山口県山口市黒川の臨海院とは?
浄阿弥という人が諸国行脚をしていた時、「一切衆生を守れ」というお告げをきいて、石像を見付けました。かの石像を本尊として、当地に草庵を結んだのが起源です。熱心に念仏を唱えお勤めしていたところ、その評判が大内義興の知るところとなり、大内氏祈願所「太平山・平安寺」となりました。
大内氏の滅亡後廃寺となり、一時期は毛利家臣・佐々木家の菩提寺となったこともありましたが、やがて廃れてしまいました。現在の寺院さまは、明治時代に回向院(東京)の末寺を引寺して再興されたものです。
臨海院・基本情報
所在地 〒753-0851 山口市黒川 3143
山号・寺号・本尊 ?・臨海院・石像
宗派 浄土宗
臨海院・歴史
『山口県寺院沿革史』にはだいたい以下のようなことが書かれています。
「開基は大内左京太夫義興公である。開山は浄阿弥比丘で、阿武郡萩志津ヶ浦の生まれである。幼い時、一遍上人の信者だったが、後には雲水として諸国行脚の身となった。明応六年二月十六日の夜、陶の郷・長沢の松原にかすかに神々しいものを授かりながら山道を行くと、漸く平野の里・小笹原に分け入った。すると、空中に「吾は衆生を済度するために金輪から出現した弥陀である。汝はここに庵を結び、すべての衆生を守れよ」という声がした。浄阿弥が、夢みる心地で光明の中を伏し仰ぎ見ると、忽然と石像が現われなさった。志願が叶ったと直ちに草庵を結び、念仏に専念していると、そのことが広く知られるようになり、霊験はさらにあらたかとなった。ついには国守の大内義興公のお耳にも入り、祈願所として、御堂厨子を造営し、太平山平安寺と号した。その後は遠国までも伝わり、日夜参詣者が夥しかった。
永世九年七月二十八日に浄阿弥が亡くなると、三世・守締、八世・心了が中興した。大内氏滅亡後、毛利家臣・佐々木家の先祖・冷巌寺殿の菩提所として再建されので、雲心山・冷巌寺と改められた。
その後、明治三年に廃寺となったが、十八世・宥香代に臨海院を引寺したものの、間もなく亡くなったので、十九世・曲達代に、苦心散財して再興した。しかし、またもや廃頽したので、二十一世・信成代、明治三十三年十月十五日に再興した。
寺宝は石像で、七年ごとの開帳である。本堂、拝殿、庫裏がある。」
(原文文語文)
この内容は、寺院さまの御由緒看板に書かれていることとほぼ同じです。しかし、三世、八世、十八世、二十一世ご住職などのお名前はなく、「浄阿弥上人」のお名前、「太平山平安寺」(大内氏祈願所)、佐々木家菩提寺、臨海院引寺の件がコンパクトにまとまっています。
『沿革史』に書いていない御由緒看板の文言を補足しておくと、つぎの二点です。
一、佐々木家というのは尼子一族
二、引寺された臨海院というのは、深川(東京都)回向院の末寺
一については、尼子家は毛利家に滅ぼされてしまいましたが、「降伏」して戦闘終了したので、断絶はしなかったのです(山中鹿之助のお家再興云々とは別系統)。で、尼子家がそもそもは宇多源氏・佐々木家の末裔であることは別のところでお話しました。
二についてです。御由緒看板によれば、この回向院という寺院さまは、大相撲で有名だそうです。相撲わからないので、興味がおありの方は検索してください。自らは検索してないので分りませんが、「有名」だそうなので、ヒットすると思われます。何なら「相撲 回向院」とか入力したらいいのかも。
寺院の記事を書くとき、『沿革史』が昭和時代に書かれたらしきものであるのにかかわらず、書いている先生が教養深い方であるためか、文語文なので意味が分らず(というよりも、昭和初期にはまだ文語文で文字書いてたんだろうか? いや、それはないですね。だって、いわゆる『明治の文豪』だって白話文じゃん。いつからかわったかとか、ここの主題ではないのでどうでもいいけど、同じ明治でも森鴎外の『舞姫』とか樋口一葉とか、はっきり言って古文の世界だったし。そもそも『大内氏実録』からして古文なんだよ。にもかかわらず、『源氏物語』の時代とは明らかに違うため、古語辞典引いても分らん言葉あったりとか。ちなみに『大内氏史研究』のような昭和に書かれた文語文ではないご本でも、現在とは微妙に違ってて分らないところが山とあり、やはり古文の参考書では解決できない)、最悪意味不明で何も書くことができなかったりするので、『趣味の山口』というご本も参考にすることが多いです。ところが、山口市内の名所旧跡を網羅しているこのご本に、臨海院さまは載っていません……。寺院さまが由来ご案内看板を出してくださっているお陰で、じつは何ひとつ苦労する必要なく、何もかも分ってしまうのですが、本に載ってないとは意外すぎます。が、じつは「臨海院物語」として、「伝承」のところに載っていました(伝承載せているくらいなのに、名所旧跡案内に載っていないことが謎でしかありません)。
びっくりなお話だったので、おおよそのところをご紹介しておきます。詳細を知りたい方は図書館で直接ご本を探してくださいませ。
一夜にして建てられた庵
日光の眠り猫などで有名(これしかわからないのですみません)な、左甚五郎という江戸時代の建築家がおられますが、この左さんに勝るとも劣らない著名な建築家のひとりとして、「竹田の番匠」という方がおられたそうです。恥ずかしいことに、聞いたこともなかったのですが、建築業界の方以外にも広く知られたたいへんに有名な方である模様です。それこそ、検索すると出てきますので、万が一「知らなかった」という方はちょいご覧になってもよろしいかと思います(見てませんが、大量にヒットしました)。
じつはこの、竹田の番匠は、山口県内の著名な建築物とも関わり深いお方です。たとえば、瑠璃光寺の五重塔、平清水八幡宮の本殿もこの方の設計によるものだとされています。あくまでそのような伝承がある、というお話にはなりますが。
そしてこの、臨海院さまの庵もじつはこの名工の手になるものであった、という言い伝えがあるそうです。しかし、「小さな庵」ということで、大袈裟な建築物ではなく、現在は庵ではなくきちんとしたご本堂がありますので、今に伝わるものではないと思われます。
さて、この竹田の番匠が、詳細は不明ながら、一晩で小堂を完成させる、という願を立てました。どんなに小規模な庵の類でも、わずかに一晩という時間で完成させることは、いかに名工といえども無理であろう、と周囲の人々は相手にしませんでした。けれども本人にはやり遂げられるという自信があったようで、準備を整え、日没とともに作業を開始しました。作業に集中して熱心に取り組んだものの、やはり一晩で完成させるのは無謀であったのか、未だに完成しないうちに、夜が白んできてしまいました。このままではいけない、と焦れば焦るほどますます間に合いそうになくなり、さすがの名工もどうしたら? と半ばあきらめの境地に至ったのか、あとはひたすらに手を動かすだけとなりました。
ここで奇蹟が起りました。なんと、こびとたちが現われて、名工の作業を手伝い始めたのです。思いもかけない助っ人の登場に竹田の番匠は大いに喜び、やる気を取り戻して、残りの作業をやりとげることができたのでした。こうして、日が昇るまでに工事は完了。一夜にして現われた立派な小堂に人々は驚き、さすが天下の名工であると称賛したのでした。
……というような「竹田の番匠一夜建立」の物語を、『趣味の山口』は「臨海院物語」として伝えています。
何やらグリム童話のこびとの靴屋のお話を思い出してしまいました。豊臣なにがしの一夜城の話などは、全国区で有名ですが、何ということもないつまらない話です。人海戦術で一夜にしてそれっぽいものを造ることは可能。単なる目くらまし話で、騙すほうも騙されるほうも何なんだよ……という内容ですが、こちらは神ならぬこびとが助けてくれたというのですから、スゴい話です。ただ、当時こびとって概念既にあったんでしょうかね? グリム童話に引き摺られて、こびとは西洋系のものって気がしてしまうので、むしろ真新しい逸話じゃなかろうかと思ってしまいました(根拠なし)。本当にこんなにすごい人がここへ来て、一夜にして庵(お堂なの、どっち?)を建てたなどという伝承があったとしたら、寺院さまの案内看板に書かれていないはずがないと思うんですよね。真偽の程はとにかくとして、ご参考までに。
(参照:『趣味の山口』)
臨海院・みどころ
『沿革史』には開基は大内義興公云々とずばっと書いてありますが、正確には浄阿弥が建てた草庵が起源なので、噂になったことで祈願寺とし、その際伽藍を造り、寺号も与え……という時点を以て創立されたとみた場合ですね。いずれにしても、関連寺院であることは確かです。ただし、何度も廃寺となったりした結果、現在は東京にある寺院さまの末寺が移って来られたわけなので、一瞬ええと、どういう由縁が……と思います。
周囲も緑深く、いかにも草庵を結んで念仏三昧の寺院さまのゆかりに頷ける雰囲気です。恐らくは敷地も広大なのではないか、と思われるのですが、夏場の名残で草木が深く、蜘蛛の巣が恐ろしかったので、道はあるのに先へ進めずとなりました。何とも言えぬ奥ゆかしさは健在です。ご本尊の石像、ぜひ拝んでみたいですね。
入口
寺院の入口には山門があるはずですが。見付けられませんでした。車で来ると停められる場所から入ったり、駐車場から入ったりすることが多いため、鳥居や山門をスルーしていきなり本堂、はたまた巨大な墓所のある寺院さまですと、墓所直通ということもあるため、戻って正規の入口を探さねばなりません。そのようにして探し当てたのがこの入口ですが、果たしてこのほかに山門というべき建物があったのに見落としているのか、ちょっと断言できません。
この入口、神社にある注連柱に似ておりますよね? 同じような入口が神福寺さまにもあったのを思い出し、見返してみると、やはり、山門の写真はありませんでした。それを以て、この寺院さま(神福寺さまも)に山門はないと決めつけることはできないのですが、お名前もきちんと書いてございますし、位置的にもここが入口です。
『沿革史』の中に、主な建物として、「本堂、『拝殿』、庫裏がある」となっていました。つまり、完全に神仏集合体です。となると、これは神仏習合していた時代の名残の注連柱か!? と思わなくもないですが、それにしては新しいのですよね。寺院さまがこのようなかたちを以て山門とする例について、どこかで解説してくれてないかと期待しましたが、検索って役に立たない時はまったく役に立たず。これについては、今後の宿題とさせてください。異常に気になりますので。
本堂
ご本堂はこの建物かと思われます。そもそも目立った建物はほかには見付けられませんでした。アイキャッチに入っているのが、ちょっと全景っぽい写真となります。背後に見えるお山や手前の緑がとても心地良くて、長閑でなんとも言えない雰囲気です。
墓所
檀家の方々の墓所ではなくして、歴代ご住職のお墓と思われます(個人の方のお墓は公開できません)。ひときわ大きなものが、浄阿弥上人さまのものでしょうか? と思ったけど、拡大して凝視すると、どうやら全然違う漢字が書いてあるようでした(微妙に読めなくて。すみません)。
臨海院(山口市黒川)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒753-0851 山口市黒川 3143
アクセス
残念ながら、こちらの寺院さまは車推奨です。地図を見ても、どの駅から最も近いのかわからない場所にあります。ということは、最寄り駅がない、ということです(仁保津、大歳、矢原、湯田温泉と四つも駅が見えてしまっています)。何ならもう少し縮小すると山口駅も見えてくるのですが、さすがに歩こうとは思わない、笑。
道路はしっかり通っていて、道からも近いので、車で行けばいともたやすいです。ご自身で運転なさらない方はタクシーになってしまいますので、こちらの寺院さまだけを目指して行くことはあまりオススメできませんが。ほかに何カ所もの訪問先がある場合はまとめてお願いできるので、高価なタクシー代金を出してもお得です。
参考文献:『山口県寺院沿革史』、『趣味の山口』、寺院さまご案内看板
臨海院(山口市黒川)について:まとめ & 感想
臨海院(山口市黒川)・まとめ
- 浄阿弥上人という人が、諸国行脚の途中、お告げをきいて石像を発見。そこに庵を結んだのが起源
- 念仏に専念し、霊験あらたかな寺院として参詣者も多かったので、大内義興の耳にも入った。そして、大内氏の祈願所として、御堂を建立。「太平山・平安寺」とされた
- 大内氏の滅亡後は廃れてしまったが、毛利家家臣・佐々木氏の菩提寺となって復興された
- その後、またしても衰頽。廃寺となった
- 現在の寺院は東京にある回向院の末寺だった同名寺院(臨海院)を引寺して再興されたものである
- 本尊は石像という
寺院さまのご案内看板にあることがすべてです。尊い石像を発見したゆえに草庵を結んで念仏に専念 ⇒ 霊験あらたかな寺院として大内氏の祈願寺「太平山・平安寺」に ⇒ 滅亡後は尼子家子孫の菩提寺に ⇒ なおも廃れて廃寺⇒ 東京の回向院末寺だった臨海院を引寺……。と、ここではたと気付いたのですが、そもそも臨海院ってどこにあったんでしょうか。ここだろう、って違いますから。元の臨海院のことです。わざわざ東京の回向院の末寺とあることから、東京にあったんだろうか、と思う時、あまりにも遠いですよね?
そうではなくて、県内(もしくは市内)にほかに臨海院という寺院があって、そこも浄土宗で回向院の末寺だったのを引寺したのだとしたら、近いのでありげですが、東京の寺院の末寺になっているとかありなの? とかややこしいことこの上なく、調べるのも馬鹿らしいのでやめました。だってこの、末寺制度とかいうもの、江戸時代に定められたらしいので、範囲外のことだから知らなくてかまわんもん。
もはや突き詰めていくと崩壊するので、適当に見切りを付けてそれ以上は放置する、というのも調べ物の原則だよ。はっきりわかることは、現在のこの寺院さまは、凌雲寺さまとは無関係、ということになろうかと思うのですが(だって、全然関係ない寺院さまが場所を改めて復活したみたいなことにならないかな?)、寺院さま公式のご案内に「関係ある」と書いてある以上、やはりゆかりの寺院であるということになるのかと。要するに名前を変えただけで、石像見付けた当初からずっとこの場所にあり、現在もあるということが貴重である、そういうことかな? 寺院の変遷は神社より百倍はややこしく、じゃあ神社はわかりやすいんだろう、って聞かれたらそんなことは 1 ミリもないのです。
完璧主義をめざして、とことん突き詰めないと気が済まない方には、あれこれ変遷した寺社の由来を紐解こうと頑張ることはオススメしません。マジで崩壊します……。入口の案内看板見て、ふーーん、そうなんだ! と思って素直に拝観できる方以外、寺社巡りは向きません。ゆかりの云々に振り回されるとくたくたになります。
この寺院さまはまさに、そのような寺院の典型かと思われます。あまり深く考えてはいけません。緑が多いことは精神的にもとても好ましいことであるといいますが、それと引換えに虫の問題は無視できません。蜘蛛の巣だらけで、ヘンテコな虫がぶら下がっていたりする奥にこそ、貴重なものが隠されていたりするのですが、今回は NG。ほかの場所で、地元のガイドさんが、拾った木の枝を手に、物の見事に蜘蛛の巣をかき分けて山道を進んでいったお姿を思い出しました。帰宅してから。
こんな方におすすめ
- 珍しい由緒が伝えられる寺院に惹かれる人
- 浄土宗の人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
ここって、結局のところ、ゆかりの寺院ってことでいいんだよな?
案内看板にも書かれていることを、どうして疑うのかな?
だって下手くそな「感想文」に違うみたいなことが書いてあるから。
あああ、ちょっとワヤクチャになってしまったゆえ。そもそも、末寺とか引寺とかいうことがよく分ってない。寺院は神社にもまして学習が進んでいないなと感じた次第です。