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八坂神社の前身・祇園社と牛頭天王

2024年8月10日

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牛頭天王とは?

「ごずてんのう」と読み、祇園社(現・八坂神社)、津島社(現・津島神社)などにお祀りされていた神様。インド・祇園精舎の守護神で、神仏習合の時代、素戔嗚尊と習合していました。疫病から人々を守ってくれる「防疫神」です。

「祇園・牛頭天王信仰」として、今もその信仰が続いていると触れられている場合もありますが、一般には「祇園信仰」=八坂神社、素戔嗚尊信仰という認識となっています。神仏分離ののち、元の総本社・祇園社が八坂神社となってしまい、それに連なる各神社も八坂神社、祭神は素戔嗚尊となってしまったためです。

しかし、現在も「祇園」祭が行なわれるなど、かつての祇園社の名残はあり、いっぽう、かつて津島午頭天王社と呼ばれていた津島神社でも津島「天王」祭が行なわれています。それらのお祭りの起源、もしくは「習合神」についての解説では、牛頭天王の名前が必ず出てきます。

牛頭天王と祇園社

もともと、牛頭天王は、疫病を広める「行疫神」でした。その外観も奇怪で恐ろしく(後述)、疫病を流行させる非常に厄介な存在でした。そこで、人々は午頭天王をお社にお祀りし、どうか疫病を流行らせないでくださいとお願いしました。

天神さまもそうでしたけど、きちんとご供養し、お祀りすることで、恐ろしい怨霊も神さまに変ります。午頭天王も人々にお祀りされ大切に信仰されることで、疫病をおこさないでくれるようになり、却って「防疫神」へと生まれ変わっていったのです。

冒頭で、午頭天王はインドから来た異国の神さまで、素戔嗚尊との習合神、と簡単に書いてしまいましたが、この神様についてはじつに様々な考え方があります。『神様辞典』にも「なかなか一口には語り得ない難かしい神である」と書かれており、初心者が簡単に理解するのは困難です。

まず、この神さまがいつ頃日本にやって来たか、ですが、これについてははっきりと何年何月と史料があるわけではないです。かわりに、牛頭天王をお祀りしていた祇園社について調べることで、おおよそいつ頃にはすでに存在していたことがわかるはずですので、祇園社の起源についてみてみましょう。

祇園社の起源

祇園社は、京都市東山区祇園町にする八坂神社(旧社格・官幣大社)の前身です。祭神は、素戔嗚尊と八柱御子神。例によって例の如く、明治時代になって御祭神が素戔嗚尊に置き換えられ、神社の名前も改称されました。

ただし、ほかの神社の習合神と違い、牛頭天王と素戔嗚尊には古来より深い結びつきが感じられ、本地垂迹説に合せて日本古来の神さまをいずれかの仏とペアにする必要があったというよりも、元来同一視されたいたようです。ゆえに、現在素戔嗚尊を祀る神社として統一されたことに違和感はあまりないようですが、やはり古い時代においては、素戔嗚尊よりも牛頭天王に対する信仰が強かったようです。

問題は牛頭天王は仏教にゆかりはあるらしきものの、どちらかというと「異国の神」とでも言うべき存在であり、それ単体で深く信仰されるている寺院や宗派がなかったことです(まったくゼロだったかはわかりません)。ゆえに、神仏分離後にいずこかの寺院に戻っていくということができず、引き取り手のない異国の神は、姿を消すしかなかった点です。

ではまずは、祇園社の起源について。祇園社の由緒については、大きく分けて二つの系列がございます。

一、斉明天皇の御代、朝鮮から来た使者が新羅から勧請した ⇒ 典拠となる書物:『八坂郷鎮座大神記』
二、貞観年間に円如というお坊さんが八坂に勧請した ⇒ 典拠となる書物:『社家条々記録』『二十二社註式』

以下、順番に見て行きます。

一についてです。『日本の神様読み解き事典』には、『八坂郷鎮座大神記』という書物の記述が紹介されております。それによれば斉明天皇二年(656)、朝鮮(※この時代、朝鮮に王朝はいくつかございまして、高句麗・新羅・百済の三国時代でした。御鎮座記には『新羅』からの使節と書いてある模様ですが、『高麗』としている説もあり。『高麗』はこの年代にはまだ建国されておりませんので、明らかに誤りです。後からまとめられた縁起で国名がその時に存在したものにすり替わっていることは十分に考えられますが、不確かなので単に朝鮮半島から来たという意味に取ります)から来た使節団の副使・「伊之神主」という人が、二回目の訪日に際して、新羅国午頭山におられた須佐之雄神(素戔嗚尊)を勧請し、祭事を行なったということです。このことから、伊之神主には「愛宕郡八坂郷」の地と、「八坂造」の姓が下賜されました。

素戔嗚尊の行状は乱暴をきわめた。そこで神々は罰として千座置戸を科して、 尊を高天原から追放された。 そこで素戔嗚尊は、その子の五十猛神をひきいて新羅国に天降られて曽尸茂梨という所におられた。 そして揚言されて、「おれはこの 地にはいたくない」と仰せられて、とうとう埴土( つ ち)で 舟を作り、その舟にのって東に航海されて、 出雲国の簸の 川上にある鳥上峯に到着 さ れ た。

井上光貞. 日本書紀(上) (中公文庫) (Kindle の位置No.2409-2419). Chuokoron-shinsha,Inc.. Kindle 版.

※曾尸茂梨とは、韓国語で「牛頭」を意味し、韓国江原道春川郡牛頭山を指している(参照:『中世神道史入門』)

各種物語の中で、「荒ぶる神」などと表現されることも多い素戔嗚尊は、その言動が善くも悪くも型破りであられたので、追放されてしまったような経緯もあります。その際に、日本を離れ新羅国に住まわれていたことがあった、とされています(帰国しちゃいますけどね)。なので、新羅国から来た使者が日本に勧請するということはそれらの故事から来ているのでしょうか。その時、お住まいになっていたのが、午頭山だったということもややこしいですが、牛頭天王と素戔嗚尊とが習合してしまっていたという事実から、両者の結びつきが垣間見られます。

二についてです。『社家条々記録』なる鎌倉時代の書物によれば、貞観十八年(876)、円如という僧侶が薬師如来、千手観音などを安置するためのお堂を造りました(参照:『中世神道入門』)。これが、祇園社の前身ともいうべき寺院だったようです。この寺院のお名前を観慶寺(あるいは感神院)といいました。

ほかにも観慶寺について言及したものに、『二十二社註式』という書物があり(同上)、その境内には薬師如来とその脇侍、観音のほか、天神、婆利釆女、八王子を祀る神殿もあったと記されています。この本に引用されていたのは承平五年(935)の記録ということなので、なるほど円如さんは薬師如来と観音を安置したお堂を造りましたが、この寺院の中には、鎮守社だったのかどうなのか知りませんが明らかに神社系の神さま、社殿も付け加わってしまったらしきことがわかります。『中世神道入門』は、この「天神」というのが、午頭天王のことで「祇園天神」とも呼ばれるような存在だったのだろう、と推察しておられます。さらには、当時の貴族の日記から、延久年間に火災が起り、この神殿に祀られていた午頭天王の足が焼けてしまった、と書かれています。

いったい、一と二といずれが正しいのでしょうか。観慶寺が祇園社の前身ともいうべき寺院であったとされていることから、二案が正解のようですね。円如さん建立の寺院・観慶寺の境内には牛頭天王を祀る社殿もあったと。

なお、貞観十八年に円如さんが建立したのは、観慶寺ではなく、牛頭天王の社のほうであり、寺院はその後建てられた、という説もございます。以下の通り。

一、貞観十八年(876)、疫病の流行を鎮めるため円如が播磨から牛頭天王を勧請。「牛頭天王社」が建てられた。
一、承平四年(934)、観慶寺(あるいは感神院)という寺院が建てられた。この寺院は別名祇園寺ともいった。

いずれにしても、祇園社ご鎮座の地には、合計三つの寺社が存在したということになりそうです。

一、斉明天皇御代に創建された社殿
二、午頭天皇を祀った社殿
三、観慶寺(感神院)、別名・祇園寺

おまけ・「先代旧事本紀」の説

「牛頭天王=素戔嗚尊」という習合の考え方が定番ですが、ちょっと異色な意見として、「先代旧事本紀」という本では、以下のような説を記しているそうです。ご参考までに。

「牛頭天王は大己貴命(大国主命)の荒魂である」

ややこしくなってきたので、まとめます。

祇園社の起源

一、斉明天皇の御代に創建(新羅から来た使節が新羅におられた素戔嗚尊を勧請した。『八坂郷鎮座大神記』)。のち、天智天皇の時代に社殿が建立された
二、貞観年間に僧侶・円如が八坂に観慶寺(あるいは感神院)という寺院を建立した(『社家条々記録』)
三、観慶寺の境内には「祇園天神」なる神も勧請されており、これが牛頭天王のことと考えられる(『二十二社註式』)
四、祇園天神(=牛頭天王)の勧請は、観慶寺建立より早く、貞観年間建立が祇園天神、貞観年間。観慶寺は承平四年(934)であるという説もある
五、観慶寺こそが祇園社(現八坂神社)の前身である
以上、参照:『日本の神さま読み解き事典』『中世神道史入門』

牛頭天王の伝説色々

「祇園牛頭天王縁起」の牛頭天王

午頭天王は須弥半腹・豊饒国という国の王さま・武塔天王の王子です。とてつもない体格と奇怪な姿をしていました。どんなにヘンテコかというと、「七歳にして身長七尺五寸」という巨体であった上、頭には「三尺の牛頭」。さらに「三尺の赤角」も生えていたといいます。やがて父の跡を継いで、王位につき、牛頭天王と名乗ります。あまりに恐ろしい容姿であることから、お后になってくれる女性はいないだろうと思われましたが、「山鳩のお告げ」で、婆竭羅竜王宮の娘・婆利釆女を妻に迎えました。

牛頭天王と婆利釆女との間には八人の息子が生まれす。これを「八王子」と呼び、以下の通りの方々です。

相光天王(春三月の役神)
侍相神天王(夏三月の役神)
俱魔羅天王(秋三月の役神)
徳達神天王(冬三月の役神)
魔王天王(四方を司る)
羅侍天王(十二支を司る)
達尼漢天王 (八専を司る)
侍相神天王(四季の土用を司る)

これはもともと牛頭天王の縁起ですので、神仏習合していても、メインは牛頭天王のほうです。前述の祇園社境内には、これらの牛頭天王、婆利釆女、八王子がお祀りされていたのです。

神道家による素戔嗚尊への置き換え

牛頭天王は中世において、非常に広く信仰されていたようです。祇園社=牛頭天王といった感じでして、八坂神社に変るまでは、メインは間違いなく牛頭天王のほうでした。それはほかの寺社でも同じであり、何となく日本古来の神さまが風下に立たされていた感があります。

だって、日本の神さまは仏さまが姿を変えて現われたもの、なんて思想だったんですから。それゆえに、牛頭天王も素戔嗚尊と結びつけられていたわけです。いちおう、祇園精舎の守り神という役どころなので、仏教系に思えますが、ほかの仏さまたちのように、〇〇菩薩やら〇〇如来とは明らかに出自を異にしておりますね。

それでも、日本の神さまではないことは確かですので、神仏分離の際には、素戔嗚尊とわかたれました。祀られていた神社からも追い出されてしまいます。

さて、牛頭天王とそれにかかわる神さまたちは、日本のどの神さまに置き換えられていったのでしょうか。牛頭天王と素戔嗚尊についてはわかりましたが、奥さんやお子さんたちについてです。

牛頭天王は素戔嗚尊、婆利釆女は櫛稲田媛命、八王子は素戔嗚尊の五男三女。

八島篠見命、五十猛命、大屋比売命、抓津比売命……母は櫛稲田媛命
大年神、宇迦之御魂命……母は大市比売命
大尾毘古命、須勢理比売命……母は佐美良比売命

という感じでして、現在元牛頭天王が祀られた神社に行けば、御祭神はこれらの神々となっているはずです。

蘇民将来と武塔神

蘇民将来というのは、『備後国風土記』に記されている説話の神さまだといいます。備後国(現広島県)の疫隅国社(素盞嗚神社の境内末社)の縁起に登場します。その内容はおよそ次のようなものです。

「北海にいた武塔神が、南海の神の娘を訪ねて旅」(『中世神道入門』)とありますが、「武塔」っていったら、牛頭天王のお父さんみたいな名前ですけど(武塔天王)どこかで入れ違ってしまったのでしょうか。また、南海の神の娘を訪ねる、というのはどうやら先の、竜王の娘のことのようです。

で、旅の途中日が暮れてしまったので、「巨旦将来」(大金持ち)に一夜の宿を求めますが、宿を貸してくれませんでした。貧乏な弟「蘇民将来」のほうは快く宿を貸し、粟飯でもてなしてくれました。

数年後……無事に南海から戻った武塔神は八柱の御子様方を連れていました。宿を貸してくれた蘇民将来に感謝するとともに、貸してくれなかった巨旦将来に腹を立てた武塔神は疫病を起こし、巨旦将来を倒してしまいます。武塔神の指示であらかじめ疫病の被害から免れる茅の輪を腰につけていた将来の娘は無事でした。

武塔神は自らを素戔嗚尊であると名乗り、今後も蘇民将来の子孫であることを明らかにし、腰に茅の輪をつけたならば、疫病の被害は及ばないであろうと言い残します。

これに便乗し、ひとびとはこぞって「蘇民将来子孫の家」という貼り紙をしました。また、そのように書かれた護符を販売している寺社もあるそうです。加えて、茅の輪くぐりの神事は至るところで行なわれていますね。

武塔神がどのような神さまであるのかは謎だとか。一説によればインド由来の神だといいます。ほかにも諸説あります。牛頭天王のプロフィールでは、武塔天王の王子となっていましたし、何らかの関係があることは確かです。あるいは、武塔神自身が、素戔嗚尊であると語っていることから、同じく素戔嗚尊と習合していた牛頭天王の父王と混同されたのやも。

いずれにしても、「蘇民将来」の護符を貼れば、疫病の災難から逃れられるという信仰があったことは確かです。そして、じつはこの『備後国風土記』は神道家が祇園社の縁起として記している書物に引用されているのです(卜部兼方『釈日本紀』)。

前述の「祇園牛頭天王縁起」はじめ、様々な牛頭天王にかかわる縁起は、ここから発展していったものでした。

陰陽道と牛頭天王

さて、神仏習合して異国の神・牛頭天王と素戔嗚尊が一つにまとまっていたということはわかりました。組み合わせは違えどあそこもここも、どこもかしこも習合しちゃってた時代なので、ごくごく普通のことです。それゆえに、素戔嗚尊を名乗る神様の逸話が午頭天王の縁起として広まっていっても不思議はないことも。

しかし、この午頭天王さまはさらに、陰陽道の神様としても信仰されていたといいます。陰陽道系の逸話にも蘇民将来の物語が語られているなど、やはり共通項があり、どれだけ使い回されているんだろう? と思います。陰陽道とか、未開の地域であるゆえ、さっぱりわかりません。安倍晴明人気などで、世の女性たち(なんで女性?)はやたら詳しかったりするかもなので、舌を噛みそうな本の名前を一応書いておきます。

『中世神道入門』には、以下のようにあります。

 一、『渓嵐拾葉集』(鎌倉時代に天台宗のお坊さんが書いた本)第六十七『却蘊神呪経』に出てくる「七鬼神」を陰陽道では午頭天王のこととする
 二、『簠簋内伝金烏玉兎集』には、午頭天王についての記述がある

二について。どうやら陰陽道においては、午頭天王には「暦の神」(『中世神道入門』)としての性格もあるようです。

天道神:牛頭天王
歳徳神:婆利采女
八将神:牛頭天王の子(そういえば、ちょうど八人いましたね)
天徳神:蘇民将来

これら ○○神 って何なのかよく分らないですが、検索すると出てくるので、気になる人はチラ見なさってください。そのうち陰陽道について多少は分ったらここにも書き込みます。

蘇民将来の話は、上に書いた内容とほぼ同じですが、違うところも多少あります。でもって、その違うところがかなりグロテスクで恐ろしいです……。宿を貸してくれなかった巨旦将来に仕返しに行くところまでは同じです。ですけど、巨旦将来を殺害したあと、その屍をバラバラにしてしまいます。今ならば遺×損壊で逮捕される案件ですよ……。単に宿を貸してくれなかっただけで、そこまでやるのか!? 粟飯の恨みは凄まじいね……。

で、そのバラバラにした各パーツを「五節句に配当」。

正月 血と肉とが紅白の餅
三月 耳と舌とが草餅
五月 髪の毛がちまき
七夕 筋が素麵
九月 肝の血が酒

コレ見た人、もはやお餅も粽も食べられなくなると思う……。どんだけ趣味悪いんだよ。気持ち悪い話はこれにとどまりません。

天敵!? 天刑星(国宝『辟邪絵』)

天刑星というのは、神様の名前です。同じく陰陽道関係。牛頭天王はこの神様に喰われちゃうので、神様をも喰らう恐ろしい存在っぽいです。聞いたこともないし、検索しても以下の国宝が出てくる程度。知らなくていいと思います。

大変有難いことに、国指定文化財等データベースに絵が載っております。説明文もそのまま引用フリーですので、下手な説明よりそちらをお借りします。なお、絵は直接掲載できませんので、リンクをクリックしてそちらをご覧くださいませ。神様事典などにも同じ絵が載っています。

名称 : 紙本著色辟邪絵
員数 : 5幅
種別 : 絵画
国 : 日本
時代 : 鎌倉
指定番号(登録番号) : 00152
枝番 : 00
国宝・重文区分 : 国宝
国宝指定年月日 : 1985.06.06(昭和60.06.06)
所在都道府県 : 奈良県
所在地 : 奈良国立博物館 奈良県奈良市登大路町50
保管施設の名称 : 奈良国立博物館
所有者名 : 独立行政法人国立文化財機構
解説文:現在は五点の掛幅となっているが、もとはこれだけで一巻をなす絵巻であり、地獄草紙の一本とされていた。しかし内容は、地獄に堕ちた罪人たちの責苦ではなく、むしろ人間を害する疫鬼や鬼神を懲らしめ追払うとして中国で信仰された辟邪神を集めたものであり、天刑星・栴檀乾闥婆・神虫・鍾馗・毘沙門天の各神が、疫鬼共を傷つけあるいは食らうという凄惨な場面が一貫して描かれる。図様はいずれも中国から伝わったと考えられるが、天刑星と神虫は本図においてのみその像が知られるなど、内容は極めて特異性に富むといえよう。辟邪神の扱い方は、像を画面一杯に表すものや、説話的構成の中に組み込むものなど、各図の間で若干の相違が認められるものの、表現は明快な配色や勁直な描線によって全体にいきいきとしており、強い隈取りや神虫の体躯の重い色調などは特異で迫力がある。
 本図は国宝の「地獄草紙」・「餓鬼草紙」・「病草紙」などと共に六道絵を構成すべく製作されたという説があり、その点については今後も研究されねばならないが、少なくともそれらと同時期、平安時代末から鎌倉時代初め頃の製作と考えられ、卓抜な表現はそれらと較べても高く評価されるものである。
 益田家伝来、中沢家旧蔵。

出典:国指定文化財等データベース
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/161

午頭天王は疫病をもたらす「悪い神」ということから、食べられてしまうんですよね……。巨旦将来をバラバラにしちゃうとか、残虐なことするからだよ-。お金持ちのほうが一夜の宿すら貸してくれない、貧乏人のほうが親切とか、そのお陰で心優しい貧乏な人が報われるという説話は多々あります。ですが、他人に親切にする、ってところはいいけど、知らない人に宿を貸すなど、イマドキの感覚ではむしろ絶対に NG ですよ。相手は泥棒かもしれないわけで。

祇園信仰と牛頭天王

疫病の神から防疫の神に

医学が進んだ現在、「疫病」なる言葉は歴史書や古典文学の世界の話となりました(謎の感染症が世界中に蔓延する事態になったことは記憶に新しいですけれども、それすらも時間はかかっても現代の医学で克服されました)。しかし、中世はそうはいきませんでした。疫病蔓延で打つ手もなく、人口が激減するということは普通にありました。

悪い神さまがいて、謎の疫病を流行らせていると人々が信じたのも無理からぬことです。少しでも恐ろしい病の流行を減らして欲しい、皆が健康で、平穏無事であって欲しい、人々の願いは切実でした。そんな中から、疫病を広める神・牛頭天王をお祀りし、祇園会を催すようになりました。

疫病の被害に悩まされるのは何も、京の都だけの話ではありませんから、祇園社は至る所に勧請され、その土地土地でお祭りが行なわれたのでしょう。こうして全国に広まっていったのが、祇園信仰であり、祇園社です。

そして、どうか疫病を広めないでくださいとお参りする中で、もとは疫病を広める神さまであった牛頭天王が、疫病から人々を守る神へと変化してしまう、という逆転が起こりました。願いを聞き入れ、疫病を流行らせないでくれれば、疫病の神どころか、防疫の神さまですからね。

祇園祭

祇園祭の起源は疫病退散のために行われた「祇園御霊会」だと言われています。その後全国に広まって色々なところで「御霊会」が開かれるようになったのです。

じつは、祇園祭を見たことがないため、適当なことは書けません。『神さま事典』には以下のような記述がありました。

「日本の祭りを代表する祇園祭りであるが、山鉾の飾り物や山車、風流といわれる派手な行列や舞踊・仮装など、華美で祭りを彩る行事が結びつい ているのが特徴である。その底流には、この豪華さで御霊を慰めるという信仰があるといってよかろう」

ここでいっている「御霊」というのは、非業の死を遂げた怨霊のような方たちのことです。彼らも牛頭天王が疫病を流行させるのと同様に、その強い恨みゆえに、災いをもたらすと考えられていたからでしょう。

研究者の先生方があちこちでご指摘なさっていることですが、大内氏歴代、特に在京経験のあるご当主たちは、この華やかな祇園祭を目にしたはずです。それゆえに、京都に負けないような豪勢な祇園祭を催そうと考えたに違いありません。それは現代にも受け継がれておりますので、この目で見ることができます。

書くまでもない余談ながら、歴代ご当主さまの時代には、八坂神社は祇園社であり、お祀りされていたのは午頭天王でした。どのみち、素戔嗚尊と習合していたのでどちらでも同じですが、わざわざあれこれの史料に午頭天王云々と書いてあるのは普通のことなんです。

姿を消した牛頭天王と祇園社

神と仏が分かたれた時、仲良く習合していた牛頭天王と素戔嗚尊は引き剥がされることになりました。今でも、著名神社などで、元本地仏だった〇〇菩薩は△△寺に移されました云々とか聞きますが、すべての寺社においてきちんとそのような処理が行なわれていたわけではないようです。

分離の過程で、貴重な文化財が失われてしまったケースも少なからずあった模様です(あまり踏み込みたくないので、数はわかりません)。逆に、多くの人々の努力で守られたケースも多々ありました。

そもそも、仏さまと違い、神さまは像を作らないものという認識です。しかし、牛頭天王の像が焼けた云々の記述があったりしたことからも、仏扱いで像を作っていたことも考えられます。それらはいったい、どこへいってしまったんでしょうか? 仏像であれば、引き取り手になってくださる寺院さまはありますが、異国の神さまだけにその辺がわかりません。

消滅した神としてその行方を研究している先生のご本がまるまる一冊牛頭天王研究で超分厚かったので、ほかにもあれこれの研究があると思われますが、そこまで深入りはできません。

祇園社は八坂神社、牛頭天王は素戔嗚尊に

インド出身・牛頭天王は、日本の神様・素戔嗚尊と切り離され、祇園社は八坂神社と名前を変え、祭神は素戔嗚尊だけとなりました。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

祇園社という名前が消えてしまったのは、祇園はつまり祇園精舎、いかにも仏教しているからでしょうか……。

京都の祇園社が八坂神社になったため、そこから勧請されたそこらじゅうの祇園社も皆、八坂神社となります。

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五郎

そういえば、天王社っていう名前の神社があったけど、それも元々は午頭天王を祀っていたんだよね。今は素戔嗚尊になっているけど。

その通りです。『神さま事典』によれば、祇園社から勧請され、牛頭天王をお祀りしていた神社の多くは「天王社」と呼ばれていたそうです。「多くは」などとあるため、祇園社がレアなのかと思いましたが、半々くらいじゃないかと想像します。典拠は以下。

八坂神社と津島神社

かつて、牛頭天王をお祀りしていた(今はいないので過去形)のが、現在の八坂神社と津島神社です。同じ神さまをお祀りしていたのに、二種類の神社があったとは。その違いがどこにあるのか、書物には書かれていません。単に、祇園社系神社は八坂神社となり、天王社系神社は津島神社となった、ということです。

でもこれ、おかしいです。だって、宮内天王社(広島県)は、紛れもない「天王社」系なのに、八坂神社となったからです(現在は昔のお名前に戻っています)。ご本が間違っていたらえらいことになりますが、例外もあるってことでしょうか。

もう一つ、八坂神社は関西中心、津島神社は中部から関東中心とも書かれていましたが、これも信用していいのかどうか。悪口みたいになってしまうので、敢えて書かないけど、初期の頃に購入した電子書籍版の神さま本。以下のように書いてあります。

八坂神社は、京都にあって、全国3000の祇園系神社総本社
津島神社は、津島(愛知県)にあり、全国3000の天王系神社の総本社

これは絶対に信じられません。宮内天王社はいったん八坂神社と名前を変えたのに、現在は元に戻ってます。これはこの目で見て確認したのでその通りなんです。それが、いきなり津島神社とか言われても「?」×一万個くらいです。

まあ、この辺りはあまり深く考えないことですね。

参照文献:『中世神道史入門』『日本の神さま絵解き事典』『日本の神さま事典』ほか

まとめ

究極これだけわかっていればよいです。

要暗記

八坂神社は元祇園社や天王社でした。そして、異国の神・牛頭天王と習合していました。
(現在元の名前に戻っている神社さまなどもございますが、牛頭天王は未だどこかにおられるのかは不明です。気になる方はお調べください。泥沼化します)。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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