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陶陶窯跡(山口市陶)

2023年12月22日

陶窯跡・石碑、看板類

山口県山口市陶の陶窯跡とは?

正式には「陶陶窯跡」と呼ばれます。最初の「陶」は地名を、つぎの「陶」は古代に使われていた土器である「須恵器」を指しています。国指定史跡です。

須恵器の製作技術は朝鮮半島から伝えられたこと、日本固有の縄文式土器、それが発展した土師器にとって代わったことなどは学校の授業でも習います。

須恵器の製作には良質の粘土が必要となることから、そのような条件を備えた土地が須恵器生産地となりました。つまり、現在の「陶」の地にはそうした条件がそろっていたということになります。

なお、地名の「陶」は須恵器の生産地であったことから来ているとされています。

陶窯跡・基本情報

所在地 山口市大字陶 967 番地
※現地案内看板にあった住所です

陶窯跡・歴史と概観

縄文土器 ⇒ 土師器 ⇒ 須恵器

陶窯跡っていうけど、そもそも「陶窯」って何? という疑問が生じるかと思います。教科書・参考書、日本史の授業で習う「須恵器」を焼いていた窯のことです。

大昔、我々の先祖たちが製作していた土器には縄目の紋様がついていた。ゆえにその時代は縄文時代と名付けられたというのが、日本史の最初の辺りに書かれている項目ですよね。最新の研究によれば、じつはいっとう始めの頃に作られた土器には縄目模様はついていなかったことなどが分っています。長く続いた縄文時代は、それらの土器のかたちの違いなどによって、草創期から晩期まで六つもに時代区分されます。それぞれの時代によって、作られていた土器のかたちが変化していることによる区分です。縄文時代は縄文時代、土器も縄文土器でいいやん、ってことなんですが、受験生たちは、そこらの区分まで記憶させられるのでした……。

そして、縄文時代のつぎが弥生時代。これも製作していた土器からそのような名前で呼ばれているわけですが、なにゆえに弥生なのかといえば、縄文時代のものとは明らかに異なる、新しい時代の土器が最初に発見された場所が弥生町遺跡(向ヶ丘貝塚)であったためです。

この時代に造られていた土器は縄文時代の土器よりも高温で焼かれ、見た目も黒褐色の縄文土器に比べて、赤褐色。厚みも縄文土器が厚手であったのに対して薄手で固くなります。そして、縄文時代の土器がただの器であったのに比して、用途に合わせた様々なかたちが生まれます。受験参考書によれば、壺、甕、高坏、甑に区分されていたようです(壺、甕、高坏の三種類。ほかに甑もあった、というような説明も)。

弥生時代から古墳時代に移っても、基本は同系統の土器が引き続き使われていました。しかし、当然ながら技術はより進歩し、高品質なものになっていたでしょう。この時代の土器を「土師器」と呼び、弥生式土器との差別化をはかるとすれば(あくまで受験参考書レベル)、赤褐色から赤色になった、という感じです。で、このようにして国産の土師器を生産、使用していたところに、五世紀頃、朝鮮半島から「須恵器」の生産技術が伝わります。土師器よりも、より高温で焼いた陶質の土器でした。見た目的には、土師器が赤色だったのにたいして、須恵器は灰色(灰青色)という違いがありました。このような色の違いは、土器を焼くときの温度によって変るそうです。

以上はすべて、受験参考書に書かれていた内容となります。つまり、学校の受業で習う一般常識です。念のため、「陶窯」と関連深い「須恵器」について、日本史の権威ともいうべき事典でどのように説明されているかも、見ておきましょう。

すえき【須恵器】
古墳・平安時代に製作された青灰色あるいは灰黒色を呈する硬質の土器。壺・甕・杯・はそう・瓶類等の各種の器形がある。朝鮮半島の陶質土器に直接の源流をもち、五世紀初め頃朝鮮半島南部から製作技術者が渡来して生産が開始されたと考えられる。 それまでの土器製作との大きな違いは、 轆轤の使用と窯による焼成である。轆轤は規格化された製品の生産を可能にし、また大量生産にもつながった。焼成はそれまでの野焼きによる酸化焰焼成ではなく、山の斜面などに築かれた登窯を用いた還元焰焼成で行われた。須恵器の生産は専門の工人によったため生産地が限定される。大阪府の泉北丘陵にある陶邑窯跡群は須恵器生産が開始されたところで、その後日本最大の須恵器生産地として栄えた。初期の須恵器生産地は陶邑などごく限られていたが、六世紀以降、各地に窯が築かれた。当初は主として副葬用や祭祀用に作られたが、八世紀頃から日常雑器として一般に普及する。生産地が限定されており、また編年研究が進んでいることから遺構の年代決定や、流通を通しての社会組織の解明に有効。

出典:山川出版社『日本史広事典』
※「はそう」は WordPress にて漢字が更新できませんでした。

「酸化焰焼成」なる難しい用語が出て参りますが、その辺りは気にしなくていいのかな、と思います。

陶の地と須恵器

引用文にある通り、初期の陶窯は「生産地が限定」されます。渡来系の人々が多く住むところで、それらの人々の力をお借りして焼いていたからでしょう。けれども、やがて我々の先祖も彼らから技術を学び、自らの力で生産が可能となり、全国に普及していったものかと。そこまで来て漸く、一般的に用いられる全国区の容器となったのでした。その後は、各地で独自の器物が生産されてそれぞれ、「○○焼き」として有名になっていきますが、それはもう少し先のお話で、今回の陶窯跡の時代ではありません。

地域限定の貴重な陶窯が、この陶の地に存在していた理由は、いくつか考えられます。まず大前提として、渡来系の人々の存在。古来より、渡来系の人々がやってくる玄関口にあたっていたのは九州地方です。地図を見ればわかる通り、位置的に最も近いですので。ほかにも、琳聖さまのように、いきなり周防国に流れ着くケースもあったでしょう。要は、進んだ技術が最初に伝わるのは西日本だった、ということです。

引用文には「大阪府の泉北丘陵」が最初の須恵器生産が始まった場所、とあります。九州地方でも、周防国でもなく。政治の中心地は畿内ですから、これから国を挙げてこの進んだ技術を取り入れた土器生産を開始するぞ、ってことで大々的に始められた場所という感じでしょうか。五世紀に技術が伝えられ、六世紀以降、各地に窯が作られていったということですので、どうやら官営の施設のようですね。

『陶村史』には、こちらの陶以外にも、山口県に存在していた陶窯跡について言及があり、「大津郡油谷町(旧日置村)・小野田市・防府市・熊毛郡田布施町・柳井市・大島郡久賀町」(※地名は書籍が書かれた当時のもの)がそれにあたります。肝心の陶地域の陶窯としては、「山田・越峠・鋳頭窯山」にあったそうです。むろん、長い年月の間に、それらは風化して、埋もれていきました。また、すべてを発掘調査し、復元するのもたいへんです。なので、ここに書かれたすべての場所に、せめて「跡地」の看板が立っているか、何一つないのか、まではわかりません。

すくなくとも、こちら、陶陶窯跡は、山口県内はむろん、陶地区内においても唯一のものではなかったということです。けれども、ほぼ完全なかたちで残されており、現代を生きる我々に、かつての陶窯というものの姿を教えてくれるという意味で、大変に貴重な史跡なのです。もちろん、未発掘の窯はほかにも大量にあるはずで、今後何かのきっかけで、さらなる完全なものが出現する可能性はゼロではないと思います。

ところで、この陶窯跡ですが、須恵器が焼かれていたのは古墳時代云々ということから、大和政権時代の史跡かと思いきや、じつは平安時代のものです。そもそも、奈良時代、平安時代くらいになると、様々な宗教施設、文化財など学ぶべきことが圧倒的に増えていくため、当時どのような器を使っていたか、ということはあまり話題にならなくなります。それゆえに聞いてびっくりだったのですが、いわゆる須恵器は、五世紀に技術が伝来して以降、十世紀に至るまで使い続けられていた模様です(参照:『陶村史』)。平安時代も長いですから、最初と終わりまで相当の期間に渡りますが、古墳時代のものとか考えて足を運んできた方はがっかりするかもしれません。

陶の地は須恵器を作るのに好適地であったゆえ、長期に渡り須恵器の一大生産拠点のひとつであり続けたようでして、こちらの史跡はあくまでそのうちの一つに過ぎず、時代も比較的新しいものとなります。もはや時代的感覚がマヒしておりますが、新しいと言っても平安時代、中世まではまだもう少しあり、古代史の史跡であることに間違いはありません。

また、西日本でもこれほど完全なかたちで残された陶窯跡は珍しいそうなので、一見の価値ありです。

最後に、『陶村史』で学んだ「製陶業」に適した条件についてまとめて終わりとします。

陶が製陶業の好適地となったわけ

一、原材料が豊富にある――陶には良質の粘土(原料)・山には薪(材料)がたくさんある
二、水の便が良い
三、地形がよく、風向きが一定している――陶では山の傾斜を利用できる
四、完成品の輸送に便利な場所である――陶付近は入海(当時)で、港が近い

参照:『陶村史』

史跡概観

国指定史跡であるため、国指定文化財等データベースにも掲載されております。

名称:陶陶窯跡
ふりがな:すえのすえかまあと
種別1:史跡
指定年月日:1948.01.14(昭和23.01.14)
指定基準:六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県:山口県
所在地(市区町村):山口市陶
解説文:丘陵の傾斜地に南面して存するもので、登窯の構造をなし、総長約30尺、幅奥壁にて約3尺8寸、高約3尺3寸を有する焚口部は埋存しているが、奥壁及び側壁は畧々旧規を存し奥壁に近く天井部の遺構も残存し、断面穹窿状の構造を示している。昭和11年2月に発見せられ、内部より多数の陶器片が出土した。 この種の窯跡は附近一帶に広く分布して居り、古来製陶所跡として著名である。

出典:国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/2422

これよりも、現地の案内看板のほうが、わかりやすくて親切です。

「ここは今から千百年から 千二百年前に須恵器を 焼いていた窯跡です。
須恵器作りの技術は約 千六百年前に朝鮮半島 から伝わりました。斜面を掘った穴窯を使って千度以上の高温で焼き製品は固く青灰色をしています。
この窯跡は今は焼成部の一部と煙道が見えるだけですが、残り具合は良く大半は埋もれていると考えられ、大変貴重な窯跡です。 現在の長さは約二・八メートル、幅は中央で一・八メートル、高さ約一メートルで煙道の直径は〇・八メートルです。
山口市陶から小郡町百谷にかけては良質の粘土が産出され、 陶の地名が示すようにかっては一大窯業地として栄えていたと考えられます。」
(山口市教育委員会史跡解説看板説明文)

陶窯跡・みどころ

古代(平安時代)に使われていた須恵器製造用の窯をこの目で見ることができます。興味がない方にとっては、ただの窯ですが、多少なりとも関心がある方にとっては一見の価値があります。窯はフェンスで覆われておりますが、その姿ははっきりと見ることができ、説明看板の内容も充実しているため、事前の予習も不要です。

陶窯跡への道(一)

陶窯跡・陶窯跡への道(一)

史跡付近まで来ると、道中に順路を示す看板が現われますので、導かれるがままに進めば問題なく辿り着けます。

陶窯跡入口

陶窯跡・入口

この門を抜けた先に、陶窯跡があります。門は閉まっているため、入ってはいけないのかな? と一瞬不安になりますが、門を開けて入って問題ありません。ただし、見学が終わった後は、必ず、元通りに門を閉めてください。

陶窯跡への道(二)

陶窯跡・陶窯跡への道(二)

門から陶窯まではあっと言う間なのですが、ちょっとした山道ですので、足元にご注意ください。

陶窯跡全体像

陶窯跡・全体像

全体を一枚の写真におさめるとこんな感じです。見ても何なのか、正直よくわからないです。現地解説看板の説明図だけをお借りしたのが、つぎの図面です。内部構造は図の通りです。かつては、このように大量の須恵器が詰まっており、いままさに焼かれていたのでしょう。

陶窯跡・説明図看板

陶窯跡・焚き口

陶窯跡・窯跡

こちらの方向から見ると、いかにも焼き物をしていた窯であることがはっきりとわかります。上の図で「焚き口」となっている部分ですね。

陶窯跡(山口市陶)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 山口市大字陶 967 番地
※現地案内看板にあった住所です 

アクセス

最寄り駅は山陽本線「四辻」駅となります(地図を見た限りでは、新山口からのほうが近いように思われますが、ほかにも陶とお隣・鋳銭司の史跡を見て回るためにこの駅を使いました)。駅を出て踏切を渡り、広い道路をひたすらに真っ直ぐ行きます。かなり歩きますので、歩くことを厭わぬ方向けのルートとなります。基本はまっすぐですが、史跡付近で右折する必要があります。ナビゲーションで時々現在地を確認してください。

ほかには何も見学の予定がなく、ただ陶窯跡をご覧になりたいだけなのであれば、タクシーをおすすめしておきます。運転手さんにお待ちいただいて陶窯跡を見て戻ったとしても、たいした距離ではないですので、メーターが極端に跳ね上がることはないかと(※現地での過ごし方、歩く速度には個人差がありますので、保証はできかねます)。ただし、四辻駅前にはタクシーは待機していませんので、宿泊地からもしくは新山口から乗ることになります。

参考文献:『陶村史』、『日本史広事典』、国指定重要文化財等データベース、現地案内看板、受験参考書

陶窯跡(山口市陶)について:まとめ & 感想

陶窯跡(陶)・まとめ

  1. 山口市陶にある国指定史跡で、平安時代に須恵器を製造していた窯跡
  2. 古墳時代の初めには、弥生式土器から発展した、土師器が用いられていた
  3. それに対して、五世紀頃、朝鮮半島からもたらされた製陶技術によって生産されるようになったものを須恵器と呼ぶ
  4. 当初は、渡来系の人々、専門の職人によって製造されていたため、製造地域は限定的だった
  5. 六世紀になると、各地に窯が造られるようになったが用途は限定されていた。日常品として使われるほど普及するのは八世紀になってから
  6. 陶は、須恵器の生産に適した条件がそろっていたため、多くの陶窯がある一大生産拠点であったと考えられている。「陶(すえ)」という地名も、須恵器(すえき)の生産地であったことからきていると思われる
  7. 往時、そこかしこにあったと思われる陶窯だが、保存状態がよく、発掘調査も進んでいるものは数少ない。その意味で、陶陶窯跡は非常に貴重な史跡といえる

陶と書いて「すえ」と読むことを知っている人は意外に少ないものです。地元の方々はもちろんご存じ。また、受験勉強中の学生で日本史を真剣に学んでいる人や、ちょっと変わり種ではゲームなどをプレイしている人なども読めたりします。しかし、そのいずれでもない人で、歴史など興味ないんですが……となれば、陶は陶磁器の陶なので、普通に「とう」と読みます。陶淵明などのような海外の著名人の姓でもあることから、ますますもって、「とう」です。

普通に考えて、日本史に関心がなければ、歴史上の人物の名前など読めなくて当然です。読めずとも困るシーンはあまりないですし。恥ずかしい思いをすることは1ミリもないです。なので、陶陶窯跡をとうとうかまあとと読んだとしても、別にかまいません。そういう方は、わざわざ窯跡になど来ないと思われますし。なんじゃこれ? の世界ですよね。

何の因果か陶と書いてすえと読むことを知っているので、陶は名字の地、先祖の地となり、地名の由来が須恵器から来ていることから、陶窯も見ておこう、となりました。古代史に関心があるわけでもないため、見学しても「?」でしたが。普段はあまり訪れる人もないのか、蜘蛛の巣だらけで悲鳴の連続となりました。とりあえず、一度は見ておこう、というくらいの認識でしたので、二度目の訪問はないと思います。

けれども、この窯跡が平安時代のモノということは、大内氏の先祖たちがそろそろ史料に名前をチラ見せしてくる時代の産物。その意味では、彼らと同時代を見てきた史跡ということになり、縁もゆかりもない物ではなくなります。こじつけにはなりますけどね。

こんな方におすすめ

  • 古代史に興味がある方
  • 土器から始めて現在の陶磁器まで、それら器物に関心がある方

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

昔はここで、沢山の須恵器が焼かれてたと思うと、それなりに感動するね。

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

俺の姓は須恵器、つまりここで焼かれていた壺とか甕からきてたのか。

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

多分そうだろう、って話。じつは、陶という地名は他県にも何か所かあり、同じくすえと読んでいたらしい。だけど、市町村合併などで地名が変わってしまったんだとか。たしか、ほかにももう一か所残っているようなことが『陶村史』に書いてあった気がする(うろ覚えです)。

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

でも、全国で知られているのは、俺たちの名字の地であるこの「陶」だよ。けど、なんで、そこまで有名なんだろう。やはり、大内氏の身内だからだよね。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

(いや、違う。陶の名を全国区にしたのは、ひとえに君の功績なんだよ……)

五郎イメージ画像(背景あり)
五郎とミルの部屋

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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