人物説明

親族

2022年4月7日

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親戚の方々のページです。最初は記事ボリュームが少ないので、まとめてます。将来独立する人もいるかも。人数も少しずつ増やします。

鷲頭氏

始祖は盛保。長弘の時、宗家を凌駕する勢いであったが、弘世との戦いに敗れたのちは振るわなかった。代々、鷲頭妙見宮を守り仕える役柄を担った。その後も弘為が盛見に叛いて戦死。弘忠、弘貞が教弘に誅殺されるなどの出来事があったが、宗家滅亡まで家は存続した。鷲頭は周防国都濃郡の荘名。

始祖・盛保

鷲頭三郎、 但馬権守(系図、鷲頭系譜) 。十六代・盛房の子で十七代・弘盛の弟。
罪を犯し流刑となったが、治承四年十月八日、天変(天空に起こる異変、日食、星が落ちたり流れたり)による赦免があり、盛保も許されて召還された。子孫が鷲頭と称した。
盛安の子ら:親盛(筑前守)、保弘(吉敷十郎、法名:道仏)、保盛
 親盛⇒尼禅恵
 保弘⇒親弘(平野)、保光(鰐石五郎、あるいは盛安の子)
  保光の子ら:保成(八郎)、保盛(九郎)、保貞、保家、保弘
   保成⇒某(讃岐坊)
   保盛⇒乙法師丸
   保貞⇒保房⇒保武⇒保貞

鷲頭長弘

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大内長弘 終始武家方を助けた実力者

二十一代当主・弘家の子。後醍醐天皇の倒幕からずっと足利尊氏を支持。南北分裂でも武家方につき、家中一の実力者として、幕府から周防守護に任命された。惣領家を凌ぐ勢いだったが、死後にその子・弘直は大内弘世に敗れ、一分家の地位に没落した。

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豊前守となる。二十一代・弘家の子で二十二代・重弘の弟である。高曽父・満盛(宗家十八代)の叔父・盛保の孫、鷲頭尼禅恵の遺跡を継いだ。大内豊前守、鷲頭豊前守(系図)
(盛安⇒親盛⇒尼禅恵⇒長弘)
注意:宗家の相続の流れは重弘⇒弘幸⇒弘世

延元元年二月、足利高氏に与して東上。二月七日、摂津兵庫に到着。大友貞宗、厚東武実等とともに官軍・土居、得能と合戦。高氏は敗れて鎮西に逃れた。この時、沿道諸国に大将を留めて後拒(あとぞなえ、後方に備える軍隊)とし、大島兵庫頭が周防の大将になった。 長弘は守護代となる。
長弘の子ら:弘員、弘直(美作守、式部大輔)、貞弘、盛継*(駿河守)、氏弘(彦三郎)、弘成(弥三郎)

鷲頭弘員

但馬権守となる(系図、系譜に二郎五郎の名があるが外に所見なし)。

観応元年十月十日、従姪(いとこの子)弘世は足利氏の命で高越後守師泰の代官・山内彦二郎入道を討った。弘員はその守護代・乙面左近将監を敗走させた。

鷲頭貞弘

古文書に散位とあるが、位階不明。系図、系譜に信濃守とあるがほかに所見なし。

文和元年、弘世が南軍につき、二月十九日に貞弘を攻撃した。貞弘内藤藤時と合軍して、都濃郡鷲頭荘白坂山で弘世と戦った。

弘員⇒康弘(美作守、下松で自害)⇒弘宗(佐馬頭、長門長福寺で自害)⇒盛弘(治部少輔、筑前宗像西郷で討死)⇒弘賢⇒弘棟(治部少輔)⇒弘仲(治部少輔)⇒弘季(治部少輔)⇒弘氏(佐馬介)

盛弘の子ら:弘賢(弥五郎、治部少輔)、弘宗(孫三郎、縫殿允)
弘賢の子ら:弘孝(三郎)、盛豊(四郎)
*盛継の子ら:弘為(刑部少輔、大内盛見に叛き、赤間関で戦死)、幸弘(上総介、義弘討死により、山口で自害)、安弘**(孫十郎、兵部少輔)
弘為⇒弘忠⇒弘貞⇒盛為
**安弘⇒盛安(孫十郎、あるいは盛弘、筑前深江で戦死)

鷲頭弘忠

弘為の子。初め盛範、孫三郎、肥前守、治部少輔、長門守護代。
文安五年二月十七日、長門深川で大内教弘に誅殺される。
弘忠の子ら:弘貞(孫三郎、兵部少輔、大内教弘に撃たれた)、弘永(孫三郎)

おまけ:『実録』附録系図に載っている身元不確定の鷲頭さんたち
鷲頭筑前守父子三人 康暦三年五月二十八日戦死(花栄三代記)
鷲頭道祖千代丸 応永十四年文書
鷲頭式部少輔 大永七年文書
鷲頭玄番 有名衆
鷲頭大和守 有名衆、家中覚書
鷲頭彦太郎 有名衆、家中覚書
鷲頭彦三郎 有名衆、家中覚書
鷲頭民部少輔 家中覚書

問田氏

始祖は長房。十六代盛房の子で、十七代弘盛の弟。
つまり。鷲頭祖と問田祖は兄弟にあたります。
吉敷郡問田を領有し、地名を以て氏とした。

問田氏は氷上山妙見会の日、歩射の弓太郎の役を勤めるならわしである。昔、妙見を氷上山に祀る際に、琳聖太子が居住したといわれている大内畑で子孫を探したところ、自ら名乗り出て神前で的を射たという。大内畑は問田氏の領地である。

問田長房(問田三郎、平大夫)⇒弘経⇒成経(太郎)⇒経貞(成経弟)⇒重成(五郎、入道覚性)⇒貞世(太郎、掃部助、備中守)⇒盛成(備中守)⇒弘綱(掃部助、備中守、石見守護代)⇒弘胤(掃部頭、大蔵少輔、贈備中守)⇒興之(掃部頭、備中守、石見高崎で病死)⇒隆盛(十郎、丹後守、備中守、石見守護代、あるいは矢田隆通弟)⇒弘胤(民部少輔)⇒房胤(備中守、長府で戦死)⇒晴元(新十郎、主水正)

問田弘経の子ら:成経、成俊⇒野田祖
経貞の子ら:重成、女子、貞義(弥三郎)⇒弘義(彦太郎)
重成の子ら:貞世、弘有(十郎)
弘綱の子ら:弘胤、弘貞(三郎、山口で戦死)
弘胤の子ら:興幸、女子(宗像左衛門尉氏継妻)
興之の子ら:隆盛、某(紀伊守)
隆盛の子ら:安広(喜平太)、弘胤

問田弘胤

初め掃部頭、のちに大蔵少輔となった。始祖・長房七世の子孫・備中守弘綱の子。政弘に仕えて、奉行であった。

長享元年、将軍・足利義熙(義尚)は、近江の佐々木六角高頼を討伐するため、鉤里に陣を置いた。弘胤は政弘の名代として東上した。
正月二十二日、鉤里に到着。翌日、将軍は観世大夫に命じて松拍子を執行させた。弘胤は将軍の陣営年原口の警衛を勤めた。二月二日、将軍に拝謁。

永正四年、義興が足利義稙を奉じて東上するのに従った。
永正八年八月二十四日、船岡山の合戦で戦死。
東上するメンバーに加えられた時、弘胤は同僚らに語った。「勝敗はとやかく言わない。ただ、皆より先に戦って死に、その名を後世に残したい」と。果たして、その言葉通りとなった。将軍はいたく心に感じて、備中守を贈った。

男女二子がおり、息子は興之、娘は宗像大宮司左衛門佐氏続の妻となった。

問田興之

幼名:十郎、のち掃部頭となった。
※系図には備中守とあるが、ほかに所見がない。

船岡の合戦で、父・弘胤が戦死した。興之は膂力(りょりょく、ちから)があって、父の屍を左腋に挟んで奮戦した。敵も味方もびっくりしたという。

没年不詳。大永五年二月の文書に掃部頭とあり、興之のことだが、その後は所見がなく、享禄三年十月の松崎天満宮棟札に、陶興房のつぎに問田十郎隆盛とあるから、興之は大永五年二月~享禄三年十月以前に亡くなったと思われる。系図は石州高城で病死した、とする。高祖父・貞世、祖父・弘綱、子・隆盛皆、石州守護代なので、いかにもそのようだと思われる。しかしほかには所見がない。

問田隆盛

幼名:十郎、掃部頭興之の子。

天文三年五月十三日、豊後国薄野浦で戦い、矢傷を負った。のち石見国守護代となった。備中守をつとめた(系図に丹後守の名があるがほかに所見なし)。

陶晴賢を助け、大内義長に仕え、小坐敷衆につらなった。

弘治元年十月七日、杉重輔が陶長房の居城・都濃郡富田の若山城を襲撃したとき、ちょうどそこにいて、戦闘の結果戦死した。

問田式部丞 応永十一年氷上山本堂供養日記
問田入道道珠 同十四年同寺一切経勧進帳
問田太夫 明応七年文書
問田胤世 五郎、文亀元年文書
問田英胤 大蔵少輔 年号不明文書

野田氏

問田氏の分家。始祖・成俊、問田弘経の子、成経の弟。
成俊(野田兵衛)⇒俊経⇒保景⇒師景⇒近弘(刑部少輔、法名:道三)⇒忠資(彦七、加賀守、加賀入道道高久)⇒弘俊(刑部少輔)⇒弘資⇒某(次郎、伊豆守、法名:永高院道中、実は大内弘世次男)⇒隆俊(筑後守)⇒某(備後守)⇒某(兵部丞)
安景の子ら:師景、某(道悟庵主)
近弘の子ら:忠資、重近(弥四郎、兵庫介)

野田隆徳

野田隆徳は兵部少輔となった。兵部少輔興方の子である。興方は実は問田太府の三男で明応七年野田鍋王の遺跡を継いだ。

山口県士族南方氏の所蔵の文書から、彦太郎の子・鍋王、鍋王の遺跡相続興方、 興方の子・隆徳という人物の存在がわかる。明応年間の文書に「姉君」、有名衆に野田兵部親族家頼中とあって、問田氏から分れた野田氏であることはあきらかであるが、大内系図にはまったくその名が見えない。
「就当病御一跡事、以姉君 嫁夫之人躰、可有相続之旨、御申之次第令披露候、御心得之由被仰出候、尤目出候、恐々謹言、八月廿日、弘隆、武明、野田鍋王殿。去十八日御札致披露候、依野田鍋王方一跡事、彼方就元請上意候、去年明応六八月廿日被成遣奉書候、仕其旨、 以彼姉君嫁夫之人体、問田太府息三男、可令相続之由、 只今遺跡之家人言上之通御申之次第御領状候、此趣可被申与之由被仰出候、恐々謹言、九月廿一日、弘降、正任、杉勘解由左衛門尉殿」
「豊前国京都郡知行分事、至一乱以前、任領知之旨可被遂入部之由所被仰出也、達如件、文明十年九月十七日、散位、遠江守、野田彦太郎殿」。
「下野田兵部少輔興方、可令早領知豊前国上毛郡市丸四拾弐町五段五代地、杉十郎 左衛門尉跡事、右以人所宛行也者、早守先例、可全領知之状如件、大永八年八月廿一日」(袖に義興の花押あり)。
「石見国爾摩郡仁万郷百弐拾石足、周防国吉敷郡宇野令内参拾石足、同郡宮野庄内 拾五石足、長門国阿武郡宇生賀郷内参拾石足、同郡福田郷内拾五石足、小川郷内五拾石足、豊前国京都 郡久保庄内百弐拾石足、同国上毛郡市丸村百弐拾石足等事、任当知行之由申請之旨、野田兵部少輔隆徳 領掌不 可有相違之状如件、天文廿二年十月二日」(袖に義長の花押あり)。

隆徳は義隆に仕えた(興方死去の年月は分からない。享禄三年十月十四日の松崎天満宮の棟札にその名前があり、その後は所見なし) 。晴賢が叛いたとき、これに与みし義長に仕え、石見周防長門豊前の内に五百石の地を領有し、座次は晴賢についだ。

野田隆方

隆徳の子。主計□となる(有名衆は主計頭とし、家中覚書は主計允とする。いずれが正しいのか不明)。義隆に仕え、侍大将ならびに先手衆であった。

天文七年十二月十四日、従五位下を授かった。父と同じく晴賢に与みし て、義長に仕え、小座敷衆につらなった。

野田 仁平寺本堂供養日記
野田勘解由 康暦二年五月廿八にち戦死(花栄三代記)
野田弘安 佐馬助 応永十二年、十四年、卅年、卅三年文書
野田為広 民部丞、備後守、永亨七年長門国守護代(長門守護代記)
野田弘賀 為弘子、治部丞、長門小守護代(長門守護代記)
野田孫左衛門先知行 文明二年文書
野田彦太郎 文明十年文書
野田鍋王 彦太郎子、明応六年死、明応七年文書
野田興方 鍋王遺跡相続、兵部少輔、妻鍋王姉
野田隆徳 興方子、兵部少輔、天文廿に年文書および家中覚書
野田隆方 隆徳子、主計頭(あるいは主計允)従五位家、歴名士代天文七年および有名衆家中覚書
野田鍋王姉 興方妻、明応七年文書

※以上、『実録』イマドキ語変換

冷泉氏

基本情報

始祖:五郎弘正。弘世の子で、義弘の弟である。
弘世 ⇒ 弘正 ⇒ 盛清 ⇒ 教豊 ⇒ 政豊 ⇒ 弘豊 ⇒ 介四郎義豊 ⇒ 興豊 ⇒ 隆豊
興豊の代から、冷泉氏を名乗った。

弘正~興豊まで

明徳の乱、応仁・文明の乱などで数々の手柄をたてた。大寧寺で殉死した隆豊が有名。

明徳二年、弘正は京都二条大宮の戦いで亡くなった。山名の先鋒兵・小林修理亮と刺違えて死んだ若党がいたが、これが弘正であろうか(『実録』)。

弘正の子・盛清は、父が戦死した時、わずかに三歳だった。幼いながらも、父の忠死により、知行地を賜った。

応仁の乱の時、弘豊は摂津兵庫で手柄をたて、摂津・灘七千貫を賜り、平野に居住した。

弘豊の子・義豊は、文明年間に政弘に従って周防に下向した。
伯父・式部少輔 (系譜に見えない) の旧領を知行。冷泉氏の娘(冷泉平弘英の娘と思われる)を妻とした。

興豊は本家に憚り、大内氏を改めて母の氏を継ぎ、初めて冷泉氏を名乗った。

冷泉隆豊

初名:隆祐、幼字:五郎。父・下野守興豊 (系譜 ⇒ 興豊、下野五郎、式部少輔。下野『守』なし。有名衆 ⇒下野守)。
隆豊は義の人である。勇敢なうえ、和歌にもすぐれていた。
義興、義隆二代に仕えた。

大永七年、十五歳の時、安芸国仁保島、国府城等で戦った。

のち検非違使左衛門尉となる。
天文六年正月六日、従五位下を授かる。これ以後、大夫判官と称した。

天文十一年、義隆の出雲遠征に従う。
天文十二年、 警固船の将として、伊予で合戦(十五年、十六年にも伊予で戦っている)。

天文十四年閏十一月十一日、従五位上、天文十七年正月二日、正五位下を授かる。

天文二十年八月、陶隆房が謀反し、山口を襲った。
八月二十八日、義隆が法泉寺に逃れるのに従う。隆豊は黒川隆像、佐波隆連、江口五郎等と嶽山を守った。二十九日、本営の兵が多く脱走したので法泉寺に召還される。その夜、義隆は長門に逃れた。隆豊は殿戦(しんがり)をつとめ、追撃してきた賊軍を退けた。
九月一日、義隆は大寧寺で自殺し、隆豊が介錯した。

隆豊は方丈に火を放ち、岡部隆景、天野隆良、黒川隆像、禰宜右延らと棟木が焼け落るまで義隆の骸をかくしていた。それから、経堂に上り、賊兵を招きよせて弓で射た。矢が尽きると、敵中にかけ入り、向かってくる敵六人を斬り伏せた。十人を傷つけたが自身も傷を負ったので、経堂に戻り、一切経の表紙に

 見よや立つ煙も雲も半空にさそひし風のすえも残らず

と血でかきつけた。

隆豊は腹を十字に割き切って、焔の中に飛びこんで死んだ。享年三十九歳であった。

菩提所:吉敷郡古熊・洞泉寺、法名:洞泉寺鳳仙道麒。

妻は平賀氏の娘である (系譜は蔵人大夫隆保の娘とするが、興貞の誤りである)。二子があり、兄を五郎、弟を四郎という。父殉難の時、兄は十五歳、弟は十二歳だった。のち毛利氏に仕え、五郎は元豊、四郎は元満と称した。子孫は今につづく。

隆豊辞世の句あれこれ

隆豊が最後に書き残した和歌について、『中国治乱記』『大内義隆記』『同異本』等々で少しずつその逸話が違っている。

『中国治乱記』⇒ 「身を立し雲も烟も半天に哀 れうき世の夢も残らす」という和歌を経堂の扉に書き、その下に多々良朝臣隆豊と記す。
『義隆記』⇒ 一同が御前に伺候し、義隆から順番に歌を詠んだけれども、「煙とやなりけん聞えず候」。隆豊は義隆の歌を見て、と前書きしてから「見よやたつ煙も雲も半天にさそひし風のをとも残らす」と詠み、一切経の表紙に血で記した。
『同異本』⇒ 隆豊の歌を「見よやたつ煙も雲も半天にさそひし風の末も残らず」とする。

近藤先生は、陶も残らず滅んでしまうだろう、と詠んだであろうと思われる、と『異本義隆記』の歌を採用。いっぽうで、血で書き記した、とあることについては、硯と料紙をそばに置き、御前で詠んでいる席において、血で書くはずはない。隆豊の歌は「最後の血戦」をしてからの歌であろう、として『中国治乱記』の説が正しいとしておられる。

冷泉氏の偃月刀

冷泉氏には偃月刀が伝えられている。刃の長さ一尺八寸、刃もとに樋があり、樋から上は所謂長刀おとしで刃がついている。「備前国住長船与三左衛門尉祐定、永正十八年正月日」との銘がある。これに隆豊介錯云々のことを金字(金泥で書いた文字)で書き記している。
永正十八年は隆豊九歳なので、隆豊が作らせた物でないことは無論である。父・興豊の持ち物が隆豊に伝えられたのだろう。しかし、この刀が通常のものではなく、隆豊が最後に持っていた物だとしたら、義弘の小林の長刀の類で、『義隆記』などに長刀のことが書かれているはずなのに、まったくふれられていない(『実録』イマドキ語変換)。

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十六「宗室」、巻十八「親族」、巻二十一「殉難」、巻二十八「叛逆」、附録系図より

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陶氏、その本家右田氏については特別扱い。だから、別のページだよ。何しろ俺の先祖だもんね! ⇒ 右田氏陶氏

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