この記事を見てわかること
- 山王権現とは何か?
- 日吉神社と延暦寺の関係は?
- 「山王七社」って何?(中世編)
- そのほか中世日吉神社と天台宗のあれこれ
大内氏の活躍した時代は中世です。ですので、ここではあくまでも、「中世・大内氏の時代の」山王権現、日吉社のことを書いており、現代の日吉大社とは関係がないことをおことわりしておきます。
かなり難解だよ。わかりやすく書いたと本人は言っているけど、上手く通じるかなぁ。
山王信仰とは?
日吉神社、日枝社などに対する信仰のこと。総本社は日吉大社(滋賀県大津市坂本) です。全国各地に点在する日吉神社は皆、この日吉大社と関係があります。神仏習合の時代、日吉神社は比叡山延暦寺と結びついていました。そのため、天台宗にかかわる記述に頻繁に登場します。その時代には両者に祀られた神々を「山王権現」などと呼んでいました。
しかし、現在は神仏分離により、延暦寺と日吉神社は完全なる別々の寺社として存在しています。山王権現として信仰されていたものは、神仏が習合していた時代のものですので、現代は存在しません(日吉神社は神社ですので、仏さまや仏さまとの習合神ではなく、日本古来の神さまがおいでです)。今なお習合時代の面影を残すところもゼロではなく、山王祭が行なわれていたり(現在も、天台座主が読経を奉納しています)、山王神社と名乗る神社の総本社でもあったり、そもそも「山王信仰」という呼称が残っていることにも当時の名残が見られます。
ここでは、主に中世の話だけしますので、現代の日吉神社については、日吉大社さまの公式ホームページなどで確認してください。
日吉社の起源
元々は比叡山の土地神でした。つまり、我々が居所付近にある地元の神さまを氏神として敬っているのと同じく、比叡山付近の方々が信仰する一般の神社でした。ところが、その同じ山に、延暦寺という大寺院が建立されます。このことが日吉社の運命を変えました。
しかし、比叡山の土地神は『古事記』にも記述があるくらいですので、その歴史は延暦寺よりもずっと古いのです。
(前略)次に大山咋神。別名は山末之大主神。 この神は近江国の比叡山に鎮座していらっしゃる。 また葛野の松尾に鎮座され、 鏑矢を使う神である。
出典:『古事記』上つ巻・大国主神「大年神の系譜」
中村啓信. 新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) (Kindle の位置No.11037-11042). 角川学芸出版. Kindle 版.
ここに載っています、という以外、何も語れませんが。
なお、のちに、天智天皇が都を大津に遷された時、大山の三輪の神(=大己貴命の和魂=大物主命)を勧請しました。元々大山咋神がいらしたところに、新たに別の神さまをお連れしたわけですね。もとあった神社に合祀するという形がとられました。ここで、比叡山の神社には二つの「宮」ができました。
大比叡社(大宮) ⇒ 祭神:大物主命
小比叡社(二の宮) ⇒ 祭神:大山咋神
元々あったほうが、二の宮となってしまったんですね。何でやねん? と思いますが、神さまには「ランク」があり、これも致し方ないことです。先か後かということよりも、そちらが大事のようです。
のちに、延暦二十五年(806) 、伝教大師・最澄が延暦寺を開くことになりますが、その際、元々比叡山におられた二柱の神さま方を鎮守に定めます。この時も、大物主命を第一位(大比叡山王)、大山祇神を第二位(小比叡山王)としました。
以前、神社にも「神階」というランク付けがあるとお話しましたが、これらの神さまは、それぞれ正一位、従四位上とされたそうなので、その差は歴然としております。
大宮と二宮とは「両所明神」と呼ばれ古来より信仰の対象となっていました。また、二宮のほうが先に鎮座していたという事実も認識されていたようです。「大比叡神・小比叡神」「大比叡、小比叡両所明神」などと書かれた古い記録が残っています。いっぽう、『延喜式』に「日吉神社 一座 同 比叡神 」「日吉神社 名神大 (社)」の記述があり、この頃には、「日吉神社」という呼称が使われるようになっていた模様です。
「山王」という名前の由来
「山王」とは、「山の神」という意味です。いっぽうで、伝教大師・最澄が修行をした天台山(天台宗の聖地、中国浙江省にある)の地主神を「山王」といったことから、それに倣って「山王」したともいいます。第五世座主円珍の時には、「大小比叡山王三聖」と書かれていた記録が残っているため、少なくともこの時点ですでに「山王」という呼称が定着していたようです(参照:『中世神道史入門』)
じゃあ、「山王三聖」って何? ということですが、三聖は大小比叡神(大宮・二宮)に聖真子を加えたものを呼びます。なお、最澄が三輪の神を勧請したとする説があるようですが、これは否定されています(確か、天智天皇ですよね。まあ、それすらも、古すぎて確証はないのかも知れませんが)。ただ、山王と最澄を強く結びつける説(同上)が存在していたことが窺われます。結びつけるも何も、比叡山に延暦寺建立したの伝教大師じゃん? となりそうですが、あくまでも「山王」という呼称と最澄の結びつけについてのお話です。
『中世神道史入門』に、「平安時代この神社を山王社と称していた」とあるのですが、『延喜式』に日吉神社の名前が載ったのも、そもそも延暦寺ができたのも平安時代なので、区別がつかないではないか、ということになりますが。「比叡山延暦寺では近江国・日吉社を『山王社』とい ったのが始まりである」と書いてくださってあるので、先に日吉社ありきです。 なお、山王は山王権現と呼ばれていました。
延暦寺の繁栄と比叡山の神さま
平安時代はまさに密教全盛時代と言っても過言ではないでしょう。奈良時代のような鎮護国家云々よりも、現世利益を求めるために、加持祈祷が盛んに行なわれました。密教系寺院は引っ張りだこです。
天皇、皇族方の行幸(行啓)から一般庶民の参詣まで
初めてこの日吉神社に行幸されたのは、後三条天皇であったと伝えられています。その後も多くの天皇、皇后はじめ皇族方、大貴族から一般庶民まで、多くの人々の参詣が繰り返されました。これはひとえに、天皇・皇族方の天台宗信仰から始まったことですが、山王権現はもはや延暦寺と一体化しておりますので、寺院に対する信仰は=神社に対する信仰とも言えます。
多くの人々の信仰を集める中で、寺院の規模も大きくなり、日吉社もそれとともに拡大されます。よく「山王七社」と言われますが、七つもの社殿があったのです。ことに、神仏習合の考え方がより強くなった中世には、それら七つの神社に対する本地仏も決められ、ますます整備が進みました。
山王七社の賑わい
諸説ありますが、山王七社とその祭神は以下の通りです。
日吉山王七社(日吉山王権現)
大宮権現(=大比叡大明神) 祭神:大国主命の和魂 ⇒ 大和国三輪明神 (三輪大社・旧 社格は官幣大社の祭神で、平安朝期に勧請
二の宮権現 祭神:大山咋神(=小比叡大明神)
聖真子権現 祭神:八幡神もしくは田心比売命もしくは別雷神(=賀茂別雷神)
八王子権現 祭神:大山咋神の荒魂もしくは天照大神の五男三女の八王子(宗像三女神、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命)
客人権現 祭神:菊理比咩命(=白山比咩命)
十禅師権現 祭神:依姫命もしくは瓊瓊杵尊もしくは稲荷大明神
三の宮権現 祭神:玉依姫の荒魂もしくは(三の宮社が荒魂なら、十禅師社は和魂)もしくは宗像三女神
神さまひとこと説明文
大国主命:出雲大社の御祭神、出雲神話のメイン。須佐之男尊の御子(『日本書紀』)、同神の六世の孫(『古事記』)、七世の孫 (『日本書紀』の一書)など諸説あり。国内平定・国土経営・農耕・医薬。大己貴命と書かれることが多い。
別雷神:「大山咋神が丹塗矢となって瀬見の小川を流れ下り、建玉依比売命と婚姻」した結果生まれた神(『山城風土記』 逸文)
さらに、「山王二十一社」という言い方もございまして、その場合、上述の七社を「上七社」と呼び、ここに「中七社」「下七社」を加えます。
「中七社」
大行事社 大年神(大歳神とも。須佐之男神と御大市比売神の御子。穀神)
牛御子社 山末之大主神の荒魂。
新行事社 天知迦流美豆比売神(大年神の妻。十人の御子神を産み、第四子が大山咋神(山末之大主神))
下八王子社 八王子権現と同じ五男三女の八神。
早尾社 須佐之男神と猿田彦神。
王子社 鴨別雷神
聖女社 下照姫命(比売神とも。阿遅鉏高日子根神(迦毛大神)の妹神。大国主神と宗像三神・多紀理比売神の子)
「下七社」
小禅師社 玉依彦命(日本神話に見当たらず。 十禅師権現の玉依姫命と対になる男神と思われる)
大宮竈殿 奥津彦命と奥津姫命(大戸姫命とも。大山咋神の兄姉神、 三宝荒神とする場合も)
山末社 健角身命と宇志丸(日本神話には見られない神)
岩滝社 宗像三女神の次女の市杵島姫命と三女の湍津島姫(『古事記』では市杵島姫命が次女、『日本書紀』では三女とする)
剣宮 須佐之男神。
気比社 気比=気比神宮(祭神:伊奢沙別命、八幡神など七柱。伊奢沙別命は気比大神、御食津大神とも呼ばれる)
二十七社の本地仏
これについても諸説ありますが、いちおう以下のとおりです(院政期~中世)
「上七社」
大宮権現 釈迦如来
二の宮権現 薬師如来
聖真子権現 阿弥陀如来
八王子権現 千手観世音菩薩
客人権現 十一面観世音菩薩
十禅師権現 地蔵菩薩
三の宮権現 普賢菩薩
「中七社」
大行事社 毘沙門天
牛御子社 大威徳明王
新行事社 吉祥天女
下八王子社 虚空蔵菩薩
早尾社 不動明王
王子社 文殊菩薩
聖女社 如意輪觀音菩薩
「下七社」
小禅師社 弥勒菩薩
大宮竈殿 大日如来
二の宮殿 日光・月光菩薩
山末社 座利支天。
剣宮 不動明王
岩滝社 弁才天
気比社 聖観音菩薩
以上下七社
天台宗と真言宗
いずれも劣らぬ広い信仰を集める二大密教である天台宗と真言宗ですが、宗派が違うことからわかるように、似ている部分もあれば異なる部分もあります。これについては、古文研究の権威・小西甚一先生のご本に目から鱗の解説がありました(今手許にご本がないため、のちほど引用します)。
先生によれば、天台宗は少しく哲学的でして、その教義を学ぶことは、当時の殿上人たちに必須の教養でした。半面、真言宗は加持祈祷をお願いする宗派でした。むろん、天台宗でも加持祈祷を行ないますし、真言宗にもきちんとした教義が存在します。その意味では両者ともどもと思いますが、まったく同じなら別々の宗派を立てる必要はないですからね。
山門と寺門
天台宗はのちに、最澄の弟子たちの意見の相違から二派に分裂します。分出したそれが園城寺です。延暦寺を「山門」もしくは単に「山」。園城寺(三井寺)を「寺門」もしくは単に「寺」と区別した話は参考書レベルですね。なお、延暦寺と園城寺に藤原氏の氏寺・興福寺を加えた三寺院は、多くの僧兵を擁し、気に入らないことがあると神輿を振りかざして都に押し寄せ、自らの意見を通そうと強訴しました(延暦寺の日吉大社、興福寺の春日大社の神輿。園城寺にはないのかな?)。このことも参考書レベルですが、真言宗のことは書いていませんよね。彼らは強訴なんでしなかったんでしょうか。
天台座主
天台宗の最高位・天台座主の地位につけるのは、いつの時代からか、元々やんごとなき方々でなければならなくなっていきました。昔は貴族や高位の武家などが仏門に入ることは普通でしたが、それにしても、ゼロから必死で修行しても最高位に就けない人は就けない。やんごとなき方々(その方たちがきちんと修行してないとは言っていません)は、順当にランクアップしていく、この辺りでものすごい世俗化を感じます。かのクジ引き将軍・足利義教も元は天台座主だったんですから。
好むと好まざると二かかわらず、国家権力と強く結びつくことによって、天台宗はその地位を確立しました。そして、天台宗と結びついた日吉神社もまた、同じく非常に強い力をもつことになったのです。
山王一実神道
神仏習合の時代、仏教の教義なのに、神道にまで進出したような考え方が説かれました。教義までもが習合してしまったんですね。
天台宗 山王一実神道
真言宗 両部神道
なんだかんだ言って、仏が上、神さまは下に見られていました。次第にそれに反発した考え方が出てきますが。仏さまの最高位は当然お釈迦さまです。山王権現の本地仏をご覧ください。大宮権現の本地仏は「釈迦」です。畏れ多くもお釈迦さまがそのお姿を借りて現われた。ゆえに、日吉大社の神は最も尊いのである、そんな感じでしょうか。
神仏習合じたいが難解な上、その教義ともなれば、凡人に理解しようとするのが所詮無理な相談です。参考書にも名前しか出て来ないので、中身については深入りする必要はないでしょう。
その他雑学
山王鳥居
そんなことを考えながら、『神さま事典』の類をめくっていましたら、真言宗は稲荷信仰と手を結んだと書いてありました。だから、稲荷神社の神輿を担いで強訴したなんて話は聞いたことないですが(知らないだけだったらすみません)。なにゆえ、稲荷信仰の話が出てきたかと言えば、お稲荷さんの鳥居って真っ赤じゃないですか。もう、それを見ただけで、何も書いていなくても、あ、稲荷大明神だ、と分りますよね。狐の置物などもあったりしますし。
『日本の神さま読み解き事典』には、山王社の鳥居が、稲荷大明神のそれと同じく真っ赤である、という興味深いことが書かれていました。『図説歴史散歩事典』で調べて見ましたが、鳥居には神明鳥居と明神鳥居と変形鳥居がある、山王鳥居は変形鳥居に分類される、程度のことしか解説がありませんでした(分りやすい図が載っているので、解説文は不要なのです)。明神鳥居は鳥居の上の横木が笠木と島木の二本からなっており、笠木の両端が反っていることが特徴です。全国の神社のほとんどが明神鳥居ですので、残念ながら今のところ神明鳥居にお目にかかったことがありません。
で、山王鳥居ですが、その特徴(どこが普通の明神鳥居と異なるのか)は、鳥居の上に「合掌形」というものが載っかっていることです。これについては、日吉大社さまのホームページをご覧くだされば、一目瞭然です。
しかし、現在ある日吉神社で、この鳥居になっているところは見たことがないです(少なくとも山口県内ですでに参詣済みのところでは)。興隆寺付近にある「三王社跡地」に立っているレプリカの鳥居。これが真っ赤でしたので、おおっと思いましたが、どうみてもこれは、外宮鳥居を赤くしただけみたい。合掌形は載ってないですし。やや失望。
興隆寺山王社跡地の鳥居(復元)
あるいは、合掌形をつけていいのは、本社だけなんですかね。
十禅師は人気者
上、中、下と合計二十七所もある山王権現の神さまたち。たいていの方は差別なく、満遍なくお参りなさっておられるのでしょうが、何しろ数が多すぎです。すべての賽銭箱に……いえ、やはりこれだけの神さまがおられると、すべてを覚えるのも困難です。
たいていは大宮と二宮くらいで、ほかはわからない(よほど信心深い方は別ですが)というのが現状だったのではないでしょうか。それぞれの神さまによって、ご利益なども違いますので、信仰している方々の数だけ人気の神さまがおられたのではないかと想像します。
アイドルか何かではないのだから、神さまに人気不人気とか無礼すぎる? そうかもしれません。でも、本に書いてあったので、いちおう書き付けておきます。
大宮・二宮とともに広く信仰されていたのは「十禅師」だったそうです。理由は不明です(書いている人が知らないだけです)。
神さまがたのお姿
元より、神さまというのは目に見えない存在です。しかし、仏像というものを作り祀る仏教の影響を受けることによって、神さまたちも像が作られたり、絵に描かれたりするようになりました。山王社に関係する神さま方についても、以下のようなイメージが流布していたようです(数が多すぎるゆえにか、これ以外については不明です)。
大宮※、八王子 ⇒ 俗形
二宮、聖真子、十禅師※ ⇒ 僧形
客人、三の宮⇒ 女形
※大宮は僧形、十禅師は童子とする説もある。
山王の神使は「猿」
いずこの神社にも「神使」が存在しますが、日吉神社のそれは「猿」です。『平家物語』で日吉神社の神輿が強訴したことに対して、朝廷が遅々として対応しなかったばかりか、神輿に向かって矢を放つなどという非礼を働いたあと、内裏に火事が起こって焼けてしまいます(巻一『内裏炎上』)
その時、人々は比叡山から二三千もの猿たちが手に手に松明を持って下りてきたのを夢に見たとか。
世の中から戦乱が絶え、平和な日々が続いて久しい現代、神さまを怒らせるような輩もいなくなりました。現在も、日吉大社の神使はお猿さん(神猿)であることはかわりません。
まとめ
究極これだけ知っておけば……。
要暗記
山王信仰とは、日吉大社を総本社とする全国の日吉神社に対する信仰のこと。神仏習合の時代、日吉神社は比叡山・延暦寺と結びついていたが、現在両寺社は完全に分かたれている。
※神仏習合の時代の〇〇権現などの名称は、現在は使われていません。現在のお姿については、神社さまの公式ホームページをごらんください。しかし「山王七社」などの呼び名は残っており、山王祭に際しては天台座主が読経を奉納するなど、習合時代を偲ぶこともできます。そもそも、「日吉信仰」ではなく、「山王信仰」となっているところからして。
参照文献:『中世神道入門』、『日本の神さま事典』、『日本の神様読み解き事典』
『平家物語』で見た〇〇権現と、現在の各宮とはお名前が変っているので、全く変っちゃったかとおもったけど、よくみると、お祀りされている神さまも変ってはいないね。
お前らの知識って、なにゆえにいつも『平家物語』から来ているのだ?
うるさいな。それ以上は本がないんだよ。お前だって浪々の身。本を買うお金なんかないだろ? ミルの場合は家が狭すぎて、本はある程度増えたら断捨離になるから、そもそも買うのをやめたんだよ。お金もないしね。
廿日市の先生がさ、そもそも南都六宗ってどうなったの? って。今も謎でならないんだけど、琳聖太子来朝の頃、天台宗はまだなかったでしょ? 興隆寺って宗派なんだったの!? そもそも古い寺院ってほかにもあるわけで。
改宗されただけだろ。悩むことなんかないじゃないか。俺の頭まで割れるから黙っててくれよ。
……。