人物説明

大内長弘 終始武家方を助けた実力者

2024年8月30日

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大内長弘とは?

鎌倉時代末~南北朝期の鷲頭家当主。二十二代当主・重弘の弟で、二十三代・弘幸にとっては叔父にあたる。弘幸は叔父に頭があがらなかったのか、その活躍はほとんど見られない。かわりに幕府(足利尊氏)からは、大内氏を代表する功労者として、長弘が周防守護を任された。

のちに大内弘世の活躍で、家中の実権は惣領一族の元に戻る。弘世の活躍を褒めたたえる筋には、総領の地位を簒奪しようとしたダークなイメージで語られることが多いように感じるが、決してそんなことはない。

家中をまとめ、一族を統率する能力に長けた立派な人物だったゆえにであり、当然の評価を得ていたものといえる。

当主の叔父・一族の「長老」として家を導く

鷲頭家を継ぐ

大内氏の氏神・妙見を祀る妙見社は現在の下松にあった。始祖・琳聖来朝を告げるために北辰が舞い降りたのも同じく、現在の下松。そのことを以て、そもそもの惣領は鷲頭家だったのではないかとする説が過去にあった。最近目にした出版年が古いガイドブックにも同様のことが書いてあり驚いたところ。

系図を見れば、鷲頭家は多々良氏一門が大内と名乗るようになったのちに分出しているから、分家にしか見えない。しかし、系図というのは、都合が悪いところは(インチキ系図ではなく、本人たちが作った系図でも)書き換えてしまうようなものだから、そう言い始めれば、何が正しいのかなど誰にもわからない。

ところで、大内と名乗ったと書いてしまったが、これは「外の人たち」から見て彼らは大内と名乗っているらしい(名字の地が大内だ)というような感覚が正しく、各種文書の署名などを見れば分るように、本人たちは多々良○○と書くことが多かった。これはほかの家でも同じことだが、家門繁栄して多くの人々が分家を立てて独立していくと、何が何だか分らなくなるので、名字の地を名乗って区別をする必要が出てくる。それと同時に、わからないほど数が増えたとしても、皆多々良であるという同族意識も捨てなかった。少なくとも、初期の頃はそんな感じだったらしい。

そもそも、山口の人は(市内)大内弘世が大好きなので、鷲頭長弘は惣領でもないのに、家中を牛耳っていた。弘世はそれを苦々しく思っていたが、弘幸、長弘存命中は黙って従っていた。けれども、自らが当主の座に就いた後はそうはいかない。鬱陶しい鷲頭家を成敗して、家中の実権を取り戻し、大内氏飛躍の基礎を作った云々。こんな流れが通説だろうか。

でもこれ、立場を変えれば見方も変る。『大内氏史研究』に、弘幸が長弘の言いなりに甘んじていたのは、「凡庸」だったためであり、(病弱だったとかその方面も含めて)「軍事的活躍に不適任者」であったとみるよりほかない云々なる記述があり、これは『大内氏実録』を書いた近藤氏の「説」も同じだとある。とかく、古い時代の研究者は手厳しいが、勝手に凡庸でかつ軍事的才能もなく、身体も弱いと決めつけられたら気の毒な話だ。そう書いてある史料があるわけではなく「(以上のように)見るの外はないであろう」という推測なので。

弘幸さんは謙虚な性格で叔父上としての長弘を立てたのかもしれないし、あるいは、軍事方面はあまり好まない性格だったのかも。いずれにせよ、国中が二つに分れて相争うという非常事態となる中(後述)、リーダーシップを取れる人が家を束ねていく必要があり、長弘にはそのような実力が備わっていたのだと思う。

本当は鷲頭家のほうが、惣領だったのではないかという説は、この後からでてきたのではないかと思うけれども、今ちょっと典拠を思い出せない。もしそうならば、のちに大内弘世は惣領の座を奪ったということになるが、それも「実力ある者が家を率いる」という点で何ら問題はない。それより先に、大内長弘は惣領だった鷲頭の家に入り込むことで、多々良の一族を統率しようとしたことになるが、これまたどのみち、鷲頭家は尼御前で断絶するところだったからして、切れ者である長弘ならでは。

建武の新政と大内氏

鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が親政を始めた頃、大内家の当主は弘幸だった。『大内氏史研究』によれば、天皇親政、朝廷による政治を目指した後醍醐天皇は、遙かに昔の理想の時代(律令制下ですねぇ)のように、国には国司がいればよいというお考えだったが、鎌倉幕府を倒すのに協力した武家たちから見れば、国には守護と地頭を置き……という「幕府的な」やり方が染みついているから、国司とともに守護も配置された。国司に忠義の臣を宛て、武家たちの手前守護を置くには置いたが、やがては国司のみに権力集中させていきたいところ。

そんな中で、周防国の守護は誰に? というところで、任命されたのは長弘だったという。天皇のお考えが、のちには要らなくなるポストということであったなら、誰が任命されてもどってことない、となるが、この時点ですでに、大内家の代表者は長弘という認識があったということになる。

どこを読み飛ばしたかわからないが、長弘が周防守護に、厚東武実が長門の守護になったことについて、「強盛なる実力態勢を整えていた旧族で建武中興の功臣たる二氏の補任を見た」と書かれているから、「倒幕」時点で、両者は天皇方についていたことがわかる。

長弘、足利尊氏に味方する

建武の新政については、ネガティブな意見がほとんどである気がする。後醍醐天皇という天皇さまは個性が強いお方で、何とかかつての天皇親政の麗しい時代に戻そうと尽力なさったが、時代はすでに武家の世になっている。巻き戻すことは不可能だった。

武家たちによる寺社領の横領なども後を絶たず、天皇は綸旨を出して、それらを禁止するよう命じたが止むことはなかった(福成寺でホンモノを拝見しました)。天皇とそのわずかな忠臣だけが頑張ったところで、時代の流れを変えることなどできない。まして、何でもかんでも綸旨の効力で政治を行なおうなんて不可思議なやり方に、従える人は稀だろう。

北条得宗の専横は嫌だったが、さりとて、彼らを倒した後に謎の天皇親政が始まることは想定外だったという武家多数。彼らは鎌倉幕府にかわる、新しい武家政権の登場に期待して蜂起に加担したのだから。武士たちは、新たな幕府を開いて欲しいと足利尊氏に望みをかけた。同じく、天皇親政についていけなかった尊氏も蜂起する。

そんなわけで、後醍醐天皇の宮方と足利尊氏の武家方二派に別れ、のちには、武家方のほうでも新しく天皇を立てたことから南北朝の動乱となってしまう。面白いことに『大内氏史研究』には、武家方に味方することにした長弘と厚東武実らを「賊軍」と書いている。確かにそうなんでしょうけどね。

尊氏の挙兵はすんなりと成功したわけではなかった。それゆえ、いったん京都を逃れ九州に落ちる。その時、尊氏とともに戦い、逃走のために船を提供したのが、大友・大内・厚東だった。ここに、大内長弘は武家方の周防守護に任命された。

一代限りの栄華

その後の長弘と二代目

先にも書いたように、足利尊氏をはじめとし、多くの武家は天皇親政など望んではいなかった。ただし、北条得宗の専横には嫌気がさしていた。そういう意味で、尊氏やそのたの武家が、最初は後醍醐天皇に味方したけれども、その後は離れて行ったのは、自然の流れと感じる。

その意味では、多々良氏の一族が、最初は倒幕に参加。ついで、武家方についたのはそれこそ自然な流れ。その意味で、長弘は終始一貫して、武家方の人だった。のちに、観応の擾乱が起こり、尊氏と弟・直義とが対立した時も尊氏側を支持した。それゆえ、尊氏の子でありながら、養父となった直義についた足利直冬が、反尊氏の兵を挙げると、かれを中国地方から駆逐し、九州に追放するのに一役買ってもいる。

こうして、足利尊氏から実力を認められ、周防守護となり、ますます尊氏のために尽した長弘だったが、寿命には逆らえなかった。幕府から見たら、一番の功労者は長弘であるから、諸々の栄典を彼に与えるのは当然のこと。大内本家のほうも、弘幸が亡くなり弘世が後を継いでいた。

では、次期周防守護は誰のものに? となった時、それは「順当に」長弘の子・弘直にいったらしい。つまり、弘幸には何らかの事情があり、長弘にすべてを任せていたのかもしれないが、次の代の弘世は周知の如く立派な人物であるのに、長弘には自らに与えられた守護職を「本家に返す」という考えはなかったようだ。

ここで、息子の弘直が「凡庸」な人物であったかどうかについて触れている人はいないように思う。史料もロクにないだろうし。ただ、父ほどの実力者とは言い難かったことだけは確かなようである。

敵の敵は味方・南朝につくという離れ業

大内弘世は、今こそ大内家の本来の主は誰かを世に知らしめる時が来た、と感じたのだろう。あるいは、父の弘幸、大叔父の長弘に対しては多少の遠慮があって我慢していたのかもしれない。しかし、両者がともに世を去り、父ほどのリーダーシップがあるとも思えない「ごく普通」の弘直が、息子であるという理由で守護職を「世襲」している。もはや見許しにはできない事態である(より正確に言えば、南朝帰順は弘幸存命中のことだったので、弘幸も遂に堪忍袋の緒が切れてしまっていたのかもしれない。ただし、鷲頭氏との対決以前に亡くなってしまったから、どのように処理していくつもりだったのかは不明)。

盛見以降の当主とその兄弟たちは、南北朝の動乱期が終結してから家督争いに入っている。なので、大義名分もへったくれもなかった。しかし、この時期は、国中が南北に分裂しているから、気に食わぬ相手と敵対するほうの勢力に加担することで、簡単に「大義名分」が得られた。観応の擾乱で足利直義が南朝についたのがいい例である(これは尊氏もまた、南朝に鞍替えするという裏技で直義の名分は相殺されたが……)。

大内弘世は南朝に「帰順」することで、宮方の周防守護に任じられ、正々堂々と「賊軍」である大内弘直を討伐した(白坂山の戦い)。大内家の家督は名実ともに宗家・弘世の元に戻り、その後、周防ばかりか隣の長門にまで勢力を拡大していったのは周知の如く。

大内長弘=鷲頭長弘の一類がこの家を牛耳っていたのは、彼一代限りのこととなった。鷲頭家はその後も存続したが、「惣領」の如く振る舞う人物は出なかった。

のちに、だんだんと武家方の優位が固まってきた頃、大内弘世はちゃっかりと北朝に寝返っている。『大内氏史研究』にあるような、宮方に馳せ参じる感動物語はそこにはまったく見受けられない。要は「大義名分」が欲しかっただけである。結果論とはなるが、ここでいったん南朝につき、しかも一大勢力となっていたことで、防長の地が半ば世襲を認められるような、好条件での幕府への「従属」となった。

参照文献:『大内氏史研究』、各種通史、受験参考書類

まとめ

  1. 大内長弘は二十一代・弘家の子、二十二代・重弘の弟、二十三代・弘幸の叔父。
  2. 弘幸が当主だった時、大内氏一番の実力者はこの人だった。分家・鷲頭家を継いでいたが、実力はナンバーワンであり、大内氏の代表者的存在だった
  3. ちなみに、大内氏というのは、外部の人たちからみたこの家の呼称だから、いちおう全員が多々良一族。数が増えたので、名字の地によって区別はされたが。なので、鷲頭長弘も、足利尊氏からみたら、大内長弘だったかと
  4. 長弘存命中、大内氏は後醍醐天皇の倒幕に協力したのち、それに叛旗を翻した足利尊氏を支持して、終始武家方を貫いた。その功労から、長弘は武家方の周防守護に任じられる
  5. しかし、彼の死後、周防守護を「世襲」しようとした子(次男)弘直は、対抗するために南朝方についた大内弘世によって倒され、弘世が大内氏を代表する者となった
  6. その後も鷲頭家は存続。しかし、長弘ほどの切れ者は出なかった
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ミル

下松のガイドさんは、弘世さんより長弘さんがお好きみたいに聞こえたんだけど、気のせいかな?

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五郎

いや。俺にもそう聞こえた。陶や周南に行けば、父上やお祖父様のほうが人気あると思うよ。へへへ。

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ミル

そうだねぇ。ふふふ(個人的な意見です)

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五郎

周防国は山口だけじゃないからね♪ 色々あって、みんないい。基本、一族皆、良い人だよ。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
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