。

天文七年十二月十四日、従五位下を授かった。

義隆が亡くなると、義長に仕えた。

弘治元年、密かに毛利氏に内通する。

元就父子はしばしば隆量に書状を送り、心を合わせることをすすめていたが、三年三月八日、都濃郡富田の若山に陣を移すと、山口に入るようにと知らせた。隆量は富田に使者を派遣し、同意する旨を告げた。元就父子はこれに答え、すみやかに現形するよう諭した。

内藤隆世はすでに居城・姫山を棄て、義長を奉じて高嶺城に入っていた。隆量はこのことを富田に報告し、山口に進軍するよう勧めた。ついで挙兵して、氷上の砦を奪い取り、援軍を求めた。そこで、元就父子は福原左近允貞俊、志道大蔵大輔元保を将として、十三日に富田から出陣させた。

毛利兵が山口を手に入れたのは、隆量父子の働きが大きい。のちに伊豆守となり、名を重政と改めた(秋穂八幡宮奉加帳に参河守とあり、右田重政の附箋がある。この重政とは同名の別人である)。

右田隆俊

市郎と称した。
 ※系譜、系図に 左馬助、美濃守の名があるが、ほかに所見がない。

父と同じく毛利氏に属した。

のち氏を御郷、名を康政と改めた。
 ※系譜に、実は義隆の里腹の子であったので、右田を御郷に改めたのである、と伝えているのは、御郷の文字からこじつけた説である。大内氏家人に御郷氏がおり、隆俊が御郷氏の女性から生まれたので、その氏を継いだものと思われる。
 ※系譜に初名・義教とする。義隆の時に、義某と名乗るはずがない。系図では義隆の子につなげて、義教、御郷市郎、初め康政とする。本当に義隆の子であるのなら、義某ともいえるが、裏付けがない。永禄十一年の文書に隆俊とあるので、当時隆俊であったことに議論はない。

子孫は今に続いている。

その他

史料に出ている右田姓の人たち

ミル
ミル

以下は『実録』附録系図に記されている、未確定な右田さんたちです。要するに、何かの史料で名前が確認されたけれども、正確な素性が不明な人たちです。その後明らかになったケースもあるかもですが、取り敢えずこの系図が作られた時点では不明でした。

右田図書允跡(応永十一年文書)
右田義信(石見守、応永十四年氷上山興隆寺一切経勧進帳)
右田虎法師丸(同上)
右田将監跡(文明二年文書)
右田重政(参河守、秋穂八幡宮奉加帳)
右田玄蕃助(天文三年文書)
右田甲斐守(滞在日記天文七年四月条)
右田右京亮(有名衆家中覚書)
右田弥四郎(天文十二年五月七日、出雲国意宇郡出雲浦で戦死)
右田三郎座衛門尉(家中覚書)
右田下野守(天文廿年文書)

参考箇所:近藤清石先生『大内家実録』巻十八「親族」、附録系図

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元ドメイン公開日:2022年3月24日 2:39 PM

ミル
ミル

系図、系譜に名前がない、って書いてあるのに、系譜・系図で官職なんたら……というのはなにゆえに?

鶴ちゃん
鶴ちゃん

そもそも、我ら自身も系図・系譜を調べるべきではないのか? きちんと本に載っているのに。こんな手抜きの説明では、血縁関係がまるで見えないぞ。

五郎
五郎

ミルをいじめるなよ。低い能力値で身の丈以上のことをやっているんだ!

ミル
ミル

あまりはっきりと本当のことを言わないでほしいの……。

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