合戦前夜まで ~於児丸ざっくりまとめ~

応仁の乱合戦前夜まで~於児丸まとめ~

手抜きしたいけど、どっから通史読めば?

応仁の乱というと、両畠山の相続争いが原因とされていて、そこらの無料まとめの類でもほぼそうなっていたりするよ。まあ、ことはそう簡単ではないけど。でも、衝突のきっかけであったことは確かだね。

最近の流れとして、義政将軍より一つ前、義教将軍あたりまで遡って解説を始めている本が多いみたい。将軍が一家臣の屋敷でいきなり暗殺される(嘉吉の乱)と言うのは、とんでもない大事件であり、ここらから、もう幕府の権威も地に落ちていたと言えるし。ややこしくなるので、事件の詳細はここには書かないよ。

しかし、手抜きしたいんだけど、って誰の発言? 通りすがり? ま、まあ、特に「通史」を読まなくてもいいと思うよ。いきなり『応仁記』を読み、分からなければ、その項目を調べて行くとか。

あるいは……「小説」などを読んでなんとなく理解してからでもいいのではないかな。
そもそも、『応仁記』そのものが軍記物、我らにとっては、イマドキの皆、いうところのエンターテインメントのようなものだったんだ。あまり出来がよろしくないそうだけど……。

ん? 漫画、って? それがわかりやすいのならば、無論、それでもいいよ。まちがっても、いきなり『大乗院雑事記』のようなものは避けたほうがいいけど。

研究者の先生方は『史料』にこだわるから、『作り話』を嫌うけど、何でも楽しいものを手がかりにすればいいんだよ。後から勉強したとき、ここはフィクションだったんだな、と確認すればOK。学者になるつもりの人以外は何をしても自由だよ。

そもそも名前も分からないんだけど?

三管領四職というのは分るよね? わからない?
ええと、どこかで解説した気がするけど、三管領というのは斯波、畠山、細川の三家のこと。

ここから最初に没落したのが斯波家。よって、持ち回りとは言え、畠山と細川が二大勢力のようなものだね。勢力というものは、なんでも大きくなると更なる膨張を目指すもの。細川家にとって、畠山家は邪魔となった。

そこで。同じく、膨張していた四職(山名、一色、京極、赤松)の山名と手を組むことで、互いにより一層力を強める道を探ったんだ(と思う。分かると思うけど、ま朴僕が生まれる前の話だからね)。

ええと、ほかには誰がいるか、って? とりあえず、上の名前だけでも覚えたののかな? 安心してね。ここでも名簿は作る予定だよ。

ゴチャゴチャ人間関係

細川・山名・畠山

細川と山名とは親戚どうしになった。山名宗全の娘が、細川勝元の妻になったから。舅と婿として、両家の間には蜜月が訪れる。両者は協力し合うことで、邪魔な畠山家を追い落とそうとしたんだ。

あろうことか、我らの先祖は、このような状況下で一枚岩ではなかった。惣領の畠山持国は跡継ぎの男子がいない、という理由で、弟の持冨(我が祖父上である)を養子としていた。にもかかわらず、中途で気が変わって、身分卑しい女子から生まれた庶子・義就を跡継ぎに。ここで、元々跡継ぎに指名されていた持冨と義就との間に、相続問題の種がまかれてしまったんだ。

畠山家の場合

とは言え、持冨本人がこの争いを主導したというよりは、むしろ、家臣たちや、畠山家の分裂、弱体化を望む細川・山名両家からの横槍で事態が複雑化してしまったんだ。そもそも、相続争いが表面化した際には、持冨は既に亡くなっていて、その子・弥三郎の代になっていたから。

義政将軍はなぜか義就を気に入って、その家督相続を認めてしまったが、弥三郎派が黙ってはいない。有力被官が反抗し、細川山名もそれを後押しした。更に、義就という男にも問題があった。あろうことか大胆にも将軍名義のニセの下知を濫発したりしたから、義政将軍も遂には義就を追い出して、新たに弥三郎派を正統な跡継ぎと認めた。この時、伯父・弥三郎は亡くなっていたため、後継者となったのは、我が父・政長だった。

父上は、義就のような目茶苦茶なことはしなかった。幕政を牛耳っている細川&山名の後押しもあるとなれば、もうこれで、我らの家督相続問題は終結、といきそうなものだけど。ところが……。ここまでの間、一致団結して、畠山家の分裂・弱体化という目標のために動いてきた細川山名連合は、目的を果たした後は、仲間割れとあいなった。

なんとも、笑えない話である。最大にして最強の地位に上り詰めることが彼らの最終目的であるから、共通の敵・畠山家が脱落した今となっては、もはや追い落とすべきは相手のみ、という状況。やがて矛を交えることになるのもまた、必定だったと言えるね。

我ら畠山家のお家騒動とて、決してまるく収まった訳ではなかった。義就はなおも、家督を奪い取ろうとその機会をうかがっていたから、父上も気を抜くことはできなかったんだ。ちなみに、先代の持国はこのごたごたを収めることができぬまま亡くなっているので、当事者は義就と我が父・政長という当人同士となっていた。

将軍・大名・その被官

この頃、お家騒動は家を問わず頻発していた。義教期、将軍は積極的にこれらの騒動に介入し好みの人選を行った。このような前例を作ってしまっていたので、相続当事者間の争いはお家にとっては存亡の危機に直結し、家臣らをも巻き込み、二派に分裂しての大騒ぎというのがお決まりとなった。

元々、室町幕府はそれじたいが強力な統制力を持たない。ゆえに、馬鹿にされたり、批判されたり、人気が無かったり……という悲しいことになっている。しかし、幕府は配下の大名たちの家督を承認したり、こうした争いを調停したりすることで、その存在意義を発揮した。いっぽうの大名たちにとっても、幕府というのは、自分たちの身分・地位を正式なものであると認めてくれる唯一の公的機関として貴重だった。
だからこそ、将軍、幕府との関係を尊重し、その命令に従ったのである。たとえば、大内家のように、九州の凶徒を討伐せよ、と命じられれば素直にそれに従って兵を出す。このような相互依存関係にあるがゆえに、大名たちは幕府を支えるし、幕府も大名たちの権益を認めてやるのである。

それゆえに、義教期のような、恐怖政治の将軍が立つと、大名配下の家臣たちは皆、ピリピリした。主の出来が悪いと、将軍に嫌われてしまい、諸々を認めてもらえないばかりか、下手をすると家そのものが潰されかねないからだ。

将軍と大名の関係とて、人間どうしだから生理的な好き嫌いという要素もある。そこまでも考慮した上で、将軍に嫌われそうな主は、目に留まる前に家臣たちの手で他の跡継ぎを立てたりして、この危機を逃れようとした。

勿論、このようなことは他の将軍の統治下でもあった。われらの先祖、畠山満家は義教期では宿老として重きをなしたが、その先代・義満期には嫌われていたので、弟と当主を交替していた。

家臣たちが、当主が当主としてふさわしいかどうかということに口を挟むという風潮があり、彼らの発言力も時を下るごとに強くなっていったので、義政期にはさらにたいへんなことになっていた。

斯波家の場合

我らが畠山家でも、義就の家督相続に、神保などの重臣が異を唱えたし、同じ管領家の斯波家でも、家督相続の争いが起こっていた。重臣である甲斐常治が主・義敏と対立し、これを排除しようとした義敏は逆に甲斐にやられてしまい、周防に落ち延びなければならなくなった。

義敏が落ち延びた後、その子が跡継ぎに立てられたが、家臣らがそれも認めないと言うので、義政将軍は、斯波家の遠縁から、渋川家の者を連れて来て跡継ぎに立て、やっとひとまずは落ち着いた。これが斯波義廉である。ところが、義敏は再び京に舞い戻り、様々なコネを使って運動し、再び、斯波家の当主に収まることに成功したのだ。こうなると、今度は義廉が宙に浮く。

こんな感じで、そこら中でお家騒動が勃発していた。

細川、山名、将軍家

協力関係から、一転、敵対関係となった細川と山名は、それぞれがこれらのお家騒動の連中から日頃のつてを頼って、自分のほうに力添えを……と頼られたわけである。むろん、彼らのほうからも、勢力増強のため、進んで介入した。こうして、いつの間にか、彼らを頂点として、京近辺の大名たちが二派にわかれて対立するような有様となってしまったのである。

優柔不断なのか、争いごとを好まないのか分からないが、義政将軍は、己の定見というものがないかのように、細川山名の言いなりに、ころころと意見を変えたから、そのこともこの混沌とした事態をさらに深刻化させてしまった。

応仁の乱勃発のその日とされる上御霊社の戦いの前までは、家督、および管領職は我が父・政長に認められていた。それなのに、山名宗全が、畠山義就を引き連れて将軍にその地位を認めさせると、あろうことか義政将軍は言われるままに、家督を義就に認め、父上から管領の職を剥奪したのだ。さらに、厚かましいことには、義就は父上が住まっていた京屋敷も、元々は惣領である自分のもちもののはずなので、と言ったものだから、将軍は父上に「屋敷を明け渡すように」と命じた。

将軍の機嫌を取りつつ、家督の交代を迫る山名と義就もとんでもない輩だが、彼らに頼まれるままに何でも認めてやる義政というお方は何を考えておられるのか。いや、何も考えていないのであろう。嘆かわしいことである。

政長vs義就そして、細川、山名

家督を奪われ、職もクビになり、更に、屋敷からも追い出されたとなって黙って言うがままになっては沽券にかかわる。父上は当然これに反発した。それで、その意思表示として、自らの館に火を放って焼いてしまった。義就ごときに明け渡すくらいなら当然であろう。そして、ここまでくれば武力にて優劣を決めるまでと、義就との合戦におよんだのである。

畠山家の騒動で、ずっと我らに好意的であったのは、細川勝元である。山名宗全のほうは、虫が好かない勝元が父上についていたため、その対抗馬である義就に肩入れしたに過ぎない。まあ、世の人は、とかく、麗しい物語に脚色することが好きであるので、宗全が、父上と義就との争いを見た際に、その勇猛果敢な様に惚れ込んでぜひとも力になりたい、と望んだのだ、というが、真偽のほどは、本人に聞くことができないから、ここでは決められない。

※2021年10月11日 前後編を一つにまとめました。