
杉氏概略
複雑すぎてまとめるのは困難です
杉氏についてまとめることは、極めて面倒であるようです。ただし、どこかで分類を試みた先生がいらしたように記憶しています。「○○系杉」の如く。ただ、いずれのご本だったものか失念してしまいましたので、見つかり次第補足することに致します。なお、面倒である根拠は以下です。
杉氏が陶・内藤と並んで大内氏歴代を補佐したことは著名であるが、その系譜は杉八家、八本杉といわれるように複雑で、系図を組立てることは困難である。
出典:『戦国武士と文芸の研究』米原正義、おうふう、H6
そんなわけで、米原先生をして複雑と言わしめる人々を凡人にまとめられるはずがないのです。現状、あまりにみっともない状態になっている部分を修正するに留めます。
毛利家臣となった一類は「服部」氏と名乗った
『萩藩諸家系譜』で、真っ先に杉氏を探しました。毛利家臣となった人々がいたことはわかっており、また、元々は「大江姓」であることも知っていたので、簡単に探せると思ったのです。ところが、見事に裏切られてしまいました。どういうことかと「大江姓」全員について確認したところ、「服部氏」の項目に「元杉氏」として記載がありました。ほかにも、改姓して続いている人々がおられましたが、上述引用のように、「八本杉」の如く展開してはおりません。
叛乱家臣に粛清されたり、毛利家の防長経略で倒されたりした人々もおられたので、すべてが毛利家臣となったわけではないだろうということは想像がつきます。それにしても、誰がどこへ行ってしまったのか。消えてしまったのはどなたなのか。不明な点だらけです。「○○系杉」を分類なさっていた先生のご本を見つけねばなりません。
服部と改姓した元杉氏は、鞍懸山城で敗死した杉隆泰の末裔です。よりにもよって、倒された人の末裔とは。ただし、『玖珂町史』に書かれていた杉一族と鞍掛山の物語では、隆泰の子らは毛利家臣となったことが明記されておりましたので、合致しています。
さらに、叛乱家臣となるも仲違いし、陶に討伐された杉元矩の子・重輔がこの一類に連なっており、隆康の父の弟という関係です。どうもこの辺り、『実録』とはかなり異なっています。肝心の杉元矩なる名前がどこにも出て来ないのです。改名したという記述もありません。
ふと思いましたが、吉見氏のところで、元大内家臣だった時代の記録は、毛利家に提出する際、敢えてうやむやにして抹消したようなことが書かれていました。時代の流れによって記憶が曖昧となったか、敢えて名前を書き換えて提出している可能性は捨てきれません。叛乱家臣の親玉と仲違いし成敗されたという経緯があるにせよ、元は「一味」だったわけで、毛利家に提出する系譜から抹消したくなるのもわかります。土台、毛利家に伝えられた記録から大内氏家臣を再現することは無理な話なのです。
『実録』で勉強して来た通りならば、杉重輔は内藤隆世と同士討ちを始め、山口の町を火の海にした挙げ句戦死したはずです。それらの経緯も『諸家系譜』ではまったく触れられておりません。しかし、『実録』にも記録がある重輔の息子が毛利家に仕えたという点は合致しています。
美し過ぎる妻が招いた悲劇
それこそ、障りがありすぎるためか、系図からは完全に消えておりますが、杉元相という人(『諸家系譜』ではこの人物を=重輔ではないかとしておりますが、観光案内でも普通に元相となっておりますし、重輔は亡くなったはずですので、恐れながら別人かと)の子・元宣の奥方は評判の美人でした。殿さま(毛利輝元)に目をつけられ、強引に奪い去られてしまいます(この手の話、暴君・暗君の治世ではよくあるケースですが)。妻を奪われた元宣は、九州に出陣中でしたが、立腹して勝手に帰国。まさか、奪い返しにでも行くつもりだったのでしょうか? いずれにせよ、軍紀違反ですし、何事かをしでかす前に元宣は始末され、この家系は断絶します(表向き)。
輝元の奥方(側室)となった元宣の妻は、この悲劇をどうとらえたものでしょうか。いかに当主だからといって、人様の妻女を奪い取るなどということが許されてはなりません。どれほどの美貌の持ち主だったのかは知りませんが、家臣の妻に横恋慕して略奪とか、この程度の人物だったのかという話になってしまいます。被害者側は泣き寝入り以外なかったかと。権力者には逆らえませんからね。むろん、家臣の妻なんかより殿さまの奥方になれて光栄だと思ったかもしれませんが。何せ、この奥方が産んだ子が萩に移った毛利家の祖・秀就となったからです。つまりはこの事件、毛利家がまだ安芸国にいた時に起こっており、美女は隣国に連れ去られていたわけです。
殿さまの横恋慕のせいで、散々な目に遭いましたが、服部氏の一類が起こした事件というだけで、本家には何事もなく、そのまま続いたようです。
小幡氏が分出
小幡氏は服部氏の一類が、ゆえあって改姓し、別に一家を立てた人々です。上述の元宣の子は、父に連座して罪に問われる恐れがあり、父の兄弟の子であると偽りました。名目上の兄弟(従兄弟)が「小幡」と名乗り分家を立てた際、同じく小幡姓になります。その後、さらに改姓したりしておりますが、これ以降については記述がありません。
八本もあった杉の木が、わずかに二本になってしまったとは思えませんが、現状知り得たことはこの程度です。なお、使っている書物が古いため、新しい研究成果が反映されていない点があるかもしれません。とりあえず、見苦しいところを修正している最中です。
五郎他人の奥方を横取りするなんて、最低だな。お前、それでも毛利家から出て行かないのか?
鶴千代この件と、元就公とは無関係だ。
『大内氏実録』に伝が立てられている杉姓の人
杉重運
「豊後守となる(『異本大内義隆記』、『明徳記』、『応永記』)。のち出家して豊後入道と称した(法名不明)。気性激しく勇敢で、大刀を巧みにあやつった。義弘に仕えた。
明徳二年、二条大宮の合戦では、力を尽して戦い、その功績は並外れて抜群であった。将軍・足利義満は内書を与えてこれを褒めた。
応永六年、義弘が堺に東上するのに従う。前将軍・義満は義弘を諭し、戦をやめさせるため、僧・中津を堺に派遣した。義弘がこのことを相談すると、弟・新介弘茂および平井道助は慎んで義満の命令に従うようにすすめた。だが、重運はこれを非難して言った。
「都鄙(みやこといなか)で骨折って数多くの強敵を滅ぼし、忠あって不忠ない大内氏であるから、その褒美として賜った国郡ではないか。そうであるのに、将軍は理由もなくそれを減らし取り上げようとしている。その考えはひとえに大内氏を滅すためである。義弘公はこのことを問い質すために東上したのだ。内の意見はすでに外に聞こえている。そもそも公は天下の大事を計画していたのに、今将軍が諭したら俄かに従うといはどういうことか」
義弘はその通りだと思い、中津に向かい、諭旨には従いがたいと答えた。
義満が自ら兵を率いて出陣すると聞いて、義弘等は戦守の策を相談した。
弘茂は河内の高山を攻めてこれを奪い、東条土丸に出陣して紀伊・和泉を支配すれば、堺、清水の二浦は中国地方との運輸に便利な地なので、五年から十年、味方はまったく差し迫ったことにはなるまい、と言った。
重運はそれは違うとし、戦に勝てば勢いは高まり、負ければ気後れする。だから先ずる時は人を制し、後るる時は人に制せらる、と言うではないか。 いまこの地を棄て、 本国に逃れる状態を見せて船に乗り、尼崎まで行って上陸し、すぐさま将軍の陣営八幡を衝き、勝敗を一時に決するに越したことはない、と言った。
道助はこの二つの意見に反対した。海路は風波の変化を予測できない。またこの地を退けば紀州・和泉の兵は皆、将軍家に降参するだろう。そうなると、味方の兵力は元々少ないのにさらに少なくなり、敵軍は多勢であるのがさらに多くなり、勝利を得る見込みはない。天時は地利にしかず。地利は人和にしかず、と言うではないか。 公は紀州・和泉を支配すること長の年月におよび、地元の民は十分にその御恩に心服している。また兵糧と材木が多い地なので、城を築いてそこを拠点とすることが上策である。河内を奪うようなことは、そのために味方の兵を損なわざるを得ない。大事の前の小事に人力を費すことは無益である。
義弘は道助の策を採用して堺城を築き、重運に南郭を守らせた。
十二月二十一日、北郭が陥落し、義弘は戦死した。子息・備中も死んだと聞いて、重運は北郭に向かい、六人を斬った。敵兵二百余騎は勢いにおされてたじろぎ、二町ばかり逃げた。山名入道某は力があり、重運と素手で勝負して打ち取りたいと思い、太刀をなげ捨て近くに迫った。重運は眉尖刀で山名入道の胸を突いた。刀の先は背中まで通ったが、入道は屈せず、重運を引っ張って刺そうとした。重運が貫いた刀で入道をくつがえすと、入道は三丈ほどむこうに投げられて死んだ。重運はなおも敵中に駆け入って苦しい戦いをしたが、十余ヵ所に重傷を負ったので、大声で己の名を叫び、終には戦死した(『応永記』)」。『実録 巻第十九 列伝第五 諸臣』(原文文語文)
重運子息・某
「備中守となる。父に従って東上し鵙山を守った。義弘が堺城を築いてたてこもった時、備中守を呼び戻して北郭を守らせた。
十二月二十一日、敵兵が北郭を火攻めにした。たまたま風が激しかったため、楼櫓はすべて焔となった。備中守は主君と父が亡くなるのはきっと本日だろう思い、これに先立とうと山名民部少弐の陣を衝き、当面の敵十余騎を倒して進んだ。重傷を負ったがなおも突進して三人を斬り、五人を負傷させて死んだ(『応永記』)」。『実録 巻第十九 列伝第五 諸臣』(原文文語文)
杉興運
豊後守となる。豊後入道重運の後胤(子孫)である。義隆に仕え、筑前守護代となり若杉山城に居た。
天文十九年七月十七日、従五位下を授かり、二十二日、大宰権少弐となる。
※大内義隆記、同異本では大宰少弐。
天文二十年、義隆を弑逆した陶隆房は、各所に軍を派遣し、己に与みしない者を攻撃した。興運は防ぐことができず、城を棄てて逃亡。糟屋浜まで来た時、賊軍が迫って来たため自殺した。死亡した日にちは不明。
※歴名土代は九月に自害と記し、続本朝通鑑は糟屋浜を津屋邑としている。
杉重矩
「幼名七郎介(『有名衆』、『言延覚書』は重政とする。初名だろう)。のち伯耆守となる(天文六年十二月六日初見)。彦八郎重祐の子である(系図があるが、信用できないので採用しない)。天文七年十二月十四日、従五位下を授かる(『歴名士代』)。
重矩は陶隆房と青景隆著を嫌っていた。二人を排除しようと望み、 隆房に反逆の志があり隆著もその仲間となっている、として屡々義隆に二人を讒言した。
天文十八年正月、 麻生余次郎が家人・小田村備前守を殺した。陶隆房は余次郎と兄弟の契約をしており、隆房もこのことを知っていた、と所々から報告がきた。義隆が隆房に問い質すと、隆房は余次郎と契約した書状を捧げて、小田村備前守の事については、まったくあずかり知らないと述べた。
義隆は重矩がいっていたことについて、相良武任に命じ、重矩に尋ねさせた。重矩は義隆に話したことを武任にも話し、我が言を信用せずに訊問を受けることになるとは。大内氏はもう終わりだ、と言った。
重矩は武任が己の言ったことを隆房に漏らす事を恐れ、俄に意を曲げて隆房、隆著と親しくし、まず隆著に武任を讒言し、隆著に武任を恨ませてから(『武任申条々』)、隆著と心を合せ、隆房在宅の日に、隆著とともに隆房を訪ね、屋敷で武任が讒言するのをきいたとして、己が嘗て隆房を讒言したことを武任の讒言として隆房に告げた。隆房はこれを信じて大いに憤り、遂に反逆した。
天文二十一年、大友晴英を迎え当主とすることで、隆房と意見が合わず、しりぞけられて佐波郡大前村で蟄居した。口月、隆房が兵士を派遣して己を撃つときき、所領・長門国厚西郡万倉に逃れた。隆房の兵が迫り来ると、長興寺で自殺した。家人・岩武某がこれに殉じた(主従の墓がある)。
隆房は重矩が首を以て義隆の霊に謝罪してこれを梟した(『言延覚書』、『中国治乱記』。『治乱記』には、義隆御廟の前に首を掛けた。にくまない者はなかった、とある。御廟といえば、大寧寺の墓とのことだとするが、山口の寺に義隆の霊牌を立てて、その寺の霊牌前に重矩の首を捧げて叛いたことを謝罪し、人々に示すために、これをその寺前でさらしたのではないかと思われる。なおよく考えるべきである)。」『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』(原文文語文)
杉重輔
「初名は重信(『松崎天満宮棟札』)。幼字は七郎(『松崎天満宮棟札』、『言延覚書』、『中国治乱記』、『家中覚書』)のち彦右衛門尉と名乗った(天文三年十月八日の文書杉七郎、同十八年六月二十六日の文書、杉彦右衛門尉))。伯耆守となる。
天文元年、陶道麟に従い、九州で戦った。天文三年九月十八日、筑後国生葉郡大生寺城を攻め、 城将・星野常陸介親忠を斬った。
天文十八年四月六日、備後国外郡神辺城下で戦って、右膝を射られ、十六日には頸を射られた。
天文二十一年、父重矩が陶晴賢にしりぞけられて蟄居し、重輔が家督を継いだ。父・重矩は、陶晴賢に殺されて梟首された(『言延覚書』、『中国治乱記』)。重輔は慚愧憤懣して、晴賢を殺そうと望んだがその機会がなかった。
弘治元年十月一日、晴賢は厳島で敗死した。重輔はその知らせをきき、義長に、父・重矩は全薑にせまられて切腹した。只今陶五郎を切腹させてやる、と言い捨てて、七日都濃郡富田の若山城を襲い、長房兄弟を殺した(『言延覚書』、『中国治乱記』)。⇒ 陶長房
弘治二年三月二日、内藤隆世は陶家人・山崎右馬允等に哀訴され、重輔の後川原の屋敷を襲撃した。隆世は長房の母の弟である。重輔兄弟は防戦し、卯刻から辰刻になった。隆世の兵は隣家に火を放ったが、風が激しかったので、山口市街は皆炎となり、義長は今八幡宮でこれを避けた。重輔兄弟は家人・岩武備後守と十五人で血路をひらいて義長を追い、今八幡宮に来て、隆世の襲撃は義長が命じたことであろう、と義長を扯て刺そうとした。飯田興秀と仁保隆慰が彼らを遠ざけ、義長が知る所ではなかったと言い聞かせ、義長を宝殿に移し、重輔兄弟を拝殿に置いた。興秀、隆慰は内藤の陣営に赴き、義長の命で和睦をはかった。隆世は受け入れなかったが、強引に、まずは質を交換させることとなった。重輔は弟の正重に与力大野某をつけて出し、隆世は弟・彦二郎に楊井某をつけて出した。日暮になって重輔兄弟は宝寿院に入り、散らばっていた家人等も集まって来た。
⇒ 内藤隆世、大内義長
四日未明、隆世が宝寿院に来て囲み、火攻とした。重輔は隆世の質・彦二郎及び楊井を斬殺し、主従七十余人激しく戦って死んだ(『言延覚書』、『中国治乱記』)。
重輔は長房を殺害してから不安となり、ひそかに毛利氏に内通していたが、死後にこの件が露顕した。子・松千代丸は毛利氏に仕えた。」『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』(原文文語文)
杉正重
「彦七と名乗った(『歴名士代』、『言延覚書』、『中国治乱記』)。義隆の時、侍大将ならびに先手衆であった(『有名衆』)。天文十九年七月十九日、従五位下叙位(『歴名士代』)。
弘治二年三月二日、内藤隆世の人質となる。三月四日、隆世の陣営・西方寺の門前で、与力大野某とともに斬殺された(『歴名土代』には自害とある)。享年二十一歳だった(『歴名土代』、氷上山所蔵、永禄四年の二月会差定に杉彦七平元重とあり、正重の子で毛利氏に仕えた者だろう)。」『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』(原文文語文)
重輔弟・杉某
「兄・重輔と同じく宝寿院で戦死した(『言延覚書』、『中国治乱記』)。」『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』(原文文語文)
杉興重
「初め兵庫助(『高嶺大神宮御鎮坐記』、明応六年九月二十三日初見)、のち三河守 となる(享禄二年七月二十一日初見)。
義興に仕え、安芸に従軍(『棚守房顕覚書』)。義興が薨じると義隆に仕えた。
天文六年正月八日、従五位下を授かる(『歴名士代』)。この時、六十一歳だった。
天文八年六月、民部大輔となった(『歴名士代』、式部大輔とするものもあるがそうではない)。
隆房に与みして義長に仕えた。祝髪して沙弥宗長と号した(義長に殉じた杉民部大輔はこの宗長の孫であると思われる)。」『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』(原文文語文)
杉隆泰
治部大丞(『歴名士代』)。義隆に仕え、天文十九年七月十九日、従五位下を授かる(同上)。これより治部大夫と称した。
隆房に与みし、義長に仕えた。玖珂郡玖珂本郷の鞍掛山城に居住した。
弘治元年十月、晴賢が厳島で敗死すると、毛利氏に内通したが、これを悔やみ、毛利氏の動静をひそかに山口に知らせた。椙杜隆康がこれを察し、山口に宛てた書状を奪って毛利氏に届け、隆泰の心変わりを告げた。
弘治元年十一月十四日、毛利軍が来襲する。隆泰は小方隆忠と戦って隆忠に斬られた(『中国治乱記』、『歴名士代』、『椙杜系譜』、『小方系譜』)。
玖珂本郷村祥雲寺には、隆泰が開基であるとして位牌が伝わる。「鉄真院殿亭安元樹大居士、杉隆泰神儀、家士千三百七十余人幽霊、天文二十三年甲寅十一月十四日」と銘がある。二十三年は二十四年の誤りだろうと思う。墓は字丈六にあり、もと祥雲寺の旧地字谷津寺谷にあったものをのちに丈六に移したという。」『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』(原文文語文)
杉隆相(元相)
「勘解由判官(『歴名士代』、古文書には、杉次郎左衛門尉興相、杉次郎左衛門尉隆宣の名前がある。隆宣は天文十二年五月七日出雲で戦死。興相の子が隆宣であり、隆相はその子であろうと思われる)。都濃郡野上村を領有した。天文十九年十月七日従五位下叙位(『歴名士代』)。毛利に降伏後、次郎左衛門尉となり、元相と改名(隆元の偏名を賜ったのだろう)。天正十三年正月二十六日死去。六十四歳(興元寺牌名、墓は徳山興元寺にある)。子に長相がある。」『大内氏実録』巻二十八 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
杉長相(元宣)
「小次郎といった。後、元宣と改名(隆元の偏名を賜ったのだろう)。天正十七年三月六日、賊に刺されて亡くなった(興元寺牌名、墓は徳山興元寺にある)」『大内氏実録』巻二十八 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
杉長相は、『萩藩諸家系譜』にある「主君に妻を奪われた」気の毒な人ですね。近藤先生はそれこそ「みっともない過去を覆い隠す」ために、「賊に刺されて亡くなった」などと書いておられるので、強盗にでも入られたのかと読めます。というよりも、先生の時代にもこの件は禁句で、誰も真実を知らされてはいなかった可能性もあります。「みっともない過去は消せ」って系図あるあるみたいですから。にしても、地元の方にお伺いしても、びっくりだよねという反応です、この事件。
『萩藩諸家系譜』でも、杉元相=重輔ではなかろうかと書いてあり、長相はその子と推測されていますが、要はどの先生も曖昧だったわけで。ただ、重輔一味は内藤隆世にコテンパンにやられたはず。遺児がいたとも思えないんですよね。でもって、『実録』が長相の父としている、隆相についても「あろうと思われる」的な書き方で、何をした誰だったのか曖昧。闇に葬られたんだろうって思いますが、そこは個人的見解です。
いちおうまとめると、
杉興相―杉隆宣(出雲で戦死)―隆相―長相
で、興相、隆宣は「古文書」に名前があるだけで、近藤先生も、伝を立てるほどの詳細は不明だった模様。隆相については『歴名士代』が根拠みたいで、興元寺(徳山)には墓まで存在。話が面倒になっているのは、彼らが改名していることで、ありがちだけど、毛利万歳で毛利隆元から「元」の字をもらって、隆宣は元相に、長相は元宣になってしまっていること。同寺院の創建者は、他ならぬ元相です。跡を継いだのが元宣。元宣は元相の子らしく、同じ寺院に墓あり。こうなると、かなり真実に近くなる気がします。
で、妻を奪われた上、殺された元宣は恨み深く、「菩提寺・興元寺には、大晦日に白馬に乗った霊があらわれ、郡山城や広島城もたびたび彼の霊に悩まされたという」(『山口県の歴史散歩』)。怪奇現象など科学的にあり得ませんが、悪事を働いた者たちが幻覚に怯えるいうのは普通にあることです(後ろめたいことをした自覚があるため、存在するはずもない物が、見えてしまう。多分、医学的には診断できるかも。ただし、悪いことをした自覚があったか不明)。障りがありますので、これ以上はノーコメントに致します。
参考文献:『大内氏実録』、『萩藩諸家系譜』、『山口県の歴史散歩』
五郎分類できないほど大量にいる人たちの説明がこれだけとか、あり得ないな。期待してないけど、続きがあるんだろうね。

【更新履歴】20260421 改訂
