大内教弘とは?
大内教弘は室町時代、守護大名・大内氏の第二十八代当主。文武両道に秀で『新撰菟玖波集』の作者の一人に数えられているほか、雪舟や正徹の弟子・正広のような文化人を山口に招聘するなど、文化サロンとしての西の京やまぐちを知らしめた人。文化人はじめ、山口を訪れる人々の迎賓館的役割を果たす別館として、築山館を建てたことで知られる。
死後は「築山大明神」として神格化された。武士の神格化は教弘が初めての例である
大内教弘・基本データ
生没年 1420-1465.9.3(寛政六年愛媛県居興島にて病死、46才)
父 盛見
養父 持世
母 ?
妻 妙喜寺殿(山名時煕の娘、宗全の養女)
通称 六郎、新介、大内介
別名 教弘法師(『氷上山三重塔婆願文』に記載あり)、築山殿(築山館を造営したことによる呼び名)
神号 築山大明神
法名 闢雲寺殿大基教弘教弘大禅定門
墓所 闢雲寺(吉敷郡小鯖)⇒ 現・泰雲寺(山口市)
官位等 周防介、左京大夫、大膳大夫。従五位下 ⇒ 従四位下、贈従三位。従五位下(文安三年二月十五日初見)⇒ 従四位下(叙任の年月日不詳)、左京大夫(嘉吉二年三月十一日同)、大膳大夫(宝徳元年書写経文奥書では左京大夫なので、これより後の任官)、周防、長門、豊前、筑前の守護(補任年月日不詳)
勢力範囲 守護分国のほか、石見、安芸、肥前に及ぶ
(典拠:『日本史広事典』、『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』等)
家督継承と勢力拡大(合戦)
系図が教弘を持盛の子としているのは誤りである。根拠は、義興が益田孫二郎に贈った書状に、「永享三年、筑前国深江合戦の際、兼理は曽祖父徳雄と同じ場所で討死した……」と書いていること。教弘は政弘の父、義興の祖父であるから、盛見が義興の曾祖父ならば、教弘が盛見の子であることは明らかである(『実録』)。
嘉吉元年、足利義教が赤松満祐に殺害された、いわゆる「嘉吉の乱」で、養父・持世が亡くなった。持世は教弘を嗣子としていたことから、家督を継いだ。これ以降の家督は、すべて実子相続となる。
宝徳元年(1449)、教弘は上洛。ただし、すぐに帰国したようで、その後も在京した痕跡はない。諸大名のなかで、「いち早く在京を辞めた」人物と評している研究者もおられた。
九州での合戦(vs 少弐氏)
将軍を弑逆された幕府は、諸大名に赤松家の討伐を命じたが、少弐嘉頼はその命令に従わなかった。そのため、教弘に少弐討伐の命が下る。これをきっかけに、少弐家との合戦が始まり、結果として、勝利した教弘が九州における大内氏の勢力をさらに拡大することになった。
筑前での戦いに敗れた少弐嘉頼は、肥前・平戸へ逃れ、さらに対馬に渡って宗氏を頼った。その後も、筑前に戻って再び大内氏と戦ったが、勝利は得られず、またしても対馬に逃れて行く。
少弐の所領・博多、大宰府等の地は教弘の支配下に入り、九州はいちおう落ち着いた。いちおうと言ったのは、この後も少弐は度々騒ぎを起こしているからで、政弘 ⇒ 義興 ⇒ 義隆と、最後まで少弐との合戦は続いた。そのつど、菊池、大友云々と情勢にあわせて少弐に味方する者があったから、豊前を除いた北部九州はまさに火薬庫だった。
ところで、この時の九州での合戦に、教弘の兄弟(兄説が有力)・教幸が、敵方に加わっていたというご研究がある。つまりは、教弘の家督相続に異議申し立てをした、ということになる。どうやら、ここでは互いに相手を倒すほどの騒ぎにはならなかったとみえる。それゆえに、まったく指摘されていない本などが多い。教幸は素直に教弘の家督継承を認めたものか、その後は大人しく当主の兄弟というポジションにあった。⇒ 関連記事:大内教幸
安芸での合戦(vs 安芸武田氏)
安芸国佐東銀山城主・武田大膳大夫信賢と桜尾城主・佐伯左近将監親春との間に領地争いから戦闘が起こり、親春は教弘に救援を求めた。親春は娘婿なので、教弘自ら軍を率いて安芸に向かい、信賢は敗走した(『実録』)。
桜尾城主・佐伯左近将監親春とは、つまり厳島の神官である。安芸武田家と厳島神社との領地争いとは「厳島神領」がらみ。武田氏はいわゆる甲斐源氏の甲斐武田氏と同じ人々。鎌倉時代に、甲斐国と安芸国の守護職になって以来の名門だとか。安芸国には最初、守護代を置いていただけだったが、のちには下向して銀山城の城主となった。銀山城入りがちょうど南北朝時代の時期で、最初からずっと、足利氏に味方して活躍した。なので、安芸国ぜんぶを任されたのだが、ぜんぶといわれて喜んだものの、そこには「厳島神領」といって、武家が手出しできないハズの領域があった……。というようなところから、武田氏と厳島神社との間にはずっと領土問題があったのである。
教弘の孫・義興の代から、大内氏はまたしても厳島神主家がらみの争いに巻き込まれる。教弘代では神官と身内であり、味方として神主側に加勢しているが、義興代のそれは敵対勢力として完全に対立するので、争いの立ち位置は祖父の代とは全く異なるものとなる。
『実録』に「長禄元年丁丑春三月、安芸国で戦う」以下、安芸国での合戦年譜が載るが、それはこの戦いのことだろう。右田石見守貞俊、安富備後守行恒、右田弘篤等の武将名が見える。
やや年代が下がって、「寛正六年乙酉秋八月廿六日、陶越前太郎弘正(越前守盛政の子)が安芸国府の戦いで戦死」ともあり、安芸国はなおも戦が絶えない状態であったことが分かる。
伊予での合戦(vs 細川氏)
寛正五年(1465)十一月、将軍・義政は、僧・承勲を派遣し、教弘に伊予へ軍を出すように命じた。伊予の河野通春が幕府の命令にそむいたので、宇都宮家や細川家臣等が河野家を攻撃し、合戦に及んでいたためである。教弘にも、幕府方を援助するよう求めたのである。
ところが、教弘は幕府の命令に反して、討伐対象であるはずの河野通春のほうに味方した。通春との間に婚姻関係があったからだとされるが、それ以外にも、細川家との関係が険悪だったから細川家と対立していた側の通春に肩入れした、という事情もあった。
大内家と細川家が犬猿の仲であり、つづく応仁の乱でも、教弘の子・政弘が反細川側の山名家に味方したことは有名だけれども、そもそもいつ頃からかくも仲が悪くなったのかと遡ると、はっきりしているのはここのようである。それ以前の当主たちは、家督相続のゴタゴタなどで、幕府に正統性を認めてもらうことがまず先決という状態だった。瀬戸内海の利権衝突という意味では、とっくの昔に細川家と対立していたであろうが、顕著になったのはこの事件からで、その後も融和状態になったことはない。
寛正六年(1465)九月三日、伊予に出陣中だった教弘は病にかかり、この日、伊予国・興居島で亡くなった。
義政将軍も医師を派遣して治療させたけれども効果はなかったという。幕命に背いていたはずなのに、将軍から医師が派遣されてきたというのも奇怪なことだが、経済的にも大内氏の援助をアテにしていた幕府としては、細川勝元の私怨的な合戦どうのこうのより、教弘の寿命のほうが重要事項だったのかもしれない。
鷲頭氏を討つ
典拠にしているのが『大内文化研究要覧』であるゆえにか、珍しく、この件についての記述がない。当主の事蹟として、鷲頭氏を討ったとあるだけで、詳細について記されていない。「文化」研究としながらも、主な合戦や事件は漏らさず年表に載せてくださっているのだが。
ただ、この件は、大寧寺の由緒にもあったように記憶している。あの寺院を建てたのは鷲頭氏なので。大内弘世の時代、鷲頭長弘が惣領顔していたのはとにかくとして、その子・弘直に守護職が世襲されていく事態を苦々しく思った弘世は、鷲頭氏と戦った。同族一門なのに、南朝と北朝に分れて云々というあれ。しかし、そこで鷲頭一族を滅亡させるとか、そんな恐ろしいことはしていない。単に、惣領は誰のものか、ということを分らせたに過ぎない。鷲頭氏はその後も、子孫繁栄し、下松妙見社を管理していたではないか。
しかし、教弘代に来て、どうやら再び雲行きが怪しくなったらしい。この時の鷲頭家の当主は弘忠で、大寧寺の開基となった人。当時、長門守護代を務めていた。しかしながら、その勢力がやや肥大化している感があったらしく、討伐対象になったらしい。なんだか、足利義満の有力守護弾圧政策みたいだけど。鷲頭側でも危険を察知して防御を固めたので、合戦となってしまった。
大寧寺のような名刹を創建した人なので、風雅な人物であったと思われるが、当主に危険視されるようなことを、何かしでかしたのであろうか。教弘は危機感を覚え、それゆえに討伐に至ったのである。さもなくば、わけもなく命を奪われるはずがない。この件については現状宿題。
文芸のこと
和歌と連歌
合戦事項ばかり並んでしまったが、教弘はけっして武辺一辺倒の人ではなかった。息子の政弘の業績が輝きすぎているせいで霞むが、大寧寺に前関東管領上杉憲実を迎え、山口に雪舟を招いたのは教弘だし、正徹とも交流した。正徹が周防に来ることはなかったが、その弟子・正広は下向している。
教弘は兵部卿師成親王に和歌を学び、その御筆の李花集を賜った(『実録』)。兵部卿師成親王については先生方のご研究が諸説あるので、ここでは保留する(享徳元年、1452)。
政弘同様、教弘も連歌を善くして、『新撰菟玖波集』に作品が収録されている。このように書くと何やら父が息子の付属品みたいだが、息子が父に学ぶのが正しい順序。政弘という文武両道に秀でた類まれなる雅な当主が誕生したのは、同じく文武両道で優秀な父・教弘の血を受け継いでいるからである。
というようなわけで、教弘については(というよりも、この家の当主は全員そうだが……)文芸関係の業績が山とあり、混乱するので一巡目(リライトするから)はアウトラインだけ。米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』は素晴らしいご本で、大内氏についての記述に大分を割いておられ、これさえあれば何もいらないのですが、文学的教養がない人間には難解な内容であるため、混乱を避けて初回は素通りです。
メモ
正徹:しょうてつ、室町中期の家人。冷泉尹と今川了俊に和歌を学ぶ。足利義教に嫌われたため『新続古今集』に和歌が載っていない。義教死後の歌壇で活躍。藤原定家を崇敬し、独自の幽玄な歌風を創設。門下、心敬。『正徹物語』ほか
雪舟:せっしゅう、室町中期~戦国期の画家。雪舟は道号、諱は等楊。備中国の人。京都相国寺で修行するかたわら周文に絵を学ぶ。明に渡り、李在らに学んだ。大内氏の庇護を受け、山口を拠点に活動。宗元の画に学んだ幅広い作品を残した。
李花集:りかしゅう、後醍醐天皇の皇子・宗良親王の歌集。後村上天皇、懐良親王、北畠親房、二条為貞などとの贈答歌を含む。二条派の平坦な歌が多く、感懐歌が特徴。
社寺建立など
嘉吉二年(1442)香積寺の五重塔が完成。
教弘の父・盛見が、兄・義弘の供養のために建立を思いたってから、二代のちになって、漸く完成をみたのだった。ただし、盛見がその建立を思いたったのは事実ながら、いつ頃から着工したのかについては、具体的な年代を記しているものがない。完成年度については、巻斗の墨書から明らかである。
大安四年(1444)氷上山妙見社上宮再建遷宮
法徳元年(1449)興隆寺に大蔵経を寄贈
享徳三年(1445)宝珠山瑞雲寺を再建。曹洞宗寺院に改め、寺号も龍福寺とする
康正元年(1455)大功円忠を妙喜寺開山に招く
寛正四年(1463)氷上山興隆寺に三重塔を建立
長禄三年(1459)祇園社の社殿を竪小路から水の上に遷し、再建
長門深川大寧寺にまつわる、文芸関係の出来事が二つある。
一、永享十二年(1440)の頃、元関東管領を務めていた上杉憲実(文化史のご本には、足利学校や金沢文庫を整備し学問に貢献と書いてあるけど、それ以外に東国のゴタゴタに巻き込まれまくったお方であるらしい。東国のことは分らないのでお調べください)が大寧寺に来た。以来、教弘は彼と養子関係を結び、二十年もの長きに渡りあれこれと学んだ。
一、大寧寺の歴代住職は綺羅星のような方々だったが、開基にして檀越の鷲頭弘忠が教弘に誅されたことで、その時寺院にいた竹居正猷も寺院を去った。しかし、教弘に懇願されて留まることとしたという。
大内氏壁書
戦国大名の「分国法」のようなものにあたるものを、大内氏の場合「大内氏壁書」という。ナントカ法度とかなっていると、それっぽいのだけど、「壁書」って壁に貼り紙でもするの? と何となくダサい気がしていた。すると、何と読んで字の如くで、本当に壁に貼られていたという。むろん、家中独自の掟というか、法律としてきちんと成文化されたのだが、それは何も家臣たちのためだけに存在したわけではない。領国の民に向けての「御触書」的なものでもあった。
ゆえに、人通りの多いところなどに、目につくように貼り出した。山口町歩きをガイドさんとともに行なうと、ここら辺に「壁書」が貼ってあったのです、というお話を必ず聞くはず。残念ながら忘れてしまったが、むろん、当時の掲示板(?)のようなものは残されておらず、だいたい想像される位置が伝わっているに過ぎない。
先代・持世の頃にも、年表に「壁書」に関する記述があった。けれども、教弘・政弘父子の代には、その数が多数に渡る。勢力範囲が定まり、国が安定してくると同時に、法律も整備され始めたといえよう。
教弘代の主な記録
長禄三年(1459)教弘は子・亀童丸(政弘)と氷上山上宮に参拝 ⇒ こうしてみると、法律以外に国家的イベントについても掲示板に貼り出して、領民に周知させていたらしきことがわかる。
長禄三年(1459)夜中の大路往来、辻相撲、夜中に湯田の湯に入ることなど七箇条の禁止令
完成元年(1460)非家人を養子にすることを禁止
寛政二年(1461)山口から領国各地への到着、請文日数を制定
寛政三年(1462)「調布丈量の制」制定 ⇒ 年貢の麻、売布の寸尺を定めた
寛政三年(1462)猥りに人を殺害することを禁止する ⇒ 殺害事件の犯人を島流しにした案件が起こっていた
対外通交(明、朝鮮)
通信符と『琳聖太子入日本之記』
教弘以前の当主たちも、朝鮮との通交に熱心であったが、教弘期も同様。とりわけ、亨徳二年(1453)に朝鮮国王が教弘に通信符を贈ったことが重要。
これは、朝鮮に赴く使節団が外交文書に押すハンコのこと。銅製で、側面に「朝鮮国賜大内殿通信符、景泰四年七月日造」の十八字が彫ってある。
朝鮮との通交を望む西国の国々は数多かったが、日明貿易における勘合のように、正式な使節にはその証が必要だった。ほかの大名たちも、それぞれ証の品をもらって通交していたが、大内氏に贈られたこの「通信符」はそれらの証より強力なアイテムだった。
通信符は毛利家所蔵となり、たしか毛利博物館にあるはずである(ちょっと未確認)。
同じ年、教弘は朝鮮に派遣した僧・有栄らに、朝鮮国王に対して始祖・琳聖の「日本入国記」を求めさせている。国王は、ハンコをくれるとともに、「日本入国記」要求への回答として、「日本六州の牧左京大夫(義弘)は百済温祚王高氏の後、その戦乱を避けて日本に仕う。世に相承けて六州の牧に至る。尤も貴顕たり」というような古記録がある旨伝えてきた。実はこれ、義弘期に、始祖が百済の王族であることの証左が欲しいと頼まれて、必死で古記録を探して上記のように定め、文書化しておいたものだったりするのだが。教弘は、これらの回答を元に『琳聖太子入日本之記』なる文書を作成した模様。これらの事情は、大内氏の先祖伝説や、朝鮮との通交について研究なさっている先生方の論文などに詳しい。
教弘期の朝鮮交易
文安元年、二(2回)、三、四、宝徳三、享徳元年、二、長禄二年、寛政元年(2回)、寛政三年(2回)、六
日明貿易
明国との貿易は、勘合貿易と呼ばれる朝貢貿易。足利義満が「日本国王」として、冊封され、明国皇帝に臣下として貢物をお届けする交易である。これを屈辱的と嫌う人(特に古い時代の研究者)が多いが、名より実を取るのが賢い。その意味で、中国人の中華思想とやらを逆手にとってボロ儲けするのは、美味しい話でしかないのだ。卑屈になる必要などまったくない(個人的な意見です)。
つまり、腰を低くして頭を下げ、貢物の品々をお届けするだけで、皇帝陛下はそれを遙かに上回る下賜の品々をくださる。相手は自らを大国の主だと思って気分爽快になっているのかもしれないが、思わせておけばよろしい。正直、朝貢貿易は明国にとって大きな赤字となり、財政を圧迫したらしい。
それはいいとして。これまで、朝鮮との交易の話は出てきたが、明国の話は皆無だった(たまたま資料をもっていないだけです)。しかし、ここへ来て、大内教弘がそれに参画したことがはっきりと書かれている。宝徳三年に出発した第10回の遣明船で、九艘のうち一艘が「大内船」だった。
朝鮮だけではなく、明国との貿易でも大内氏が大儲けをしたことは周知のことだし、やがて、朝鮮との交易は廃れ、日明貿易からの儲けのほうが大きくなっていく。さらに、義興・義隆父子の代には、勘合符独占という事態になる。興味は尽きない分野であるが、あまり関心がないので、これ以上深入りしないでおく。少なくとも、この頃は、そこまで勢い盛んではなかった。細川家に邪魔されていることはあったにせよ。
氷上山参詣
長禄三年(1459)己卯春二月七日、教弘は子・亀童丸(政弘)と氷上山上宮に参詣した(『実録』)。
まあ興隆寺は氏寺ゆえ、治世の間にこの寺院に参詣しなかった当主などいるはずがない。毎年二月会もあるわけで。
教弘期で注目されるのは、息子・亀童丸とともに参詣したことであろう。
大内氏の嫡男は幼名を亀童丸という、といたるところに当たり前のように書いてあるけれども、これは先祖代々そうだったわけではなく、教弘代から。あまり信頼できないと揶揄されることが多いこの家の系図によれば、これ以前の嫡男で亀童丸という名前はない。
そもそも、盛見は弘茂と、持世は持盛との戦いに勝利して家督を手にしている。代替わりのたびにこうだったわけで、最初から絶対安定な嫡男の地位なんてなかったに等しい。教弘代になって、やっと家内も落ち着いてきた。幕府内での地位も確定し、周辺諸国もその威厳に平伏するようになり、ようやく安定した家督相続を祈る余裕ができてきたのではなかろうか。
政弘期にも叔父の教幸が、義興期にも弟(兄かも)高弘が反抗したけれども、それらはねじ伏せられてしまい、家がガタガタになることはなかった。当主が生前につぎの当主を指名し、無事にその跡継ぎに家督が譲られる決まり、それを国内の人々にアピールするためのイベントとしての父子参詣。これは教弘から始まり、政弘 ⇒ 義興と続いたが、最後の義隆はそれを完遂できなかった。教弘らが永遠に続いていくであろうと信じて疑わなかった家門の繁栄は、じつはわずかに三代で終ってしまったのであった。
築山館と築山大明神
築山館文化サロン
現在山口市内築山神社が鎮座する辺りは、もともとの大内氏築山館の跡地であるという。
昨今は歴史学と考古学とは密接に連携し合い、史料に書かれていることが、発掘調査で次々に確定されたり、ということが多い。この館の建築は、だいたい寛政二年(1461)頃と考えられている。その後、寛政五年(1465)には、義政将軍からの使者、僧・恵鳳を築山館に招いており、恵鳳は「飛松の記」を記しているというから、この時点で館は完成していたものと思われる。
元大内氏屋形があった場所付近は土塁跡や復元された門などがあって、観光スポットとなっているけれども、その旧屋形とともに、こちらの築山館もかつて、存在していたのである。そのことは、やはり考古学的発掘調査であれこれ判明している。今ここでその資料を読み直すことは割愛するが、たしか、ある時期屋形として機能していた建物が、その後いったん建て替えられてその用途が一新されたらしきことが分かる、といったような内容だった。
つまり、史料界隈だと、この築山館は、教弘が建設し、それゆえに彼は「築山殿」と呼ばれた。この館は、客人をもてなすための施設のような役割を担っており、宗祇が「池はうみこずゑは夏のみ山かな」と詠んだり、下向公家たちが雅な宴に招かれていたのもこの館らしい。
とりあえず、文化史のご本には教弘の文化交流についての功績が、つぎのようにまとめられていた。
保寿寺の以参周省・京都惠鳳蔵主・遣明正使天与清啓などの高僧学者の山口来訪等で詩や学問の交流がなされ、大内氏臣下の仁保弘有、源秀家、相良正任、近藤忠勝などの勉学に貢献
出典:『大内文化研究要覧』
仁保弘有って、大内道頓(というか細川勝元)に靡いた人物ではないか。しかし、相良正任と並び称されているところを見ると、文化的教養にあつい人だったと見える。確かに細川家は雅ではあるけれど、叛かずともいいのにね。勝元はとにかく、政元と法泉寺さまを比べたら、いや、比較にもならないでしょう……。
教弘が「築山殿」と呼ばれた理由には、この建物を建てたからということのほかに、のちに隠居してこの館を居所としていたことも含まれる。もっとも、隠居した(生前に政弘に家督を譲った)ということについては、先生方によって意見が異なり、ここであれこれは決められない。
一説には、教弘という人が反骨精神旺盛で、しばしば幕府の命令に背いたからという。つまり、自ら隠居したというよりは、「隠居させられた」。のちには、父子ともに討伐対象になるくらいなので、これはまだ、ちょっとやらかしてしまった程度。幕府に睨まれたからというより、この頃になると、細川家の陰謀と言うべきですが。
築山大明神
さて、上述の考古学的発掘で、用途が変わったらしいと見なされている点だが、歴史学系の研究者の先生方いうところの、「築山大明神」という神社が、どうやらこの築山館が改築されたものであるらしい。
つまり、もともとは接待用の、あるいは、教弘隠居所として使用されていた館が、神社に造り替えられ、信仰の対象に姿を変えたということである。
やがて、息子・政弘は父・教弘を神格化し(政弘の項目で説明予定)「築山大明神」というカミサマとなるのだが、この神をお祀りした神社がそれらしい。
以上のようなことが、『実録』にも書かれているのだが、ここは明治時代の近藤先生がのちの考古学的発見の成果を耳にしたら狂喜して驚かれるところである。当時は丹念に史料を調査する研究方法だったろうから、まだ遺跡の発掘調査など行われていなかったのだろう。典拠として一部抜粋します。
「(菩提寺・闢雲寺についての記述に続けて)築山に一寺を創建して闢雲院と名づけた。旧址不明。龍福寺由来書によれば、和尚と成って後、築山闢雲院に隠居した、……中略……氷上山三重塔婆願文に教弘法師とあることからも、祝髪して教弘法師と号し、築山館内で常住していた殿舎をそのように名づけたのではないか、なおよく考えてみなくてはならない。また一社を創立してその霊を祀った。後年、社号を築山大明神とする宣旨を賜った。……下略……」
なお、同じ『実録』内に、故高橋延実氏が語った言い伝えとして、「築山大明神」についてもう一つの意見が挙げられている。
「兵部卿師成親王が法泉寺で亡くなられた後、教弘卿は築山館内に小社を創建した。その御霊を祀っていた小社を、政弘卿が父の遺言に従って宏壮に造替させたものである、……中略……当時は足利氏の耳に入ることを憚って、武器を埋めた云々と言っていたのだという。典拠はないものの、李花集奥書に、「この書物は、先師兵部卿師成親王が出家して恵梵と号した筆跡である。教弘はこれを相伝した。時享徳改元仲冬日、多々良朝臣」とあるので、そのようなことがなかったとも言えない。なお考慮すべきだろう。今しばらくは、社伝に従っておく」
いずれにしても、この「築山大明神」は大内氏家中で非常に崇拝された神社であったことは間違えなく、「壁書」の中にこの神社を掃除する決まりが記されていたり(文明十九年三月卅日の壁書)相良武任が「申状」で「殊氷上山妙見大菩薩、築山大明神御罰、至子々孫々可罷蒙候」と書いたりしている(『実録』)。
のみならず、大内氏滅亡後は毛利氏にも珍重された。しかしながら、現在のようにほぼ何もない状態となってしまった理由を、近藤先生は「永禄十二年、大内輝弘が山口に乱入し築山に陣をはった。この時の兵乱による火事にあったものだろう」とする。
ほかのさまざまな寺院らも含めて、大内輝弘は豪快に燃やしたものだな、と残念に思うのである。それ以前に、弘治年間に内藤弘世が杉重輔と争って山口を燃やしたことも。
長山別邸
建物関連の話題を一つ付け加えておくと、大内盛見が建てた長山の別荘はこの時も使われていたらしい。『文化要覧』によれば、教弘は盛見が「京の別邸に掲げていた足利義持将軍の扁額「飛泉」を山口に持ち帰り、長山の別邸に掲げて「飛泉亭」とした」という。別荘の名前を変えたわけじゃなく、四阿のどれかに掲げたのであろう。
恐らくは、義持将軍がお気に召して、何度も訪れた京都の別邸と、長山の別邸とは同じく趣のある別天地が広がっていたと思われる。現在は跡形もないこと、築山館同然で、またしても心に寒風が吹く。
菩提寺
吉敷郡小鯖の闢雲寺を菩提寺とし、法名を闢雲寺大基教弘という。闢雲寺内の墓所は不明となってしまい、現在、新しく供養塔が建てられている。また、亡くなった場所である興居島(愛媛県)にも供養のための祠がある(未見)。
参照文献:『大内家実録』巻八「世家・教弘」、『大内文化研究要覧』、『戦国武士と文芸の研究』、『日本史広辞典』
※この記事は20240727に一部加筆されました。なおも書き直し中です。
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