この記事をみてわかること
- 妙見菩薩とはどんな神さまなのか?
- 妙見と北辰(=北極星)
- 妙見信仰と密教
- 武家による妙見信仰
妙見菩薩のことを深く追求していくと、それだけで何冊もの研究書ができるほと奥が深いです。実際、妙見研究の良書はたくさんあります。ここに書かれていることは、ほんの「さわり」にしかすぎませんが、やがては皆さまが妙見の世界に魅了されていく一助になれば幸いです。
妙見さまは、僕たち一族のたいせつな氏神。今後のためにも大きな課題の一つとなるね。でも、千里の道も一つから。最初の一歩として簡単にみていくよ。
妙見菩薩とは?
ひとことで語るのは、とても難しい妙見菩薩ですが、『日本史広事典』では、以下のようにまとめられておりました。宗教的な複雑な内容をそぎ落とし、日本史の中の神さまのお一人として理解するためには、これで必要十分であると思われます。
妙見菩薩
妙見・北辰菩薩・尊星王とも。北斗の主星である北極星を諸星の最勝として神格化したもので、災厄除去・国土擁護の菩薩とされる。形像は一定せず、 二臂、および四臂があり、雲中あるいは青竜に座ったり、忿怒形や童子形などさまざまであ る。 天台宗・日蓮宗や武士の間では妙見信仰が盛んで、妙見菩薩を祭る妙見堂や妙見社が造営され た。また妙見講が催され、妙見さんとして親しまれた。
出典:山川出版社『日本史広事典』2061ページ
じつは、不可思議なことには、かくも多くの信仰を集めたと思しき、「妙見さま」は、あれこれの宗教事典類に詳細が載っていません。その理由としては、以下のようなことが考えられます。
神仏習合の時代には普通に「妙見大菩薩」と唱えられ、広く信仰されていました。当時の人々にとっては、神さまと仏さまは一体であったからです。しかし、神と仏が分離された現在では、困ったことになりました。異国由来の「神」である妙見には菩薩号を付けられない(=仏教系の神ではないらしい)、さりとて、日本古来の神さまとは明らかに違う。それゆえ、仏教系の事典でも、日本の神さま事典でも扱いに困る存在となったものかと。
まずは、妙見がいつ頃、どんな形で日本にはいってきたのか考えてみたいと思います。
北辰=北極星の神さま
大内氏の先祖伝説では、松の大樹に天下った妙見は北辰の神であると自称しています。北辰=北極星を表しており、つまり妙見は北極星の神さまであるということができます。
元来日本固有神々の中にも、星を神格化した神さまがおられなかったわけではありません。しかし、太陽神・天照大神を中心に、月の神さまなども貴重な存在とされている一方で、星の神さまはおられるにはおられましたが、あまり大きな役割を果たさず、神話のなかでもまったく活躍しません。
これには、日本人には、北極星を見上げて方角を知るといった習慣がなかったことが関係いていると考えられます。このような習慣は、遊牧民族や航海を行う民族などの特徴です。その起源は「紀元前数千年前、メソポタミア地域の遊牧民族や航海に携わる人々」(『中世神道入門』)でした。
また、他国では北極星と北斗七星の信仰ははっきりと区別されていました。周知のように、北斗七星は名前の通り七つの星々からなっており、それぞれの星にはそれぞれの性格付けや、役割が与えられていたのです。つまり、細かく見ていけば、北斗七星に対する信仰と、その中の一つである北極星に対する信仰とは厳密には分けられていました。
北極星と北斗七星の信仰は、やがて中国にもたらされ、儒教や道教などの固有の宗教と習合することで、「北辰北斗信仰」となります。そこでも、「北辰」は「宇宙の最高神」、「北斗」は「禍福を司る」もの、として区別されました。
日本に入ってきた妙見および妙見信仰は、大陸経由のものであり、その特徴としては、
一、日本に入ってきた時点で、中国古来の宗教・道教と異国の神としての妙見信仰が集合したものだった
一、日本では、北極星(北辰)と北斗七星(北斗)の信仰とは厳密に区別されることはなく、妙見=北辰(北極星)の神として定着した。
妙見信仰伝来の時期とその受容
朝廷の妙見信仰
妙見という神さまの存在が日本に伝えられたのは、飛鳥奈良時代の頃と言われています。当初は、儒教と集合した神さまであるという認識でした。星に願いをという信仰は珍しく、多くの人々の心をとらえた模様です。あまりに広く信仰されたため、朝廷では妙見菩薩に献燈を行うことは朝廷行事とし、一般の人々が勝手に信仰行事を執り行うのを禁じたほどでした。
以降も、朝廷行事とてしての妙見への献燈は続けられますが、平安時代になると、道教と集合した信仰であることに加えて、仏教と集合した信仰としての性格も加わっていきます。このあたりまでくると、もはやなんだかわからない異国の神さまではなく、日本人の間で広く知られた著名な神さまとなっていたのです。
仏教との集合神としての妙見は、薬師如来の本地仏となりました。都が平城京から平安京へと遷って以降、妙見への献燈は国家行事として行われていたのですが、やがては廃れていき、あまり行われなくなります。
いっぽうで、妙見供、北斗供、尊星王供といった「修法」が行われるようになりました。これまた天皇主催の朝廷の行事でした。このうち、尊星王供なるものが初出で、何だろうと思いますが、これは「泰山夫君祭」という陰陽道の祈祷から来ています。道教・仏教だけにとどまらず、妙見信仰は陰陽道とも集合したのでした。白河上皇の時代には北斗供が盛んにおこなわれ、北斗堂の建立、曼陀羅の政策なども盛んとなったそうです。
このあたりから、鎌倉幕府でも泰山夫君祭が月次の行事となり、都の周辺には妙見を祀る社殿の類が多数存在するという繁栄ぶりで、各地の多くの武家たちの間でも、妙見を守護神とする動きが活発化しました。
武家たちの妙見信仰
妙見を尊重した一族には、千葉氏などが知られています。北斗七星の七番目の星「破軍星」から、妙見菩薩を「軍神」としてあやかる氏族が多く存在したのです。千葉氏のほかにも、秩父氏、相馬氏などが有名です。これらの一族の人たちが、各地に勧請することで、さらに信仰が広まっていきました。
むろん、われらが大内氏も堂々とその名を連ねています。
大内氏の妙見信仰の特徴として以下の点が挙げられていました。これはあくまでも、妙見研究の先生のご研究の一環としてのご意見であり、大内氏研究の先生方のご研究のよる大内氏の妙見信仰とは少しく違うところがあるかもしれません。
- 渡来系の人々によってもたらされた信仰である
- 一族の繁栄と没落(滅亡)に信仰が連動した
- 鷲頭寺においては、妙見菩薩と虚空菩薩が結びついた ⇒ 妙見信仰と真言密教とのかかわり
妙見の功徳
妙見の功徳といわれるものは数多いですが、ここでは特に下記三つを挙げておきます。
- 国家鎮護
- 災厄除去
- 長寿延命
氏神として信仰するにあたっては「国家鎮護」の神様であることが重要です。一国の主として法会を行うとなれば、国家鎮護(ここでいう国家は守護領国ってことになりますが)が大事だからです。妙見菩薩さまのお力で、分国の安定と平和が守られていたのですね。
密教と妙見信仰
日本で密教が盛んになっていくと、日本独自の「妙見菩薩」信仰が確立していきます。
北斗法:北斗七星を供養し、延命を祈願する。
妙見法:妙見菩薩を供養し、国難の消滅を祈願する(真言宗)
尊星王法:真言宗の妙見法に同じ(天台宗寺門派)
このような密教の祈祷は摂関政治全盛期に始まり、やがて院政の主や幕府の将軍などが、主要寺院で行うようになっていきました。これは、かつての「禁制」とは違い、上皇や将軍しか行なってはならない、という意味ではありませんから、権力をもつ領主ならば、領国の安寧のために行なうことは可能です。この時期には、あまりそんな人はいなかったかもですが。
山門派の北斗法
山門派(比叡山延暦寺)で行なわれた北斗法では、妙見菩薩は釈迦如来が人々を救うために姿を変えて現われた「一字金輪仏頂」であるとし、たいへん崇拝されました。
妙見菩薩の本地仏
真言宗……十一面観音
天台宗……七仏薬師
はるかに程経てのち、鎌倉新仏教の時代になると、妙見菩薩は日蓮宗で敬われる存在となりました。
妙見菩薩の姿
菩薩、童子、武将など、じつにさまざまな姿で描かれます。持ち物は蓮華や剣など。
龍や亀、亀蛇に乗っている場合が多いです。
大内庭園オリジナル妙見菩薩さま画像
この庭園では、亀の上に乗っておられること、武将の姿で描かれることがある、という二点だけを採用して新進気鋭のイラストレーターさま・アイカワサンさまに作画をご依頼しました。大内氏の年中行事の中で、最も重要かつ、神聖なものに、二月会がありますが、そこでは、次世代の大内家当主を誰にするのか、ということを家臣、領民たちの前でアピールするというイベントがありました(二月会について詳しくは場を改めて)。その時、見ている人々は、跡継と定められた若子さまには、妙見菩薩さまがご降臨なさったものと認識されるような側面があります。
つまりは、一瞬ですが、新介さまは妙見菩薩さまと同一視されるので、ここで妙見菩薩さまの画像が不細工だったりしたら、法泉寺さまや凌雲寺さまのような麗しい若様にふさわしくないのです。ということで、ご制作にあたっては跡継宣言時に美男子だった当主様に一瞬乗り移られることを考慮して、イケメン画像としてください、とお願いしました(史料的根拠なし)。というようなわけで、世界に二つとない麗しい妙見菩薩さまの画像が完成しました。法泉寺さまと凌雲寺さま限定ですので、それ以外の(容姿については)こだわらない当主さま方とは無関係です。
現代の妙見信仰
神仏分離ののち、習合神的性格が強く、仏神としての妙見を祀っていた神社は、祭神を「天之御中主神」、社名も「星宮」などと改めました。昔ながらに「みょうけんさま」と呼ばれていても、お祀りされているのは、天之御中主神である場合もありますので、気になる方は確認してみてください。
下松の鷲頭寺は元妙見社(現在の降松神社)の社坊でした。神社と寺院が分れた際、妙見社は他の例同様、天之御中主神をお祀りする神社となり、その名も降松神社となりました。その際、妙見さまは鷲頭寺に引き取られたようで、現在も「妙見宮鷲頭寺」と称し、寺院ながら鳥居があるという稀有なケースです。さすが本家本元の大内氏の妙見社。どこまでも妙見さまを守ってくださったのです。
そしてそして、興隆寺の北辰妙見社にも妙見菩薩が祀られております。寺院ゆえ、本尊としてはほかの仏さまの名前が書いてありますけど。規模縮小されたりあれこれですが、辛うじて残っている寺地境内に妙見社(※ただし、毛利時代の再建物)を温存。鳥居もあります。鷲頭寺も興隆寺も、神仏混淆したまま、妙見信仰を守ってくださっているのですね。
しかし、大内氏の領国(周防長門だけとは限らず)には、数え切れないほどの妙見社があったはずです。今も「妙見社」と名乗っている場所をいくつか知っていますが、中においでたのは、天之御中主の神さまでした。
現在も妙見菩薩を祭っている神社として有名なものには、秩父神社、千葉神社などがあります。秩父氏、千葉氏、いずれもかつて妙見菩薩を氏神としていた武家ですね。大内氏の妙見信仰は有名ではありますが、全国レベルで見ると、ほかにも著名な氏族で妙見を氏神としていたところがたくさんありました(上述)。何も大内氏だけが特別ではないんです。
それらの氏族の子孫の方々や、地元の方々も、妙見を妙見のままで信仰し続けておられるのですね。日本秋津島六十六ヶ国はあまりに広く、我々の知識はあまりに貧弱でした。
車塚にも妙見社あるのに。でも、祭神はたしかに、天御中主神さまになってたね。
でも、興隆寺の北辰妙見社のご祭神は今も、妙見大菩薩だからね。
そうだったんだ!
参照文献:『妙見の民俗学的研究』、『中世神道入門』ほか
※この記事は20240914に加筆修正されましたが、なおもリライトが途中です。