右田という地名は、現在も防府市にあります。けれども、その地を名字の地とした一族について知る人はあまり多くないかも知れません。全国レベルで見た場合、本家本元である大内氏は聞いたことがあったとしても、その分家となると、地元の方々や、研究者の方々でもない限り、ご存じの方はずっと少なくなるかと思われます。
しかしです。受験参考書に「大内氏滅亡」と並んで必ず出てくる、最後の当主・義隆とその家臣・陶晴賢の組み合わせのおかげで、右田家のさらに分家である「陶」については聞いたことがある方がぐっと増えます。受験科目に日本史を選択した受験生以外は知らなくともいい知識となりますが。「陶」をご存じの方も、聞いたこともないという方も、せっかくですから、その本家筋「右田家」についても心の片隅に置いてあげてください。
右田氏概略
右田 ⇒ 陶 ⇒ 宇野
大内氏第十五代当主・貞成の次男・盛長から分かれ出た一族が右田氏です。所領・周防国佐波郡右田村が名字の地となりました。盛長の玄孫・重俊の代、弘賢が分出します。陶村を領地としたため「陶」と名乗りました。
重俊から六代のち、貞安と弘篤の兄弟がいましたが、ともに戦死してしまいます。貞安には男児がいましたが、弘篤にはまだ跡継がいませんでした。そこで、先に分出した陶家から、次男坊だった弘房を迎え入れます。ここがいつも腑に落ちないところなのです。系図上、貞安が兄で、弘篤が弟に見えます。兄ではなく、弟が相続する例もありますので、そこはよいとします。二人とも戦死しておられるので、弘篤の相続は兄が亡くなったからかも知れませんし。しかし、貞安には子息がいたようです。彼らはすべて早世してしまったのでしょうか。分家の陶家から次男坊を連れてくる意味が分からないのです。系図には何の説明もないですからね(貞安の問題は後述します)。
弘房が右田家を継いだまではよかったのですが、今度は、その実家・陶家の主となっていた嫡男の弘正が戦死してしまいます。こうなると、今度は陶の家を継ぐ人がいない、という騒ぎとなります。元々右田家の分家なのだから、元の鞘に収まるということでいいではないか。というわけにもいきません。分出して久しいので、すでに、陶家の歴史も紡がれております。
弘房は陶家に戻ります。だったら、右田の家が空になるではないか。ということで、あらかじめ、次男の弘詮を右田家に残します。そのまま右田弘詮として存続していったというなら、話はここで終わりです。けれども、弘詮の実家である陶家には、次々と悲劇が起こります。
まずは、弘詮の父でもある弘房が応仁の乱で戦死してしまいます。その後は嫡男・弘護が継ぎます。弘詮の実の兄にあたります。ここまでは順当でした。弘護と弘詮の兄弟は、姓は変っても互いに力を合わせて当主・政弘を支えて活躍します。特に、弘護は応仁の乱で主不在の分国を守った英雄として、政弘からの覚えもめでたく、若い二人の兄弟は大内本家になくてはならない存在となりました。
ところが、弘護と婚姻関係にあった石見の益田家と境目論争が絶えない、吉見家の当主・信頼によって、弘護が謀殺されてしまいます。まだ二十代後半という若さでした。遺児たちはまだ幼く、弘詮は叔父として、彼らを後見します。この時、弘詮は右田の姓から、陶姓に戻ります。「暫時」のはずでしたが、やはり自らの本姓に愛着があったゆえにか、その後も右田姓に戻った形跡はありません。なぜなら、弘詮の子・隆康も同じく陶姓を名乗り、その子・隆弘もまたしかりだったのです。
『萩藩諸家系図』の解説によれば、弘詮が陶姓を名乗ったのは、弘護の遺児が幼いことを理由に、「陶の所領を召し上げる旨の教書」が下されたためといいます。「陶兵庫頭」として上洛し、陶の家は健在であることを知らしめたのです。
弘詮の子・隆康と孫・隆弘とは、「国難」に際して、主・義隆が法泉寺から逃れるまで、敵を食い止め、壮絶な戦死を遂げました。例によって例の如く、忠臣の遺児はまだ幼かったゆえに、この戦闘には加わらず、どこかに身を隠していた模様です。その後の経緯を詳細に記したものを目にしたことがないため、どこで、誰に匿われていたのかは今のところ不明です。
しかし、軍記物曰くとはなりますが、隆康の遺児・鶴千代は、毛利家の防長経略の際、沼城の戦いに登場します。毛利家に味方し、敵の大将を討ち取る殊勲をあげたのです。この時、わずかに十四歳の少年でした。元就は鶴千代を召し抱えます。鶴千代は、叛乱家臣に連なる「陶」の姓を捨て、母方の姓「宇野」を名乗ることを申し出て許されます。
系図では、隆康の子・八郎元弘が毛利家に仕え、宇野令に所領を賜ったゆえ、名字の地とした、とあります。軍記物の感動物語とは違い、淡々としておりますね。
とまれ、これが、右田家から分家した陶家の一類・弘詮が、旧姓・陶に戻り、その孫・元弘の代に毛利家に仕え、宇野姓となったという流れです。
右田 ⇒ 御郷
さきほど、「腑に落ちない」と書きましたが、弘房の子・弘詮が右田家を継いだが、右田家にはほかにも家を継げる人がいたのではないのか、わざわざ陶家から連れて来なければならなかったのか、という点。それに加えてもう一つ、右田弘詮が陶弘詮に戻り、子らも右田姓は名乗らなかったのならば、右田家には誰もいなくなったと考えるのが普通ですが、その後も、右田○○という名前は大勢出てくることです。それこそ、それらの人は、最初から右田姓だったわけで、弘房や弘詮が家を継いだのが謎というわけです。
もしも、当主になるには相応しくない何らかの事情があったのならば、陶弘詮は将軍家対策で一時的に陶姓に戻ったとしても、兄の遺児たちが成長したら、再度右田姓に戻ってしかるべきです。しかし、その形跡はなし。つまりは、ほかの人が右田家を継いで、その後も存続していたというわけです。
でなければ、その後の右田○○の活躍はあるはずのない話となります。では、これらの右田さんたちは、いったいどこから来たのでしょうか。
現在右田毛利家の菩提寺となっている天徳寺。じつはあの辺りに、右田家の居館があったとされています。そして、現在はハイキングコースと信仰の山となっている右田ヶ岳。そこには、右田家の居城・右田ヶ岳城がありました。鎌倉時代末期に築かれたとされます。
どうやら、いったん右田弘詮となり、旧姓に復した弘詮の一類のほかにも、やはり右田を名乗る人々は存在したようです。そう、上述の宇野家に至る過程でなぜか消えてしまった弘篤の兄・貞安。その後を、弘量という人が継いでいます。『実録』によれば、弘量は貞安の子と書かれております。弘篤戦死後、なぜ、兄の子に家督がいかなかったのでしょうか。弘詮が去った後は、こちらが唯一の右田家となったようですから、継いではならない理由があったとも思えません。
右田弘量という人は、明応年間に、九州で戦死しています。その子・興量も京都で亡くなったとあります。戦死とは書かれておりませんが。活躍したのはこの辺りまでらしく、『実録』においても、史料によって食い違いがあり云々としております。それを証拠に、大内氏最終盤期の右田家は褒められたものではありません。
右田ヶ岳城は現在の防府市にあります。山口にほど近く、岩だらけのすごい山です。要するに、平穏な時代なら何と言うことはありませんが、すわ敵国が攻めてくるというような事態となれば、極めて重要な防衛拠点となる上に、守るに固い岩だらけとなります。『萩藩諸家系図』によりますと、
「天文年間に至り右田ヶ岳城は内藤興盛が拠り、その子隆世がこれに代って城主となった」
と書かれておりまして、内藤興盛も叛乱家臣に一応同調しましたし、隆世に至っては傀儡当主・義長の腹心です。彼らの居城は元々姫山のはずですが、不穏な状況下で、防衛拠点を守らせるのには、右田家は不適当と思われたのでしょうか。皮肉なことに、叛乱家臣の親玉が厳島で倒され、毛利家が侵攻してくると、内藤隆世は城を出て、義長の身辺に詰めるようになります。空になった城に城番として入れられたのが、右田隆量、隆俊父子でした。
彼らはいち早く毛利元就に内通し、山口「氷上の砦」を攻め落とすなどして、手柄まで立てました。その後は右田から御郷と改姓し、名前まで変えて毛利家臣となりました。
『新撰大内氏系図』全コメント
系図の繋がりをどう表わすかについては、検討中です。しばらくお待ちください。
①盛長 右田摂津守、領防州佐波郡右田
②盛綱 六郎、散位、実盛房六男
③盛俊 王寿丸、小大夫<盛綱子>
男 五郎<盛綱子>
俊貞 六郎<盛綱子>
④弘俊 八郎、小大夫、一山国師弟子法名浄道<盛俊子>
⑤重俊 八郎太郎、夢窓国師弟子法名浄観<弘俊子>
弘賢 六郎、初弘景、法名海印寺道意、以防州陶村為食邑<弘俊子>⇒「陶祖」
⑥重貞 三郎、尾張守、法名浄空<重俊子>
貞弘 八郎太郎、於予州戦死二十八歳<重俊子>
盛氏 九郎<重俊子>
直重 三郎太郎、早世<重貞子>
男 僧英山<重貞子>
⑧弘房 二郎三郎、越後守、越後入道、法名昌清★<重貞子>
弘直 下野守、属大内義弘於泉州堺討死<重貞子>
弘直 伊豆守、石見守護代<直重子>
盛直 三郎、伊豆守<弘直子>
弘貞 三郎、於山口生害<盛直子>
⑨貞勝 三河守、右田惣領職<弘房子>
重氏 四郎<弘房子>
⑩貞俊 三郎、石見守、石州邇摩郡郡代、於赤間関討死<貞勝子>
貞安 三郎、右京進、於摂州戦死<貞俊子>
⑪B弘量 弥三郎、左馬助、右馬助、明応七年十一月七日於豊後国玖珠郡青山城内山戦死卅七歳<貞安子>
弘如 石見守<貞安子>
弘高 四郎、下野守<貞安子>
正忠 雅楽助<貞安子>
⑫B興量 或貞量、弥三郎、於京都死<弘量子>
⑬B興安 左馬助、但馬守<興量子>
⑭B重政 初隆量、左馬助、伊豆守<興安子>
⑮B康政 初隆俊、市郎、左馬助、称御郷<康政子>
隆秀 豊前守<康政子>
⑪弘篤 弥六、大内教弘与芸州金山城主武田某締兵康正三年五月十二日攻囲金山城端城己斐砦弘篤力戦斬城主戸坂播磨守信成而其身亦為戸坂家人戦死廿四歳<貞俊子>
⑫弘房 三郎、五郎、中務少輔、越前守、実陶盛政男、周防守護代、筑前守護代、一族右田弘篤戦死無嗣子以大内教弘之命嗣其家名寛政六年家兄弘正戦死而無男子故弘房復帰陶家継家禄
⑬弘詮 三郎、右田中書、弘房二男、法名鳳梧真幻昌瑞、父弘房一旦雖継右田家後復陶家依使弘詮続右田家文明十一年冬以大内政弘之命代兄弘護司筑前之事同十四年兄弘護遇害其子三郎幼稚也内政弘為命代陶氏可上洛之旨有将軍家御教書依之弘詮暫称陶氏改兵庫頭帥軍上洛数励勲功将軍家吹挙而従五位下其後又於筑前国征賊徒、大永三年癸未十月廿四日卒於筑前箱崎、法名鳳梧昌瑞大禅定門
⑭隆康 右田右馬允、又称陶氏、天文二十年八月廿九日於山口法泉寺為大内義隆冒主名拒戦而死、法名蘭渓道忠、妻 宇野氏
興就 三郎、死去年月不知
女子 陶尾張守興房室
隆弘 陶中務少輔、於法泉寺父一所討死、法名鳳格道外
⑮元弘 鶴千代、宇野八郎、母 宇野氏
※数字は理解を助けるために、家督の流れを追ったものです。学術的に、正式に当主として数えているかどうかについては不明です。また〈○○子〉とあるのも、同じく家督の流れを追ったものであり、仮に、縦に展開しているものを「父子関係」、横に展開しているものを「兄弟関係」として、便宜的に書いたものです。前者では、兄弟間で家督が動いた場合も縦に展開している可能性を排除できず、また、但書がない場合、養子である可能性も捨てきれません。
※上述の「宇野姓」となった右田氏、「御郷姓」となった右田氏の問題があり、同じ一枚の系図の中でそれらの源流が並列して存在していました。数字の横に「B」とあるのが、「御郷姓」となった右田氏の流れです。⑩貞俊以降の数字が重複しているのは、そのためです。
※『新撰大内氏系図』は、『山口市史 史料編 大内文化』に記載のものを参照していますが、本として二段組みに書かれており、素人が閲覧するとページの切り替わり時に、縦・横ともに「繋がり」が極めてわかりにくいです。そこで、『右田村史』の「右田氏略系図」を用い、誤りがないように確認をいたしました。同じ先生が作られた系図なので、相違点がないこと、右田家だけをピックアップしていることから非常に見やすいこと。この点から、皆さまが図書館で確認作業を行なう際には、『右田村史』をご覧になることを推奨いたします。
『萩藩諸家系図』から補足
だいたいにおいて、『新撰大内氏系図』と一致しております。多少の漏れ・欠けがございますが、どちらが正しいのかは判断できかねます。
毛利家臣となった後、右田家を名乗っていた人々は「宇野家」と「御郷家」とに別れます。この分裂は、そもそも、陶弘房が右田弘篤の後を継いだ時点から始まっており、弘房に代わって右田家に入った弘詮が旧姓「陶」に戻ってしまった後、右田を名乗っていた人たちは弘篤の兄・貞安の子孫たちだけとなります。上述の通り、貞安の一類に男子がいたのにもかかわらず、弘篤の跡継を他家から呼んできた理由は現在のところ不明です。
弘篤、貞安ともに右田家と考えて、弘篤の子孫が右田から宇野に。貞安の子孫が右田から御郷に改姓しました。『萩藩諸家系図』では、宇野家と御郷家それぞれの系図を載せております。そのうち、御郷家の系図中にある、重貞の子・弘房(当然、陶家から入った弘房とは別人です)について、以下のように記されています。
「弘房 二郎三郎、越前守、弘總トモイ(ママ)、法名 昌清」
法名が「昌清」と同じことから、『新撰大内氏系図』にも出ている弘房と同一人物かと思われます(★マークをつけてます)。この人から「貞勝 三河守、右田惣領職」が続いていくことから、ここの分岐点はかなり重要なように思えます。
「宇野家」版の系図ではこの「弘房」を「弘総」とさらりと書いており、『新撰大内氏系図』と名前が異なるので混乱しますが、「御郷家」版に「弘總ともいう」と書いてくれてあるおかげで、なるほどと思えるのです。
しかし、いずれも「貞勝」のところに敢えて「右田惣領職」と明記してはいません。普通に淡々と続いていったかのように読めます。となると、『新撰大内氏系図』に敢えて書かれている一文がとても気になるのですが、これ以上の手がかりは何もありません。
『大内氏実録』掲載の右田姓の人々
近藤清石先生は多くの史料にあたりながら、『大内氏実録』を書き上げられました。それらの史料の中に出て来たものの、系図などには名前が載っていないため、詳細がかわからない人々が大量に出現しました。今後の研究の中で、それらの人々について、明らかになることを期待なさっておられます。右田姓の方々で、史料に出て来たけれども、誰のことなのか不明であるのは、以下の通りです。もちろん、これらの中で、現在は誰なのか判明している人もいるかもしれません。
右田図書允跡(応永十一年文書)
右田義信(石見守、応永十四年氷上山興隆寺一切経勧進帳)
右田虎法師丸(同上)
右田将監跡(文明二年文書)
右田重政(参河守、秋穂八幡宮奉加帳)
右田玄蕃助(天文三年文書)
右田甲斐守(滞在日記天文七年四月条)
右田右京亮(有名衆家中覚書)
右田弥四郎(天文十二年五月七日、出雲国意宇郡出雲浦で戦死)
右田三郎座衛門尉(家中覚書)
右田下野守(天文廿年文書)
有名人(大内氏時代の人限定)
『大内氏実録』本文では、巻十八「親族」で右田弘量を、巻二十九「帰順」で右田隆量以下を扱っている以外、伝がありません。一時的に右田家の遺跡を継いだ弘房や弘詮を陶家の人として扱っているためです。右田弘詮は中途で陶姓に復したという事情があり、陶、右田どちらに入れるかは悩ましい問題です。しかし、上記数名だけで完結するのはあまりに不十分と考えられますので、文字数的にボリュームは足りませんが、『右田村史』で語られていた方々を組み込みます。今後、ほかの書物でさらに言及があれば、情報を書き足していきたいと思います。なお、弘房、弘詮父子については、陶・右田両方から参照できるようにいたします。このようなことができる点だけは、唯一ウエブサイトの利点ですね。
多々良盛長 ⇒ 盛綱
大内氏十六代当主・盛房の弟。佐波郡右田荘を領有し、右田摂津守と称した。この「右田荘」が、右田家歴代の根幹地となる。『右田村史』によれば、「右田は下小野の地にて、荘園でなく、もとより国領」とのこと。ほかにどのような所領を持っていたかはこの時点のご研究では不明だった模様。国衙の役人が、国衙領を治めている、という自然の流れ。職掌によって与えられた地だったかもしれない。兄・盛房は、初めて史料に現われた多々良氏の人として、知らぬ人はいないくらい有名。史料のおかげで、実在していたことは明らかであり、また、このあたりから、国衙内部で力をつけた勢力となってきていたことも周知の如く。となれば、その一族もまた力をつけてきた人々であり、宗家を助けて一族の繁栄に貢献しようと力を合わせていたはずである。後のように、兄弟相争うというより、新たな分家が続々と生まれ、勢力を広めていった時代です。盛長には、実子がなかったため、兄・盛房の子・盛綱を養子とした。スタート地点で即、甥に家督がいったことになるため、正式な始祖はこっちなんじゃないかと思えてしまう。なお、『大内氏実録』には「初めて右田を氏とした」のは、弘俊代とありますので、それまでは全員多々良氏のままです(それは後にも変らないわけですが)。
右田弘俊 ⇒ 重俊
始祖・盛長の家督を継いだ盛綱(盛長兄・盛房の子、つまり甥)の孫。弘俊には弘賢という弟がおり、分家して陶氏を立てます。系図には、出家して一山一寧の弟子となり、浄通と名乗ったとあります(法名)。弘俊の子・重俊も出家して浄観と名乗り、こちらは夢窓疎石の弟子だそうです。まさに、禅宗花盛りです。
右田重貞・貞弘
弘俊の子にあたる兄弟です。『実録』に兄弟ともに「和歌に優れており、臨永集の作者に名を連ねた」云々とあります。『臨永集』とか言われても? ですが、この和歌について言及している研究者の先生方は少なからずおられます。
元徳三年(元弘元年))の成立とされる私撰集「臨永和歌集」(彰考館本)に、
しくれつる雲は残らて山かせのはけしき空にふる木のはかな(巻四、冬歌)
ほし佗てうき名もたたはいかかせんさのみなかけそ袖のうらなみ(巻六、恋歌上)
難波江やことうらかけて引しほのはやくそ人はとをさかりぬる(巻八、恋歌下)
との三首が採られ、初の二首は多々良貞弘、あとの一首は多々良重貞としてある。
出典:『戦国武士と文芸の研究』
だいたいにおいて、この貞弘・重貞を右田家の兄弟二人にあてはめるケースが多いですが、重貞はよいとして、貞弘は鷲頭家にも同姓同名「多々良貞弘」が存在します。そのため、結局のところ、これらの和歌が絶対に右田兄弟のものだ! と断定することはできないのです。先生方がこの和歌について取り上げるのは、誰が詠んだかを推定するためというよりも、当時(だいたい、弘世期にあたります)すでに、家臣(親族)の中にさえ、歌心のある者が存在した、という事実が大事だからです。すでに文武の家の萌芽が始まっていた、というたとえです。
後醍醐天皇の倒幕運動開始に際して、長門探題・北条時直は、周防・長門の将兵を率いて伊予国で戦いました。伊予国では、河野家が幕府側についていましたが、当主・通治在京中。土居・得能といった、後に南朝配下として活躍する海賊連中を鎮圧するための戦いでした。麗しい和歌を詠んだ「かもしれない」貞弘は、この時に戦死しています。系図にある「伊予で戦死、二十八歳」というのがそれです。父とともに探題軍に従軍していたらしく、『右田村史』に、「父重俊は生還した」とあります。
右田弘直以降しばらく謎
重貞の子・伊豆守右田弘直は石見守護代、その子・盛直は石見国邇摩郡代を勤めました。弘世期の頃のようです。弘世・義弘期は、南北朝分裂の最中でした。弘世の子・義弘は九州平定にも尽力します。連戦連戦の中、分家の皆さんも宗家に従って参陣したであろうことは、疑いないです。そのためか、系図を眺めると、戦死者が続出しています。誰が何の戦いでとか、年月不明のものも多く、だいたいのところを想像するよりほかないです。
「弘直 下野守、属大内義弘於泉州堺討死」
とあるのは、いかにも「応永の乱」で犠牲になったものと思われますが。この弘直と石見守護代となった弘直とは、同姓同名の別人です。ほかにも戦死者だの、謎の死を遂げている人だのがおられますが、いつ何時の戦いによるものか、勝手な憶測は慎みます。
『実録』にも、系図にも、『右田村史』にすらも、これ以上のことは何も書かれていません。ごく普通に時が流れていき、亡くなった人もおられた、そんな雰囲気です。弘世期から教弘期までは、右田家の空白時代です。恐らく、これ以外のご研究に最新の成果が載っているかと思われますが、追いつきません。
右田弘篤
この人が、力自慢で知られていたというようなことを、どこかで読んだのですが、今典拠を思い出せません。主君・教弘とともに、安芸武田氏の銀山城を攻めていた時、その支城にあたる己斐城を包囲します。弘篤は城主の戸坂播磨守信成という人を討ち取りましたが、自らも信成の家臣によって倒されてしまいます。寛政三年五月十二日の出来事で、弘篤は二十四歳でした。
ここが躓きの石になっておりますが、亡くなった時、弘篤には子がなく、分家した陶家から弘房を迎えて遺跡を継がせます。史実がこうですので、その通りなのですが、ほかにも右田姓の一類はあったようですので、なぜ陶家から弘房を連れて来たのかが不明です(前述)。当たり前すぎて、どなたも言及していないようなのですが、弘房を連れてこなければ、右田の家が断絶してしまうという事態でしたらわかります。でもそうであるならば、弘房が陶家に戻り、その後右田家の人となった弘詮の子孫以外、ほかに右田姓の人はいないということになるはず。暫時のはずが、ずっと陶姓になってしまったらしい弘詮のほかに、右田○○という方々がおられるのはなぜなんでしょう。逆に、そのような方々がおられるのでしたら、弘房が右田家に入る必要はなかったものと思われるのです。この点、どこかに明記されていないか、ずっと探しています。
右田弘房
陶家の人で、弘篤の遺跡を継ぐため、右田家にはいりました。
陶弘房(城主さまのお父上)についての紹介文。初稿です。
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陶弘房
右田弘詮
弘房の子。弘房が右田家を継いだ後、今度は陶家の当主だったその兄が、やはり跡継がないまま亡くなります。陶家は弘房の復帰を望んで許され、かわりに弘房の二男・三郎が右田家に残ります。
『吾妻鏡』の蒐集・書写で著名。現在の「吉川本吾妻鏡」である。陶家出身だが、右田家を継ぐ。後に旧姓に復した。孫は毛利家臣。
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陶弘詮(右田弘詮) 吾妻鏡を書写した功績甚大・文武両道の臣
右田弘量
右馬助となる(系図に弥三郎、左馬助の名があるがほかに所見がない。左馬助は右馬助の誤りと思われる)。
右田重貞の曾孫・石見守貞俊の孫である。大内義興に仕えた。
明応七年十一月七日、将として豊後国玖珠郡青内山で戦い、敗北して、亡くなった。三十七歳だった。
(参照:『実録』)
右田隆量
『実録』の時代、右田隆量、同隆俊という人は、史料によって食い違いがあり、確定するのが難しかったようです。しかし、現在は、『萩藩諸家系図』などから何者か判明しております。
「左馬助、右馬助弘量の孫で、左馬助興安の子である」という点は間違いありません。それ以降も同様です。
天文七年十二月十四日、従五位下を授かった。
義隆が亡くなると、義長に仕えた。
弘治元年、密かに毛利氏に内通する。
元就父子はしばしば隆量に書状を送り、心を合わせることをすすめていたが、三年三月八日、都濃郡富田の若山に陣を移すと、山口に入るようにと知らせた。隆量は富田に使者を派遣し、同意する旨を告げた。元就父子はこれに答え、すみやかに現形するよう諭した。
内藤隆世はすでに居城・姫山を棄て、義長を奉じて高嶺城に入っていた。隆量はこのことを富田に報告し、山口に進軍するよう勧めた。ついで挙兵して、氷上の砦を奪い取り、援軍を求めた。そこで、元就父子は福原左近允貞俊、志道大蔵大輔元保を将として、十三日に富田から出陣させた。
毛利兵が山口を手に入れたのは、隆量父子の働きが大きい。のちに伊豆守となり、名を重政と改めた(秋穂八幡宮奉加帳に参河守とあり、右田重政の附箋がある。この重政とは同名の別人である)。
(参照:『実録』)
右田隆俊
市郎と称した。
※系譜、系図に 左馬助、美濃守の名があるが、ほかに所見がない。
父と同じく毛利氏に属した。
のち氏を御郷、名を康政と改めた。
※系譜に、実は義隆の里腹の子であったので、右田を御郷に改めたのである、と伝えているのは、御郷の文字からこじつけた説である。大内氏家人に御郷氏がおり、隆俊が御郷氏の女性から生まれたので、その氏を継いだものと思われる。
※系譜に初名・義教とする。義隆の時に、義某と名乗るはずがない。系図では義隆の子につなげて、義教、御郷市郎、初め康政とする。本当に義隆の子であるのなら、義某ともいえるが、裏付けがない。永禄十一年の文書に隆俊とあるので、当時隆俊であったことに議論はない。
子孫は今に続いている。
(参照:『実録』)
参照文献:『萩藩諸家系図』、『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『右田村史』、『戦国武士と文芸の研究』
雑感
右田家について、かくも訳が分からないことになっている理由を考えた時、あるいは証拠隠滅のようなことがなされた可能性を考えました。先に問田家について調べましたが、『大内村誌』という素晴らしいご本があったことも幸いし、ここまで複雑化することはありませんでした。近藤清石先生が、『大内氏実録』をお書きになった際には不明だった人々も、『大内村誌』では明らかになっています。
完全に「滅亡した」とされる問田家のほうが、研究が進んでいるのに、毛利家に仕え生き残った右田家のほうが何もわからないというのは、どういうことなのでしょうか。『萩藩諸家系図』に書かれていた、大内氏時代のことは伏せて報告する傾向があった云々のような意味の説明を思い出しました。
この本は、あくまでも、毛利家に提出された文書などを元に書かれています。ほかの先生が、同じような本をお書きになってもこの水準を超えることは難しかろうと思われる大作です。つまりは、結局のところ、同じ史料をお使いになるはずなので、同じような本になってしまうということです。
右田家改め宇野、御郷の方々が、毛利家に滅ぼされた陶の家と親しい関係にあった(陶は右田の分家なので)ことから、過去のことはなかったことにしてしまいたい、と望めば敢えて事実を伏せてしまった可能性は大いにあります。もちろん、そんなことは一切なかったかも知れません。ですけど、どう考えても陶の本家本元って立ち位置は毛利家に居辛い気がしてしまいますよね。実際には、そんな差別などなかったと思いますけど。
もう少し書き込める部分もありますが、取り敢えず、疲れたのでここまでで打ち切ります。
この記事は、20250103、元々姉妹サイト(『陶の城』)にあった記事を大幅に書き換えて、こちらに移したものです。姉妹サイトは陶の家について書いているところ。右田家は大内宗家の分家として、ほかの分家諸家とともにまとめるべきと考えるに至ったためです。
疲れた……何日もかけたのに、結局、ここ止まり。力尽きた……。
意味不明なのは、ミルの力不足によるところが大きい。そもそも、こんな大仕事、所詮俺たちには無理なのでは?
君は常に、そのものズバリなことを言うけど……。でもさ、右田分からないと、陶に進めないから。その意味で「わかりたい」。
嬉しいけど、あまり無理をしないで欲しいんだよ。どっち道、すごいモノなんかできるわけないから。
(嬉しいような、悲しいような……)