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妙見宮鷲頭寺(下松市)

2020年10月8日

本堂の写真

妙見宮鷲頭寺・基本情報

住所 〒744-0011 下松市中市1-10-15
電話 0833-41-1345
宗派 真言宗御室派
最寄り駅 下松駅から徒歩5分

庚申社 〒744-0014 下松市中市1ー10−8
荒神社 〒744-0014 下松市中市1ー8−10

妙見宮鷲頭寺・歴史

妙見「宮」・鷲頭「寺」という神社と寺院が一体化したかのような名称である理由は、この寺院が「神仏混淆形態」を維持しているためという。
神仏習合によって神と仏は一体化していたが、その後「神が仏に優越するという考え方が台頭して」、このような神仏が混淆した状態の寺社はだんだんと少なくなっていった。ただし、そのような傾向にあってもなお、混淆状態をとどめていた寺社もあった。
下松の妙見社は、上宮、中宮、下宮(若宮)の三社のほか、中之坊、宮之坊、宝樹坊、宝積坊、宝蔵坊、宝泉坊、宮司坊(のち改め鷲頭寺)の七坊よりなっていた。近世に入ると鷲頭寺以外の六坊はなくなった。こうして、妙見社は社坊として鷲頭寺が若宮に隣接するという、「三社一坊」という構成になっていた。
明治の神仏分離令で、若宮は鷲頭寺と分離して降松神社となった。神仏混淆状態の時、上宮、中宮のそれぞれ本尊であった虚空蔵菩薩と妙見大菩薩とは、鷲頭寺に移され、観音堂に安置された。
神仏分離政策に反対であったご住職は降松神社分離・独立後も、妙見「宮」鷲頭寺という名称を用い、神仏混淆の形態を維持しておられるのだという。

つまりは、降松神社と妙見宮鷲頭寺とが、まったく同じ北辰降臨の縁起(由緒)を共有しているのも当然のこと。両寺社は元は一つであったからなのだ。
(積年の謎が氷解)

降松神社の由緒には琳聖太子来朝の伝説と妙見社の名称が見え、鷲頭寺の縁起にも同じく琳聖太子について記されているが、やや異なる点もある。
鷲頭寺縁起では、琳聖が聖徳太子に謁見したこと、妙見菩薩像が当寺に移されて現在に至ることが記されている。

大内氏歴代が先祖伝説を創作した際、妙見信仰、聖徳太子信仰、仏教信仰の三点セットを意図的に盛り込んだはずだが、彼らはその後の神仏分離など夢にも思わなかっただろう。
北辰降臨の妙見社をこの目で見たいと思ったら、降松神社と妙見宮鷲頭寺は一緒に回らなくてはならないということになる。

参照:『下松市史 通史編』 「神仏分離と妙見宮」
(下松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/3520705100

『山口県寺院沿革史』には「鷲頭山旧記」を引用した寺院の由来解説がある。とても興味深く、貴重なものだが、漢文で書かれたたいへんな長文であるほか、琳聖来朝や妙見社建立、興隆寺への勧請等々、ほかのところで何度も言及したことの繰り返しとなるため、ここには敢えて紹介しない。その分、こちらの説明文には現状、かなり不足している部分がある感が否めないけれど、全体として整理したいので、少々時間をください。

妙見宮鷲頭寺・みどころ

参道入り口

参道入り口の写真

庶民の生活と完全に一体化している感。

鳥居

鳥居の写真

寺院だけれど、鳥居がある。額には「妙見宮」の文字がはっきりと読める。

種田山頭火句碑

山頭火句碑の写真

種田山頭火さんは昭和八年、この寺院に立ち寄り、溜池の亀を見て其中庵(小郡)に帰ったという。(参照:説明看板)

本堂

本堂の写真

仁王門

仁王門の写真

 

わらじの功徳の写真

仁王像にわらじを奉納すると、足腰の不自由なかたに後利益があるそうで、ご覧の通り。

庚申社

庚申社の写真

山頭火さん句碑の溜池奥にある。境内神社の扱いなのかわからない。住所が微妙に違っている。妙見宮は中市1-10-15、庚申社は中市1ー10−8。

荒神社

荒神社の写真

庚申社と同じく、境内神社かどうかわからないけれどいかにも関連深そうなお社。山頭火さん句碑溜池の手前にある。妙見宮と住所が違っていて、妙見宮は中市1-10-15、荒神社は中市1ー8−10。番地からして違うので、庚申社より遠いのかと思えるけど、地図を見ればわかるように、距離的にはこちらのほうが近い。

降松神社若宮
降松神社(下松市)

山口県下松市。氷上山に勧請され、興隆寺、妙見社が大内氏の氏寺氏神となる前、最初の北辰妙見社はここ。鷲頭山に上宮、中宮、山麓市街地に若宮といくつもの社殿がある。

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妙見宮鷲頭寺写真集

アクセス

下松駅から徒歩圏。

参照文献:『下松市史 通史編』、『山口県寺院沿革史』

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