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光台寺(山口市上竪小路)

2023年1月19日

光台寺山門前入り口にて
光台寺入り口にて

光台寺・基本情報

住所 〒753-0035 山口市上竪小路 72
電話 083-922ー5380
山号・寺号・本尊 金谷山・光台寺・阿弥陀如来
宗派 浄土真宗

光台寺・歴史

大内弘直が中尾に創建、大内政弘が一ノ坂に移築した。

出典:大内文化探訪会様『大内文化要覧』55ページ

『山口県寺院沿革史』にはおよそつぎのようなことが書かれている。

「当山開基は祐安と伝えられる。俗姓そのほかの記録は不明。初めは山口一の坂金山谷で、毛利輝元公の御代、金山が繁盛していた時、真言宗御祈祷の霊場であった。元和年間、金山の採集が終ると、浄土真宗に改宗して金谷山光台寺となった。二世・順可の代、天和三年閏五月十日に総本山の許可を得て、三世・教正、四世・宗吟、五世・順貞、六世・恵隆、七世・順諦、八世・恵林、九世・諦然。十世・頓然は本堂を再建し、天保十一年に木仏寺号御免、十一世・天眞、十二世・巌淨……と現在の住職にいたるまで、寺門の繁栄に勤めている。
 ※「金山の採集」ってあるけど、金鉱でもあったのだろうか(未確認)。
 ※浄土真宗では、本山から許可を得ないとならないようである。「木仏寺号御免」とあるのは、本山から木製の仏を下賜(?)されることらしい。これで晴れて仲間入りできるとしたら、二世から九世までの間はどうなっていたのだろう? 二世の時にも、総本山の許可を得たとあるから、認められてはいたと思うけど、だったら、「木仏寺号御免」って何? 典拠とできる書物がないので保留(ネット検索すると何となくわかるので、気になる方は検索を)。

真言宗だったときの本尊・毘沙門天は萩市吉祥院に安置された。脇立・火除地蔵尊は上堅小路に安置している。元々は大内義弘公の作で、茶臼山で崇められていた。のちに、宝憧山峰に移され、ついで山口一坂堂に移ったという。

現在の本堂は文政六年三月の上棟。庫裏は明治時代、書院は昭和時代のものである。庫裏裏庭の築庭は昭和時代のもので、たいへん風致に富んでいる。

本尊の阿弥陀如来は春日の作と伝えられる。七高僧絵図、聖徳太子御絵像があり、ともに西本願寺法如上人の筆になるものである。」(原文・文語文)

『大内文化要覧』に書かれているのだから、これは紛れもなく大内氏ゆかりの寺院である。『寺院沿革史』には開基が祐安であること以外、古い記録は不明となっているから、大内氏時代の記録はこのご本が書かれていた時点ではわからなかったのだろう。真言宗だったときの云々以降に、大内義弘の名が出てくることから、記録はなくとも、ゆかりの寺院であることは認識されていたものと思われる。

『寺院沿革史』によれば、改宗されたのは毛利輝元以降のことになるので、政弘が現在地に移転した時は、真言宗だったのだろう。

光台寺・みどころ

普通に市街地にある立派な寺院様です。『寺院沿革史』の時点では、江戸時代から昭和時代までの間に改築された伽藍ということがわかりますが、その後も改築や修繕が続けられたと思われ、建物はどれも、新築同様に美しいという印象です。

由緒看板のようなものが見付けられなかったため、寺院様公認のご由緒はわかりませんでした。多少なりとも大内氏時代の面影を偲べないだろうかと期待しましたが、それは無理のようです。

寺号碑

光台寺入り口石碑
山門手前にあった立派な寺号碑。ちょっと新しそう。宗派も違うし、移転前のものではないだろう。

山門

光台寺山門

本堂

光台寺本堂

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

ここのどこが「ゆかりの寺院」なんだよ?

ミル涙イメージ画像
ミル

『大内文化要覧』をお書きになった先生方にお伺いするほかないけど、ミルたちには無理だよね……。

参照文献:大内文化探訪会様『大内文化要覧』、『山口県寺院沿革史』

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