

さて、最初にお断りしておきますが、このサイトでは、この人を最後の当主としては数えないスタンスをとっています。従いまして、中には違和感を覚える方がおいでかも知れないことをお詫びいたします。
陶隆房らが擁立した傀儡当主である。最近の研究では擁立されたにせよ、何にせよ、将軍から「当主である」と認められたことで、この人を「最後の当主」、彼の死をもって「大内家の滅亡」とする研究者の方が主流である気がする。
しかし、歴史教科書では大内家の滅亡は 1551 年。つまり、大寧寺の変で大内義隆が亡くなったことをもって滅亡とする。どこからどう考えても、この人物は「大友家の人」であり、何一つ業績を残していないので、世間の意見は多々あろうことは分かっているが、ここでは敢えて、彼を「当主とは数えない」のでそのつもりでいてください。
淡々と事象を並べているだけで、批判めいたことは何も書いていませんが、気になる方はお読みにならないことをおススメします。
基本情報
父:豊後国主・大友修理大夫義鑑、母は義興の娘で義隆の姉。
義隆の猶子(契約の年月日不明)
替えパーツとしての人
陶隆房は叛逆の準備に取り掛かるにあたり、義隆の後釜として、大友晴英に白羽の矢を立てた。反乱者たちは、義隆が隠居し、その息子・義尊を跡継ぎにたてる、という選択肢をとうに捨てていたから、多少なりとも大内家にかかわる人物としたら、この大友晴英くらいしかいなかった。選択の余地はなかったと言っていい。
さて、晴英の血筋だが、『実録』では大内義隆の姉の娘、つまり「甥」となっているけれども、大友家系の系図だと、母親が違っていることが稀にあり、今ちょっとその典拠をもってこれないけれども、大内晴持同様、姉の嫁ぎ先というだけで、血縁がない可能性も否定はできない。
ただ、当主の替えパーツとして申告するのに、血縁もない人物だと説得力が弱いので、ここは大内系の系図にあるように、義隆の姉であったというほうが正しいと思う。
ほかにもう一点、この晴英よりはずっと、スケールが大きい人物として、大友宗麟がいるけれど、この人が晴英の同母兄だったのか、異母兄だったのか、ということも時折話題になる。もし同母系ならば、大内義興の孫ということになり、名将の系譜を引いていることになる。
ちなみに、定説の典拠として使っている『日本史広辞典』によれば、義長は義隆の姉の子、宗麟の弟とあり、兄弟の生母が同じ人物であるかについての記述はない。
降って湧いた地位
なんだかんだ言っても、姉の嫁ぎ先という点で、大友氏は身内である。だから、陶らに不穏な動きあり、としつこく注進された義隆はいかに何の方策も講じなかったといえども、いちおうはいくつかのことはやっていたと見える。そのうちの一つが、身内である大友家への連絡だった。
つまり、噂通り陶がなにがしかの振る舞いに及んだ時には、力を貸してほしい、と事前に頼んでおく類の事である。そのことは、晴英の耳にも入っていた。陶らはひそかに晴英と連絡をとり、このような計画を立てているので、成功した暁にはあなたが当主の座についてください、と誘った。晴英はこれを快諾し、れいの、義隆が大友家に宛てた「万が一のときには云々」の「密書」の類をすべて陶方にみせてしまったという。
この時点で、晴英は完全に陶方に取り込まれ、もはや叔父である義隆がどうなろうとも知ったことではなく、自らが大内家の当主となるという夢のような話のほうに飛びついていたわけである。
謀叛は成功し、晴英は晴れて大内家の当主として迎え入れられる。その際には、いにしえの琳聖太子の故事にならい、まずは多々良浜に上陸し、太子がそこで数日間逗留したというところまで忠実に再現した上で山口入りをしたのであった。
なお、晴英の大内家入りに際して、兄である義鎮(宗麟)はこれに反対したという。陶等のしたことは叛逆であるので、そのような者たちについて大内氏の当主になるのはよろしくない、というのがその理由。随分と筋が通っていてまっとうな意見であるように思えるが、宗麟がそこまで義理堅く潔癖な人物ではなかったことは、その後のあれこれからも分かるので、これは単なる逸話だろう。少なくとも、晴英は兄の意見に耳を貸さなかった。
当主のお仕事
有能な家臣がいれば、国政は回る。まして傀儡ともなれば、やることはほとんどない。とはいえ、反乱者たちに傀儡が必要である理由は、どれだけ頑張っても彼らは当主にはなれないからで、何事も最終的な裁断を下すことは当主の役目であるからだ。
細川政元がいくら「半将軍」として頑張っていても、京都にはやはり将軍が必要。たとえハンコを押すだけだったとしても。実際、晴英の権限がどのくらいのものであったのかは分からない。ただし、幕府に届け出、家督を認められた以上、あれこれの裁断権は最終的には彼にある。その後の世の中の流れを見ていけば、家臣が完全に主に成り代わってしまったケースはあるわけだけれども、少なくとも、この時点での、この家ではそうではなかった。
だから、たとえ、重臣たちがなにもかもお膳立てしてくれたとしても、彼が最終決定を下し、サインして印鑑を押して書類を完成させなくてはすべては完結しない。その意味で、当主としての彼は「大内家」にはなくてはならない人であったことは確かなのである。
遅すぎた改革
陶等が起こした政変の意義については、ここで議論することではないので割愛するが、少なくとも、彼らには公家趣味に没頭し国政を省みない当主を追放し、新しい国造をしていこうという理想のようなものがあったに違いない。
しかし、戦国時代の荒波は、先代・義興の頃からすでに始まっていて、名門だから、大国だからと胡坐をかいていられる時代はとうに過ぎ去っていた。政変による当主の交代もそのような現状を目の当たりにして、国の将来を憂えてのことであったのだろうが、いかんせん、何もかもが遅すぎた。
すでに、ぐちゃぐちゃになっていた周辺諸国をまとめていくには一致団結した強力な政権が必要であるのに、政変という暴力的な手段で強引にことを進めた彼らに賛同する者は少なく、ただでさえ一枚岩でない所に、そのやり方に不満を持つものたちの反抗、力を付けてきた小領主らの叛乱と、ありとあれゆる矛盾が一挙に噴き出した。
兄・宗麟が言っていたように、このような面倒なところには行くべきではなかったわけである。それでもこちらの道を選択してしまった以上は前進していくしかない。晴英は陶等に全権を任せつつ、少しでも現状が安定しくいくことを望むしかなかった。
まさしく、前途多難であった。
服従しない人々
まず最初に、陶らの謀叛を快く思っていない人々、彼らの存在は邪魔となる。じっさいの所、大半の人は無関係とはいえ、中には義隆からの恩顧篤かった者、もしくは、義理堅すぎて叛乱を起こすなどと言った思想についていけない者は一定数いるので、それを除いて行かなければならない。
晴英政権(晴英はのちに改名して義長といったが、あくまで大友家の人として貫くつもりなので、敢えて変えない)は、それらの反対派を排除した。それについては、陶の叛乱に加担した毛利家も援助した。
天文十一年~備後での合戦。おもに毛利元就が諸城主を攻撃。このあたり、背後に尼子家がついていたりしてややこしく、合戦すること何年にも及んだ、江良房栄、弘中隆兼、内藤興盛、椙杜隆康と多くの家臣が派遣された。天文二十二年十二月、味方は尼子に属す諸城砦の攻略を一通り終え、尼子晴久が雲州に退ぞいて、ようやく備後が平定された。
これと並行して、安芸・石見においても、反・晴英政権の人々を討伐する合戦は続いていたわけだが、そんな中、義隆の姉聟にあたる、石見の吉見正頼が挙兵した。これは、そもそも、陶と犬猿の仲の人物で、しかも大内氏の仇討的な大義名分を掲げていたから、陶晴賢(晴英の晴の字を賜り、改名していた)はこの人物の討滅に躍起になった。
陶 vs 毛利
石見の吉見討伐には、晴賢自らが兵を率いて赴いたのみならず、当主の晴英までも親征するといった念の入れよう。それだけ力を入れて叩き潰す所存だったのであろう。ゆえに、付近の国人領主たちのもとには出兵を促す命令書が送られた。本来ならば、大内家の催促に従い周辺諸国が兵を出し、ともに討伐にあたるのは、当然のことであった。そもそも将軍からの討伐命令などがくだされたのならば、守護である大内氏の差配に従うのは将軍からの命令も同じである。
今回、それが将軍の下知とは無関係な陶と吉見との先祖代々に渡る怨恨のゆえの合戦であったとしてもそれはかわらない。大内氏と周辺の小領主とのあいだにはそれだけの力関係があったはずだ。ところが、それらの助っ人の中で、最も頼りになるはずの毛利元就は陶方からの催促を無視した。
命令に従わなかったのみならず、毛利は大内(陶)に反旗を翻し、佐東郡金山、佐西郡桜尾、草津、安南郡仁保島等の諸城を接収し、厳島までも我がものとしてしまったのである。陶晴賢の怒りは喩えようもない。もはや、吉見どころの話ではなくなった。大内と吉見とは和睦を結び、晴賢は毛利潰しに専念することとなった。
崩壊する楼閣
陶が厳島で敗れたことは、ここに敢えて書くまでもないだろう。どれほどまでに大打撃を被ろうとも、本来ならば単に一武将の戦死で終ること。しかし、晴賢のおかげで当主の座に就き、ほとんど彼の采配にハンコをおしていただけの晴英にとって、彼の死はあまりにも大きかった。
晴賢の死後、その妻の弟・内藤隆世が晴英を助けた。しかし、とうてい晴賢ほどのインパクトはない。それのみか、単に生きるか死ぬかの大博打に勝って命永らえただけかと思われた毛利家は、これ幸いと今度は防長の地をすべて手に入れるべく侵攻を始めてきた。⇒ 内藤隆世
本当に、晴英からしたら、我が身の運命を呪うしかないだろう。
降伏と内輪もめ
晴賢らの政権はよほど評判が悪かったらしく、毛利家の侵攻にあわせて、そそくさと降伏する者が後を絶たなかった。重臣の一人が戦死して、パワーバランスが大きく崩れたとは言っても、しっかりとした当主が頑張っていたらこうはならないはずで、それだけ皆が、晴英を当主とは認めず、晴賢らを苦々しく思っていたことの表れではないか、と思う。
とはいえ、そのた多くの人には、そんな感情的な問題よりも自らの将来を考えることが先決だから、降伏すれば命は助ける上、現在の地も身分も保証するといわれたらおとなしく降参するのが筋だろう。
玖珂郡蓮花山城主・椙杜隆康と、鞍掛山城主・杉隆泰の話は中でも有名だ。彼らは元々隣り合った城の城主だったが、そもそもあまり仲が良くなかったらしい。毛利方から内通を求める書簡を受け取り、椙杜はさっさと降伏した。いっぽう、杉のほうも降伏するつもりだった。毛利からしたら戦わずとも二つの城が手に入るのでこれ以上楽ちんな話はない。
⇒ 椙杜隆康、杉隆泰
ところが、杉のほうは後から心変わりしたらしい。椙杜はそのことに気付き毛利方に密告。哀れ、毛利&椙杜の連合軍にやられた杉隆泰は戦死。椙杜はちゃっかり元杉の領地をもらって毛利の忠臣となった。
陶隆房の嫡男・長房は父が出陣中の若山城を守っていたが、そこに杉重輔とその弟が突如攻め込んできた。毛利の侵攻には備えていたとはいえ、杉兄弟は同じ大内氏の味方の筈である。しかし、杉重輔は政変の折、最初は晴賢に味方していたものの、のちに仲違いして殺されていた。つまり、晴賢は彼らの父の仇だったのだ。晴賢が亡くなった後、父の仇討のためにはせめて残された晴賢の子らを殺すしかないので、杉兄弟は味方かどうかなどはほったらかしで、長房らを襲ったのである。
⇒ 陶長房、杉重輔
気の毒な長房は支えきれずに亡くなったが、これに黙っていなかったのが、長房の叔父・内藤隆世である。そして今度は、隆世と重輔の争いが始まった。毛利家が迫っているという国家的危機の状況下で、こちらはとんでもない内輪もめだ。
あろうことか重輔は、内藤隆世が攻撃してきたのは彼を側近として用いている晴英の命令ではないのか、と詰め寄って来たから晴英は身の危険すら感じた。そこは家臣らがなんとかなだめすかして、とにかく杉と内藤の内輪もめをやめさせようと試みたけれども、結局彼らは聞き入れようとせず、結果として杉兄弟は内藤隆世によって自害に追い込まれた。
この時の、杉と内藤との合戦で山口の町は火の海となり、多くが燃えてしまった。後の人は、陶隆房の政変や毛利家の侵攻のためだと思っているかもしれないけれど、実際には彼らのせいというよりも、こうした内輪もめと、その後の大内輝弘の乱による被害が大きいのである。
幻の城
大内屋形が合戦時の防御にはまったく向かないものだったことは、大内義隆が政変に際して法泉寺に逃れたところの話でも出てくる。毛利家との関係が雲行き怪しくなってきて、内藤隆世と大内晴英は、万が一の時の詰めの城として、高嶺城の建築を始めていた。
しかしながら、毛利家の侵攻のスピードが速すぎたことで、城の建築はまったく間に合わず、それでも大内氏館に居残り続ける危険とは比較にならない上、そもそも杉と内藤との合戦による火事で館には住まうことができなくなっていたから、主従は早々に未完成の高嶺城に移った。
この城が無事に完成していたとしても、毛利家が防長の主になるという史実は変えられなかったと思う。しかし、どれほどの機能の城となる予定だったのかはとても気になる。それについては、のちに、毛利家がこの城に城番を置き、文字通りの「城」として使っていたことからもある程度想像できる。さもなくば、日本の城100選なんぞに入っているはずはないであろう。返す返すも彼らの手で完成までこぎつけられなかったのは無念であったろう。
高嶺は未完成であったこと、兵糧も尽きてきたこと、などから、主従は名残惜しいこの城を棄てて、長門国豊浦郡の且山城へと逃れた。
弘治三年、毛利家は唯一その攻略に手を焼いていた須々万の沼城を落とし、ついに山口へと侵攻してきた。
夢の夢
毛利軍は且山城を包囲した。包囲網は徐々に狭まり、守備兵らは次々に逃亡した。このところ、三月□日からとなっていて、具体的に何日なのかわからないけれども、近藤先生が十八日より後のこと、と明記されておられる。十八日としても、結局、四月二日には城を出ているから、二週間も耐えられなかった、ということになる。
毛利側の出した条件は、内藤隆世の切腹だった。大内晴英はどう考えても、大友家の人間で「借りて来ただけ」なので、陶の一味である内藤を処分したらあとはどうでもいい、という。内藤はとにかく、晴英がその言葉を信じたのかどうか……。
四月二日、内藤隆世は切腹し、晴英は城を出て、長福寺に入った。
約束通りなら、内藤の死を以てすべてが終わるはずが、晴英は兄のもとに返してもらえるでもなく、一生寺の中で経を読んで暮らすでもなく、そこで自殺させられた。ここは完全に、毛利家が騙したのである、
毛利軍は晴英、こと、大内家最後の当主・義長を名乗っていた人物の首級を毛利元就親子の元に送り届け、父子はそれを確認した後、最後の場所である、長福寺に埋葬した。
長福寺はのちに、毛利家に大切にされ、功山寺と名を変えて現在も存続する。義長の墓もそこにある。
叛乱者たちに擁立されて、他家の当主の座に就き、たとえ傀儡と分っていても大国の主をやりたかったのか、あるいはやがては国を牛耳ろうと言う野心でもあったのか、本人に問うことはできないが、妙な色気を出さなければ、やがて九州で大勢力となった大友宗麟の弟として、全く違った人生がまっていたことだろう。
なんだかすべてが夢の中の出来事のように思えるが、夢なら覚めるが、どうやら現実だったようで、彼の人生にはその後はもうなかった。本人にとってそれが楽しい夢であったならば、たとえ短い間であっても、それはよい思い出であったろう。果たして楽しかったと言えるのかどうかは、それこそ本人にきいてみるほかはない。
すくなくとも、大内家の滅亡と、大友晴英とのあいだには、なんら因果関係はない。この家は 1551 年ですでにおわっていたのだから。
参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻二十八「叛逆」より
※この記事は「大内義長 最後の当主」をリライトしたものです。
リニューアル前公開日:2020年8月23日 2:13 PM
リライト前の記事もしばし置いてあります。⇒ 過去記事倉庫

直すまえのほうがマシとかクレームの嵐になったら悲惨……。古いモノって敢えて見せる意味あるわけ?

なんとなく……。