義興さまお館の守り神たちをご紹介するシリーズ、今回は「源氏の氏神」として、武家の信仰を集めた神さま「八幡さま」についてのお話です!
総本社から我が地元にもおいでいただく、という勧請をどんどん続けた結果、日本全国至る所に総本社のいわば「支店(社?)」みたいなたくさんの関連神社が出来上がった、ということを学んできました。勧請というこのミラクルなシステムのお陰で、同じ神さまが全国各地に祀られている、という状態になるわけですが、そうやって勧請されて全国に広がった支社総数が、四万六百社にもおよぶ(参照:宇佐神宮HP)というすさまじいネットワークとなったのが、この「八幡さま」です。
そんなわけで、至る所にある「八幡さま」。「いやうちの近所には一社もないのだが?」という方を探すことは難しいのではと思われるほどです。山口にも今八幡宮、防府には宇佐八幡宮、周南には山崎八幡宮……と最初に思いついたものひとつだけ挙げてもこんなにあるんですから。
この際、そもそもどういう神さまなの? ってことを少し知っておいて、次回ご参拝の時に参考としましょう。
八幡神とは?
八幡さま、八幡宮とかお呼びする時、ご祭神がどなたであるのかなどもはや、わからなくなっている方もおられるのでは?
は? 八幡宮? 当然祀られているのは「八幡さま」だろ? それに何か問題あるのか?
愚かな。八幡神は我らの氏神。せめて学べ。
親しみをこめて「八幡さま」と呼ばれる八幡宮、八幡社などですが、そのご祭神は応神天皇です。『古事記』や『日本書紀』などに親しんでいる人、参拝の際にきちんと由緒書を確認されている人には応神天皇のお名前はもうお馴染みですよね。
応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の皇子さま。第十五代の天皇にあたります。誉田別尊・品陀和気命などとお呼びすることもありますが、すべて同じ神さまとなります。神功皇后が三韓遠征に向かわれた時、すでにご懐妊されていました。戦が終わるまでは出生しないで欲しいと仰ると、皇子はそのお言葉に従い、無事に帰国するまで胎内に留まられといいます。ゆえに、胎中天皇という異名もございます。
各地の八幡宮では、応神天皇とあわせて、お母上の神功皇后や比売大神(= 宗像三女神)をお祀りすることが多いようです。また、お父上・仲哀天皇がともにお祀りされている場合もあります。
八幡神顕現譚
さて、天照大神などの神様は、いわゆる「記紀神話」に描かれています。しかし、八幡神はそれらの神話には出てきません。そのお名前が最初に現われた史書は「続日本紀」なのだそうです(参照:『中世神道入門』)。それも、天平九年(737)四月条にどこそこに奉幣を送ったという、送り先神社の中に「筑紫の八幡」と書かれているだけ。つまり、この時点ですでに、八幡様をお祀りした神社が存在した、ということがわかるにすぎません。
その由来について記した古い史料としては、『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(889~1009年成立か)というものがあり、その後『扶桑略記』(1094年以降成立)、『東大寺要録』(1106~1134成立)などでも言及されました(同上)。
面倒なことには、これらの由来、それぞれ内容が違っております。神様紹介系ご本および八幡宮の総本宮である宇佐神宮のHPなどから、だいたいのあらましをまとめてみますと以下のようになります。
一、欽明天皇の時代、豊前国宇佐郡馬城嶺に顕現し、大神比義がこれを祀った。
一、同じく宇佐郡辛国宇豆高島に降臨、各地を遊行したのち、馬城嶺に示現。辛嶋勝乙目に託宣があった(顕現も示現も姿を現す、という意味。示現のほうは神仏が現われることをさす。ちなみにじげんと読みます)。
一、宇佐神宮の近く(現在の奥宮そば)に、頭が八つある「鍛冶翁」というバケモノが現われ、これを見てしまった人たちの多くが亡くなってしまった。大神比義がこのバケモノを見に行ったところ、バケモノではなくて金色をした鷹がいた。その鷹は鳩となって大神比義の袂に飛んできた。大神比義がこれより三年の間、祈願し続けた結果、欽明天皇三十二年(571)、五歳の子どもが現われ、自分は釈迦如来の化身であり、人々の救済のために現われた誉田天皇広八幡麿、護国霊験威力神通大自在王菩薩である、と名乗った。そこで、大神比義がその神様をお祀りした。
一、宇佐郡厩嶺と菱潟池との間に、鍛冶翁が現われ、とても奇怪だったので、大神比義は三年間、五穀を絶って籠居し、もしあなたが神であるのなら、私の前に姿を現してください、と祈り続けたところ、竹の葉の上に三歳の子どもが現われた(以下自己紹介文同上)。八幡神は最初馬城嶺に現われ、のち神亀二年(725)年、菱形小倉山に移った。現在の宇佐神宮がそれである。
三つ目と四つ目のお話は同じ内容のようですが、ご本によってビミョーに違っており一つにまとめられませんでした。宇佐神宮HPを公式見解とすれば、「金色の鷹云々」の挿入はなく、八幡神は五歳ではなく三歳の子どもとして現われたそうです。こうした八幡神の「顕現譚」は、じつに至る所に広まっていったというので、このほかにも様々なバージョンがあると思われます。
なお、大神比義は神格化され、大神比義命として、宇佐神宮外宮にお祀りされています(後述)。
八幡宮縁起色々
総本社(総本宮)ではない、勧請された神さまである場合、その縁起は当然のごとく、勧請された元の神社と同じようなものとなるはずです。つまりは、特別な縁起が存在するというよりは、「○○(総本社)から△△(人名)が何年に勧請した」という事実しかないわけでして。もちろん、その「勧請する」ということについて、神さまから、特別にここに勧請して欲しいと神託があったゆえに、それに従いました、というような縁起は存在します。これが基本形だと思うのです。
しかしながら、『中世神道入門』にはたいへん興味深いお話が書かれておりました。八幡宮の場合、かなり独特の縁起を持っている神社が少なくないのだそうです。ご本にはいくつか例があがっておりましたので、それぞれご参照いただきたいのですが、要するに、単に「宇佐神宮から勧請されました」ではない、それだけで独立した面白い縁起が伝えられているのです。この項目を書かれた先生は、恐らくこれは、元はほかの神さまをお祀りしていた神社が、後から八幡宮となり、ご祭神も応神天皇となったものの、以前祀られていた神さま時代の言い伝え(つまり元々の縁起)が残されていて、それを八幡神と結びつけたのであろう、とご推測しておられます。
まとめ
八幡神とは応神天皇のこと。父は仲哀天皇、母は神功皇后である。
八幡神を祀る八幡宮には応神天皇のほか、神功皇后、宗像三女神もともに祀られることが多い。
八幡神は「記紀神話」に載っていない。
総本社・宇佐神宮
全国にある八幡宮の総元締め「総本宮」にあたるのが、宇佐神宮(大分県)となります。まずはこの宇佐神宮について簡単に見ていきましょう。
基本情報
鎮座地 大分県宇佐市南宇佐2859
祭神 八幡大神=誉田別尊(応神天皇)、比売大神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)、神功皇后 (息長足姫命)
HP http://www.usajinguu.com/
全国八幡宮の総本社として、宇佐神宮の由緒や社殿の規模等々、まさに悠久の歴史にして荘厳なお社なので、びっくりします。また、公式ホームページがとんでもなく手厚いので、個人のわけわからんサイトがその要約文を作ったりする意義はゼロです。加えて、参照にしている神様事典の類も、結局は同じ伝承などをそれぞれの書き方で記しているだけなので、正直、「八幡宮について知りたい人は宇佐神宮のホームページをご覧ください。以上です」てな感じです。しかし、そうもいかないので、ホームページは確認用に拝見し、ご本のほうからまとめていきます。
本殿三棟、上宮&下宮
『日本の神様事典』にも書いてあるのですが、宇佐神宮について注記しておくべきこととして、この神社さまは、本殿が三つもあり、なおかつ上宮、下宮とに別れています(上宮、下宮のことは本には書いてない)。まず、三つの本殿ですが、それぞれに別々のご祭神をお祀りした本殿三棟が並び建つ、というこの様式は、宮島の御山神社も同じです。それぞれ「一之御殿」「二之御殿」「三之御殿」と名前がついていて、順番に八幡大神、比売大神、神功皇后がお祀りされています。
さらに、上宮、下宮まであるのか? ってことなんですが、じつはコレ、上下のお宮ともに同じ神様をお祀りなさっておられ、本殿が三つに分れているところまで一緒。ますますもってなにゆえに? と思ってしまいます。神社さまHPによりますと、「嵯峨天皇の弘仁年間(810年代)勅願によって創建され、上宮の御分神をご鎮祭になったことがきっかけで、八幡大神様・比売大神様・神功皇后様は上下御両宮のご鎮座」となったそうです。
理由はともかく、同じ神様が上宮・下宮にお祀りされているとはいうものの、二つのお宮にはその役割やご利益など異なる点があります。HPで学んだことをまとめておきます。
一、下宮は「御炊宮(みけみや)」ともよばれ、御饌を炊く「竈殿」がある。明治時代以前には、上宮の祭祀で使われる食料などを準備する所だった。
一、下宮は「農業・漁業をはじめとする一般産業の発展充実を御守りになる神様」。つまり、何となくだけど、八幡宮=武家の神様ってイメージからちょっと離れますね。
一、下宮の一之神殿には、相殿として大神比義命が祀られています。この神様は上宮一之御殿にはいらっしゃいません。どうやらココが一番大きな相違点みたいですね。
というようなことで、神様が同じだから、上宮だけで帰ろう、とするとたいへんにもったいないことになり、「下宮参らにゃ片参り」と言われているそうです。
なんで上宮と下宮とに分れているか、ってことを不思議に思う人は多いみたいで、神社さまHPの「よくある質問」にも載ってたよ! そこを拝見するのがわかりやすいと思ふ。
東大寺大仏建立と宇佐八幡神
奈良時代、律令制度が最も安定していた頃、聖武天皇は仏教事業を盛んに行い、大唐帝国の影響を色濃く受けた国際色豊かな仏教文化、天平文化が花開く。仏教は、国家仏教として繁栄を極め、鎮護国家の法会が盛んに開催された。のみならず、天皇は国分寺・国分尼寺造立の詔、つづいて、盧舎那仏(いわゆる奈良東大寺の大仏)造立の詔を出す……。というようなことが、参考書のまとめページに出ています。こんなもん宇佐神宮というか八幡神とは無関係だわな。ここは神社なわけで。って思っていたら、じつは関係大有り。参考にした神様関係のご本すべてに出ていました(無知って怖い……)。
聖武天皇の盧舎那仏造立の詔に関連して、なんと、宇佐神宮から大仏造立事業を守護する旨の神託が出ているのです。なんでやねん? じつはコレ、「神仏習合」の影響が最も早い時期に確認された例の一つっぽい。つまり、日本古来の神様たちというのは、仏教を守ってあげる存在なんです。大仏造立というのは文字通りの大事業ですから、お金も労力も時間もかかります。無事にやり遂げられるだろうか? とても不安になりますよね。そんなときに、心配要らない。私がついていますよ、と神様から言ってもらえた。聖武天皇はじめ関係者は大喜び。勇気百倍です。それもこれも、聖武天皇が深く仏教に帰依し、国家のため民のために「仏教がらみの」大事業を行なおうと志しているからです。仏教の守護者たる神様としては全力でこれをサポートしてあげなくてはなりません(多分)。
以上がミルが神様系ご本からこんな感じかな? と学んだ結果ですが、宇佐神宮HPにはそれこそとてもわかりやすく、詳細に書いてくださってありますので、そちらをご参照ください。無事に大仏が完成した後、宇佐神宮の人たちがそのお姿を見に来たとか、朝廷から宇佐神宮に手厚いご褒美があったとか、そいうこともHPで(大仏の項目、詳しすぎるので読んでいません)。
そのご、東大寺には八幡宮が勧請されます。現在の手向山八幡宮がそれです。天平勝宝元年(749)勧請ってことなので、石清水八幡宮よりも早いですね。てっきり国内で二番目に建てられた八幡宮は石清水八幡宮だと思っていました……。マジ無知って怖い。
道鏡託宣事件と和気清麻呂
宇佐神宮って言ったら、受験参考書の定番はじつはコレですよね。時は奈良から平安に移ろうとする頃、孝謙天皇が重祚した称徳天皇は道鏡というお坊さんがお気に入りでした。天皇にはお子様がおられなかったので、つぎに天皇の位に就くのは誰なんだろう、なんて話題も出ていたような時、「道鏡をつぎの天皇にせよ」とかいう神託が宇佐神宮から出ました。こういうの、古代史の専門書とかチラ見するとすさまじくたいへんですが、参考書だけなので、超短い。
さすがに、皇室とは縁もゆかりもないお坊さんをつぎの天皇にとか、怪しすぎるので、和気清麻呂という人が宇佐神宮に派遣され事の真偽を確かめます。すると、そのような僧侶を天皇にするなどもってのほかみたいな神託があって、道鏡がつぎの天皇になるという話はチャラに。怒った道鏡のために和気清麻呂は追い出されてしまったりヒドい目に遭います。
間もなく称徳天皇が亡くなられたので、道鏡は下野国薬師寺に左遷されて歴史から姿を消しました。思うに、最初の「道鏡を天皇に」という託宣は皇位を狙う道鏡によるヤラセ(ありもしないそのような神託があった、という嘘の上奏を誰かにさせたっぽい)、和気清麻呂が頂戴したご神託はホンモノと思われますが、そこら辺、参考書には書いてないのでわからないです。
受験勉強としてはココまでなので、よくわからんヘンテコな事件という印象ですが、これらの事情について、宇佐神宮さまHPのご説明は目茶苦茶詳しいです(その上わかりやすい)。八幡神とは離れるのでこの件はここで留めますが、詳細を知りたい方はぜひともホームページをご覧ください。目から鱗となること必定です。
じつはこの、和気清麻呂というお方は、のちに神格化され、神さまとなられました。道鏡の陰謀を曝き皇室を救った功績が、高く評価されたのです。宇佐神宮末社である護皇神社のご祭神は、この和気清麻呂公です。皇室を危機から守ったということから、宇佐神宮もまた、「皇室の守護神」としてますます崇められることになりました。
なお、朝廷から宇佐神宮に派遣される人を「宇佐使」といいます。この託宣事件の真偽の程を確かめに行った和気清麻呂の例は特殊ですが、宇佐神宮に幣帛をお送りするというようなことは普通にあるわけで、「宇佐使」というワード、古文とかによく出てきます。で、このようなお使いの時には、和気氏の人が派遣されるのが通例となったため、「和気使」ともいうそうです。天皇が即位するとその報告のために勅使が送られ、その後は(つまり同じ天皇在位中は)三年ごとに一度送られました。しかし、石清水八幡宮ができてからは、この三年に一度が天皇一代の間に一度となりました。(参照:宇佐神宮HP、『平家物語 全訳注』)
なにゆえに「宇佐使」を知っているかと言えば、『平家物語』巻七の涙なくしては読めない「経正都落」に続く「青山之沙汰」で、経正が十七の時、この「宇佐使」(和気氏じゃないから、随行員のひとりとして同行したのでしょう)として宇佐神宮に赴いた際、御殿に向かって仁和寺御室から頂戴した「青山」という琵琶を奏でたという逸話があるのです。HPには何も書いてないけど、宇佐の神様も琵琶の名手・経正さまが名器を以て奏でた曲に感じ入ったに違いないと思うのでした。
石清水八幡宮
参考書の「文化史」まとめだと、聖徳太子が活躍した頃の文化は、飛鳥文化と呼ばれ、日本で最初の本格的仏教文化という。中国南北朝時代の文化の影響を受けていること、それらは朝鮮半島を経由して日本に入ってきたことなどをならう。この「中国文化の影響」を受けているということ、日本の文化はなんだかんだいって「仏教文化」なんだよ、ということが重要で、時代が変り、○○文化という名称○○の部分が変ってもこのことは変らない。ただし、「中国の影響」のほうは、平安時代になって国風文化なんてものが起って以降は多少その性格を変える。ただし、まったく影響を受けなくなるとは言えないみたい。
さて、この聖徳太子、推古天皇の時代ですが、この時期で最も重要な出来事といえば「仏教公伝」。これまで日本固有の神様しかいなかったところに、いわば「外国の神様」である仏教が入って来た。文化にもその影響が色濃く出るくらいだから、日本の文化生活、つまりは信仰なんかもそこに入るわけだけど、宗教の世界はものすごい変化することになる。
「神仏習合」という現象もまさにそうで、日本古来の神様たちといわば外国から輸入された異国の神様・仏教の仏様とが融合していくような、たいへんな変化が起る。じつはこの、固有の神様と仏教との融合は日本だけの問題ではなく、アジアのほかの国々でも同じである。もっといえば、世界三大宗教といわれる仏教、イスラム教、キリスト教などという大きな宗教と、それらの宗教が流入してきた国々の固有の神様たちとの間にも、まったく同じような現象は起った模様である。
で、ちょっと日本文化史における仏教について「文化史まとめ」のページから、古代の分だけ拾い出してみると、
飛鳥文化 仏教伝来~推古朝くらい(七世紀前半)、飛鳥斑鳩が中心。中国南北朝時代の文化(ギリシア、東ローマとかの影響を受けた文化)の影響を受ける。「仏教興隆の詔」が出て、仏教が重んじられたことで、それまでは権威の象徴として古墳を造営していたのをやめて、かわりに寺院が建立されるようになった。この頃の寺院は氏族の寺院「氏寺」で、蘇我氏の法興寺(のち元興寺、現飛鳥寺)、秦氏の広隆寺などがそれにあたる。ほかにも暗記すべき寺院として聖徳太子の四天王寺、法隆寺。舒明天皇の百済大寺などが載っている。
白鳳文化 中央集権化が進み、律令国家が成立していく時期に起った「清心」な文化。乙巳の変(大化の改新)~平城遷都くらいまで。初期の唐文化の影響を受けた文化。氏寺だけではなく、政府そのものが寺院を造って仏教を積極的に経営していくようになり、官立の大寺院が建立された。たとえば、大官大寺などがそれにあたる。
なんで宇佐神宮と八幡神の話で、参考書の文化史まとめ(寺院)なんぞを復習せにゃあかんの? というと、もちろん理由があるんです。
貞観元年(859)、行教というお坊さんが宇佐神宮に参詣していたところ、神託がありました。それは、八幡神が都に近い男山に移って国家を鎮護したい、というものでした。この、行教という人は、大和国・大安寺のお坊さんでした。で、この大安寺というお寺が大問題なのです。なんか聞いたことあるような? と思うのも当然で、この寺院、やはり参考書に出てくる要暗記項目に入っています。大安寺は、元・舒明天皇建立の百済大寺でして、これが天武天皇の時代には武市大寺、大官大寺、持統天皇の時代には大安寺と名前を変えました。そして、その大安寺が元正天皇の時に平城京に移されました。……というようなことが書かれております。大安寺さまのHPで調べましたところ、さすが、最高の参考書、この寺院の名称、場所の変遷等はこの通りでバッチリです。
ただし、寺院さまHPによりますと、いっとう最初の舒明天皇建立の百済大寺のところが少し違います。建立したのは確かに舒明天皇なのですが、その建立には由来がございます。舒明天皇がまだ皇子であったとき、病にかかった聖徳太子をお見舞いすると、「熊凝精舎」を官寺として建てて欲しい、と頼まれました。即位後、天皇が建てた百済大寺は、この聖徳太子の遺言(?)に基づくものなわけです。ゆえに、大安寺は聖徳太子が創建した「熊凝精舎」(つまり百済大寺ってのは、移築再建みたいな寺院で、聖徳太子はすでに精舎を建てていたのですかね?)であり、「国内最初の官立寺院」である、ということです。
だいぶ話が逸れましたけど、このお坊さん・行教は早速大安寺に戻り、鎮守として、宇佐八幡宮の御分霊を勧請しました。これが、「石清水八幡宮」の起源です。
お坊さんが神社を勧請する。それも、寺院の鎮守社として分霊を勧請する。よく考えてみるとどことなく違和感があります。しかし、この時代、神社の中に「神宮寺」という寺院があり、寺院の中に鎮守の社がある、というのはごくごく普通のことでした。これがまさに、「神仏習合」なのです。だいたい、このお坊さん、お寺で修行せずに、宇佐神宮に参詣していることからして奇妙ですよね。ある意味、神社も寺院も、僧侶も神職も境界線がないみたいで、神社にお坊さんが来て経典を読むとかいうことも普通でした。だからお坊さんの手で神社が勧請され、やがて立派に造立された神社の中には神宮寺が建てられたのです。「八幡」の「宮寺」のこと、『平家物語』巻一の「鹿谷」にも出てるよ。
大内氏による手厚い保護
取り敢えずですが、庭園の民として、絶対に覚えておいていただきたい「重要事項」として、宇佐神宮が鎮座する豊前国は大内氏の分国であったということです。つまり、守護職として豊前国のことを管掌していた期間に行なわれた神社のあれこれの修繕やら、祭祀やらに大内氏が関わっていない例はあり得ない、ということです。そのことを念頭に、神社さまホームページの歴史年表などをご覧くだされば、おお、この年の修繕には ○○(当主名)さまが関わっておられたはず……とかピンとくるようになります。
以下に、神社さまHPにある年表を眺めていて思ったことを綴ります。
文和四年(1355)「懐良親王、武運を祈る」⇒ なるほど、まだまだ九州は征西府優勢だったのかい、と思いますね。
年表には、「大造営」「臨時造営」「御造営」ってありますけど、面倒なので全部「造営」ってことにさせていただくと、これだけの回数行なわれています。
応永二十五年(1418)、永亨二年(1430)、寛正七年(1466)、永正十一年(1514)、永正十五年(1518)、大永七年(1527)、天文四年(1535)、天文八年(1539)、天文二十二年(1553)
最後の天文二十二年は、大友晴英の代ってことになるので、数えたくない方は無視してください。でもって、その後、永禄四年(1561)「大友宗麟、宇佐宮を焼討ちする」ってあるんですけど……。なんてこった。
さて、言うまでもなく、この応永年間から始まって天文八年までの期間は、大内氏がこれらの造営事業に関わっていたはずで、それは大内氏側の史料には記録があるだろうと思います。神社さまのHPにはいちいち造営事業関係者の名前まで記されてはいません。ただし、以下の記述がありました。
応永二十七年(1420)「豊前守護大内盛見、御神輿 3 基を奉納する」
盛見さんが信心深い人であった、ってことは有名ですけど(それ仏教だったと思うけどね。でも、神仏習合してたしなぁ)、神社様が今も公式HPに名前入りで載せてくださっているということは、宇佐神宮にとってこれは、とても有り難く、尊い出来事だったと見なされているのだな、と思う次第です。
この間の年表には、何回か火災に遭って社殿が被害を受けたようなことが書かれているのですが、その再建を大内氏が手厚くサポートしたことは疑いありません。大友宗麟なんかが主となったとたん、焼き討ちとかされてしまうんですから(詳しい事情知らずに書いているので苦情殺到するかもですが……)、神社の方々も、大内氏みたいな心優しい当主様方のお家が未来永劫守護職を務めていてくれたらよかったのになぁ、とか懐かしく回想なさったりしたでしょうか?
ところで、宇佐神宮内宮に末社として「北辰神社」があり、天御中主神をはじめ三柱の神様がご祭神となっているのですが、コレ、もとは妙見菩薩さま祀られていたりしたのではないか? とか考えてしまったのでした。そもそも、天御中主神が祭神となったのは明治以後、妙見大菩薩の代わりとしてという例が多いですからね。まあ、神社様HPには何も書いていないですし、ちょっと気になったのでメモしておきました。
まとめ
八幡宮の総本宮は大分県の宇佐神宮である。
宇佐神宮は東大寺大仏造立を守護したり、道鏡の皇位簒奪を阻止したりしたことから「皇室の守護神」として篤く信仰された。
大分県が豊前国だった頃、長らく守護職だった大内氏の手厚い保護を受けた。
源氏の氏神
国家第二の宗廟
行教というお坊さんが、宇佐八幡宮から八幡神を勧請したことはすでにお話しました。貞観二年(860)、清和天皇が男山に社殿を建立し、これが現在の石清水八幡宮となります。
宇佐神宮 = 八幡神は、東大寺造立事業を見守ってくれたり、道鏡なる怪僧が帝位を簒奪しようとした企みから守ってくれたり、と国家の守り神のような尊い神様として崇められてきました。その八幡神が、自らの意思で(神託ありましたから)、平安京にやってきました。以来、石清水八幡宮は「王城鎮護」の神となって都をお守りする役割を果たすことに。それで、伊勢神宮についで「国家第二の宗廟」として崇敬されるようになります。
この「国家第二の宗廟」についてなんですが、この流れで行くと石清水八幡宮=国家第二の宗廟なんだろう、って思うし、普通に検索するとそのように山とヒットしますが、それらに混じって宇佐神宮HPの御由緒にも同じく「国家第二の宗廟」とあります。これは石清水八幡宮という神社ではなく、八幡神という神様に対して、「国家第二の」と言っているのでしょうか。そもそも石清水八幡宮においでになったのは、宇佐神宮の八幡神様なわけですし、道鏡託宣事件云々とか宇佐神宮舞台だし、国家鎮護の神という意味ではまったく同じなのですよね。ただ、それ以外のそこら中にたくさんおいでの身近な八幡社にこの呼び名はあてはまらないかもしれないな、とは思いました。
当たり前ですが、石清水八幡宮のご祭神は応神天皇で、ほかに比売大神と神功皇后がお祀りされている点も共通です。しかし、社殿の呼び名ですとか、神様のお名前表記方法とかがわずかに違っていました。
石清水八幡宮
鎮座地 〒614-8588 京都府八幡市八幡高坊 30
ご祭神 中御前:誉田別命 、西御前:比咩大神(これが宗像三女神)、東御前:神功皇后
HP https://iwashimizu.or.jp/
すぐそばに支社できてしまったら、都の人たちにとっては九州本社よりこっちのほうがあれこれと便利になっちゃうよね。
俺は都なんて行かずに、宇佐神宮に直接行くよ♪ てか、山崎八幡宮でも今八幡でもいいじゃんか。
源頼義・義家・義仲
清和源氏の嫡流・源頼義は石清水八幡宮を篤く信仰していました。そもそも、なんで八幡神が源氏の氏神なんだろうか、お前ら独り占めしていいのか? と謎だったのですが、よく考えてみたら、大内氏氏神は妙見大菩薩さまであるけれど、ほかにも妙見さまを氏神としていた一族はいたわけでして。清和天皇が石清水八幡宮を建立なさっておられ、その子孫である彼らが八幡神を信仰すること、特別不思議ではないですね。全国見渡せば、ほかにも、八幡神を氏神としている一族はたくさんあるのでしょう。
しかし、多々良氏の先祖が妙見社を鷲頭から大内氷上に勧請したように、源頼義は八幡神を鎌倉に勧請しました。本来ならば、総本宮・宇佐神宮から勧請しないとダメなような気もしますが、そんなこと言ったら多々良氏の場合だって妙見社の総本宮はどこなんだ?(これ今気付いたけど、ホント、どこなんでしょう?)ということになりますから、勧請というのは本当にルーズなんですね。頼義は九州まで行かずに、この石清水八幡宮から八幡神を勧請したのです。
この一族の八幡神崇拝はたいへんなものでして、頼義の嫡男・義家は石清水八幡宮で元服し、八幡太郎義家などと名乗っています。そのご、木曾義仲はこの故事をまねて、同じく石清水八幡宮の御前で元服したのでした。義仲の件は『平家物語』巻六「廻文」にあり、フィクションっだったらすみません。しかし、その後の義仲の運命を考えると、あまり縁起のいいお話ではありません。
いずれにしても、石清水八幡宮が「王城鎮護」の神として広く崇められ、その中でも特に源氏一類は信心篤かった、そんなところで先へ行きましょう。庭園の民的には、関わりが深いのは源頼義や義家ではなくして、その子孫にあたる足利一門のほうですので、石清水八幡宮がまた話題に上ることもあるでしょう。
クジ引き将軍の籤をこの神社から引いた畠山満家ってのは、お前らの先祖だよな?
ん? 誰だっけか? 古文だけでなく、歴史も俺にはきかないでくれよ。
どこまで愚かなんだ。時の管領、我らの曾祖父さまだ。
鎌倉幕府と鶴岡八幡宮
清和源氏について語っているわけではなく、「八幡神」が話題ですので、さらっといきますが、源頼義が鎌倉に八幡神を勧請しておいたことは、のちに源頼朝がこの地に幕府を開いたときに生きてきます。頼義が勧請したのは、現在の場所ではなく由比郷というところでした。頼朝はあらためて、現在の場所に遷したのです。
鎌倉に勧請された八幡宮は「鶴岡八幡宮」と呼ばれ、文字通り源氏の氏神として栄えました。鎌倉幕府が始動し、武家の町・鎌倉が発展していった際、鶴岡八幡宮が鎌倉の守り神として町の中心となっていったことは確かです。
鶴岡八幡宮
鎮座地 〒248-8588 鎌倉市雪ノ下2丁目1−31
HP https://www.hachimangu.or.jp/
源氏揃え@鶴岡八幡宮
武士の世の中到来となり、鎌倉幕府の御家人たちは守護や地頭として、全国各地へと派遣されていきました。彼らが派遣された先に八幡神を勧請し、その地の鎮守神としたことから、八幡神は爆発的に増殖した模様です。
さて、宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮の三社をあわせて、「三大八幡宮」と呼んでいます。
まとめ
宇佐神宮の神託により男山に勧請されたのが石清水八幡宮である。
石清水八幡宮は伊勢神宮につぐ「国家第二の宗廟」として篤く信仰された。
清和源氏は八幡神を氏神とし、石清水八幡を鎌倉に勧請して鶴岡八幡宮を造立した。
鎌倉幕府によって地方に派遣された御家人たちがその地盤にも八幡神を勧請することで、八幡信仰は全国に広まった。
宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮を三大八幡宮と呼ぶ。
そして武家の神様に
武神・「弓矢の神」
八幡神=武神ということになっておりますが、これ不思議なことに、手元のご本をみても単に「武神」「弓矢の神」と書いてあるだけです。普通ならば、そうなるに至った理由などが書いてあるはずなのですが……(当たり前すぎて書いてない?)。武士たちが神頼みする際、「南無八幡大菩薩」というワードは頻出であり、これは軍記物で多用される以外に、起請文なんかでもそうです。もはや卵が先か鶏が先かではないですけど、武士たちが崇拝しているうちに武神になってしまっちゃったんじゃないかとすら思えます。
ちなみにですが、大内氏の方々とて、元は役人でしたがその後は武家となったので(武家じゃなくなった人いたけど)、当然八幡信仰は篤いです(だから取り上げてるんだった……)。でも、起請文なんかでは、まずは「妙見大菩薩」なので、もしも彼らが扇の的当てないとマズいとなったら、「南無妙見大菩薩、我国の神明……」とかなりますよね、きっと(笑)。
ところで、武神・弓矢の神とは少し外れるかもしれませんが、八幡神は何しろ「国家鎮護」の神様なので、蒙古襲来なんて時には、さかんに神頼みが行なわれました。これはなぜかというと、祭神である応神天皇の母上、神功皇后が三韓遠征をなさった、という故事(神話?)があるからです。つまり、蒙古=モンゴルというのは、外国ですから、海外遠征をし、勝利して凱旋した神功皇后にあやかり、その息子である応神天皇も含めて「異敵調伏」の神様として必死に拝んだわけです。
結果として、異国の軍隊は逃げ去っていきました。霊験あらたかというよりは台風のお陰もあったんじゃないか、というような疑問がわかない中世の人たちから見たら、これはもう、八幡神のご神徳以外の何ものでもありません。筥崎宮から現われた白装束の人たちが敵を追い払ったとか、石清水八幡宮から宗像三女神の父である竜王が出てきて驚いた敵は逃げ出したとか、その類の物語が大量に生まれたそうです。いずれも八幡神のおかげで勝利した、という内容です。外敵を追い払ってくれた有り難い神さまとして、感謝感激していたところへ、このような説話が流布されれば、相乗効果で人々の八幡信仰は当然、ますます篤いものとなりました。(参照:『中世神道入門』)
習合神・八幡大菩薩
神仏習合という難しすぎる話を説明せざるを得ない受験参考書に必ず書かれている、「八幡大菩薩」というもはや神様なのか仏様なのかもわからない神(仏?)までが現われ云々の記述。融合してしまったことも、それがまた、なにゆえか無理矢理引き剥がされてしまったことも、本当に難解です。
しかし、「南無八幡大菩薩」という軍記物お決まりのフレーズもあるわけで、中世の人々にとっては、「神なのか仏なのかわからない」というような概念はそもそもなかったのでしょう。参考書類で必ず引き合いに出されるのが「僧形八幡神像」です。八幡神がお坊さんの格好をしている仏像(神像?)のことで、美術史関連で必ず、有名な仏像を暗記させられます。
そもそも、日本においては神様たちのお姿を目に見える形で像にするなどという習慣はありませんでした。神様は姿も形も見えないけれど、森の中林の中川の中、我々の身近な所、至る所におられます。古い樹木などに注連縄をはり、その木が「ご神体」になってしまっているケースなどもあって、これは目に見えるし、宮島だとか沖ノ島のように、島そのものが信仰の対象という場合も大きすぎて隠せないけれど、普通の神社で「ご神体」というとき、それは鏡だったり、剣だったりするかもだけど、本殿の中に隠されていて、一般人はおろか、神職すら目にすることはできません(メンテナンスどうするんだろうね?)。
そんな神様たちを、目に見える「像」というかたちにしてしまうという発想に、初めて仏像を見た先祖たちは、どれほど驚いたことか。仏教も「外国の」「神様」ということで、宗教だという認識はあったけれど、「異国のモノ」なんぞより自国のモノだ! ということで、仏教公伝の時、蘇我氏と物部氏が大げんかしたことは参考書にも出ています。だけど、仏教受け入れ派の蘇我氏が戦いに勝って、仏教が正式に取り入れられてから、皆この異国の神様に夢中になってしまった。仏像にしろ、寺院にしろ、宗教画にしろ、日本の文化史なんて、そのまま仏教関係だらけ。神様たちも仏教の影響を受け「神像」が作られたりしたわけだけど、それはすでに、神仏習合した姿だったから、天照大神さまの像なんて見たことない気がするのも無理からぬこと。でも、皆無ではない。
天照大神@よさこい稲荷神社(高知県)
冒頭に、八幡神が「護国霊験威力神通大自在王菩薩」と自称する顕現譚について書きましたが、この「名乗り」からわかることは、登場と同時にすでに神仏習合していたということです。で、神仏習合ときたら本地垂迹となりますが、八幡神の本地仏は最初は釈迦三尊とされ、その後、阿弥陀三尊となったようです(参照:『中世神道入門』)。菩薩号を持っている状態で登場したので、最初から仏教的要素のほうが強い雰囲気で、本地仏がどれというよりも、もはやそれじたいが仏そのものみたいですよね。
ですが、八幡宮と言う時、それは明らかに神社です。今となってはどうでもいいことですが、八幡神の本地仏がなんであったにせよ、今は八幡神とは完全にわかたれております。つまり、今後起請文を書くときには、南無八幡「大菩薩」と書いてはならない、ということです。
まとめ
武士たちに信仰された八幡神はやがて弓矢の神様、武神となった。
神仏習合で、神と仏、神社と寺院は融合していった。
八幡神は示現した時から「菩薩号」をもっており、早くから神仏習合した例とされる。
僧侶の姿をした八幡神を「僧形八幡神像」と呼び、数多く作られた。
南無八幡大菩薩、我が国の神明、願はくは吾政元、義豊に向て父の讐を報ぜさせ給へ、 本意を遂げざらん物ならば……
お前、いったい何をしたんだよ?
いやその……。細川政元の野郎が俺の家督を認めてくれるっていうからさ、ちょっと取引しちゃったのよ。まさか、於児丸の親父がそのために命を落とすとか、俺だってそこまでは……。だって、俺ら、こう見えて身内だし……。
ふははははは。あのような小僧に倒されるようなわしではないわ。
(こいつら多分、全員が清和源氏とやらだ。身内だっていうのに、ヒドい連中だな)
参照文献:『日本の神様事典』、『日本の神様読み解き事典』、『中世神道入門』、宇佐神宮様HP、大安寺様HP、飛鳥寺様HP ※20221120現在、参照文献書き漏らし修正中。