大乱の流れは三つに分かれると考えられる。
また多くの書物で、四大合戦なるものを(名称は私がここで勝手につけたのだが……)ピックアップしており、どの本もそこは同じである。
四大合戦
四大合戦なるものは以下のとおり。たいてい、どの本でも章をあらためて詳述している。
一、上御霊社の戦い
二、上京の戦い
三、相国寺の戦い
四、船岡山の戦い
ここはアウトラインなので、中身については、場をあらためる。
三つの流れ
そして、三つの流れとは何か。時系列で考えて、便宜的に三つに分けた。これも、たいていの書物で同じである。というよりも、事実を述べたら、中身は皆、同じとなること、至極当然であろう。
大乱の始まり
山名細川両者の争いに諸大名が連なったという構図の大乱は、まず、上御霊社の戦いで幕を開けた。ここでは、父上と畠山義就との戦いとなったが、義政将軍が、「畠山家の家内部の争いに当事者以外は関わってはならない」と、珍しくまともな発言をした。これ以上、揉め事を多くしては面倒だと思ったのであろう(誰のせいで、大きくなったのだ、と先に尋ねたいが……)。
細川勝元は政治家らしく、この「命令」に素直に従った。それで、当然自らを支持してくれている勝元は与力してくれるだろうと信じていた父上は、大いに裏切られた。しかし、それを根に持つような了見の狭い父上ではないから、それならば、この手で義就めを倒すまで、と心に誓った。が、しかし、義就側はとんでもなくアンフェアである。細川勝元にならって、皆、将軍の命令に従い、大人しく傍観していた細川方と違って、山名方は将軍の命令など無視して、義就に加勢したからだ。
世の人は、畠山義就を猛将だと称賛するが、それについて私見を述べることは差し控えるものの、大量の味方を伴って来た義就と孤軍奮闘している父上では、まともに比較することはできないと思う。
父上は死を覚悟したが、ここは死んだふりをしてでも生き残り再起を図れ、ということで、密かに落ち延びて細川勝元の庇護下に入った。
山名方は、父上は死んだものと思ったのか、いずれにしても、もはや我が世の春だとばかりに大いに浮かれはしゃいでいたらしい。父上はその裏で、細川勝元と共に捲土重来を目指していたのである。細川のほうも、「畠山政長を見捨てた」と散々にこき下ろされて、腹に据えかねていたので、ここはどうでもやり返さないではおけない。
山名側は人が良いのか、馬鹿なのか、細川方のこの動きにまったく無頓着だった。そして、準備万端整ったところで、細川方の逆襲に遭い、コテンパンにやられてしまった。
ただ……さすがに、二大ボスの親玉。山名宗全とて、ここで一巻の終わりとはならなかった。なんとか踏みとどまった上で、仲間を集める。これに応じて、諸国から反細川、もしくは、細川方に気にくわぬ身内が入っている連中が山名方に馳せ参じた。
ここで、忘れてはならないのは、西国の大大名大内家が山名方について上洛してきたことである。まあ、斯波義廉にしても、大内政弘にしても、山名家と婚姻関係にあったが、そんなものが味方する理由にならないのは、想像に難くない。何しろ、対立しているもういっぽうの総帥・細川政元とて、元々山名宗全の娘婿であったわけだし、そのたの連中も、皆、ひとつ家の中で分裂して争っている身内同士なのだから。父上と畠山義就とて、又従兄弟同士なのである。
大内家が山名に加勢したのは、むしろ、細川家と犬猿の仲であったためであろう。瀬戸内海の利権をめぐって争う両家は、特に、先代・教弘の頃から関係が険悪となっていたのだ。
さて、この辺りも、当人たちに直接聞かない限り、真相は闇ではある。しかし、山名方諸将が上洛したこと、特に大内家の参戦はターニングポイントであり、これを境に東軍優位だった力関係が一挙に逆転した。
その後、相国寺で、洛中最大といわれた合戦が行われ、双方ともに被害甚大となったが、残念ながら、ここでも決着はつかなかった。その後しばらくは英気を養う必要があり、どうでもいい小競り合いを除き、京は暫し平穏であった。
さて、その後、山名側に、義政将軍の弟、義視様が味方し、彼らのほうにも「幕府」ができた。義視様が「将軍」となり、「賊軍」あつかいで、官職を剥奪されていたような連中も、彼らの幕府内で、再度官職を安堵された。大義名分を得た彼らはまたしても勢いづいたが、さりとて、これで、膠着した戦線が一変するということもなかった。むしろ、東西がはっきりと分裂し、もはや、簡単には和解できない状態になってしまったと言えよう。
この頃になると、合戦の舞台は洛中を離れ、郊外に移っていた。
膠着する戦線と分国への飛び火
そして、やはり、細川勝元は政治家にして策士である。
ふふっ。
東軍が取った戦略は二つ。
一、西軍の兵站を断つ
二、遠国から上洛している彼らの留守の分国を掻き回して不安を煽り立てる
一については特に説明は不要だろう。詳しくはそのうち、順追って話す機会があると思う。
問題は二。これがいかにも「細川家的な」やり方なのだ。
具体的には、裏切り、造反を推進したのである。あまり、褒められたものではないな。ただでさえ、身内同士で争うと言う悲惨な状況であると言うのに……。つまり、分国に残っている身内の不満分子などを焚き付けたり、上洛しておらず手持無沙汰の連中に声をかけて、大乱当事者の領国に侵攻させるなどしたのである。
例えば……。大内殿の分国には、伯父の教幸殿という方がおられ、出家して在国していたのだが、これに声をかけて、政弘殿留守中の領国を安堵した上、周防守護などに任じた。教幸殿はこれ幸いと分国で兵を挙げ、甥からすべてを奪ってしまおうと目論んだわけだ。京にいる政弘殿としたら気が気でない。とは言え、仕方ないので、帰国してこれを討伐……というわけにもいかないのである。何しろ、現状賊軍であるので、帰国すれば、討伐は可能だろうが、京で勝利しなければ、現在の自らの身分すら危うい。
[st-kaiwa-27216]いつまでも国をほったらかしにしておるからじゃ。
なに!? 伯父上が背いた、だと(怒)
一応、義視様が「将軍」であり、「幕府」を開いており、というように見えるが、こんなもの、大乱の勝敗が彼らの側の勝利に終わらない限り、誰も認めはしない。下手をすると、全てを失ってしまう。だいたいからして、西軍で戦功大なのは、この大内殿や畠山義就、斯波殿の配下・朝倉孝景くらいなものなので、ここで、彼が帰国してしまえば、戦況は一挙にひっくり返る。なので、本人は京に釘付けで動けない。まさに、大ピンチだ。
が。ここに、彗星の如くデビューしたのが、我らにも縁ある、陶武護殿のお父上、弘護殿だ。彼は年も若く、我らと変わらないくらいであったのに、とんでもない猛将ぶりで、教幸どのを倒し、侵攻してきた隣国も撃退してしまった。
しかし、他の大名たちの元では、かようにうまくことが進んだわけがない。多くの者は、分国の危機に驚き慌て、東軍に寝返り、赦しを請うた、極端な例だと、例の朝倉孝景だが、細川方からの造反の誘いに乗って、何と主である斯波殿を裏切って東軍に寝返ってしまった。どうやら、寝返りの見返りとして越前の守護の位をもらえる、ともちかけられたようなのだが。実際には、自らの力で彼の地を切り取り、その実力を以て「守護」の地位を認めさせている。
まあ、どうも、斯波殿はほとんど、この家臣のお陰で命脈を保っていたようなもので、ご本人は合戦においてはまったく影が薄いようで……。あまりに活躍し過ぎている家臣には要注意である。これを手本に、その後世の中には、平気で主を追い落とすような連中が出てくるのである。
終結への道 まとまらない和睦
さて、ことここに至り、もうやる気のなくなった連中は、戦乱の終結を望んでいた。そもそも、山名宗全と細川政元は相次いで世を去り、子らの代になると、互いに和平の道を探り始めていた。そして、いよいよ、和睦がなったというのに、畠山義就、大内政弘などは、なおも和平を認めず、京に居座り続けた。
兎に角、兵を引いて帰って欲しいと望む幕府は、賊軍であることをやめようとしない大内殿に対して、官位も、役職も安堵するからと約束した。こうなると恥も外聞もないようである。大内殿のほうでは、そうとうな金銭を積んだようであるし。
ただ、大内殿は和睦を受け入れる条件として、義視様と、畠山義就の身分の保証を望んでいたようである。そこで、義政将軍は、義視様と和睦。義視様は美濃へと下向された。
一方の畠山義就であるが……この男だけは許されることがなかった。何しろ、父上が家督を認められている以上、義就には居場所はないのである。名目上は。
いやぁ、恩に着るぜ。元気でな~。気を付けて帰れよ
いやいや、こちらこそ世話になり申した。
いつの日か貴殿の身分も保障されることを祈っている。
そうそう、こういう繋がりね。
ここだけの話、御館様は、義豐の父親から美女を世話してもらい、若子まで産まれていたのよ。
名目上、と言ったが、この男はまたしても大胆不敵な行いに及んだ。どうやら、大内殿などが帰国前に手を貸したようだが、父上の領国であるはずの、河内を私物化してしまったのである。
義就が河内を占拠しただと!? ふざけたマネを……。
ゆえに、義政将軍が隠居して山荘の建造などに勤しんでいた頃も、父上と義就の争いはなおも続いていたのである……。それが、今、それぞれの子の代になっても、つまり、私とあの義豊であるが、引き継がれて続いていることは、言うまでもない……。
※2021年10月11日 前後編を一つにまとめました。