山口県山口市大内御堀の日吉神社とは?
山口市大内御堀にご鎮座する日吉神社は、かつて仁平寺の鎮守社・山王社だった神社です。大内弘幸公、弘世公が仁平寺の落成供養を行なった際、奉納舞楽が行なわれたのはその山王社社頭でのことでした。創建は仁平寺同様、仁平年間のこととされていますが、その社殿は今八幡宮や古熊神社と並び「山口三社」といわれるほど歴史あるものでした。
江戸時代にこの地を領有していた益田氏が、何度か再建事業を行なっており、現在の社殿は宝永元年(1704)のものとなります。明治時代に入り、日吉神社という名称に改められました。台風の被害などにより、現在も地元の方々の手によって、つどつど修復工事が行なわれ、大切に守られています。
なお、境内には愛宕社が鎮座していますが、台風の被害で損壊し現在地に移築、再建されたお社です。日吉神社の境内社ではなく、まったく別の独立した神社さまです。
日吉神社・基本情報
ご鎮座地 〒753-0214 山口市大内御堀4387
御祭神 大己貴之命
主な祭典 例祭(四月十日、十月二十三日)、風鎮祭(八月末か九月初め)
社殿 本殿(流造)、向拝付き楼拝殿、幣殿
主な建物 鳥居(石造)、大灯籠、狛犬(文政三年)、灯籠(文政三年)、案内板、記念碑等
境内神社 河内社、人丸社
神紋 大内菱
(参照:『山口県神社誌』、『大内村誌』、案内看板)
日吉神社・歴史
平成十二年に菅内納税組合の寄付によって建立されたとの案内看板。ここにすべて書いてある。
社伝によれば、仁平元年(1151)、大内家臣・河野某が近江国比叡山より勧請したとされる。かつて、大内の地には、氏寺・興隆寺、乗福寺、仁平寺という大内氏にゆかりが深い三つの寺院があった。この神社はそのうちの、仁平寺の鎮守・山王社であった。
大内弘幸が当主だった頃、観応三年(1352)三月三日に、仁平寺の本堂落成供養のために、山王社で法楽舞を行った。その数日後に弘幸は亡くなってしまい、その子・弘世が父の遺志を継いで、盛大に本堂供養会をやり遂げた。仁平寺の話は仁平寺のところでするとして、この「山王社」こそ、現在の日吉神社である。
案内看板の説明文によると、その社殿は今八幡宮、古熊神社と並んで、「山口三社」といわれ、古くからの歴史をもったものだとか。藩政期には、寛文六年(1666)、領主・益田氏が再建事業を行った。現在の社殿は宝永元年(1704)十二月二十三日、益田織部就高が建立したもので、楼門は延享二年(1745)に再建されている。
明治四年に、山王社から日吉神社へと名を改め、明治六年、村社となった。
平成三年、台風の被害に遭い、数年かけて修復事業を終える。ところが、同十一年、再び台風が襲来し、大木が倒れるなどした。『山口県神社誌』には具体的に台風のことは書いていなかったけれど、「境内内の古い樹木が倒れるため、社殿の損傷が続き、次々に修理を要する」とある……。案内看板は平成十二年に書かれたものなので、かれこれ二十年以上前のものとなる。その後も倒木のことはあったのだろうか。
地元の方々の手で、大切に守られてきた神社は、長閑な田園風景の中に荘厳と佇んでいた。
末社として河内社、人丸社、弁天社等があると書かれているが、境内では二つしか見つけられなかった。見落としたのか、ほかの場所にあるのかはわからない。
かつてはなかったお社として、愛宕社が鎮座している。これは平成十一年の台風による被害が甚大で、元の場所から日吉神社の境内に移されて再建されたものとなる。
日吉神社・みどころ
鳥居
拝殿
ご覧のように、典型的な楼拝殿造り。楼門は延享二年(1745)の再建物というが、その後も台風の被害などがあったので、かなり修復が加えられたことと思う。
側面から見た様子。隣に河内社へ上がる石段がついているため、本殿は見えなかった。
賽銭箱
賽銭箱がみどころになってしまうのは、やはりこの「大内菱」がついているから。何度も言うけど、ほかにもついているところ、県内に大量にあるけど。
記念碑
いつも思うけど、こういう場合、裏側に行って説明文をきちんと見ないことには何なのかわからない(見ても漢字だらけで、多分わからないけど)。「御大典記念」と刻してあり、『山口県神社誌』に、「昭和大典」の記念碑があると書かれているので、これがそうだろう。
河内社
拝殿脇に石段があって、その先に鎮座。
人丸社
赤痢、伝染病の神様。もとは堤防に祀られていたものが、神社の統合・整理の際、この場所に移された、と書いてある。とても小さいお社なのに、なぜかとても目についた。
附・愛宕社
日吉神社の境内にあるものの、元々まったく別の神社。説明看板によると、大内弘世の時代に、大内氏の命令で安部家が京都・愛宕神社から菅内清滝山頂に勧請した。祭神は愛宕大権現、白山妙理大権現、天照皇大神で、火除けの神として崇拝されてきたという。
大内輝弘の乱で焼失してしまっていたが、貞享元年に再建。しかし、平成十一年の台風によって、旧地での修復が困難な状態となり、この場所に移築、再建となった。その際には、京都の愛宕神社、金蔵寺勝軍地蔵堂からあらためて神仏を勧請したという。
なんで、寺と神社から神様と仏様が一緒に来るの?
君はまだ神仏習合を学べてないのね。そのお寺と神社とは元は強く結びついていたんだよ。
でも、今は神社だよな? どう見ても寺には見えない……。
いいじゃないの、見たまんまで。きちんとお参りすればわかってなくても許してくれるし。相手は神様だから寛大だろ?
日吉神社(山口市大内御堀)の所在地・行き方について
ご鎮座地 & MAP
ご鎮座地 〒753-0214 山口市大内御堀4387
アクセス
山口市内から車に乗せていただいたので、公共交通機関+徒歩の行き方は調査中です。
参照文献:『山口県神社誌』、『大内村誌』、案内看板
日吉神社(山口市大内御堀)について:まとめ & 感想
日吉神社(山口市大内御堀)・まとめ
- 寺伝によれば、仁平年間の創建とされる
- 大内御堀(山口市)に鎮座し、大内氏とゆかりが深い寺院・仁平寺の鎮守社・山王社だった
- 仁平寺落成供養に際して、奉納舞楽が舞われた山王社社頭とはつまり、この神社のことである
- 大内氏の滅亡で仁平寺は衰退したが、山王社は江戸時代の領主・益田氏によって補修工事が行なわれるなどして保護されていた
- 明治時代、名称が日吉神社となる。名前は変ってもいまなお、地元の方々に大切にされる神社である
- 台風の被害などで、たびたび修復工事が行なわれている
- 境内にある愛宕社は、台風被害によって損壊し、この地に遷ってきた神社で、日吉神社の境内社ではない
閑静な田園風景の中に佇む神社さま。元々は仁平寺山王社だったというお話を伺うととたんに、弘幸さん、弘世さん親子による仁平寺落成供養について思い出し、歴史の世界に入っていきます。そもそも寺社というものは神聖な領域ですので、かつて繁栄していたといっても、町のど真ん中というよりは、こんな感じの静かな山裾に鎮座なさっているものでしょう。お名前は変わり、社殿も修復や再建が繰り返されて、仁平年間そのままではないわけですが、山王社の場所が移築されたというお話は今のところ見かけていません。つまりは今も、往時のままの場所にあるのではないかな、と思います(典拠はないです)。
郷土史の先生、研究者のお姉さんとご一緒していたので、色々と興味深いお話を拝聴することができたのですが、帰宅したらほとんど頭から抜けてしまっていました……。だいたい、一つの場所に最低三回はご訪問し、そのうち一回以上は専門家の解説を聞く、というのが、観光資源を理解するための基本であると、尊敬するベテランガイドさんからご教授を受けました。一人で見ても何なのかよくわからない、解説を聞いてやっと理解する、それを元に復習し、自らも調査し、その上でもう一度見に行くと、ようやく何がなんなのかがわかるようになり、専門家の解説もより深く理解できる……と。
三回ご参詣すれば、この神社さまについても完全に理解できるということになりそうですが、三回も行くなんてそう簡単じゃないですよね。すでに行く道を忘れていますし。インプットしたものをアウトプットできるようにならないと、史跡のご案内など無理です。そう考えるとなかなかに奥が深くて、現状、上っ面だけってことになります。あと二回行きたい……。
こんな方におすすめ
- 神社巡りが好きなすべての人
- 静かな場所で、時を忘れて癒やされたい人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
日吉神社ってさ、陶にもあったよね? まったく同じ名前だと区別が……
ホントわからない子ですね、君は。同じ神様がいるところ、同じ名前の神社で当然です。
(そんなのわかってるよ。だけど、名前も同じ、神様も同じだと、重複している、って検索エンジンに嫌われると心配してやってるのに。URL も「2」ついてしまうし……。わかってないのはミルのほうだ)
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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