勝山城跡(広島県廿日市市宮島町)とは?
勝山城跡とは、大内義興が厳島の島内に建立した館跡地をいいます。義興はこの館内で、安芸国での戦闘を指揮・監督していたと考えられています。実際には、付近の門山城などから出撃したので、ここは文字通りの「仮館」であり、厳島神社への参詣などを行なう際にも、この場所に逗留したのでしょう。
何一つ遺構がない上、詳細な記録もなく、実態は謎に包まれています。しかし、義興期の安芸国での戦闘について記した文書にはこの館と思しき記述がたびたび現われるため、何らかの建築物があったことだけは確かです。
「跡地」には石碑が立っており、ちょうど多宝塔の向かい側にあります。
勝山城・基本情報
名称 勝山城
別名 大内氏勝山館、厳島城
形態 不明(城砦というより、居館と思われる)
立地 丘陵先端
標高(比高) 不明
面積 不明
築城・着工開始 大永四年(1524)
廃城年 不明
築城者 大内氏
廃城主 不明
遺構 なし
指定文化財 なし
勝山城・歴史
足利義稙の将軍復職を助けるために上洛した義興は十年にわたり在京を続け、その間に分国は風雲急を告げる事態となってしまっていた。厳島神領をめぐる争いもその一つ。
厳島神主の座を狙う友田興藤と、彼を支持する安芸武田氏、背後に連なる尼子氏との戦いは、義興の死後も続く。神主家の問題は、子・義隆の代にいちおうの決着を見るが、尼子氏との戦いは終わりが見えず、大敗北のうちに、大内家自身の滅亡をも招いたのであった。
大内氏は宮島からほど近い、大野門山に城を築いていたが、のちに、渡海して勝山の地に仮の館をつくり本営とした。大永四年(1524)のこととされる。義興は勝山を本営として、付近の諸城・砦で戦う将兵たちを叱咤激励して回ったという。
「仮の館」と記されていること、厳島渡海は参詣の意味もあることなどから、山城というよりは文字通りの「館」= 居住施設的なものだったのではないかと推測する。しかし、遺構が何一つないため、研究者の先生方による公式見解もないようだ。
『棚守房顕覚書』で大内氏と厳島神主家との争いを記した部分「申歳(大永四)」のところに以下のような記述がある。
大内義興ハ、當島勝山ノ二重二屋形ヲ立テ在島ナサル、日々櫻尾ニ渡海ナサレ勤ヲ御覧ズル
これがまさに、義興が「勝山」に館を建てたこと、厳島に在島したこと、神主家との合戦についてここから指揮監督したことなどのひとつの証左となる。
ところで、「勝山ノ二重」に館を建てた、ってことで、この勝山の「二重」って何だろう? と思うけれど、ここは自治体発行の『覚書』を校閲した先生も「意味不明箇所」としてマークなさっておられる部分なので、残念ながら何のことなのかわからないのである。とても重要な情報の気がするのに。
さらに、義興は嫡子の義隆を伴って渡海、在島し「年越し」したことがわかる。「年越し」は一大イベントだから、その準備のためか、陶興房の家臣らが十二月のうちに渡海。興房自身も元旦に渡海。大慌てで作られたそれこそ「仮の」宿所にてこれらの「年越し」イベントを指揮監督したらしきことがわかる。
サル程ニ酉ノ 歳(大永五)ノ越年ハ義興御父子當島二テアリ、然レバ陶ノ内野上右馬助ハ防州ノ守護タル故、 十二月廿八日ヨリ渡海アリ、同深野文祝、河内山圖書力行ナドト云フ者、棚守宿所へ越ス、元日ノ大番興房ノ宿コシ ラヘドモス、明ル元日尾張守岩戸陣ヨリ渡海アリ、ソノ外銘々各々出頭ナリ、
(同じ『渡海』だけど、最初の野上さんは山口へ帰った。ほかの人たちは厳島へやって来た。ややこしい。いずれにしても、山口で留守中のことを任された人以外は、全員が当主のもとに馳せ参じて正月の挨拶をしただろう、ってことです)。
義興は棚守に、先代までの歴代当主らが厳島神社に参詣した時の「目録」を提出させており、それらを確認した上で、自らも先例にならって厳島に社参する。昔の人は、こういう「先例」を大切にするから、寄進する品々のグレードとか、式次第とか、きちんと確認したかったのであろう。そもそも、京都でもやたらに「有職故実」を学んでいたお方なので、厳島神社参詣に際しても、先代までの歴代「先例」を知っておくことにこだわりがあったかも知れない。
かくして、厳かな参詣行事と大量の寄進が行なわれた。義興父子はなおも厳島に在島したらしく、二月に陶興房が主親子を「饗宴」している。
サル程ニ二月十日、屋形ヲ陶尾張守岩戸ヨリ渡海アリテ(御饗宴ナド)御申スナリ、種々様々ノ御馳走アリ、サリナガラ山口ニテノ物マネナリトノ事ナリ、棚守宿所ニテノ事ナリ、
こんな感じで、チラと見ただけでも、義興が厳島に仮の館を造り(どこにも『仮の』とは書いてないけれど、当たり前ながら館は山口にあるので、それ以外は『仮』となる)、在島して年越ししたり、厳島神社に参詣したり、忠義の重臣による心尽くしの宴に出席したりなどあれこれの活動を行なうにあたり、その間の住まいはずっとこの「仮の館」であったことがわかるのである。
なお、のちに、厳島合戦の時、陶晴賢は最初、この地に本陣を置いたという。「厳島城」なる別名は『日本の城辞典』で初めて知ったが、「城」的なイメージは合戦の本陣とされたことから出てきたものだろう。なお、同書には「厳島神社を威圧し内海商業を掌握する居館」とのコメントが載っていたが、この内容も陶時代の香りがする(こっちの表記は『居館』だけどね)。
勝山城跡・みどころ
多宝塔
じつは、ほとんどの人は多宝塔を見るためにここへ来ている。城跡マニア的にも、遺構が何一つないとなると、目当ては単に「石碑」一つだから、特に築城者自身に個人的好感を抱いていないのなら、スルーされてしまいそうな「城跡」である。
なお『宮島本』によれば、多宝塔の建立は大永三年(1523)とのことなので、仮の館より先である。
多宝塔について詳しくはコチラをごらんくださいませ。⇒ 関連記事:多宝塔(『厳島神社○○』となっている建築物)
勝山城跡碑
かつてここに城があった、ということを、現代の我々に伝える「目に見えるモノ」は唯一これだけ。
「仮の館」跡からの展望
「石碑」があった丘から眺めた眼下の風景。丘陵に建っていたことは確かで、展望はとてもよい。しかし、おそらくは、五百年前はこの辺りはすべて海だったと考えられる。上は大鳥居工事中。下は工事完了後。やっぱり鳥居のあるなしではまるで違う。
多宝塔のある丘はいわゆる「塔の岡」とは違う。塔の岡は五重塔がたっているので「塔の岡」と呼ばれていて、厳島合戦の舞台となったところ。こちらは塔は塔でも多宝塔であり、厳島合戦での大内(陶)軍本陣は最初は、ここに置かれたそうだが、そのあと、塔の岡に移ったので、ここは合戦とはほとんど関係ない。⇒ 関連記事:塔の岡
勝山城跡(広島県廿日市宮島町)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 廿日市市宮島町厳島神社多宝塔そば
最寄り駅 廿日市市宮島口からフェリー
アクセス
厳島神社の裏手にある。神社を見学した後、出口から宝物館のある坂道を多宝塔を探しつつ、登っていく。塔はすぐに見つかるが、城跡碑はみつけにくい。足場が悪い場所もあるので注意してください。
※詳しくは「あなたはもう、絶対に迷わない!」をご覧くださいませ。
参照文献:『大内氏実録』、『棚守房顕覚書』、『宮島本』、『日本の城辞典』
勝山城跡(広島県廿日市市宮島町)ついて:まとめ & 感想
勝山城跡(宮島)・まとめ
- 大内義興が宮島に築いた仮の館
- 義興はこの館に逗留して、厳島神主家・安芸武田氏と合戦中の将兵を指揮監督、もしくは叱咤激励して回った
- 義興、その息子・義隆父子の厳島在島中は、この館に住まいし、ここで年を越したり、神社参詣したりした
- 館跡には今は何の痕跡もなく、単に「ここにありました」という石碑が立つのみ
- いつ頃、誰によって廃されたのか、往時はどれほどの規模だったのか、など一切不明
勝山城跡と呼ばれているため、城跡なのかと思いますが、どうやら完全なる「館跡」というのが正しいように見受けられます。厳島は大内氏の支配下にありましたし、社参のことなどもあり、ここに仮のお館を造れば、何かと役に立ったでしょう。山口の大内氏館跡なども、「城跡」解説本などで紹介されているくらいなので、「城跡」ってあるんだから、「館」であろうはずがない、ってことはないです。
逆に言うと、山城跡ならばよほど意図的に破却したのではない限り、何かしらの遺構があるはずですが(専門家的根拠なし)、何一つないのは、単なる館だったために、城砦設備のようなものがなかったからではないでしょうか。その意味では、発掘調査などが行なわれた場合、かわらけの類が大量に出土したりしそうな予感がします。現在の多宝塔がある丘は面積も狭く、平地に広大なお館を建てるとしたら敷地がまったく足りません。「仮」とはいえども、大内氏のお館である以上、ボロアパートレベルの面積のはずはないですから、いったいどこに建っていたんだろうかと、「城跡碑」がある場所を眺めていても、まるで想像がつきません。
近現代を待つまでもなく、近世に入ると商業が発達し、庶民のパワーも強くなっていきます。厳島参詣も平氏一門や上皇さま、なんとかの大臣、有力大名家の当主などの専売特許ではなくなります。開発が進んだ島の景観が変っていったのは、この頃からでしょう。そうなると、かつての多宝塔がある丘の様相も、「昔はここは海でした」とびっくりする場所が多々あるのと同様、今とはまったく違っていたのかも知れません。
こんな方におすすめ
- 大内氏ゆかりの地を回っています。単なる「跡地」でも行きたいです。
- 城跡マニアです。「城跡碑」しかなくても行きます。
オススメ度
「城跡」としては石碑以外何一つないです。多宝塔の分+1です。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
おそらくは雅なお館だったのではないかと思うの。
俺の父上も「仮の宿泊所」とか作って、仮の館滞在中の先代さまをおもてなしするために腕を振るったんだよ
付記:あなたはもう、絶対に迷わない!
※多宝塔への行き方は色々で、地図(五重塔へ上がる道にある案内看板をお借りしています)には三本の道が書いてあります。現在使っているのは主に ① のルートです。単純に厳島神社から一番近い入り口で、わかりやすいからです。ほかの行き方についても順次お知らせします。
多宝塔へのルート ①step
1厳島神社宝物殿の脇から上に登っていきます
厳島神社宝物殿。右上に多宝塔が見えています(工事中だけど)。ここへ向かえばいいわけなので、迷う人もいなそうなのですが、行きたい場所にどうやって行くのか(見えていても)意外と分りづらいのが宮島。
観光写真としては恥ずかし過ぎるけど、道案内のために敢えて撮影。向かって右に宝物殿の端っこが見えています。つまり宝物殿左側の道を行きます。
step
2ひたすら真っ直ぐ行って右手に上がる道が見えたら登る
この階段が、最初に出逢う右手に上がる道です。上がると駐車場になっています。じつはここからでなくとももう少し歩くと同じ道に出るのですが、どうしても方向音痴の人はここからどうぞ。
こんな感じの道が続いているので、道なりに上がっていきます。
step
3この石碑のところでさらに右手に向かう
ここが分かれ道。ひたすら右なので、左には行かないように(左に行くと大聖院に出ます)。
あとは道なりに行くだけで、多宝塔に着きます。こ~んな道が続きます。
けれども、問題は、多宝塔に着いてからだったりします。
あれれ? 城跡石碑はどこだっけ?
目の前にあるのに、なんで気づかないかな?
何度来てもそうなってしまい、Googlemap 様、あなただけが頼りです! がまったく使い物にならないのが、この城跡だ。ナビゲーションが「目的地に到着しました!」と宣い、地図で現在地を確認しても、たしかに「到着している」。しかし、「城跡碑」などそこにはないのである(ちゃんとあるけれど、見付けられていない)。
そもそも、多宝塔じたいが地味にわかりにくかったりするが、こちらは知らない人はいないし、Googlemap 様も導いてくださるので問題はない。目的地に着けば、これほど大きな建築物に気付かない人はおられないだろう。けれども。城跡碑は小さく、またどでかい説明看板を立てるとか、順路矢印を置くとかして、その存在をアピールするということを、まったくしていない。やんごとないお方は奥ゆかしく、ひっそりと佇んでおられる。ゆえに、「見付けにくい」のである。
多宝塔が建っている岡(?)が狭苦しいこともいけない。およそこんなところに城跡などあろうはずが……と感じてしまうので、つい現在立ち入り禁止になっているロープの上なんかに隠れているのでは? と思ってしまう。でも、城跡(石碑のみだが)はそのような「危険個所」にはないので、絶対に入って行かないでください。
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4多宝塔に背を向けて立つ
すると、多宝塔と向かい合ってこのような東屋が建っているのがわかります。
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5東屋の右後方にある
このように、チラとしか見えないため、見落としてしまう。見ての通り石碑の後ろにも立ち入り禁止ロープが見えている。石碑までは問題なく歩けるけど、いずれにしてもここら付近一帯の足場が悪いというわけだから、注意したほうがいい。
左側に上の東屋の屋根がチラ見えていますね。
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6石碑を信じて展望を確認
本文中の展望写真と大差ないが、石碑が立っているその場所から見た景色。そもそも、石碑は東屋の隣にあったっていいし、いっそ多宝塔の前に置いてしまってもいいような気がする。このわかりにくい場所に立っている正当な理由がきっとあるはずと思うが、わからなかった。少なくとも、大内氏の仮館が上の東屋サイズのわけがないので、立ち入り禁止区域を含めて背後の山全体がそうだったんだろうか? いつ誰によって壊されたのかも不明というから、すべてが謎である。
上とまったく同じ場所からみた春景色。ついに工事完了した大鳥居の姿が見える。これこそがあるべき姿。四年も待たされたよ。感無量。
多宝塔へのルート ②① 同様、宝物館の脇の道を行きますが、コチラは宝物館に向かって右手の方角となります。
緑の矢印で表わしている登り口がそれです。なんだ、上の行き方よりずっとわかりやすいではないか、と思われた方は多いかと。まさにその通りです。ですけれど、下の写真をごらんくださいませ。
この急な階段を上っていくことにぞっとしない方でしたら、確かにこの道が最短距離とはなります。今回、どうせ未だに工事中の多宝塔の岡には珍しく上りませんでしたので、この上がどうなっているのかは未調査となります。確認がとれしだい、お知らせします。① のルートにも階段はありますが、わずかです。ほぼすべての行程がなだらかなスロープです。階段と平坦な道とどちらを選ぶかはお好み次第となります。ちなみに、この階段を上っていく道は「あせび歩道」となります。
かくもわかりやすい近道があるにもかかわらず、けっこう見落として、「見えているのに行き方がわからない!?」となりかねないのが多宝塔です。確かに、建物に挟まれて見付けづらい登り口であることは事実です。また、この「あせび歩道・多宝塔」という矢印看板が、階段の真下まで行かないと見えないことも災いしています。
階段があれば、なにかしら上にあるはずなので上がってみよう、という方でなければ通り過ぎてしまう可能性は大いにあります。
2023 最新情報・多宝塔は修理中!?
宮島の大鳥居の修理が遂に完了! やっと念願叶ってすべてを満喫できる、と思いきや、ナニコレ? 一瞬、さっきまで見えてた五重塔が魔法みたいに隠れたかと思ってしまったのですが、多宝塔でした……。今回はライトアップまで楽しんだというのに、多宝塔が見れないなんて……。
近付いてみると、このようなお姿に……。多宝塔は多宝塔であって、勝山の御館ではないわけですが、なんとなく悲しかりけり。いったいいつになったら、宮島が完全に修理箇所ゼロとなる日がくるのでしょうか。
しかし、今回の訪問では、勝山城跡碑のところから、大鳥居を見ることができ、かつての凌雲寺さまもご覧になったであろうその麗しい姿をミルたちもようやっと眺めることができました。この感激は忘れられないものとなるでしょう。
20230319 「あなたはもう、絶対に迷わない!」に多宝塔へ行くまでの道も追加。そのほか、いくつかの写真を最新のものと入れ替えました。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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