山口県市山口市熊野町の熊野神社とは?
大内義弘が紀伊国から熊野権現を勧請したのが起源とされていますが、創建年代は不詳です。その後、毛利宗広によって再興されましたので、その年を基準として式年大祭などが行なわれています。
明治時代に、熊野権現社から熊野神社と改名されて現在に至ります。縁結び・縁切りの神様として有名で、入口の看板にもその旨大きく記されています。もちろん、ご神徳はそれだけではありません。
境内社として、御中主神社と稲荷神社があります。その昔、熊野権現社がある権現山に住んでいた狐が足を痛めた時、治療のために通っていた泉源が湯田温泉の起源といわれています。
熊野神社(山口市熊野町)・基本情報
ご鎮座地 〒753-0077 山口市熊野町2−2
御祭神 伊弉那美尊、事解之男命、速玉之男命
配祀神 天御中主神
社殿 本殿、弊殿、拝殿
境内社 稲荷神社、御中主神社
主な建物 鳥居、灯籠、狛犬
主な祭典 例祭、春祭、夏祭
(参照:『山口県神社誌』)
熊野神社(山口市熊野町)・歴史
「創建年次不詳」の熊野権現社
『山口県神社誌』によれば、「創建年次不詳」となっています。勧請元が紀伊国・熊野神社ということなので、明らかに、紀伊国守護を任されていた大内義弘によってもたらされたものであろう、と推測します。元は熊野権現社といい、例によって明治時代に現在の社号となりました。このような場合、神仏習合していた本家本元神社の名前が変ると同時に、関連神社すべてが改名されるか、もしくはご鎮座地の名前を取って○○神社と改められるケースがあるように感じました(ずいぶん大量に見て来たので、何となく法則性のようなものが……。ちゃんとそれを研究すればいいんですけども。そのうちね)。この神社さまの場合、恐らくは神社さまの影響で地元の地名が「熊野」になっちゃってるので(多分)、どっちなのか分らないですね。
昭和四十一年(1966)に御鎮座二二五年式年大祭が行なわれたというので、引き算すればいちおうの創建年代がわかりそうなものなんですが、それだとわりと新しい神社ということになり、大内氏との関連性は皆無、となります。昭和四十七年(1972)豪雨の被害による修築、昭和六十一年(1986)から二年かけて社殿の大改修が行なわれたとのことでして、ますますもって、現在のお姿からは往時を偲ぶことはできないであろうと考えられます。
(参照:『山口県神社誌』)
大内義弘期も毛利元就期も消えている謎
ここが大内氏ゆかりの神社であることは、じつは事前に分っていたので、それを信じてご鎮座地に向かうと、神社さまご由緒看板にその旨、明記されておりました。
「後円融天皇の御代大内氏が当国を領せし時、紀州熊野神社を当熊野山頂に御勧請申し奉り……」
つまりは大内義弘による勧請であることは、明らかなんです。なのに、なにゆえに、昭和四十一年に、わずかに二二五年式年大祭ってことになるのか、謎で仕方がありませんでした。どうやら義弘が勧請した時でもなく、毛利元就が周防長門を手に入れ(当然、この神社もその支配領域にある神社となります)た時でもなく、毛利宗広というお殿様(御由緒では大江になってるけどね)の代に社殿が再興された時から二百二十五年ということらしいです(※御由緒看板は『神社誌』より新しいので、二三八年となっております。現在はさらに年を重ねているはずです)。
ではそれ以前の、義弘期や、毛利元就期はなにゆえに数えないのかという不思議さは拭い去れませんが、何か理由があるのでしょうか。「再興」してくださったとある以上、それまでは衰頽してしまっていたのだと思われますが、一般に、神社さまって燃えようが、吹き飛ばされようが、何十回、何百回再建されようが、そもそもの「創建」を以て歴史を語っていることが多いように思います。『神社誌』にある「創建年次不詳」という記述はまさに正しいのだと思います。けっして珍しい事例ではありません。「もはや創建年次がいつなのかわからないほど古い」ってことで、それすらもまた、りっぱな御由緒となります。ただ、それらの神社さまの場合は、延喜式神名帳云々などの尊くも厳かな由来が附随していたりしますが。
義弘期といえば、古代史ではなく、すでに中世です。それゆえに、先の「古すぎてわからない」系の神社さまと同列にはできません。でも、そこが起源であるとわかっているのならば、後円融天皇の御代に創建された云々として、五百年もの歴史がある、でいいと思うんですが。式年大祭ともなると、年代が不詳では執り行えないとかいう決まりでもあるのですかね……。義弘期、元就期などが歴史から抹消されているような気がして、ちょっとだけ悲しくなりました。
年代不詳になった理由は不明ですが、ご由緒を伝えるものがすべて失われるほどの大ダメージを蒙る事件が過去にあったのでしょうか(家臣の叛乱、防長経略直前の同士討ち、大内輝弘の仕業のどれかしか思い浮かばないけど。何気に駅から近いわけで、つまりは市街地。どれをとっても燃えそうではあります)。
要するに、現在ある熊野神社は、毛利宗広公ご再興後のものでして、神社さま公式のご見解(御由緒に書いてあるからそうだろうという意味で、お問い合わせをして確認したわけではないです)ですと、そのご再興年を以て創建年次にかえていると思われます。全国見回してみれば、このような例も少なくはないでしょう。それこそ、歴史学の教授を呼んできたら、「史料がない」から、義弘期に建てられたかどうかわからないってなるよね、きっと。考古学の研究者をお招きしたところで、宗広公以前の廃れてしまった神社の名残はまったく見付けられない可能性もあり、証明できないとなりそうな。ただし、神社さま内には伝えられていなくとも、どこかほかの場所に義弘が熊野神社を勧請した云々が書いてある可能性はあり。自らがコチラに向かったのは、歴史学の先生が書いた本に、そう書いてあったからだったような気がするので、ひょっとしたら、歴史の先生が認めているのかも(うろ覚えです)。
しかし、御由緒にはきちんと、大内氏時代からのゆかりが書かれているところ、神社さまもあれこれと苦心しておられるのだろうな、と。その結果がきちんと再興年次がわかる宗広期から数えることになったのでしょう。以上はすべて、一参詣者の推測でございます。
熊野神社(山口市熊野町)・みどころ
熊野神社とともに、境内社として稲荷神社と御中主神社がございます。熊野神社の社殿はとても立派ですし、二つの境内社もとても魅力的なので、忘れずにご参詣しましょう。
鳥居(入口)
お隣は地元の方のお住まいでして、プライバシーに配慮するのが難しいです……。幟旗と鳥居があるので、見落とす方はおられないと思いますが、ここが神社さまの入口となります。左手に御由緒看板、前方に石段が見えております。
石段
見上げると頭がクラクラしそうになる長い長い石段。きちんと手すりもついておりますし、さほど登りにくい石段ではありませんが。石段の手前に立派な灯籠が一対ございまして、写真撮影にもってこいの雰囲気ですが、どうしても民家が入ってしまいますので、壁だけは写り込んでしまいますがごめんなさい、というギリギリのポイントで撮影。灯籠がちょこっと写っています。
鳥居(石段上)
石段を上って行った先にある鳥居です。石段はここで終わりではないのですが、ちょっと小休止です。前方に社殿がチラ見えております。また、左手のほうには境内社・稲荷神社の鳥居があります。
社号碑
社号碑は神社さま入口ではなく、石段を上った先、社殿の手前にございます。
社殿
拝殿はさほど大きくありませんが、どっしりとした重厚な趣がございます。こちらの神社さまの神紋は大内菱ですので、提灯に大きな赤い大内菱が輝いております。
神社庁さまのご本によると、社殿の構造は、拝殿 ⇒ 総拝殿 ⇒ 弊殿 ⇒ 本殿、となっているのですが、はて、総拝殿って何のことなんでしょうかね。とりあえず熊野神社さまは、いわゆる楼拝殿造りではないですね。手前に見えているのは、御中主神社(後述)です。
境内社・稲荷神社
熊野神社の御由緒看板によると、権現山(熊野権現、つまり現在の熊野神社がある山)に住んでいた狐が足を痛めた時に、湧き水で治療していたことから温泉が発見されたそうです。湯田温泉からほど近い熊野神社境内に稲荷大明神があることは、温泉の縁起と関係大有りです。何しろ、狐はこの山に住んでいたわけですから。
ご覧ください、このキュートな狐さんたち。大量にお供え物が置かれていることからも、人々の深い信仰がうかがえますね。
境内社・御中主神社
御祭神は天御中主神、ご神徳は「開運招福、縁結び、事業成就、安産守護」と書いてありました。熊野神社の配祀神に天御中主神がおられ、境内社にもおられる、と。これは境内社の神様を指しているのかなと思えば、稲荷大明神のほうは入っておられませんので、どうなってるのかなぁ、とちょっと迷いました。
稲荷大明神のほうは、わずかですが、本社ご本殿より離れており、こちらの御中主神社はまさにご本殿脇にございますので、元々ご一緒だったんでしょうかね。それよりも、天御中主神は神仏分離前は妙見菩薩だったことがほとんであることを思うと、こちらも、元々は妙見社だったかも知れない、と考えてしまいました。根拠も典拠もないですが。
熊野神社(山口市熊野町)の所在地・行き方について
ご鎮座地 & MAP
ご鎮座地 〒753-0077 山口市熊野町2−2
アクセス
これまた山口駅と、湯田温泉駅との中間地点に位置しております。もはや、湯田温泉と山口駅間は「徒歩圏」と錯覚しておりますので、およそアテにならないご案内とはなりますが、基準としては湯田温泉宿泊の方は湯田温泉から、山口駅宿泊の方は山口駅からというのが大前提です。
正直、どの道を行くにせよ、とてもわかりやすく、行きやすいです。なので、敢えて行き方は記しません。わざわざこの神社さまだけを見るために、山口もしくは湯田温泉に宿泊している方も稀と思われることを考えると(この神社さまの観光資源としての価値がその程度、という意味ではありません。見るべきものが多すぎる山口市内においては、その大量にある神社仏閣の中のひとつとなるであろう、という意味です。誤解なさらぬよう、お願い申し上げます)、どこかに参詣・参拝したつぎに熊野神社さまを参詣しよう、となった場合、いったん駅まで戻って行き直すような方はおられぬはずだからです。
注意点としては、事前に回りたい場所をリストアップし、地図とにらめっこしながらタイムロスを減らすような参詣順を決めておくことくらいです。単に神社仏閣名だけを羅列し、その順番に回ると、元来た道を引返し……のようなことになり、疲れるし時間がもったいないです。その分、ゆっくりとお参りができますから、順番を整理しておくことは大事です。山口市内の道は基本、真っ直ぐで交差もわかりやすく、迷いにくいですが、町中にある神社仏閣の場合、通り過ぎてしまいました……ということが多々あります。なので、時折、Googlemap のナビゲーション(別に他社アプリでももちろんかまいません)を起動して、今自分はどこにいるのか、どこに向かおうとしているのか、を確認してください。しつこいですが、くれぐれも歩きながら片手にナビゲーションはやめましょう。安全な場所で停止してから確認です。
参考文献:『山口県神社誌』、神社さま御由緒看板ほか
熊野神社(山口市熊野町)について:まとめ & 感想
熊野神社(山口市熊野町)・まとめ
- 大内義弘が紀伊国から熊野権現を勧請したのが起源
- 元は熊野権現社といい、神社がある山を権現山と呼ぶ
- 権現山に住んでいた狐が足の怪我を治療するために通っていた湧き水から、湯田温泉が見付かったとされていて、境内には稲荷大明神がある
- 明治時代に熊野権現社から、熊野神社に改名されて現在に至る
- 境内、本殿脇には天御中主神を祀る御中主神社もある
- 創建年代は不詳であるため、江戸時代、毛利宗広が再興した年を以て式年大祭などの基準年次としている
どういうわけか、『平家物語』の平忠度を思い出しました……。「熊野そだち大力のはやわざ」(巻九『忠度最期』)ってあるでしょ? この章段ちょっと残酷に過ぎて印象強烈なんですよ。忘れたいのに忘れられなくて気持ち悪い……。それよりも、維盛さま入水のほうが忘れ難い物語であるにも関わらず。『平家』には熊野信仰がらみの話がそこかしこに出てきて、人々の間でどんだけ流行ってたんだろ、って驚かずにはいられなかった。それよりも、この熊野信仰が向かうところの熊野権現って、神仏習合していたから、もはや神社なのか寺院なのかわからず、維盛さま出家したけど、いわゆるお坊さんみたいに髪の毛全部剃り落としたわけじゃないんですよね。この方ほどのイケメンがいわゆる「坊主頭」になって欲しくないから、髪の毛残っててよかった……とか、わけわからんことに感動すると同時に、ん? でも、「出家」だよね? とものすごく悩んだことが思い出されます。
要するに修験者になった、って感じなんですよね。(当庭園の修験者・宗景 ↓ )
紀伊国にはいずれ行ってみたいと思いつつ、県内のゆかりの地も回りきれないのに無理だ……と悲しい。代りにこちらの熊野神社さまをご参詣して、とりあえずは我慢します。
紀伊国の守護といったら、畠山家ですので、なんで大内義弘守護やってんの? と思いますが、時の将軍・足利義満と蜜月だった義弘公が頑張りすぎて、畿内にも守護領国もらってた頃のお話ですね。頑張りすぎて守護領国が肥大化し、目障りなので消されてしまうというとんでもないことになるわけですが(応永の乱)。同じ畿内に領国をもらったのでも、のちに凌雲寺さまが山城もらった時とは様相が違いますね。貢献度大なので、当然だろう、って点は同じなのですが、将軍権力がまだ強大だった頃ゆえ、あまりに目立ち過ぎると整理される、というとんでもない時代でした。
でも、義弘期に勧請されたはずの神社が、まあ、正式にそれが何年のことなのか分らないというのは理解できますが、ご由緒にも書いてあるその「古さ」が主張できず、わずかに三百年未満の歴史しかないようなことになっているのが今以て謎です。何でなのかな?
ところで、この神社さまのご神徳は多々あれど、一番は「縁結び」のようでして、入口の提灯にもドデカい文字が躍っております。「が」入口の幟旗をよく見ると、「縁結び・縁切り」と書いてあるのですよ。世の中には、縁切り寺のようなものもございまして、かつて男尊女卑のひどい世の中だった時に、横暴な夫から逃れようとする女性を助けてくれるような場所だったりしました。現在も何やらカタカナ用語となって、同じようなヒドい案件は数え切れないようですが、男女を問わず、誰かと縁切りしたいと思ったら、こちらの神社さまにお参りするのがいいかもしれません。パワハラ上司の被害に遭っている場合、お参りしたら、その上司がほかの部署に飛ばされるとか。こういうのはイマドキならではの「縁切り」用途でしょうか。でも、自らがその対象になってどなたかにお参りされていたら悲しいですね……そんなことにならぬよう、普段から人間関係には注意しましょう。
大内氏ゆかりの地を回っている人は和歌山県にも京都にも大阪にも福岡にも、そこら中ゆかりの地はあり、県内だけではないことを、熊野神社さまをお参りする度に思い出しましょう。
こんな方におすすめ
- 熊野信仰してる人
- 神社巡りが好きなすべての方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
縁結びのお参りって、結ばれたい人と一緒に来ないとだめなのかな?
一緒に神社巡りやっているような人とは、もう「結ばれてる」よ。維盛さまのようなイケメンと結ばれますように……。
……。
傍にいるからといって「結ばれている」ということにはならぬようだなぁ。まあ、俺は誰とも縁など結ばれたくないがな。