イマドキやまぐち

山口城跡(山口市滝町)

2022年9月23日

山口城跡・案内看板

山口県山口市滝町の山口城跡とは?

明治維新の前、攘夷に備えた長州藩では、政治の中心を沿海部の萩から内陸部の山口に移しました。その際に、政庁と藩主の居館として築かれたのが山口城です。「山口御屋形」と呼ばれていました。

第一次長州出兵で破却されてしまいましたが、慶応年間に再建されました。西洋式の稜堡式城郭で、砲台なども備えた広大な敷地をもつ城でした。

現在は、跡地に山口県庁が建っています。かつての藩庁門が遺構として残され、県の有形文化財指定を受けているほか、土塀、石垣、土塁、砲台跡なども見ることができます。

山口城跡・基本情報

所在地 〒753-0071 山口市滝町1

山口城跡・歴史

文久二年(1862)、長州藩は攘夷に備えて内陸部に拠点を移すことにしました。どこに引っ越そうか、ということで、かつて大内氏の「都」として栄えた山口の地を選びます。

そもそも、地理的にみて、本拠地を置くのにこれほど素晴らしい土地はないと思われる山口ではなく、萩の地に城を建てていたことにも理由があり(ガイドさん曰く)。毛利氏を防長二ヶ国に押し込めるにあたり、徳川幕府はそれでも油断ならず、山口のような優れた場所に本拠地を構えられることに難色をしめしたという経緯があったようです。

で、江戸時代もまもなく終わることになるこの頃、長きに渡って国の政治の中心から外れていた山口の地が、ようやく元通りの中心地に戻ることになりました。

「山口御屋形」といわれた山口の城は、元治元年(1864)、洋式「稜堡式城郭」として完成しましたが、第一次長州出兵で壊されてしまいます。

藩庁門のところに書いてある説明文によれば、敵軍が破壊したというのではなく、和解交渉の結果破却されたということです。

のちに、城は再建され、慶応元年(1866)にお殿様が城にお入りになりました。案内看板の地図を見る限り、現在の県庁付近から後ろは香山公園のあたりまで、ものすごく広大な敷地であったようです。

「長州藩は、文久2年(1862)、藩論が破約攘夷に転換すると、攘夷に備えて城地を内陸部に移すこととし、新城地選定の作業に入った。沿海の地では直接異国艦船からの脅威にさらされ、防御戦闘に耐えられないとの理由であった。沿海の地を避けて藩内に移鎮の地を求めるとき、地域経済の発達状況や交通の利便性だけではなく、かつて大内氏によるまちづくりが行なわれた藩央の地山口は、長州藩の政治的・軍事的拠点となる適地であった。その山口移鎮は、文久3年(1863)4月16日に実行された。

一方、城地の最終選定作業は難航し、一致した結論を得ないまま、5月10日からの攘夷戦闘に突入した。結果は報復を受けて惨敗であった。海軍艦船を失った長州藩では、防備を陸上に移し、山口周辺に関門(関所)・砲台場などを急造し、防備の強化をはかった。城地が山口県庁の現在地で決着したのは7月18日であったと推定される。これら一連の防備構築を中心になって推進したのが、周布政之助や兼重慎一であった。

山口御屋形(山口城)は、その後大村益次郎らの意見も入れ、元地元年(1864)正月の地開き、5月の斧始めの儀を経て、10月16日、様式の稜堡式城郭として完成するが、直後の第一次長州出兵の結果、破却された。

再建は慶応元年(1865)4月に始まり、翌年五月城主初入城、その後第二次長州出兵(四境戦争)や戊辰戦争をはさんで、明治のはじめに及んでいる。」(元地案内看板説明文)

山口城跡・みどころ

明治維新後、近代的な町づくりが進む中で、かつての殿様たちのお城も姿を消していきます。山口城も今は「城跡」となってしまいましたが、今もその名残を留めているものがいくつかあります。特に、藩庁門は史跡として重要な観光スポットになっています。

遺構は広範囲に渡って存在しており、今回ご紹介する他にも、土塁、東稜堡の砲台跡などがございます。これらについては次回以降の宿題とさせてください。

旧山口藩庁門

山口城跡・旧藩庁門

山口県指定有形文化財。最初の門は、第一次長州征伐の和議によって破却され、現在のこの門は、明治三年(1870)に再建されたもの、と案内看板の説明文にあります。上述の「山口城跡」看板説明文によれば、第一次長州征伐による破却の後、城が再建され藩主が入城したのは、慶応元年(1866)でしたので、再建年が一致しません。門だけが後から作られたという意味なのでしょうか。門そのもののほか、土塁と石垣も有形文化財です。

この門は建築様式的分類(?)でいうところの「薬医門」です。ガイドさん曰く。城内への出入りは厳しく管理されており、普通は下々の者が平然と入ることなどできるはずはありません。時間帯によっても出入禁止でした。しかし、お医者さんだけは別で、緊急性がある案件でお呼びがかかることから、24時間体制で特別に入ることができたそうです。そんなところから、薬医門なる名称が生まれたというわけです。ガイドさんが誤ったことを仰るはずはありませんが、書物にて調べてもこのような説明はなく、門のかたちについての解説が載っているだけです。

薬医門
本柱が門の中心線上から前方にずれている。本柱と控柱を結ぶ梁の中間の上に束をのせて切妻屋根をのせた門。安土桃山時代に始まるもので、寺院で用いられることが多い。
出典:『新版 図説歴史散歩事典』

この説明文を読んですっきり理解できる方は日本建築によほど詳しい方かと。同じ本に、城郭の門についての説明がありまして、まとめますと以下のようになります。

一、城の表門を大手門、裏門を搦手門という

二、門のかたちは色々で、冠木門、棟門、薬医門……と様々あるが、城郭特有のものとしては、櫓門と高麗門、枡形門(櫓門と高麗門を二重配置したもの)

三、門の呼び名も色々で、用途によって不開門(普段は閉じられていて、特別な時だけ開ける)、喰違門、不浄門(亡くなった人を運び出す専用の出入り口)等々ユニークな名前のものがある。これらは、城によってそれぞれ。特に変った名前の門がない城ももちろん多い。

山口城跡・旧藩庁門(脱隊兵士がつけた傷跡)

これを見ても、ナニコレ? となりますが、藩庁門です。中央に見えるキズのような部分、これは脱隊兵士の反乱の時、反乱者がつけた刀傷なんです(ガイドさん曰く)。県内の郷土史のご本にはこの、脱隊兵士のことがよく出てきます。至る所の立て看板で見かけたし。でも、生々しい刀傷を見ると、たいへんな騒動だったのだということがよく分りますね。

土塀

山口城跡・土塀

木造漆喰塗り。藩庁門とともに、山口県の有形文化財に指定されています。

山口城跡・土塀(2)瓦の文様には「巴紋と毛利の家紋である1文字三星を省略した一丸紋が混じって」いるとのことで、現地で目をこらしていた際には、本当だ! となりましたが、写真にすると上のように、よく分りません。次回、もう少し拡大して撮影してみようと思っています。

新旧の石組

山口城跡・新旧の石組

この写真からはまったくわかりませんが、説明看板にも、ガイドさんのご説明でも、「新旧の石組み」というお話が出てきます。堀の一部はいったん埋められてしまって、そのあと復元されたため、元々のまま残っている昔の石組み箇所と、復元された現代の石組みとが混在しているのです。

石垣跡

元築山館の石垣

案内看板には「東稜堡の石垣跡」と書かれていて、写真が載っていました。これとは微妙に違いますから、これがその、「東稜堡の」石垣かどうかはわかりません。でも、築山館跡で、かつての大内氏時代の石垣の石が、山口城の石垣にされてしまった、と言われた石たちですから、当然この石垣は城のものですよ。

山口城跡(山口市滝町)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒753-0071 山口市滝町1
※Googlemap にあった住所です。

アクセス

山口駅から徒歩。もしくは、県庁前バス停からすぐ。

参照文献:『新版 図説歴史散歩事典』、現地説明看板

山口城跡(山口市滝町)について:まとめ & 感想

山口城跡(山口市滝町)・まとめ

  1. 明治維新の直前期、長州藩は政庁を萩から山口へ移した
  2. 理由は、攘夷のためで、外国から襲われる恐れのある沿海部から内陸部へと中心を移す必要があったため
  3. 山口が選ばれた理由はいくつかあるが、大内氏による町づくりが進められていたという歴史があったことが大きい
  4. 山口城は、西洋式の稜堡式城郭として完成したが、第一次長州出兵により破却された
  5. 再建後は明治時代にまで存在した
  6. 現在、跡地には山口県庁などが建てられ、やはり山口県の政治の中心地となっている
  7. 城跡遺構として、藩庁門、土塀、土塁、砲台跡、堀などを見ることができる

何とも複雑な心境となる史跡です。まず最初に、明治維新についてはまったくわかりません。用語も人名もさっぱりです。1551年に滅んだ一族について調べているのに、それ以降の歴史は関係ないからです。とはいえ、山口愛を貫きたいと望む以上、この未知なる世界について学ぶことは必須です。明治維新抜きには山口県の歴史は語れないからです。

とはいえ、肝心な一族についてもまだ学習途上にあるため、いきなり多くを詰め込むのは困難です。そんなわけで、ちょっと中途半端なご紹介になっています。近世城郭は、明治維新で破却されたものが多いことは周知の通りで、何とも惜しいことです。確かに、新しい時代の幕開けに、かつての殿様がいて領国を治めていて云々の江戸時代からの遺物を残して置くことは西洋諸国から遅れた国と馬鹿にされると感じたかもですし、一般庶民からしても、搾取されてた殿様の城なんて消えてしまって万々歳のように思えます。ところが、実際には、城ってその土地のランドマークみたいな存在であり、殿様云々とは関係なしに、壊さないで欲しいと望んだ人たちもいたとか。なので、明治維新後も人々の希望により取り壊されなかった城があり、それらは現在国宝になったりしていますね。取り壊しを免れたにもかかわらず、戦争で焼けてしまったとか、許しがたい事実もありますが。

で、戦後になって、やっぱりランドマークはあったほうがいい、ってことで、レプリカ天守閣がそこここに作られたわけですが、何とももったいないですよね。どうせ再建するなら、壊さなければよかったのに……と。とはいえ、そこら中が藩政期の城だらけで、貴重な文化遺産なのでと現代の我々の町づくりが進められなかったら困るわけで、この辺りなんともです。

山口城も、現在は「城跡」になってしまい、かつてのお姿を見ることはできません。しかし、藩庁門が残っていますし、城跡に県庁が建っているのが何とも言えず微笑ましいのです。全国見渡せば、ほかの都道府県もそうだったりするかもですが。藩庁門を潜って出勤する県庁の方々や、県庁に用事があってやってくる県民の方々を見ていると、すごいと思います。別にこの門を通らずとも、県庁に出入りはできるわけですが。

もう一つ。かつての城跡敷地は広大で、香山公園の辺りまであった、と案内看板の地図に出ております。すると、毛利元就公菩提寺・洞春寺がすぐお隣って感じになります。萩でもそうでしたが、やはり元就さんの功績は甚大なので、政庁・本拠地の傍になければなりません。だから、城とともに山口へ移転したわけです。ここで、洞春寺は元・毛利隆元菩提寺常栄寺で云々を思い出すと、またしても複雑な世界へ導かれてしまいますね。

山口県庁は恐らく、全国四十七都道府県の中でもぶっちぎりで奥ゆかしいお役所だと思います。こんなことを書くと、ほか四十六都道府県の方にお叱りを受けそうですが。大内氏の時代からはかなり間隔が空いているので、城郭も平地へ下りてきていますが、大内義長が築城を試みた高嶺城も県庁の裏手です。明治時代まで存続していたら、山口城の主は……。歴史には if はないと知りつつも、つらつらとそんなことを考えました。

こんな方におすすめ

  • 明治維新に興味のある方
  • 近世以降城郭に興味のある方

オススメ度

(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

なんで門しか残ってないんだろう? お城を見てみたかったな。

ミル涙イメージ画像
ミル

(君を倒した毛利の城だよ……)

五郎涙イメージ画像
五郎

天守閣が見たかった(←天守閣大好き)。レプリカでもいいから、造ってくれないかな?

畠山義豊イメージ画像
次郎

西洋式だから、モダン、レトロってやつね。五稜郭とかと似てたのかな? 説明看板にはなにも書いてないけど。大砲まで置いてたんだから難攻不落のすごいやつあったのかもなぁ。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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鶴千代イメージ画像
藩政期・明治維新・現代の観光資源

大内氏について語るというメインテーマとは外れる県内の主要観光資源についてご紹介している記事の目次ページです。当然のことながら、毛利氏に関するところが多いので、広島県内の訪問済み箇所も混じっています。

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  • この記事を書いた人
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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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