周防山口館【大内庭園・雅の宴】とは?
周防山口館【大内庭園・雅の宴】(略して『大内庭園』)とは、= このサイトです。ここでは、サイトの概要などについてご案内します。いわば、総合案内所となります。
周防山口館【大内庭園・雅の宴】について
庭園の主・法泉寺さまが築いた史上最強にして、最高の楽園のことを「大内庭園」と名付けました。あくまで、運営者の造語です。研究者の先生方や地元自治体さまによる公式名称とは無関係です。歴史上「大内庭園」なるものは存在しませんし、単に史跡としての大内氏館の庭園を勝手にそう呼んでいるわけでもないです。
大内氏という史上稀なる文武の家、その根拠地である「西の京」とも呼ばれた山口に、ホンモノの京からやんごとなきお方がやって来たり、著名な文化人が集まってサロンができたりしたそういう雅な空間。それを仮に、「庭園」に見立てたのです。なので、呼び名は桃源郷でも、エリュシオンでも、お好みのワードでOK。つまりはそのような麗しい天上世界のことを指しているつもりです。
つまりここは、(成功しているか否かは別として)ウエブ上に雅な庭園を再現することを目的として始めた、大内氏と法泉寺さまを賛美するサイトです。
【重要】移転前ドメインについてのご注意
重要
「××uchi-g××den.××××」という旧ドメインは、20230723を期日として、失効しております。再度取得する予定はございません。万が一、未だにリダイレクトでこちらをご訪問くださっておられる方がおありでしたら、お手数をおかけしますが、ブックマークなどを付け替えてくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
※ドメインとは、サイト URL のことです。
基本的な考え方 & 最初にお詫び
歴史的な人物なり、史跡などについて記した場合、基本的なアウトラインはどなたが書いても同じとなるのが自然です。なぜなら、史実は勝手に変えることができないためです(もちろん、勉強不足だったり、古い記事のまま放置され、最新の状況が反映されていない、などの理由で異なる内容となる例もあり得ますが)。
とはいえ、研究者の先生方から在野の歴史家、一般の歴史愛好家に至るまで、同じ人物、同じ場所について書かれたはずの記事がまったく違う内容となっていることのほうが多いです。そこには、執筆者の好みによる依怙贔屓だったり、個人的な推論(研究者以外ならば、『想像』もしくは『感想』のようなもの)が混ざっていたりするからです。それゆえに、たとえ同じ人物について書いていたとしても、実際には書き手の数だけ異なる物語が展開します。
著名受験参考書を書かれた有名な予備校の先生は、このことを、その人の「歴史観」が反映されるから。と表現しておられました。受験生が記憶しやすいようにということを第一目標として書かれた参考書であったとしても、そこには先生の「歴史観」が反映されてしまっているので、そこはごめんなさい、という主旨でした。
我々のような素人が「歴史観」云々とか語るのは畏れ多い気がしますけれど、要するに、同じ内容を書いても別々の中身になることは、その人なりの「歴史観」の表れのようです。
というようなわけで、ことに好き嫌いが激しいと自覚している執筆者には、とことん愛している人がいるいっぽうで、それ以外は冷めた目で見る傾向がとても強いです。このことを、最初にお詫びしておきます。万が一、皆さまとご意見が違っていたとしても、それは「歴史観」の違いであり、悪気はないのです。
ということは、このサイトは相当に依怙贔屓をしており、嫌いな人物についてはこき下ろしているに違いない、その通りです。すみません。誰を依怙贔屓しているかについては、この庭園の主が法泉寺さまである、と書いたことから明らかかと。法泉寺って誰? というような方は、このページをご覧になっているはずがないですので、省略します。敬愛しているのは、そのお父上とお子さまだけであり、それ以外の方々については、ここが大内庭園などと名乗っている割には、第三者目線です。
サイトの構成は関連史跡と人物の二本立て
基本はいわゆる、旅行マニアで歴史好き女子による、大内氏ゆかりの人々と史跡についてまとめたものです。時間と資金に限りがございますので、行き先は山口県と広島県に限らせていただいております(一部島根県も含みます)。そのうち、資産運用でファイヤーしたら、九州や近畿地方にも足を運んでみたいと思えど、無理そうです。
なお、山口県在住ではございませんので、毎日築山館跡に行って現状を確認して更新する、というニュース性のある記事を書くのは難しい点もございます。最近は自治体さまや大手旅行会社さまなどの口コミサイトが検索上位に来る仕様となった模様ですので、それらについては、そのような記事を参考にしてください。
そのかわり、こちらでは、史跡案内については歴史的変遷や大内氏との関わりについて重視してまとめる方針をとります。御朱印もらえる・もらえないなどの本人にとって関心のないことを書いても意味がないですし、上位のサイトに情報は揃っていますから。
なお、みっともない誤字脱字を修正するためなどにリライトしても、更新日時が改まってしまいますが、基本は投稿日が現地を訪れた最初の日付となります。場所によっては、その後再訪していないこともございます。再訪の結果、最新情報に書き改めた項目については、「※この記事は〇年○月〇日に加筆修正されました」と書いてあります。参考になさってください。再訪せずとも、この記述が書かれていることもございますが、それは上記の「歴史的変遷」「大内氏との関わり」について新たな学びがあったための更新となります。
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関連史跡案内
関連史跡目次。調査済みの所は記念写真も掲載し、史跡のワンポイントを紹介するページの一覧表。項目は今後も増えていく予定。
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人物については、『大内氏実録』に載っている人を抽出してそのまま怪しげなイマドキ語変換をするレベルでしたが、どうも本が古すぎる弊害と、執筆者の古文解釈能力も多少は進歩したようなので(多少です、わずか)、現在鋭意リライト中です。実際には、本業多忙につき、まるで間に合っておりません。
これについても、「※年月日加筆修正」と書かれてない場合は、単なる誤字脱字系リライト済みを意味しております。リライトしていないものについては、本人も見るのが恥ずかしいくらいですが、下書きに戻すと評価がリセットされますので、放置となっています。関係諸氏の皆さま、ご迷惑をおかけして申し訳ございません。
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人物説明
人物説明記事まとめ。当主、重臣をはじめ、かかわりのあった他家の人々など。項目は増えていく予定。記事ができていない人の名前も載せています。※構築中※
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庭園の主・法泉寺さま父子
一口に大内氏といっても、始祖・琳聖さまから始まって、最後の気の毒なお方まで合計 31 人ものご当主さまがおられます。当主さま方はそれぞれが個性的ですので、好き嫌いもあります。その上で、この庭園の主は二十九代の当主さまにいたしました。要するに一番好きだからです。
日本史はよくわからず興味もなかったのですが(それは今も変らなかったりしますが)、応仁の乱で西国から大軍を率いて来て戦局をひっくり返した、大内氏という国の存在を知ったとき、スゴいと思いました。その大軍を率いていたのが、二十代前半のうら若き当主とわかると、一目惚れならぬ、一「耳」惚れしました。どんだけ強くてカッコいいんだろうと想像したら、もう夜も眠れない恋の病で重症に。その英姿颯爽としたお姿を思い描くたびにメロメロになっていました。顔もわからないのに噂話だけで惚れてしまうとか、平安時代じゃあるまいに……。この人が容姿端麗ではないなどということは絶対にあってはならない、平維盛を凌ぐ花守護さまに相違ない、「容儀帯佩絵にかくとも筆も及びがたし」(『平家物語』富士川)と堅く信じて疑いませんでした。
惚れてしまったら、もっと色々なことが知りたくなります。調べるうちに、雅なお歌をお詠みになる文武両道の人だと知りました。ある人のことを調べ始めれば、その両親、祖父母、息子、孫……と、知りたいことが増えていくのは自然の流れです。すると、下松の星降る松の伝説とか、百済からやってきた王子様がその先祖とか、歴代当主すべてが優秀すぎるとか、都よりも都らしかった西の京やまぐちとか、どれをとっても麗しいエピソードばかりでした。なんともはや、とんでもない一族であることがわかりました。こうなるともう、家ごと愛してしまえ、ってことで、すべての道は山口に通ずってなりました。
ちなみに、トップページにあるイラストが運営者の心にある法泉寺さまのお姿です。大好きなイラストレーター、水城るりさまにご依頼しました。これ以上ないくらい、イメージそのままに仕上げてくださいました。拝見した瞬間、法泉寺さまが21世紀に降臨なさった! と心が震えた。まるで奇蹟みたいです(三位中将など霞むよね)。
文武の花守護・法泉寺さま
しつこいですが、サイトの重要人物について、繰り返しておきます。万が一、この二人の人物については虫が好かないんだよ、という方がおられましたら、申し訳ございません。
大内氏歴代当主の中で最強にして最高の人は第二十九代当主さまです!
でもって、賛美しているのは大内氏っていうよりも、法泉寺さまのほうです。大内氏は出身がその一族だから、ってことで崇めてます。それゆえに、ここでは「史上最強にして最高」の当主は法泉寺さまであり、山口開府の父・弘世さんでも、応永の乱で華々しく散った義弘さんでもありません。
法泉寺さま@応仁の乱
大内氏歴代当主の中で二番目に最高のお方は三十代当主さまです!
最高って、つまり、一番ってことなので、「二番目に最高」って日本語的におかしいかも知れません。でも意味は通じると思うのでそれでいいのです(いや、それでいいかどうかは、言語学者の先生が決めることだが……)。お二人は親子ですし、父が愛しければ子も愛しく思うのはフツーのことです。それに、その生涯におけるあれこれの功績から鑑みて、お父上と遜色ないか、人によっては凌雲寺さまのほうに軍配をあげるかもしれません。
そこらは「お好み」の違いですので、人それぞれと思います。正直、文芸とかあまり関心ないので、二十九代について知るには文芸の知識が必須と思えば、こっちにしときたい……って思うこともしばしばです。まあ、そのくらい、お二人を甲乙つけがたいほど、二人まとめて愛してしまってる感じです。
凌雲寺さま@船岡山
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大内義興・義理堅き西国の覇者
大内氏歴代最強の当主・義興について。出生と主な事蹟などについてのアウトライン。詳細にすぎると混乱してわけがわからなくなるため、大まかな流れと人物像がつかめるようにつとめました。附録として、『大内氏実録』の拙訳をつけました(リライト中)。
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二大当主ゆかりの地
特に何らかの記録が残されていなかったとしても、領国内にある寺社などで、歴代当主がまったく無関係だったという場所はあり得ません。単なる記録の欠落か、取り立てて記録するに値するような大事件はなかったゆえになにも言及されていなかったと考えるべきです。その意味では、お二人に無関係なゆかりの地など、少なくとも県内にはないといっていいくらいかと。その上でなお、特に関わりが深かったと思われる場所を Pickup しました。
(※全くリライトできていない恥ずかしい記事は外しています。ゆえに、少しずつ増えていくかと)
法泉寺さま
凌雲寺さま
興隆寺(同上)、降松神社(下松市):中宮を再建、
【五社詣で】九州の凶徒討伐の戦勝祈願として、周防国内の五つの神社に参詣なさった。この時の参詣順序から、いわゆる周防国一の宮、二の宮から五の宮までが決定した。玉祖神社(一の宮)、出雲神社(二の宮)、仁壁神社(三の宮)、赤田神社(四の宮)、五の宮大明神(五の宮、現朝田神社に合祀)
そのほかの記事について
諸々雑多な記事
人物にも史跡にも分類できない記事は「未分類」になっております。「未分類」ってあんまりなので、エラそうに「雑録」となっておりますが、そんなご大層なものではありません。また、リライトしないと使い物にならない状態であることは、人物記事、ゆかりの史跡記事と同じくです。
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大内庭園・雑録
大内氏と周防国について語っている未分類記事をまとめて置いてあるところです。人物解説などからはみ出して、まだ新たな CATEGORY 分類をしていないものです。
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おまけ記事
基本は上述の通り、大内氏ゆかりの地と歴代当主はじめゆかりの人々を扱っています。しかし、取材旅行の最中になぜか毛利家だの明治維新だのにかかわる場所についてのご案内を受けてしまったことがございました。心中、関心ないのですが……と思っていましたが、それらを余計な体験、時間の無駄と思うような無礼な考えはないです。せっかくなので、それらの記事についても時間が許す範囲でまとめました。
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藩政期・明治維新・現代の観光資源
大内氏について語るというメインテーマとは外れる県内の主要観光資源についてご紹介している記事の目次ページです。当然のことながら、毛利氏に関するところが多いので、広島県内の訪問済み箇所も混じっています。
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