山口県山口市陶の寄舟神社とは?
大内氏の始祖・琳聖太子は佐波郡多々良浜に上陸したというのが定説ですが、ほかにもいくつかの伝承があり、着岸地についても諸説あります。
この神社は、琳聖が上陸した地点が陶の地であったという伝承に基づいて太子をお祀りした神社となります。付近には太子がココに上陸したとされる「艫綱の森」の碑などもあります。神社といっても立派な鳥居はありますが、社殿はなく、小祠があるに過ぎません。
けれども、琳聖上陸の時代から地元の人々が祠を崇敬していた痕跡があり、単なる伝承とは片付けられない信憑性を感じさせるものがあります。
寄舟神社・基本情報
ご鎮座地 〒754-0891 山口市陶1171−14
御祭神 寄舟大明神(?)
祭典 毎年四月第二日曜日
社殿 なし
主な建物 鳥居、石祠、石碑、灯籠、記念碑
(参照:『陶村史』、説明看板)
寄舟神社・歴史
琳聖「陶」上陸の伝承
『陶村史』によれば、陶の地には、大内氏の始祖・琳聖太子が上陸したという伝承があります。「定説」ですと、まずは下松に星が降りてきて異国の王子が来朝することを告げ、その後、本当に琳聖がやって来たということになっています。また、上陸地点は、佐波郡多々良浜であったということです。その通りであれば、陶の地に上陸地点があるというのは、おかしな話となりますが……。
そもそも「定説」とて、歴史学的には事実であるという証拠史料は何もありません。実際には別の場所であったというのも、あり得ぬことではありません。どれが正解なのかは誰にも決められない以上、各地に残る数々の伝承をそれぞれ楽しめば OK だと思います。
「定説」通り、多々良浜が上陸地点だ! と信じるのもありですし、いやいや、やはり陶の地だろう、と考えても問題ありません。「お好みの場所」でいいのです。伝承というのはそのようなものです。
「定説」を受け入れつつ、陶に上陸したのも真実と考える解釈も存在します。太子は多々良浜に上陸し、それから難波で聖徳太子と会い……というのが「定説」の続きです。この難波での聖徳太子との面会を終えて周防の地に戻ってきた時、琳聖は陶の地に上陸、そこから、大内の地に向かいました。それとは別に、そもそも来朝時、多々良浜に上陸する前に、陶の地に船を寄せたのだともいいます。
神社の名前が「寄舟」ということから考えると、上陸前に陶の地に舟を寄せた、というのが正しいような気がします。この説だと、正式には多々良浜で上陸してその先は陸路聖徳太子の元に向かったとしても、「最初に」舟を着けたのは陶の地となるので、地元の方々からしたら後者のほうが誇らしい感じです。
どちらにしても、多々良浜と陶の地両方に着岸したのであれば、定説を尊重しつつも陶の地も琳聖ゆかりの地であることは紛れもない事実ということになり、まったく矛盾しませんのでかなりの説得力がありますね。
艫綱の森
はたして、陶には「艫綱の森」と呼ばれる場所があり、そこが紛れもない太子上陸の地、だと伝えられています。
「艫綱の森(寄舟神社)は国道二号線ぞい(現在は石碑が建立されている) にあったが、道路工事のためこの地に移設された。
艫綱とは、船つき場、港という意味で、推古天皇一九年(六一一年)、大内 の祖先、百済の皇子琳聖太子がこの艫綱の森に上陸されたと伝えられ、寄舟大明神として祀られて来た。太子は陶の土が、やきものを作るのに大変よい土であることに気づかれ、やきものの作り方を陶の村人に教えられた。村人はさかんにやきものを作るようになった。作ったやきものは、この港から船で日本のあちこちに送り出したと伝えられている。
またこの艫綱の森について、次のような話もある。この港に針を積んだ船が着いていると、大風が吹き針を積んだまま船は沈んでしまった。今でも、この地を掘ると針が出てくるので、この森を針森様とも呼んでいる。
毎年四月第二日曜日にお祭がおこなわれる。」
(看板説明文)
案内看板説明文にある通り、道路工事のために神社の場所は移転しています。その点がちょっと残念ではありますが、「跡地」の石碑はとんでもない場所にありますので(後述)、これじゃあどうしようもないなぁ、という感じです。地元の皆さんの生活を便利にするための道路工事ですから、神様も納得されて喜んでおられると思いますよ。
琳聖と須恵器と陶
『陶村史』には、琳聖太子が陶の地の人々に、製陶技術を伝えたという、説明看板と同じ内容がより詳細に書かれています。元来、「陶」という地名の由来はこの場所で、陶(須恵)器が作られていたから。それは陶窯跡などの史跡が残っていることなどからも明らか。となると、この地が「陶」と呼ばれるようになったのは琳聖が伝えた製陶技術のためであり、「陶」の名付け親とも言える人物のように思えます。
朝鮮半島からやって来た渡来系の人々が、数々の進んだ技術を日本に伝えてくれたことは教科書にも載っています。たとえ、それが琳聖という名前の百済の王子ではなかったとしても、この土地に製陶技術を伝えてくれた人がいたのは紛れもない事実でしょう。その「土」が焼き物造りに適していたことから、優れた技術はしっかりとこの地に定着し、やがてその製陶製作技術から「陶」という地名となって、広く知られるようになったと考えられます。
琳聖太子が実在した人物かどうかについては、現代の研究ではたくさんの疑問符が出ていますが、異国からやってきて日本に定住した人が大内氏の先祖であったことは否定されていません。名前を琳聖といったのかどうか、本当に聖明王の王子だったのかは不明ですが。その人物が、製鉄の技術を伝えてくれたから「多々良」という姓になったのだろう、という仮説を聞いたことがありますが、それが正しいとしたら、製陶じゃなくて、製鉄じゃないの? というツッコミがまた聞こえてきそうですが、そんなことはどうでもいいのです。「多々良」姓の由来については、「八代正恒が賜った」という「定説」がちゃんとあるではないですか。
かつて琳聖が陶の地に来たこと、そこで製陶の技術を伝授したことなどは大昔から語り伝えられてきたのです。伝承の裏には必ず何らかの事実が隠されているはずです。琳聖太子が陶の地に立ち寄っていないのならば、なにゆえ、太子に関する物語が先祖代々語り継がれているのでしょう?
人々が太子への感謝の思いを込めて、祠を建ててお祀りしたのがこの寄舟神社の起源なのです。もともと、その祠は寄舟大明神と呼ばれていました。太子が陶に船を着けた日は「推古天皇の十九年十二月二十六日」(『陶村史』)とされ、この日は大明神の祭日でした。
現在は、四月の日曜日にお祭りをやっている理由は、春日神社のところに書いたように、日曜日にしたほうが、学校や会社がお休みで、地元の皆さんが参加しやすいためでしょう。神社の場所を探し彷徨っていた時、タクシーの運転手さんが地元の方にお伺いしたところ、お祭りは今もにぎやかに行われているそうです。
陶の人々から、かくも信仰を集めていた寄舟大明神は、国道工事のために場所を狭められ、のちには、バイパス工事のために完全に移設されてしまいました。移設工事の際、発掘調査が行なわれましたが、めぼしいものは見つかりませんでした。しかし、古銭がたくさん出てきたことから、古くから信仰があったことが確認できたということです。
「琳聖」は西日本地域共通の神!?
最後に、『陶村史』はかなりのページ数を割いて琳聖太子について考察しており、とても興味深いものがあります。そこで紹介されていたことですが、太子が上陸した場所と言われているところは多々良浜や「艫綱の森」のほかにも何か所かあり、のみならず、琳聖太子ゆかりの場所はなんと九州にも存在するということです。
熊本県八代郡宮地にある八代神社(別名白木妙見宮)には、下松同様、星が降ったという伝説があり、その祭神・白木明神は「新羅」の王子・琳聖なのだとか。たまたま名前が同じだけれども、「新羅」の王子なので、大内氏の始祖とは別人でしょう。
とはいえ、琳聖というのは、大内盛見代に突然語られ出した「始祖」および「氏寺・興隆寺の創建者」名ということになっています。熊本県と言ったら肥後国ですから、大内氏の分国ではありません。下松からはかなり遠いですし、かくまで類似した伝説が残されていることには驚くばかりです。こうなると、盛見さんが適当に名前をつけたとは思えなくなってきます。当時、琳聖太子なる一種の「神様」に対する信仰が存在し、盛見さんはその「神様」を大内氏の始祖にしてしまったのかも知れません。
『陶村史』は星への信仰や妙見にかかわる伝説は、「西日本の一部では琳聖太子と結びつく」とまとめています。こうなると、琳聖は大内氏どころか、防長の人々だけが崇敬する存在ではなく、広く西国で信仰されていた星の「神様」である、という性格が色濃くなってきましたね。
寄舟神社・みどころ
神社参詣のお供として貴重な『山口県神社誌』にも載っていない寄舟神社なので、基本情報すら目視で書いたほど。なので、目に入らなかった「みどころ」がもしあったならば残念なことになります(普通はあとから境内案内図を見たりして、あれもこれも見落としてもう一度行くことになるけど)。『陶村史』に書かれていたものはすべて見ることができたと思うのですが……。
鳥居
『陶村史』によれば、「琳聖太子音楽社」「文化四丁卯十一月六日氏子中」と書かれ、「寄舟大明神」の木額がかかっているらしいのですが、文字までは気付きませんでした。また、額には寄舟神社と書かれています。大明神ではなく。
上は冬枯れの季節でしたが、二回目は十月、明らかに夏ではないけれど、まだ紅葉には早過ぎる時期に再訪しました。手前に何やら柑橘類の実がなっていて、近寄れませんでした。草もちょいボウボウな感じゆえ、虫のことも頭をよぎりましたし。
石碑
向かって左から記念碑、祠、石碑。このほかに灯籠がひとつあって、確認できたものはこれがすべて。
琳聖太子之旧跡碑
江戸時代末期に作られた石碑。ついうっかり、裏側を見忘れていました。『陶村史』によれば、「推古天王十九年十二月廿六日着岸釜山臂土器根元」と書かれているそうです。釜山は地名ではなく、「窯山」。「臂土器」というのは土器を作る時、臂で型をつけたこと、「根源」は発祥の地、というような意味である、との解説がありました。
わざわざ再訪して、石碑の裏側を調べたのですが……ご覧の通りでした。経年劣化のためか、素人目では完全に何ひとつ残さず文字が消えてしまっております。
記念碑
「艫綱の森は大内氏の始祖琳聖太子の着岸の地と伝う 今国道拡張により遺跡の北方約二百二十米のこの地に移し祀る 昭和四十六年一月 陶有志」と書いてあります。文字通り、場所を移設した時に造られた記念碑です。
艫綱の森跡地
「琳聖太子上陸の地 艫綱の森跡」と書かれた石碑が建っています。艫綱の森跡のほうが、Googlemap で神社と一緒に出てきてくれないので、下に二枚の MAP を貼っています(表示速度遅くなりそう……)。地図を見てわかる通り、かつてここが海だったとは、とうてい信じられません。
もちろんそれは、この上陸地伝説が信じられないという意味ではなく、かつての海が完全なる陸地となっていることを言っています。だって、舟を着けた場所なのですから、ココは絶対に海だったはずですよね。ほかにもこのような事例は数多いけれど、海岸線がはるかかなたとなってしまった地形の変化には、毎度毎度驚くばかりなのでした。
「艫綱の森」石碑はこんな感じで、道路の脇にひっそりとあります。それゆえに、車だと見落としてしまう可能性が高いです。陶在住ではない限り、市内の地理に詳しいタクシーの運転手さんでも見付けられない場合があります。通り過ぎてしまうんですよね。むしろ、ナビゲーションを頼りに歩いて行けば、絶対に見落とさない類のものです。
ただし、歩道ではない側の道路脇にありますので、写真を撮ったりする場合には注意が必要です。この辺りはそこまで車通りが多くはないのですが、横断歩道で渡ることはできないので、どうしてもすぐ傍まで行きたい場合は、横断に十分注意なさってください。近寄ったところで、何もないですから、遠くから望遠機能で撮影しても同じことです(スマートフォンの望遠機能で十分)。上の写真はタクシーで行っているので、運転手さんが周囲を見回しつつ、ちょっとの間石碑のところで車を停めてくださいました。
下のほうは、二回目に徒歩で行った時のものです。キャラ画像は石碑の近くにいますけど、実際には本当に「遠景」でして、同じ写真になるだけなので貼っていない拡大写真も含めてすべて歩道側から撮影してます。
寄舟神社(山口市陶)の所在地・行き方について
ご鎮座地 & MAP
ご鎮座地 〒754-0891 山口市陶1171−14
アクセス
最寄り駅が新山口なのか、四辻なのか地図をみただけでは分りづらいです。個人的には四辻がオススメです。春日神社や正護寺などあれこれを大量に見て、おまけに寄舟神社と艫綱の森も再訪。ただし、途中あれこれの場所を訪問しているとはいえ、四辻駅を出てから寄舟神社に辿り着くまで二時間半かかりました(艫綱の森までは一時間。行く順序が全く異なるからです)。まる一日陶で過ごし、隅々見て回る覚悟のない方には辛いかも知れません……。
ちなみにタクシーを使った場合、正護寺、日吉神社、寄舟神社だけで山口市内まで戻る観光タクシー系貸切りで2万円を超えました……。歩けば山口線で新山口、乗り換えて一つ目が四辻ですので、交通費はリーズナブルですみますね。
歩いて行く道順などについては、今回の陶の旅(20231015)で回ったところすべてを網羅してからまとめますので、しばらくお待ちくださいませ。基本的には、艫綱の森は真っ直ぐの道の向かい側、寄舟神社は正護寺からすぐって感じです。むろん、艫綱の森と現在の寄舟神社の間もそんなに距離はないです。
参照文献:『陶村史』、説明看板
寄舟神社(山口市陶)について:まとめ & 感想
寄舟神社(山口市陶)・まとめ
- 大内氏の始祖・琳聖太子を祀っている神社
- 琳聖は多々良浜に上陸したというのが「定説」だが、陶にも太子が着岸したという言い伝えがある。その場所は「艫綱の森」と呼ばれる
- 太子は現在の陶に須恵器を作るのに相応しい「土」があることから、地元の人々に製陶技術を伝えたという。ゆえに、この地は陶器の産地となって、「陶」という地名の由来となった
- 太子に感謝した地元の人々は、「艫綱の森」に祠を造って太子をお祀りし、寄舟大明神として篤く信仰された
- 国道を敷く工事に伴い、寄舟神社の場所は現在地に遷され、その「跡地」には「艫綱の森」の石碑が立っている
- 小さな祠と記念碑類しかないコンパクトな神社ながら、立派な鳥居もあり、現在も例祭はたいそう賑わっているという。地元の人に大切にされていることがわかる
- 琳聖太子の上陸地点は多々良浜ではないのか? とこだわる方へ。じつは、太子の上陸地点を主張する場所は艫綱の森にとどまらず、諸説ある。艫綱の森には、多々良浜に上陸する前に「舟を寄せた」、聖徳太子と面会してから周防国に戻った際に舟を着けたなどの言い伝えが残っており、「絶対にココが上陸地点である」というような強引なアピールはなされていない。しかし人々は太子が立ち寄ってくださったことを誇りに思い、今に至るまでこの伝承を大切にしている
- ちなみに、「琳聖」なる朝鮮半島からやってきた王子の伝説は九州など西日本の他の地域にもあり、星が降ってきたという麗しい逸話も下松だけの特権ではないらしい。星への信仰や妙見にかかわる伝説は、「西日本の一部では琳聖太子と結びつく」(『陶村史』)という興味深い事象がある
琳聖太子は実在しないはずなので、上陸地点がどこであるか、などに頭を悩ませるのは不毛である、というのが最新の研究成果かもしれません。ですけど、陶の地には琳聖太子にかかわる伝説が大量に残されており(伝えてくれたのは製陶技術だけではないのですよ)、これほどの大量のデタラメが伝えられているはずがない = 多分本当なんだろう、って感じです。
これが、太子はココから上陸した! って猛烈にアピールしていて、多々良浜と喧嘩していたりしたらスゴいんですが、「舟を寄せた」という実に奥ゆかしい主張。案内看板見ると、「上陸した」とあるけど、断言してないもんね。まあ、言ってみたら、聖徳太子から始まって、この時代のことなんて、どこまでが本当なのかわからないのが実状ですが……。考古学的に実証できるような案件でもないですし。
けれども、陶の地に製陶技術を伝えてくれた渡来系の方がいたことは事実で、陶窯跡があったり、地名が陶になったのもそのためであることは疑いないようですね。となると、その大恩人みたいな人を琳聖太子と結びつけてしまうこともいかにもありそうです。ですが、『陶村史』を拝読してびっくりしたのですが、熊本にも「琳聖」なる王子がお祀りされている神社があり、そっちは百済ではなく、新羅の人だったと。九州にはほかにも百済の王子の伝説はありますので(宮崎県とか)、大内氏が始祖は琳聖だと主張する以前から「琳聖伝説」のようなものが存在し、陶の人たちが太子を祀った当時も、それが大内氏の始祖とかいう認識はなかったかもしれませんね。
神社というか、祠そのものが後世に造られたものではないことは、道路工事の時の発掘調査で出てきた大量の古銭が証明しています。あれこれ考えると本当に奥が深い神社さまです。
陶の地はタクシーで行くには贅沢すぎるけれども、公共交通機関で行くのはたいへんという微妙な場所です。これまで三回訪問してますが、とてもすべての史跡を見学できてはいない状態です。残念なのは、長閑な田園風景に癒やされる場所と、普通にベッドタウンになっている町並みとが混在していて、立派な道路もバーンと通っていますので、田園地帯はとにかく、それ以外はあまり町歩きの楽しみがないことでしょうか。取るべきものは車の運転免許って気がしてきた……。
あまりに個人的な好みを押しつけるといけないのですが、すべての石塔、祠、灯籠などをご紹介してしまっているくらいほかには何もないのですが、にもかかわらず、時が過ぎるのを忘れてしまうような癒やしの空間となっているように感じます。やはり、本当に琳聖さまは実在の人物であり、この祠にお祀りされているのでしょうかね。そんなドキドキワクワク感がたまらないので、何度も足を運んでしまうんですよね。三回目もありそうです。
こんな方におすすめ
- あれこれ由緒がある神社を巡るのが好きな人
- 星降る伝説、琳聖太子が好きな人
ごくごく普通の鎮守の社という感じです。社殿もなく祠ですし。ですけど、琳聖太子ゆかりの伝説に惹かれる人にとっては絶対に外せない場所です。最寄り駅から遠すぎること、元の場所から遷されていることなどが残念です。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
やっぱりタクシーではなく、歩いて来るのが最高だねー♪ 気持ち良かったよ。
若い子はいいよね。いかに貧乏とはいえ、さすがに疲れたよ……。山口線があまりに本数少ないのにもビックリだし。まる一日陶でつぶれてしまったね。
俺が「スーパーおき」に乗りたいって言ったのに、特急料金は高いんだよとか言って乗らなかったから、電車の待ち時間が長くなったんじゃないか。
だって、せっかく苦労してタクシー代金を浮かせたんだから、最後に特急料金とかもったいないじゃない。
特急料金 1000 円しなかった。わずかに二両の特急なので、自由席は座れないかもとか誤魔化してたけど、新山口始発なので空席は十分あった。世話係が貧乏性だと主の俺まで苦労して疲れる……。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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