山口県山口市の光台寺とは?
山口市上竪小路にある浄土真宗寺院です。「大内弘直公が中尾に創建、政弘公が一ノ坂に移築した」と、大内文化探訪会さまのご本に明記されています。よって、この寺院はまぎれもなく大内氏ゆかりの寺院、ということになります。けれども、現状、それ以上のことは調べられておらず、大内文化研究の権威であられる会が出版されているご本に書かれているので、そうなんだろう、としか申し上げられません。すみません。
元は真言宗寺院でしたが、江戸時代に浄土真宗に改められました。
光台寺・基本情報
住所 〒753-0035 山口市上竪小路 72
山号・寺号・本尊 金谷山・光台寺・阿弥陀如来
宗派 浄土真宗 本願寺派
光台寺・歴史
申し訳ありませんが、謎過ぎてわからない寺院さまです。きちんとお伺いしてお話を頂戴すればすむことですが、通りすがりの観光客にできる芸当ではありませんので、書物に書かれていた内容をまとめておきます。書物のほうも記載があるものを探すことが難しく、どうすればいいのかという感じです。
大内氏ゆかりの寺院であったらしい
表題の典拠は以下のご本、以下の記述です。
大内弘直が中尾に創建、大内政弘が一ノ坂に移築した。
出典:大内文化探訪会『大内文化要覧』55ページ
ただ、書いてくださってあるのはこれだけなので、より深く内容を知りたいと思うなら、同会にお問い合わせするよりほかありません。それは現状、ただの通りすがり観光客の身分では無理であると感じられますので、「権威がそうアナウンスしているので正しい」ということで、ご納得いかない方は、お手数ながらご自身でお問い合わせお願いいたします。
ちなみに、この記述は、「大内氏ゆかりの寺院一覧」という表に書かれている注釈ですので、詳細に記されていないのは当然なのです。ご本が不完全であるわけではないので、誤解なさらないようにしてくださいませ。
近世以降の由来
例によって『山口県寺院沿革史』を拝見すると、ちゃんと項目がありました。ですので、由緒正しき寺院さまとして、きちんと由来も伝えられているのです。ただし、『沿革史』に記されているのは江戸時代以降のことが主体で、それ以前の大内弘直公だとか、政弘公だとかいう記述は一切ありません。加えて、説明文じたいとても短いです。
とりあえず見てみましょう。
「当山開基は祐安と伝えられる。俗姓そのほかの記録は不明。初めは山口一の坂金山谷で、毛利輝元公の御代、金山が繁盛していた時、真言宗御祈祷の霊場であった。元和年間、金山の採集が終ると、浄土真宗に改宗して金谷山光台寺となった。二世・順可の代、天和三年閏五月十日に総本山の許可を得て、三世・教正、四世・宗吟、五世・順貞、六世・恵隆、七世・順諦、八世・恵林、九世・諦然。十世・頓然は本堂を再建し、天保十一年に木仏寺号御免、十一世・天眞、十二世・巌淨……と現在の住職にいたるまで、寺門の繁栄に勤めている……
真言宗だったときの本尊・毘沙門天は萩市吉祥院に安置された。脇立・火除地蔵尊は上堅小路に安置している。元々は大内義弘公の作で、茶臼山で崇められていた。のちに、宝憧山峰に移され、ついで山口一坂堂に移ったという。
現在の本堂は文政六年三月の上棟。庫裏は明治時代、書院は昭和時代のものである。庫裏裏庭の築庭は昭和時代のもので、たいへん風致に富んでいる。
本尊の阿弥陀如来は春日の作と伝えられる。七高僧絵図、聖徳太子御絵像があり、ともに西本願寺法如上人の筆になるものである。」(原文・文語文)
これだけなんですか? って思いますけど、じつは説明文が短い寺院さまはこちらだけではありません。そもそも、『寺院沿革史』以外の書物や文化財案内看板などから記事を書いており、場合によってはほかのご本だけで情報が溢れていると『寺院沿革史』まで確認する余裕がないです(そういう場合は、『寺院沿革史』の本文もとてつもない長文となっていることがほとんど)。けれども、今回は悲しいくらい資料(≠史料)がありませんので、これに頼るしかないです。
けれども、この記述だけではわからないことが山積です。
だいたい開基からして、曖昧。「祐安と伝えられる。俗姓そのほかの記録は不明」いつの時代の人なのか、これだけだとまったく分りません。
「初めは山口一の坂金山谷で」というところが、「政弘が一ノ坂に移築した」という探訪会記述と重なる唯一の部分。移築したからそこにあったんだろう、ってことです。ただし、「一ノ坂」というのも具体的にどこなのかまでは分りませんから、金山谷まで一致しているかどうかと聞かれればわかりません。移っている可能性もあります。
「毛利輝元公の御代、金山が繁盛していた時、真言宗御祈祷の霊場であった」って、まさかこんなところに金山があったの!? って思いますが未確認です(すみません)。さらに、真言宗御祈祷の霊場というところですけど、これだけでは、輝元以前も真言宗であったのかということはまったく不明です。特に書いていないということは、輝元期のこの時点での改宗はなかったように思えますが。
元和年間というのは、1615~1624年です。毛利輝元は1625まで存命だったので、輝元の時代に金山の採集は終わって、浄土真宗に改宗された、ということになります。
でもって、そのあとは、寺院さまの歴史となり、天和三年(1683)に総本山の許可を得、天保十一年(1840)に木仏寺号御免……となります。「が」総本山の許可を得とか木仏寺号御免とか知識がないため、理解不能です。改宗は1625なのに、許可を得るまで六十年近くかかり、さらに百五十年くらいたって、「木仏寺号御免」っていったい何のこと? というよりも、浄土真宗って、そんなに厳しいの!? ってなります。
ちなみに、「木仏寺号御免」というのは、本山から木製の仏を下賜(?)されることのようです。これで晴れて仲間入りできるとしたら、二世から九世までの間はどうなっていたのでしょう? 二世の時にも、総本山の許可を得たとあるわけで、認められてはいたと思うけど、だったら、「木仏寺号御免」って何の儀式? 典拠とできる書物がないので保留とします(ネット検索すると何となくわかるので、気になる方は検索を)。
『寺院沿革史』の記述から、唯一、大内氏ゆかりの欠片を拾うことができるのは「真言宗だったときの本尊・毘沙門天は萩市吉祥院に安置された云々」以降の部分です。これを見る限り、大内氏時代には真言宗だったように思われ、「脇立・火除地蔵尊」なる仏さまが「元々は大内義弘公の作で」となると、ますますゆかりが大ありです。しかし残念なことに、わかるのはそこまでです。
まとめ
- 大内氏ゆかりの寺院であるらしい。典拠は大内文化探訪会さまの書籍
- 毛利輝元の時代金山があって、採掘されていたらしい。そのご、真言宗から浄土真宗に改宗された
- 浄土真宗になってからのあれこれは、宗教に詳しくないと説明できない
- どうやら大内氏時代は真言宗だったように思われ、大内義弘制作の火除地蔵尊がある(あった)模様
光台寺・みどころ
普通に市街地にある立派な寺院様です。『寺院沿革史』の時点では、江戸時代から昭和時代までの間に改築された伽藍ということがわかりますが、その後も改築や修繕が続けられたと思われ、建物はどれも、新築同様に美しいという印象です。
由緒看板のようなものが見付けられなかったため、寺院さま公認のご由緒はわかりませんでした。多少なりとも大内氏時代の面影を偲べないだろうかと期待しましたが、それは無理のようです。
寺号碑
山門手前にあった立派な寺号碑。ちょっと新しそう。宗派も違うし、移転前のものではないだろう。
山門
山門からご本堂まで一直線に見えております。
本堂
ご本堂もお美しい。何もかもが新しいですね。
光台寺(山口市上竪小路)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒753-0035 山口市上竪小路 72
アクセス
山口駅から町歩きで。ナビゲーションを使えば造作ないです。
参照文献:大内文化探訪会様『大内文化要覧』、『山口県寺院沿革史』
光台寺(山口市上竪小路)について:まとめ & 感想
光台寺(山口市上竪小路)・まとめ
- 山口市内にある浄土真宗本願寺派の寺院
- 『大内文化要覧』によれば、大内氏ゆかりの寺院
- 毛利輝元の時代、真言宗から浄土真宗に改宗された
- 『山口県寺院沿革史』によると大内義弘ゆかりの火除地蔵尊があるらしい(昭和初期の書籍なので、現存するかは不明)
閑静な住宅街の中に佇む清潔感溢れる寺院さまです。地元密着型で、檀家の皆さまに篤く信仰されておられる寺院さまであると思われます。その意味で、完全に信仰の場であり、行きずりの観光客が何かを見るために入る場所ではありません。それゆえに、文化財立て看板や由緒看板の類も一切ないです。そもそも、寺院さまの存在意義は宗教施設であって、観光客がきゃーきゃーいって撮影禁止の仏像の写真を SNS に投稿して叱られるための場所ではありません。
とはいえ、ゆかりの寺院とか聞くと向かわざるを得ないのは宿命でしょう。法泉寺さまが移築したそのままの場所にあってくださったのなら、それだけでも訪れる価値があるのですが、それすらもわかりません。ミルたちの住居付近にも普通に法事をお願いしている寺院さまがあるわけでして、そのような寺院さまに観光目的では入りませんから、ここって、元はゆかりの寺院ですよね? とかお伺いするのも憚られます。そうである、ということにして、そっとお参りしてお暇しましょう。
こんな方におすすめ
- 特におすすめの方というものは存在しません。地元の方、檀家の方のための寺院さまです
オススメ度
物見遊山の観光客がお騒がせする寺院さまではありません。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
ここのどこが「ゆかりの寺院」なんだよ?
『大内文化要覧』をお書きになった先生方にお伺いするほかないけど、ミルたちには無理だよね……。
-
五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
続きを見る