山口県山口市朝倉町の朝倉八幡宮とは?
貞観年間に、宇佐八幡宮から勧請されたのが起源です。大内政弘期に、今八幡宮と合併されましたが、江戸時代に再び独立して元の場所に移転。明治維新の頃、「七卿落ち」で山口に来ていた人たちが、たびたび参詣して尊皇攘夷を祈願したといいます。その時奉納した和歌が、句碑に刻まれて境内にあります。
明治時代の寺社整理で、朝倉村と湯田にあった四つの神社を合祀し、現在に至ります。
朝倉八幡宮・基本情報
住所 〒753-0061 山口市朝倉町三番一四号?(イヌマキの看板にあった番地)
祭神 応神天皇、神功皇后、多紀理姫命、多紀都姫命、市杵島姫命
主な祭典 例祭、秋祭、新嘗祭
社殿 本殿、拝殿
境内神社 四柱神社(菅原道真公、大歳之神、事代主命、湯山主命、大己貴命、少彦名命)、温泉神社(湯山主命、大己貴命、少彦名命)
主な建造物 一ノ鳥居、灯籠、狛犬、御輿庫、手水所、勅使の芝碑、千六百年式年大祭記念碑
社宝 大内義興卿奥方奉納の太鼓、大内義隆卿二女奉納の獅子頭、三条実美卿奉納の和歌
(参照:『山口県神社誌』)
社宝が奥方やお姫様の奉納品なんてすごいね。さらに、この神社の神紋は大内菱です!
朝倉八幡宮・歴史
貞観元年(859)、宇佐八幡宮から朝倉村に勧請されたのが始まり。大内政弘代に今八幡宮に合併したが、のちにまた元の場所に戻された。大内氏滅亡とともに廃れてしまっていたのを、江戸時代享保年間に現在の場所に遷して再興したという。⇒ 関連記事:今八幡宮
明治維新の頃、「七卿落ち」で山口に下向していた三条実美らが、この地に滞在。度々、当神社を訪れ、尊王攘夷を祈願した。四卿が和歌を奉納。境内には句碑もある。
明治時代となり、朝倉の天神社、大歳神社、および湯田の三穂神社、温泉神社が合祀された(四柱神社)。
朝倉八幡宮・みどころ
鳥居
拝殿
イヌマキ
山口市指定の天然記念物である。
「イヌマキはマキ科の常緑針葉高木で関東地方南部以西の本州、四国、九州、沖縄などに広く 天然分布する。また材が非常に堅く、根も深いため庭園、公園などに広く植栽され、生垣また は防風樹としてよく用いられる。
このイヌマキは、雄株で六月頃に開花する。 樹高は十五・五メートル、地上高一・五メートルの幹囲は二・九メートルで、県下のイヌマキの中でも最大級の大きさである」(看板説明文)
四卿の句碑
「 朝倉大神宮にまうでて
ゆふたすきかくる祈りはうけよ神 たくしならぬ願なりけり 季知
ゆふたすきかけて祈るも一すぢに わかまこころを盡すなりけり 実美
すめらきの御國やすうとあさくらの 神よあさゆふ守りてしかな 通禧
願ふぞよ世のうき雲を払ふには ただ神風のほかなかりけり 其修」
湯田温泉神社
『山口県神社誌』 によると、朝倉八幡宮の境内神社は、合祀された「四柱神社」と「温泉神社」の二つである。山口県神社庁様が出しておられるたいへん権威のある書籍なのでこのことは間違いない。同じご本で朝倉八幡宮の境内図を拝見すると、八幡宮の向かって左手に四柱神社、右手に温泉神社という配置。確かに右手にあり、「温泉神社」ではあるものの、境内神社とは思えないほど立派。鳥居の額には「温泉神社」ではなく、「湯田温泉神社」とと書かれている。はたしてこれが、境内神社であるのかは自信がない。
こちらの神社には境内に「稲荷大神」という末社らしき社も存在。もしかしたら、単に隣り合わせに存在する別の神社なのかも。複雑なのは、「四柱神社」のうち一つが、かつて湯田にあった温泉神社であること。つまり、単独で境内神社として朝倉八幡宮にある「温泉神社」と「四柱神社」の一つとして合祀された温泉神社の二つがある(あった)ことになる。湯田は湯田温泉で有名なので、温泉神社も一つではなかったのかも。
稲荷大神
湯田温泉神社の拝殿に引っ付くような形で存在。鳥居の額には、「祐徳稲荷大神、伏見稲荷大神、太鼓谷稲荷大神」と書かれている。一見すると、温泉神社の境内神社のように見えるが、温泉神社そのものが朝倉八幡宮の境内神社であったなら、八幡宮の境内神社扱いとなるのだろうか。三つの稲荷神社の名前が並んで書かれているところなどから、「四柱神社」に所属していたそれぞれの稲荷神社をまとめたりしたのだろうか、とも考えてしまう。
境内神社
案内がないため名前がわからない境内神社。合祀された四つの神社のいずれか、もしくはそれらにゆかりある社であろうか。ひょっとしてこれが「四柱神社」と「温泉神社」であったなら、先の「湯田温泉神社」は朝倉八幡宮と隣接する別の神社となる。次回の訪問では、このことを確認したい(Googlemap を見る限り、これほど近接した付近にほかの神社はないようではある。境内神社にもかなり大規模なものがあるから、見た目では判断できません)。
朝倉八幡宮(山口市朝倉町)の所在地・行き方について
ご鎮座地 & MAP
ご鎮座地 〒753-0061 山口県山口市朝倉町3−14
※Googlemap にあった住所です。
アクセス
山口駅から貸切りタクシーを使ってご参詣しました。地図をみた範囲では、出発地点最寄り駅にすべきは、山口駅が湯田温泉駅です。両駅の中間くらいに見えるため、迷いますが、温泉神社などという境内社があることなどから想像するに、湯田温泉駅なのかな、と思います。
参考文献:『山口県神社誌』、現地説明看板
朝倉八幡宮(山口市朝倉)について:まとめ & 感想
朝倉八幡宮(山口市朝倉)・まとめ
- 貞観元年(859)、宇佐八幡宮から朝倉村に勧請されたのが起源とされる
- 大内政弘期に、今八幡宮と合併された
- 大内氏の滅亡とともに、廃れてしまっていたが、江戸時代に現在地に遷して再興される
- 「七卿落ち」で山口に下向していた三条実美らがたびたび訪れ、尊王攘夷を祈願。四卿が奉納した和歌の句碑がある
- 明治時代の寺社整理にあたり、朝倉村、および湯田の四つの神社が合祀された
社宝を見ると分るように、大内氏時代のものが寄進物として残っています。ゆかり深い神社であったことは確実です。しかし、わからないのは、法泉寺さまの時代に、今八幡宮と合併したという点です。合併したら吸収された神社はなくなってしまうと考えるのが普通です。明治時代の寺社整理なんてその典型ですよね。
しかし、説明を見る限り、大内氏滅亡後は廃れてしまったとか、社宝に大内氏の奉納物があるなど、今八幡宮との合併後にも神社は存続していたかのように思えます。今八幡宮は廃れたりせず、今も元々の現在地にあるわけですし。すべてとは限りませんが、他の神社と合祀後も、「旧地」にて祭祀が行なわれたり、小規模な社殿が残されたりする例はあるように思えます。恐らくは朝倉八幡宮もそのようにして、どこかに残されていたのではないでしょうか。にしては、大内義興の奉納物があるほどなので、単なる「旧地」に祠があったレベルではないように感じられてなりません。
それが大内氏の滅亡後に廃れた。これも何度も耳にした言葉です。それを再建し、現在地に遷したのが今ある朝倉八幡宮である、そんな風に理解しましたが、誤っているでしょうか。温泉神社や稲荷大明神など、あれこれの神社が境内に同居。特に、温泉神社は規模も大きく、単なる境内社とは思えません。湯田温泉なだけに、温泉にかかわる神さまは数多いはずで、これはたまたま朝倉八幡宮の傍らにある温泉神社なのか? でもって、稲荷大明神はその境内社か? と思ってしまいます。しかし、『神社誌』に境内社として「温泉神社」がきちんと載っております。つまりは小さなお社とは思えない規模ながら、歴とした境内社なのです。ややこしいのは、四つの神社を合祀した際にも、温泉神社という同名の神社が含まれており、つまりは、温泉神社は最低二つは存在していたということになります。一つは合祀されて社殿はなくなったか小さなものだったので境内社として存在するかいずれか(多分)、しかし、もう一つは大きな社殿の温泉神社として境内社になっているのです。ね、湯田なだけに、温泉神社はたくさんあっただろう、って書いたとおりでしょ?
こんな方におすすめ
- 八幡信仰の方
- 神社巡りが好きなすべての方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
温泉神社って合祀されたの? 境内にある温泉神社は何?
(よくわからないことを聞かないで欲しいの。質問箱ではないのだからして)
合祀されたのと、境内社になったのと二つあるって資料に書いてあるじゃん。お前、日本語読めないのか?
やめてください。子どもは好奇心旺盛なんです。それに資料なんかまともに読みもせず、メンドーだとすぐ人に聞くんです。
(子ども扱いしやがって)
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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