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妙見宮鷲頭寺(山口県下松市中市)

2024年10月20日

妙見宮鷲頭寺・本堂(2)

大内氏の先祖伝説ゆかりの地・下松。「星降るまち」というキャッチフレーズが似合うとっても素敵な街です。みどころは多々あれど、大内氏ゆかりの……と言えば、先ずは「氏神・妙見社」です。何しろ、山口にある氏寺・興隆寺の妙見社はここ、下松から勧請されたもの。つまりは、本家本元の妙見社は下松にあったといえます。

悲しい哉、神仏分離によって、肝心の妙見菩薩さまは神社から去ってしまわれました。大内氏時代の氏神勧請元・妙見社は現在、降松神社とお呼びします。御祭神も天之御中主神に変っております。妙見=天之御中主神であった神仏習合時代のルールに則って置き換えられたわけです。でも、やっぱり、妙見大菩薩さまにお目にかかりたい……。今回はそんな皆さまのために、妙見宮鷲頭寺さまをご案内いたします。元は妙見社の別当寺。かつて妙見社にあった仏教系のものはすべて、こちらの寺院さまでお参りできます(訪問回数1回)。

山口県下松市中市の妙見宮鷲頭寺とは?

大内氏の先祖伝説でお馴染みの妙見社(現降松神社)の元別当寺です。妙見社が火災で焼失した際、七つあった社坊もすべて失われましたが、唯一再建されたのが、別当寺だった閼伽井坊でした。明治時代の神仏分離で、妙見社は降松神社となり、別当寺は鷲頭寺として分離独立しました。

神仏習合時代の妙見菩薩はこちらに引き取られましたので、妙見を祀るという意味ではかつての妙見社はこちらともいえます。寺院は現在も神仏混淆した状態で存在しており、鳥居があったり、神社式の参拝方法が残っていたりします。

鷲頭寺・基本情報

所在地 〒744-0014 下松市中市1丁目10−15
山号・寺号・本尊 妙見山・鷲頭寺・妙見菩薩
宗派 真言宗御室派
通称 妙見宮、妙見さん
(参照:『山口県の歴史散歩』、※住所は Googlemap )

鷲頭寺・歴史

前身は降松神社の別当寺

鷲頭寺は元は妙見社(現在の降松神社)の別当寺でした。妙見社は言わずと知れた大内氏の氏神妙見菩薩を祀る神社です。それも、山口にある同氏の氏寺・興隆寺にも妙見社がありますが、それは下松の妙見社から勧請されたものです。その意味では、下松の妙見社のほうが、本家本元ということになります。氏寺・氏神一所にあって、大内氏歴代から篤く信仰された興隆寺同様、本家本元妙見社も大切に守られてきました。そして、これまた興隆寺と同じく、大内氏の時代には神仏習合した大寺院といった趣でした。妙見社は神を祀る社(神社)でありながら、境内には神宮寺が建てられ、恐らくは神社というよりは、寺院に近いような趣を呈していたのではなかろうかと思われます。七つもの社坊をもっていたといわれています。それらの社坊の中でも最も有力で、寺社を統轄する別当寺の役割を担っていたのが、閼伽井坊という社坊でした。

そもそも、現在我々が降松神社として信仰している神社は、妙見社の元下宮です。毛利氏の時代に現在の地に遷されたのです。これらの経緯については、降松神社のところに書きました。

つまりは、閼伽井坊はじめ、七つの社坊は元々は下宮、中宮、上宮と揃って鷲頭山に鎮座していた妙見社とともにあったのです。慶長十三年(1608)の火災によって、妙見社はほぼ焼失してしまいます。七つもあった社坊(中之坊、宮之坊、宝樹坊、宝積坊、宝蔵坊、宝泉坊、宮司坊、参照:『下松市史通史編』※下松市史では、閼伽井坊を宮司坊としているが、これは別当寺としての役割を担っていたゆえにの呼び名だろう。地元ガイドさんのご案内では、閼伽井坊であり、ここでもそちらを採用している)も失われてしまいました。もはや、大内氏の本家本元妙見社としての栄華は失われていた時代のことです。地元の方々のご尽力により焼失した社殿は再建されたものの、七つの社坊のうち、閼伽井坊だけが再建されたのです。

その後、江戸時代の終わり頃、下宮は若宮として、現在降松神社があるところに遷されました。閼伽井坊もその際にともに移転した模様です。

現在鷲頭山に向かいますと、下宮は完全なる「跡地」と化しており、中宮と上宮のみが残っています。下宮の「跡地」以外にも、かつて建物があったと思われる削平地が残されておりまして、それらが元の社坊跡ではないかと考えられています。閼伽井坊の跡地もその中にあるはずです。

降松神社・鷲頭寺歴代住職の墓所

今も鷲頭山中宮・上宮へ向かう途中に残された、かつてのご住職たちの墓碑

神仏混淆の寺院

明治時代となり、神仏が分離した際、妙見社は降松神社と名を変えました。神社と寺院は同居できませんから、閼伽井坊も妙見社の別当寺としての地位を失います。そのまま付近に独立した寺院として存続することも可能だったかもしれないと思われますが、社坊は降松神社と袂を分かち、明治十二年(1879)に現在地に移転しました。それが、現在の鷲頭寺です。

長きに渡って仲良く共存していた神社と寺院が引き剥がされるというのは大事です。曖昧になっている境界を分け、建物を移転し、仏教系のものは寺院が引き取る。神社に祀られていた神さまが日本固有のものではなかった場合、御祭神を置き換える……と本当にたいへんです。淡々と事務的に処理が行なわれ、分けられれば問題ないのですが、全国見渡すと些細なわだかまりから両者が険悪な状態となる例も少なからずあった模様です。

噂によれば、降松神社と閼伽井坊(鷲頭寺)の分離は、どちらかといえばやや後者に近かったようです。妙見社の頂上は元は奥の院とも呼ばれ、欽明天皇の御代には菩薩像が納められていたといいます。奥の院といったら、仏教系の呼び名ですよね。現在は上宮です。ほかにも、妙見社時代には、聖徳太子の像や推古天皇の像などがあったと伝えられており、それらは皆、鷲頭寺に引き取られたようです(『下松市史通史編』によれば、中宮・上宮の本尊、虚空蔵菩薩、妙見大菩薩が鷲頭寺の観音堂に安置されているとのことです)。

今も鷲頭寺に参詣すると、ご住職は奉幣を持っておられ、しかもお参りは二礼二拍と神社風とか。鳥居もありますし、ここは神社なのか!? と錯覚するほどです。神仏分離当時のご住職は、この政策に反対されておられたようです(参照:『下松市史通史編』)。よって、妙見社が天之御中主神を祀る降松神社となり、妙見社別当寺の役目がなくなって以降も、妙見「宮」鷲頭寺という名称を用い、神仏混淆の形態が維持されているのです。

なお、鷲頭山という際、「鷲頭」はわしずと読みますが、鷲頭寺は「じゅとうじ」とお読みします。下松市のガイドさんのご案内を拝聴するまで、このことを知らず、お名前を間違えていました。お詫びして訂正いたします。

『山口懸寺院沿革史』に載っていた「鷲頭山旧記」の断片

さて、降松神社のところで出て来た「鷲頭山旧記」。つまりこれは、神社の縁起というべきものなのですが、『山口県寺院沿革史』にその一部が載っていました。『沿革史』からして文語文で難解な上、「旧記」に至っては古文ですから、正確なところを書き記すにはたいへんな労力を必要とします。

ただし、中身は大内氏の先祖伝説とほぼ同じですし、ガイドさんのご案内も拝聴しましたので、繰り返しません。要は、北辰降臨伝説から始まっているわけです。けれども、「ほぼ」同じというのは、異なるところもあるということでして、その部分がある意味荒唐無稽でびっくりな内容です。現状、正確なところはお伝えできませんが、極めて簡略化してその相違点を述べるとすれば、琳聖が聖徳太子と面会してからの物語が非常に詳しいという点です。

そこには、太子が難波の都に建立された宮殿に住んでいたとか、そこで彫刻を学んで、推古天皇や聖徳太子の像を彫ったとか、北辰星供を行なったとか、九十六歳でその宮殿で亡くなったとか……え!? という物語が書かれております。この部分はおよそ大内氏の先祖伝説とは異なるものです。さらに、系図の六代欠落を埋める琳聖の子ら○○太子の名前も出て来ます。彼らもずっと難波の宮殿に住まいしていたようです。

そして、六代欠落の後に登場する多々良正恒。彼の代でやっと周防に下向したらしく、国司の娘を妻として定住します。とはいえ、この人も当初は都住まいでした。宇多天皇の体調がすぐれず、正恒が北辰星供を行なったところ、回復なさいました。ゆえに、天皇さまは周防国などを下賜。そこで、正恒は都を離れ、下向したのです。

周防にやって来た正恒は、琳聖が建立した妙見社を再建。その際、水源が乏しかったため、あめつちの和歌を詠むと清水が湧き出した、と。きちんと、和歌水の故事にも触れられております。

降松神社の縁起である「鷲頭山旧記」を、『寺院沿革史』執筆のための資料として鷲頭寺が提出し、書籍に取り上げられている。そんなところからも、由緒ある妙見社の別当寺であった時代を忘れていない寺院さまの思いが伝わってきます。

鷲頭寺・みどころ

一見すると、商店街に溶け込んでいる地元の方々に愛されている寺院さまという雰囲気です。参道に鳥居があることで、神仏混淆していることが分かります。

一月の大黒市、二月の節分祭、八月の風鎮祭などの行事があり、毎年多くの人々で賑わうそうです。

参道入口

妙見宮鷲頭寺・入口

いかにも庶民の生活と完全に一体化している感があります。「妙見さま総本宮」の文字に、本家本元の誇りを感じます。降松神社には天之御中主神さましかおられぬので、考えようによっては、こちらが正統な「跡継」といった気分になります。

鳥居

妙見宮鷲頭寺・鳥居

寺院だけれど、鳥居があります。これこそが、神仏混淆です。扁額にはくっきりと「妙見宮」の文字が。

亀池

妙見宮鷲頭寺・亀池

降松神社にあった「亀池」つまりは和歌水でもありますが、同じ池が鷲頭寺にも。これまた、妙見社の伝統を受け継いでいます。なにゆえに亀なのか。それは妙見菩薩ゆかりの尊い生き物だからです。かつては、亀がたくさん泳いでいたようですが、今は数が減ったのか、見付けられませんでした(というより、後から事実を知ったので、探さなかった可能性も)。

種田山頭火句碑

妙見宮鷲頭寺・種田山頭火句碑

種田山頭火が亀池の亀を見て詠んだ句の記念碑です。よく見たら亀もちゃんと写っていました。たくさんではないですが。

本堂

妙見宮鷲頭寺・本堂

ご本堂です。左手に大黒さまの看板が見えていますね。大黒市の賑わいがわかろうというものです。

仁王門

妙見宮鷲頭寺・仁王門

降松神社の仁王門は、現在随神門に造り替えられてしまっております。どの道、火災で焼けてしまっており、大内氏時代の面影はなかったであろうものの、門もこちらに移転してきていると考えればそのまま存在しているということに。

妙見宮鷲頭寺・仁王門に奉納されたわらじ

仁王像にわらじを奉納すると、足腰の不自由なかたに後利益があるそうで、ご覧の通り。わらじだらけの仁王門は、ほかの寺院さまでもお見かけしております。

附・庚申社

妙見宮鷲頭寺・庚申社

亀池の奥にあります。神仏混淆しているがゆえに、寺院内に鎮守社があるのか、それとも単に付近のお社なのか、ちょっと調べがついておりません。

附・荒神社

妙見宮鷲頭寺・荒神社

同じく、鷲頭寺との関係がわかりませんが、位置的には亀池のとなりであることは、ご覧の通りです。鷲頭寺と番地が違っていて、鷲頭寺は中市1-10-15、荒神社は中市1ー8−10。庚申社は中市1ー10−8なので、こちらのほうが遠いのかと思えるけど、地図を見れば一目瞭然で、距離的にはこちらのほうが寺院さまに近いです。

鷲頭寺(下松市中市)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒744-0014 下松市中市1丁目10−15
(※Googlemap にあった住所です)

アクセス

最寄り駅は下松駅です。南口に出て商店街を抜けていきます。

参照文献:『山口県寺院沿革史』、『下松市史通史編』、『山口県の歴史散歩』、下松市ガイドさんご案内(※鷲頭寺にはご一緒していません)

鷲頭寺(下松市中市)について:まとめ & 感想

鷲頭寺(下松市中市)・まとめ

  1. 前身はかつての鷲頭山妙見社(現降松神社)の別当寺
  2. 大内氏の氏神・妙見菩薩を祀る妙見社は興隆寺にあるが、下松から勧請されたものが本家本元なので、その意味では本家本元。神仏習合時代には七つもの社坊を持っていた。鷲頭寺の前身・閼伽井坊はその中でも別格で、別当寺の役割を果たすほどだった
  3. 大内氏の滅亡後に起こった火災により、妙見社は中宮の一部を残して焼失。閼伽井坊以外の社坊は再建されなかった。以後、三宮一坊体制での運営が続いた
  4. 江戸時代、妙見社下宮は、若宮として現在の降松神社がある地に移転。別当寺もともに移転した
  5. 明治時代の神仏分離にともない、妙見社は天御中主神を祀る降松神社として生まれ変わり、現在も地元の方々の信仰を集めている
  6. いっぽう、別当寺は神社から独立した後、現在地に移転。妙見菩薩ほか、仏教系の貴重な文化財をすべて引き取った
  7. 妙見宮鷲頭寺と称し、鳥居を建てて神社式の祭祀を行なうなど神仏混淆した趣のある寺院となった
  8. 降松神社同様、地元の方々に篤く信仰される寺院として今日に至る

神仏習合していた時代を知らない我々からすると、神仏混淆している寺院さまのほうが珍しく感じられ、なんで鳥居があるのだろうか? と不思議に思いました。参拝時もご由緒などの詳細を知らず、単にゆかりの寺、という認識でした。ですので、ますますもって疑問符だらけでした。

下松市のガイドさんと観光協会のお姉さんとともに降松神社を再訪する機会に恵まれ、あれこれと貴重なご案内をしてくださったなかに「じゅとうじ」という寺院さまが何度も登場し、どこだろう? かように重要ならば、次回は必ず参拝せねば……と思っていたところ、なんと、すでに参拝済みでした。かくも長い期間、お名前を「わしずでら」であると誤解するというご無礼を働いていたので、全く分らなかったのです。穴があったら入りたいです。

というようなわけで、積年のあれこれの謎が氷解。にしても、寺院さまのお名前を間違えるとは、なんたることかと思いました。ただ……案内看板などがなく(見付けられなかったのかも知れません)、あったとしても、ふりがながついていたかは微妙です。こういう時は、海外の方向けに英語でもチラと書いてあれば名前くらいはそちらで確認できるのですが。さすがに、お名前にふりがながある看板は少ないような気がします。地元の方々は普通にご存じですし。でもけっこう、○○寺、○○神社(山でも川でもなんでもあり)に行きたいのですがとお伺いし、観光案内所などで恥をかくケースって多いですよね。漢字の読み方、特に地名・人名などは、本当に難しいです。

さて、大内氏の活躍していた時代はずっと神仏習合していました。現在はいずこもそのような形態ではなくなっておりますので、想像することも難しいです。ですが、それぞれのパーツを組み立てるように、かつての神社(どちらかというと、どこも寺院に近い雰囲気だったと聞いています)と寺院をセットにして回ると学ぶこと甚大です。降松神社に参詣したら、鷲頭寺への参拝も同時に行い、かつての両寺社の歴史に思いを馳せる必要がございます。幸い、どちらも駅からさほど遠くないですし、タクシー貸切りで二箇所回ったとしても、そこまで高額にはならないと思います。ただし、ガイドさん方のご案内は必須です。教えていただかなければ、生涯なにも分からなかったと思います。本に書いてあることって、ほんのちょっぴりなんですよ。読んでも分からなかったりしますし。フィールドワークと地元の方のご案内、これほど貴重なことはないと痛感しました。何とか再訪したいです。

こんな方におすすめ

  • 下松の本家本元妙見社に関心がある方(降松神社だけで終えたら片手落ちです)
  • 普通に寺社巡りがお好きな方

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

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五郎

これだから、ミルだけで行かせるのは問題なんだよ。結局、せっかく行ったのに何もわからずに平気で帰宅しているじゃないか。俺がついていかないと埒があかないね。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

分かっているの。でも、こちらの寺院さまは「初やまぐち」で訪れた場所なので、まだ何の知識もなかったし……。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

言い訳はいいよ。もう一度行くこと。もちろん、俺も連れてってね。

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

わかってる。相棒がいないと、旅の楽しみが半減するもん。いや、半減どころか、まったく楽しめないから。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

分かっているじゃないか。二人集まれば、ガイドさんを頼めるから、またお願いして、寺院側からも妙見社の歴史を学ぼう。

五郎イメージ画像(背景あり)
五郎とミルの部屋

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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※この記事は 20241020 に加筆・修正されました。なお、寺院さまのお名前の読み方を間違えておりましたので、URL を変更しました。そのため、新しい記事となっておりますが、写真などは元の記事と同一です。

  • この記事を書いた人
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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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