熊野権現とは?
熊野の本宮、新宮(速玉宮)、那智の三山を総称したものを 「熊野三所権現」呼んでいました。現在、熊野古道と参詣道として、世界遺産にも登録されておりますが、歴史的にも宗教的にも、非常に重要な資産・宗教施設であることは紛れもない事実です。熊野神社と称する神社は、全国各地に多数存在し、稲荷、八幡についで多いとされています。
熊野信仰は「山岳信仰」の一つととらえられ、三社に向かう道のりは非常に困難で、まさしく「修行」でもしている趣でした。そのようにして辿り着いた人々は、極楽浄土へ行くことができると信じられており、中世以来、多くの人々を惹き付けて止まない霊場となっています。
ここでは、大内氏時代に建立された熊野権現系の神社を理解するために中世神道史の中での熊野信仰について説明しています。現在とは多少異なるところもありますので、ご注意ください。
熊野神社の総本山
全国各地に分布している「熊野神社」と呼ばれる神社の総本社にあたるのは、紀伊国熊野地方にある熊野三社と呼ばれる三つの神社であり、本宮、新宮、那智を指します。総称して「熊野三所権現」「熊野三山」(ほかにも熊野三之山・熊野三ノ御山 ・熊野みかさねの山・日本第一大霊験所など色々)と呼ばれており、また、各地に分かたれていった神社も、かつては「熊野権現」と呼ばれていました。
全国各地に勧請された熊野権現の数は、稲荷社、八幡宮につぐもので、熊野信仰がどれほど盛んであったかを物語っています。
現在「熊野三所」は、それぞれ以下の呼称となっております。
本宮(隈野坐神社、旧社格は官幣大社)⇒ 熊野本宮大社
新宮(隈野速玉神、旧社格は官幣大社) ⇒ 熊野速玉大社
那智(熊野那智神社、旧社格は官幣中社 )⇒ 熊野那智大社
古来より続く聖地
熊野の地は、『日本書紀』の時代から、「熊野神邑」などと呼ばれ神聖な場所として認識されていたようです。
神代巻の一書によれば、「伊弉冉神を熊野の有馬村に祀っており、死者の霊魂がおもむく所とされ」(『中世神道入門』)ていました。古代政治の中心地・京都や奈良から望むと熊野の地はその南方にあたります。都からは少しくとおいですし、「『山中他界』の霊地」と考えられていました。古くは、奈良時代から山岳修験の人々(修験者)がそこに修行の場を求め、「修験道の修行の霊場 」として広く知られるようになっていきます。
いにしえより信仰されてきた神社の格式を確かめる史料の一つとして貴重な「延喜式神名帳」にも、「熊野坐神社(本宮)」「熊野速玉神 社(新宮)」のお名前がございます(那智大社は平安中期ころから)。いずれも、古式ゆかしい由緒ある神社であることが証明されますが、熊野信仰が盛んとなったのは、何と言っても中世のことです。
中世の熊野権現
『平家物語』巻一「鱸」の章段には「平家かやうに繁昌せられけるも、 熊野権現の御利生とぞ きこえし」という一文があります。ええっ、厳島大明神のお陰ではないの? と思いますが、のちに厳島神社に灯籠を奉納する「鬼海が島の流人」の一人康頼入道も熊野権現を深く信仰していましたし、小松の大臣が父・清盛の横暴で一門の将来が長くは続かないのであれば、どうか(その有り様を見ないですむように)寿命を縮めてくださいと願かけしたのも熊野参詣の時のこと。維盛さまが入水される前にも熊野にご参詣……と適当に思い出すだけでも山と語られております。
これは何も平家物語の作者が熊野信仰の人だったからではなくして、この時代、そのくらい誰でも彼でも熊野へ向かうというほど、熊野詣でが流行していたのです。
神仏習合と熊野権現
まず最初に、「権現」という表現ですが、これはたいていの神社解説本に必ず出てくる基本かつ重要な用語であり、表現法に多少の差異はあるものの、意味としては、
権現:仏が神の姿をかりてこの世に現われたもの
を指します。つまり日本古来の神さまというのは、仏が姿を変えたもの。その意味で仏=神という、まさに神仏が習合していた時代の呼び方です。ゆえに、神と仏がわかたれた現在では使われることがない呼び方です。ただし、明治初期に神仏分離が徹底された時と違って、今は熊野権現といったところで、怒られることはないでしょう。
その点、全国の妙見菩薩が天御中主の神に置き換えられてしまっても、人々はなお、昔ながらに「妙見さま」とお呼びしているのに似ておりますね。完璧「妙見社」に戻ってしまったところもありますしね(呼称的に。祀られているのは、やはり天御中主の神だったりします)。
権現は、特に熊野信仰について専門の呼び方ではありません。もっと広い意味で使われた用語となります。ただし、同じく習合しているからといって、あれもこれも権現と呼ばれたわけでもないですね。東照大権現くらいしか思いつかないです。
さて、神仏が習合し、神と仏が一緒になっただけではなく、熊野権現の三社も元はそれぞれが独立した神社であったものが、この頃に一つにまとまったものと見なされるようになったと考えられています。古代の時点では三社のうち、那智がありませんでした。これは『延喜式』に載せられなかっただけなのか、あとから創建されたのかちょっとわかりませんが、中世には確かに存在し、「三所権現」として整備されていたことが分っています。
神仏習合といえば、本地と垂迹ですが、以下のような関係となっていました。
本宮 ⇒ 阿弥陀如来
新宮 ⇒ 薬師如来
那智 ⇒ 十一面観音・千手観音
さらに、元々の「三所権現」にはさらに「五所王子」「四所宮」をあわせ「十二所権現」とも呼ばれるようになります。これらの三所以外の残り九所については、どこを加えるかに諸説あり、書物によっても違いますので、はっきりこれとは申せません。以下は『中世神道入門』にあったものです。
若宮王子、禅師宫、聖宮、児宫、子守宮 ⇒「五所王子」
一万眷属十万金剛童子、勧請十五所、飛行夜叉、米持金剛童子 ⇒「四所宮」
以上を三所権現と合せると ⇒「熊野十二所権現」
さらに、那智の地主滝宮 (飛瀧権現)もあわせると ⇒「十三所権現」
浄土信仰と熊野詣で
修験霊場としての熊野権現が著名となると、山籠りする修験者も増えましたが、それと同時に人々の熊野詣でも盛んとなります。朝廷関係者の信仰が篤かったことは有名です。
宇多法皇(延喜七年)を皮切りに、花山法皇(正暦二年、991) 、鳥羽上皇(21回)、後白河法皇(34回)、後鳥羽上皇(28回)を筆頭に、上皇たちの御幸はじつに100回を越えています。興味深いのは天皇としての御幸はないという点です。何十回も参詣しているのは、すべて院政期の主たちですね。
先の『平家物語』の話に戻りますが、院政期はまさに浄土信仰が盛んな時代でした。熊野の本宮の本地は阿弥陀如来です。無関係ではなさそうですね。つまりこの熊野行きも浄土への旅であったのです。無事に本宮へと辿り着くことが叶えば、極楽往生疑いなし、といった思想が根強くあったため、これは是が非でも行かねばなりませんでした。
極楽浄土への道
人が歩くところには道ができます。これほど熊野詣でが盛んになれば、参詣道も整備されていったと考えられます。少なくとも、現在は道なき道を行く状態ではないはずです。世界遺産になってもひどい悪路では、参詣に行けません。
しかし、熊野が修行の地であったことを思う時、本宮への道はかなり険しく、困難なものであったことは、想像に難くありません。苦労の末に辿り着いた先にある場所であるがゆえに、その喜びも例えようがないものとなるのです。
この頃の参詣道は
「紀路」と「伊勢路」
があったようです。
『梁塵秘抄』には、「熊野へ参ら むと思へども、徒歩より参れば道遠し、勝れて山峻し、 馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ、羽賜べ若王子」という歌があるとか。ほかにも、熊野詣でについて記した記録などはあれこれ残されており、いずれも共通していたのは「道が険しく、厳しい」という点です。艱難辛苦の果てにこそ、極楽浄土が広がっていたのです。
なお、熊野信仰の話のなかで〇〇王子という名前がいくつも出てきます。何なんだろう? と思っておりましたが(むろん、神さまということは分る)、これは熊野の参詣道にある小さなお社のことを言っています。その名も総称「九十九王子」とか。むろん、きっかり九十九あるのかは知りません。九十かもしれませんし、百三かもしれません。要するに、数が多い、という意味です。『中世神道入門』には例として、発心門王子や滝尻王子、切目王子が載っていました。「王子」というお名前から分る通り、これらの神さま方は、熊野権現のお子さまたちと見なされていました。
これらの「王子」たちは、熊野へ続く、道しるべとしての役割も果たし、また本宮への道行きを守ってくれる存在としても崇拝され、人々は順番に参詣しつつ頂上を目指したのです。
いっぽう、迎え入れる側も抜かりがありませんでした。『平家物語』にも「先達」という言葉がよく出てきますが、これには様々な意味があり、要は「導いてくれる人」のことであり、単なる道案内ではないこともあります。しかし、熊野詣でにおいては、なにぶん山道ですし、王子王子が目印になるとは言っても、道に迷うこともありそうです。ですので、道案内として、山道に詳しい山伏などを雇いました。文字通りの「先達」です。さらに、「御師」と呼ばれる僧侶たちは、参拝に来る人々の宿泊の手配や、祈祷などを行ないました。彼らは当然、無料奉仕ではなく、参詣者と師檀関係を結ぶことで、謝礼(というか寄進が適当ですね)を得ていたのです。
参詣者側も、もはや氏神に参詣しているとか、そういうことではなく、単に「極楽往生したい」という一心で本宮を目指していました。その意味で、極めて個人的で、儀式張らずに物見遊山的に行なわれた信仰であったとも言えます。それゆえに、天皇ではなく、上皇(法皇)というお気楽な身分になってからの参詣が多かったのです。
さて、よく、起請文を書くときに使われる紙を「牛王宝印」と申します。一種の護符です。とりわけ、熊野権現のそれは熊野牛王宝印と呼ばれて珍重されました。今、神社さまのホームページをみたら「カラス文字」で書かれているとありました。何、カラス文字って!? じつは、熊野三山の神使は八咫烏なんですよ。ですので、牛王宝印にもカラス(文字)で記されている、というわけです。現在は起請文など書く人はおられぬ時代となりましたが、今なお霊験あらたかな護符としては健在です。お参りすれば、我々も購入可能です。
そんな具合で、先達や御師、護符の販売などは、そのまま熊野権現の財力に直結しました。どこの神社もやっていること(厳島神社にも御師いましたよね)です。別に金儲け主義だったのか!? とかそのような無礼なお話ではございません。参詣者が多ければ、それだけ潤うのは当然のことです。熊野権現には、「三山検校職」というものがあり、天台宗の僧がその役に就いていたそうです(参照:『中世神道入門』)。そこまでも普通です。問題はそのあと。「三山をまとめるのが熊野三山検校と熊野別当で、 とくに現地で実務をとりしきっていた別当は大きな権力を持った」「豊富な財力によって強大なる僧兵を雇い、源平時代に大活躍する、熊野水軍をも支配していた」(同上)。熊野の別当湛増を思い出したよ。
武家と庶民の熊野詣で
やんごとなき治天の君の間でかくも流行していた熊野詣でですが、承久の乱(1221)を境に様相が少しく変りました。世の中は武士の時代となり、さらにくだれば、庶民の時代となっていくわけです。なので、落ちぶれた貴族の熊野詣では激減。武士たち、ついで庶民たちの熊野詣でが始まりました。
補陀落渡海
熊野の本宮に参詣することで、極楽往生できると考えられていたのと同時に、背後に霊山をいただく那智の海岸は、観世音菩薩の補陀落浄土であると信じられていました。浜には補陀洛山寺なる寺院も建てられ、沖に漕ぎだして捨身入水することを、補陀落渡海といいました。
これだけ読んでも、まさか戻って来られぬ片道切符の旅を指しているとは思えませんが。しかし、当時の人々にとっては、現世より来世のほうがずっと大切なことだったので、極楽往生を遂げるためにはなんでもやりました。浮き輪付けて入ると思いたいけど、もしかしたら……。
平維盛さまが行なったのは、まさにこの補陀落渡海だなぁと感じた次第ですが、このお方はどの道長らえることができないところまで追い詰められていました。普通の参詣者はそうではないのですから、まさかと思いますけど。
山岳修行の人々
極楽浄土を求めて熊野へ向かう人々とはほかに、山岳修行をする人々にとっては、熊野から、大峯山、金峯山へと修行しながら向かうのが正規のコースだった模様です。これを「順の峯入り」と呼び、金峯山 ⇒ 大峯山 ⇒ 熊野という正反対のルートを取ることを「逆の峯入り」といいました(『日本の神さま読み解き事典』)。
まさに、ありとあらゆる人々が熊野を信仰し、本宮を目指したり、修行したりと大盛況だったわけです。
女性にも優しい熊野
古来より聖地とされる霊場には、女性や傷病者を忌み嫌う場所があります。その点、熊野はどなたでもウエルカムだったようです。そういうところも、多くの人々の信仰を集めた所以の一つであったろうと思います。
多くの人々を受け入れると同時に、熊野権現の側でも、宣伝活動を行ないました。熊野の山伏や熊野比丘尼・歌比比丘尼と呼ばれたその妻子(娘)たちは、、「熊野那智参詣曼荼羅」や「熊野勧進十界曼荼羅」を携え、全国を回って熊野について語って聞かせ、護符を売ったりしていたといいます。
その活動範囲がどのくらいのものであったのか、手許の資料からはわかりませんが、畿内に留まらなかったことだけは確実でしょう。そうでなくとも、参詣者には事欠かなかったのに、なおも宣伝をする。なんというか、すごいですね。
最後に彼らが伝えて回ったと思われる熊野の縁起と有名なおとぎ話について記して終わりとします。
「熊野権現御垂迹縁起」
熊野権現は 唐の天台山から日本の彦山へ天降った高さ三尺六寸の「八角なる水晶の石」であり、諸国を巡った後に熊野新宮の神倉峯に降臨し、それからさらに年月を経て、本宮大斎原で熊野部千与定という猟師によって見出さ れたと伝えている。
出典:『中世神道史入門』
元々はこのようなものであったらしいですが、語り伝えられていく間にあれこれと形を変えていった可能性があります。
「熊野の本地」
中天竺の魔訶陀国の善財王には千人のお妃がいました。その中でも、最も王さまのご寵愛を受けたのが、五衰殿の女御という人でした。ほかの妃たちはこのことを深く妬んでいました。何しろ、1000ー1ですから、999人もに妬まれたことになります。エラいことですね……。
女御は山の中で(逃げていたのか?)若君を産みましたが、999人の妃によって命を奪われてしまいます。生まれ落ちた若君は山中に放置されていましたが、徳の高い僧侶によって助けられます。僧侶の元で育てられた若君は長じて、父である善財王と対面し、すべてが明るみに出ます。
妃たちの悪事を知った王さまは、彼女らのいる天竺に残ることを嫌い、若君、僧侶、五衰殿の女御(え!? 亡くなられたのでは!? と思いますが、ほかのバージョンでは命を奪われたのち生き返っていますので、再生しておられたものかと)とともに日本に渡ります。
そして、この王さまがほかならぬ熊野権現となられたのです。
……。上の縁起とはまるで中身が違いますね。まあ、おとぎ話として流布していたそうですので。難しいことはわかりませんが、昔の人々にはこの手のお話が受けたそうです。語り手の力量にもよりますが、あらすじだけでもびっくりな内容ですので、相当のインパクトがあったのではないでしょうか。現代人からしたら、「あり得ない」となりますがね。
参照文献:『日本の神さま読み解き事典』、『中世神道史入門』
なんでアイキャッチのミルが涙顔なの?
平維盛入水のためでは?
ちっ、そうじゃないかと思ったんだよ。人は見かけによるのがミルだから。
和歌山県のガイドブック見てたの。王子王子ってマジものすごい数。でもさ、熊野大社も速玉大社も水害やら火災やらで、中世からのままではないみたいだよ。あーーそういえば、湛増が闘鶏したとかいう寺があった! 何気にやたら露出してると思ったらさ、経済的に潤ってたのね。まったく。
源平どちらにつくか。もはや機を見るに敏というほどのこともない。趨勢は決まっていたゆえ。後世の脚色であろう。
(なんなの!? イケメンじゃなかったら張り倒す……)