山口県山口市古熊の善生寺とは?
もとは大内氏の重臣・内藤興盛の菩提寺があった場所です。その当時は西方寺(西法寺とも)といいました。のちに、毛利輝元夫人(側室)児玉氏の菩提寺が移ってきたため、周慶寺となりました。ところが、周慶寺は明治時代に廃寺となってしまい、その跡地に移ってきたのが、現在の善生寺です。
「善生寺庭園」が名勝に指定されていることで有名な寺院です。雪舟が造園したという伝承がありますが、確証はありません。なお、庭園は発掘調査によって整備されたものとなります。
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善生寺・基本情報
住所 〒753-0031 山口市古熊3丁目7−1
寺号・山号・本尊 導衆山・善生寺・阿彌陀如来
宗派 浄土宗
善生寺・歴史
善生寺庭園が有名で、「名勝」指定されている寺院。庭園は発掘調査によって整備されたもので、14世紀末頃につくられたものであることが分かっている。しかし、雪舟が造ったという確証はなく、あくまで伝承地という扱いとなる。ゆえに、説明看板にも「伝」雪舟作と書かれている。
善生寺の境内は元は大内氏重臣・内藤興盛の菩提寺・西方寺があった場所。江戸時代、そこに周慶寺が移築されたが、明治時代に廃寺となり、その跡地に移ってきたのが現在の善生寺である。
三つもの寺院が関係し、ややこしい変遷を経て現在に至っている。説明看板が見付けられなかったので、『趣味の山口』と『山口県寺院沿革史』 というご本で調べたところによると、およそつぎのような感じ。
最初にこの場所にあったのは、西方寺(西法寺と書くこともあった)という寺院であった。西方寺は、古熊飯ノ山麓にあった浄土宗寺院で、開山は盛譽上人。内藤興盛の菩提寺として知られる。創建は弘長元年(1261)とされているけれども、その由来は寺院を建立した時、土の中からでてきた金鼓による。そこに「弘長元年」とあったためだが、伝説の類で実際の創建年ではないと考えられている。大内家の家臣・内藤興盛が念仏堂を建てたり、土地の寄進をしたりした。天文二十二年、興盛が亡くなると、この寺に葬り、西法寺殿前野州太守法誉智覚大禅定門と法名した。
慶長九年(1604)閏八月朔日、毛利輝元の側室・兒玉氏が亡くなり、西方寺に葬られた。法名を快楽院周慶大姉という。同じ年、その菩提を弔うため、萩に周慶寺が建てられた。寛文四年(1664)、周慶寺は毛利秀就の室・德川氏の菩提寺となり、寺号は廃された。そこで、西方寺を真如山周慶寺と名を改めた。これ以後、飯ノ山は周慶寺山、門前の橋は周慶寺橋と呼ばれるようになったという。後山には内藤興盛の墓、その上手に兒玉氏、毛利元康室・吉見氏の墓があった(明治時代に廃寺となると、兒玉氏の墓は香山墓所に改葬された)。
つまり、毛利輝元の奥方は、西方寺に葬られたけれど、ほかに萩の地にも周慶寺という菩提寺があった。ところが、萩の周慶寺が寺号を廃止されて毛利秀就奥方の菩提寺となったため、周慶寺という名前を西方寺に持って来た。ゆえに、西方寺は周慶寺と名前を変えた。寺院の名前は変ったけれど、内藤興盛の墓と輝元夫人の墓は同じ場所に残った。ところが、この周慶寺が明治時代に廃寺となってしまった。その跡地に、現在の善生寺が移転してきたのである。
では、移って来た善生寺はどんな寺院であったのか?
元々は山口松木町の後面にあって、西久寺といった。創建時期は不明。天正年間、明僧・雲山活空が来住した。明・万歴三年、仁順王后が亡くなった時、その冥福のため、純金九品曼陀羅一幅、弥勒絵図一幅、地蔵三尊一幅が贈られたので、曼陀羅寺と寺号を改めた。慶長年間、賜紫声誉の時、今市に移った。のちに善生寺と寺号が変ったが、その年代ははっきりしない。
檀林であったことから、総本山・知恩院から幕府に願い出があり、一国一寺の禄所として、周防国智恩院派八十八ヶ寺のトップとなったというから、かなりの格式ある寺院だったのだろう。「住持出世の時は綸旨女房奉書を賜はった」とある。
天保十三年七月十三日の火災により、開山・声誉上人が建立して以来の記録はすべて失われ、その後堂宇が再建されることもなかった。明治時代となり、古熊の周慶寺が廃寺となったため、明治三年(1870)、その跡地に移った。
というようなことで、この地にはかつて、西方寺、周慶寺という寺院が存在したことがあり、現在の善生寺はそれらの寺院の歴史をも引き継いでいるのである。周慶寺にあった後陽成天皇の宸筆、内藤興盛の画像が今に伝わる。庭園も、室町時代の作だということは明らかになっているから、周慶寺や善生寺ではなく、西方寺の時代に造園されたものだろう。
『山口県寺院沿革史』には、常栄寺の庭園を表庭、善生寺の庭園を裏庭として築庭したと伝えられているとあるから、常栄寺(つまり当時は妙喜寺)とこちらとで、同じような時期に建てられたものなのだろう。
善生寺・みどころ
当然、伝雪舟庭園となる。
伝・雪舟庭園
「池泉観賞式庭園」と説明看板にある。これが雪舟庭園として伝えられている出所は、江戸時代の『風土注進案』らしく、「後庭の泉石は西方寺の余波で、雪舟が作った」と書かれているそうだ。つまり江戸時代すでに、なごりの石くらいしかなくなっていたということにもなる。発掘調査の結果、当時の「池泉」は現在の二倍の広さだったことがわかっている。
なんで看板の写真しかないか、って? それはお庭を見ていないからです。
入り口わからなくて迷子になった、ってやつね。コソコソしないで、お寺の人に聞いてみればよかったのに。
でもさ、常栄寺もメンテナンスで水抜かれたじゃん? この時は本当に戸が閉まってたんだよ。きっと何か特別なことをやっていたんだと思ふ。
ガイドさんのお話だと、いつでも誰でも見られるようになっていると。戸を開けて声をかければ入れたはずだ。ミルがトロいから、せっかくの機会をムダにした。またしても看板だけで帰ったんだ!
山門
本堂
堂々としていて立派です。「導衆山」の額がかかっています。
石段
とてつもなく長い石段が見えておりますが、車で行くと、ここはスルーできてしまったりします(車道がそうなっているということは、当然その道を使えば徒歩でも石段はパスできますよね、多分)。
善生寺(山口市古熊)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒753-0031 山口市古熊3丁目7−1
アクセス
最寄り駅は「上山口駅」で、徒歩 5 分という公式アナウンスです。初回、山口駅から観光タクシーを使って参詣したため、歩き方については次回ご報告いたします。
参照文献:『趣味の山口』、『山口県寺院沿革史』
善生寺(山口市古熊)について:まとめ & 感想
善生寺(山口市古熊)・まとめ
- 最初この場所には、大内氏重臣だった内藤興盛の菩提寺・西方寺(西法寺とも)があった
- 毛利輝元夫人・児玉氏(側室)が亡くなった後、その菩提寺となり、寺号が周慶寺となる
- 明治時代、寺院は廃寺となったが、その跡地に現在の善生寺が移転してきた
- 発掘調査の結果、室町時代に造園されたと考えられる庭園が再現されており、名勝に指定されている
- 庭園は雪舟作とも伝わるが、確証はないため、伝承地の扱いになっている
庭園で有名な寺院さまに参詣し、庭園を見ることができずに帰宅するという間抜けなことになってしまっております。けれども、参詣はきちんとできたので、庭園は次回に……と思いつつ、その後何度も訪問しながら、善生寺さまだけは再訪できておりません、涙。
常栄寺さまのように、拝観料がかかるわけではないかわりに、受付窓口のような場所がないため、どこから入るのかお伺いすることができずに帰宅しました。後からガイドさんにお伺いしたところ、いつでもだれでも入れるというお話でしたので、単に入口が見つけられなかっただけか、あるいは、常栄寺さまご参詣時同様、メンテナンス中で閉めておられた可能性もあります(常栄寺さまはメンテナンス中で、水が抜かれていましたが、見学は可能でした)。
いずれにしても、見る目がないためか、「庭園」には縁がなく、メンテナンス中にご訪問してしまったり、入口がわからず見れなかったりと不運続きです。次回再訪してからきちんと記事もメンテナンスしたいと思います。
こんな方におすすめ
- 雪舟庭園に関心がある方(たとえ『伝承地』でも)
- 綺麗な庭園のある寺院さまを好む方
オススメ度
※庭園を見ることができていない状態です
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
俺はミルみたくトロくないから、つぎはガイドさんと一緒に電車で行くよ。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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