みやじま・えりゅしおん

洞泉寺(岩国市横山)

2023-03-23

洞泉寺・寺号碑

山口県岩国市の洞泉寺とは?

洞泉寺は、岩国市横川にある曹洞宗寺院です。開基は九代当主・吉川経信で、もとは安芸国山縣郡新村にあり、盤目山洞仙寺といい、吉川家の菩提寺でした。江戸時代に吉川家が岩国に移った時、寺院もこの地に移されました。岩国藩・初代藩主となった吉川広家を中興開基とし、開山は無聞聲音和尚です。

「臥竜の梅」と呼ばれる梅の木は樹齢三百年を越えるもので、開花の時期には人々が観賞に訪れる名所です。この寺院、および大内氏ゆかりの寺院を再興した永興寺があるあたりは「紅葉谷公園」と呼ばれており、かつての寺院跡地を公園化しています。町全体が城下町の面影を残す岩国城周辺の中でもとりわけ閑静で趣が深いエリアです。

洞泉寺・基本情報

所在地 〒741-0081 岩国市横山1丁目10−31
寺号・山号・本尊 盤目山・洞泉寺・釈迦如来
宗派 曹洞宗

洞泉寺・歴史

例によって『山口県寺院沿革史』をみてみるとおよそつぎのようなことが書かれています。

「当寺は宝徳二年九月十一日、安芸国山縣郡新村に建立された。吉川駿河守経信公が開基である。吉川公御入城とともに慶長八年現地に移転した。吉川四位侍持弘家公が中興開基であり、開山は無聞声音和尚。
末寺:玖珂郡小瀬村、等勝院・ 玖珂郡岩國町、慈眼寺 ・同關ヶ濱村、宗永寺・ 同岸根村、日光寺 ・同和木村、安禪寺・ 同渋谷村、善福寺・同装来村 弥勒寺・同渋前下村、大光寺・同錦兄村、普濟寺・同玖珂村、善住寺・同同 、常寂光寺(今熊毛郡八代に移る)・ 同同、祥雲寺・同黑議村、天叟寺・同伊陸村、龍松寺・同高森村、慶福寺・ 同 新庄村、欣慶寺・同 新庄村、欣慶寺・同柳井町、瀬江庵・同同、良照寺江庵 ・熊毛郡佐賀村、龍護寺・同同、積藏寺
宝物:梵鐘寛永十六年二月鋳造口径二尺周防国玖珂郡岩国領主吉川広正公寄附 一、
前卓、高二尺五寸横五尺七寸幅一尺二寸木質棚朝鮮国製、文禄年中征韓役で獲得したもの。周防国玖珂郡旧岩国侯吉川広家公寄附 一
般若経六百巻 一、
寺領寄附状、永正十四年八月、吉川経基 一、
洞泉寺住職之状、永祿六年十二月、吉川元長公 一、
修補勤行之状、 永祿六年十二月、吉川元春公 一、
洞泉寺住職之状、天正十一年四月、同上一、
周存東堂手継云々之吉川広家公より慶長六年八月 一、
瑞川寺住持職之状、永祿十二年三月毛利元就公 一、
勝海舟之畫 一、
真岡雑圖 一、
快嚴及雪巖の書各一幅、
そのほか多々あるが省略する。
本堂 五間 六間 明治十二年改築、庫裏 三間 六間、山門 一間二間、土蔵 一間半 二間半、廻廊 四間四尺、開山堂 二間一間半 位牌堂 四坪半、鐘楼堂 大正二年吉川家の建物だったものを買受ける。造立工費百三十余円を要した。
境内 六百二十六坪余」

特に寺院の由来のようなものは詳細ではなく、文化財案内看板にあるようなことと同じ。末寺と宝物が詳細に書かれておりますが、ご本が昭和初期に書かれたものであるため、末寺は現在も存続しているかどうかわからず、寺宝も残っているか不明です。それでもなお、ご紹介するのは、当時の寺院の規模、従えていた末寺の多さ、数え切れないほどの寺宝などから、岩国の藩主の菩提寺として、寺院の地位の高さを示したかったからです。現在の案内看板にも、「岩国藩五ヶ寺の筆頭であった」と書かれています。

吉川家についてはあまり詳しく知らないので、これを機会に最低限必要なことを調べました。「全く知らない人でも多少わかる程度」を目指しているので、詳しく存じ上げている地元の方などには不要な内容です。なお、出典はすべて『日本史広事典』で、それ以外の書物は開いていません。より噛み砕いているため、元の記事とは似ても似つかないですが、『事典』が権威ある書物であることは揺るぎないので、嘘はないはずです。

そもそも吉川家って?

【吉川氏】(きっかわし) 中世~近世の武家。藤原南家工藤流。 始祖は、駿河国入江荘吉川(現、静岡県清水市)を本拠とした経義。鎌倉時代、播磨国福井荘(現、兵庫県姫路市)・安芸国大朝荘(現広島県大朝町)の地頭となる。 のち子孫は大朝荘に移住し、有力国人となった。戦国期の興経の時、毛利元就の次男元春が養子に入り、 毛利氏勢力の一翼となった。関ヶ原の戦で元春の子広家は徳川家康に通じ、西軍の毛利輝元が周防・長門を保つよう尽力。江戸時代には毛利家の分封として六万石を領した。一八六八年(明治元)大名に列し、維新後男爵のち子爵。
出典:山川出版社『日本史広事典』 

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ミル

ええっ、先祖は藤原氏だったの!? いかにもガサツな武人の家って感じの人々なのに(つまりは猛将の家って意味です)。君の親戚ってことだよね?

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九郎

……北家

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ミル

あああ、すみません。摂関家として絶大な権力を握ることになるのは、北家の方々でした。藤原氏も大勢力ですので、藤原純友のような海賊まがいまで出現しましたし、これらの方々は系図(教科書とかの)には出て来ない、武士化した藤原氏です。

『陰徳太平記』では大活躍する吉川家の方々ですが、なんと、事典にはこれしか書いていないのでした……。これでは、吉川家歴代の勇猛ぶりも、毛利元就の乗っ取りの経過も、吉川広家がセキガハラで家康に内通せざるを得なかった苦衷も、何一つわからないではないか! とういうよりも、おそらくは、わずかに一冊の事典にすべて盛り込むと、我々にはお馴染みの毛利、吉川、小早川だのについての記述も目茶苦茶簡略化しないとページ数が足りず、逆に、必要最低限これだけ知っててよ、ってことです。

ここで大切なことは、まず、安芸国の国人といわれる方々も、神代の代から安芸国におられたというわけではないということ。武士の発生みたいな本を読んでいると、国司がそのまま土着したとか武士の出自にも色々書いてあると思いますが、要はいわゆる「他所者」だらけです。ことに、鎌倉時代に移住したケースは大量にあり、西国の国人たちのほとんどがじつは東国にルーツがあったりします。これは何も安芸国だけの話ではないのであって、いわゆる地元の豪族といったって先祖代々1ミリも動かずそこにいた方々かどうかなど、長い歴史の中では不明瞭です。

ちなみに、毛利さんたちの先祖も東国からやって来ました。彼らは「大江」といい、鎌倉幕府が政務を執るにあたり、ガサツな武人ばかりの政権だと、文書を書いたりするのもたいへんってことで、招聘した朝廷の官僚出身です。お召しに応じて来てくれたのは大江さんだけではないのですが、なんのかんの言って一番有名です。このような人々を「京下りの輩」と呼びました。いわば学者みたいな政治家みたいな家柄の人たち、要するにあまり身分の高くない公家ですね。その子孫がやはり何カ所かの地頭職を賜り、そのうち安芸国に移り住んだのが毛利さんたちです。だから、じつは関東出身で、この方たちの場合、名字の地となった「毛利」荘は相模国にあります。

で、もう一つ大切なことは、元々の藤原姓吉川さん一族は、毛利さん一族が養子に入って以降、贔屓の人たちにぶん殴られそうだけれども、要するに家を「乗っ取られた」みたいな形になって、吉川家は=毛利家になっちゃったわけです。同じことが、小早川家でも起り、毛利元就の次男は吉川家に、三男は小早川家に入った、って誰でも知ってることだよね。こうやって考えてみると、毛利元就=広島の人ってのも、先祖遡れば違う、って気もしなくはないね。

ここまでのまとめ

  1. 吉川氏は、藤原姓で、先祖は駿河国入江の荘吉川を名字の地とした。鎌倉時代に安芸国の地頭職を得、やがて移住してきて有力国人となった。
  2. 毛利氏は、大江姓で、先祖は公家。源頼朝に招聘されて鎌倉に下向した大江広元。子孫は相模国などの地頭職を得、名字の地として毛利と名乗る。のちに、やはり安芸国に移住してきて有力国人となった。
  3. 毛利元就は次男の元春を吉川家の養子とし、事実上、吉川家は毛利家の身内として、完全に組み込まれた(乗っ取られた)。
  4. こんなふうに、東国から西国へ移住してきた人々は数多い。安芸国に限ったことではないものの、なんとなく安芸国の事例が有名なのは気のせいか? 大内氏の守護領国にもこうした移住組が少なくなかったが、およそ被官として取り込まれてしまったから、有力国人ではなく家臣に近い。
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五郎

それに比べて、俺たちは純粋、完璧な周防国の人間だよね。

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九郎

……百済

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五郎

はっ?

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ミル

元は百済の国の王子だから、やはり「他所者」だと言いたいみたいね。

吉川家墓所にも、その説明看板にも、「吉川家初代藩主」として「吉川弘家」さんの名前が書いてあります。ところが、どういうわけか、『日本史広事典』には、「初代藩主」として別のお殿さまの名前が書かれています。この謎なことを説明するのが非常に難解でして、ズルい手を使ってフリー百科事典なんかで調べてごまかそうとしたら、どんだけ知識豊富な方がお書きになったかわかりませんが、詳細すぎておよそ理解不能なレベルでした。

つまり元々さっぱりわからないセキガハラとかがかかわってくるからなんですが、上の引用に「徳川家康に通じ」ってあったと思いますが、あれを引き摺っているようです。つまり、敵である徳川家康なんかに通じていただろう、ってことで、長らく裏切り者扱いされてしまったみたいで、同じ一門の中でも下に見られていたのですよね。けれども、この徳川家康に通じというのはまさしく機を見るに敏であったがゆえにであり、よくある家の存続のためには敵対する両方についておけ、ってやつだったとも言えます(両方かと)。

南北朝期なんかで、弘世さんが鷲頭家と争ったりするために南北に分れたなんてのは、大勢力ゆえにの権力争いですが、中にはいつ潰れるかわからないような小さな家が、保身のために話し合いの末、敢えて南北に分れることもありました。将来、南朝の天下になろうと、北朝が権力を握ろうと、いずれかは生き残ることができるからです。つまりは家名存続のために苦肉の策を取らざるを得なかったってことです。この場合、毛利家は小さな家どころか大勢力でしたけど、のちに徳川家康の天下になった時に、真っ先に潰されるのは大勢力でしょう。領地を大幅に削られても何とか生き残ることができたのは、吉川家があらかじめ裏工作をしておいてくれたからです。そうと考えれば、裏切り者どころか恩人みたいに思えるんですけど。

徳川家康じゃないほうが勝ってたらどうなったの? とか、色々考えますけど、これも歴史の必然で、絶対にそっちに流れることはなかったんじゃないかなと、セキガハラわからんの人が言ってみたところで説得力ゼロですが。どっちに転ぶかわからなかった、みたいに書いてる人をよくみかけるので。けれども、厳島合戦負けてなかったらどうなってたんだろう、うるうるとなるより精神衛生上ずっと好ましいですので、この件もほっときましょう。

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五郎

吉川も、小早川も毛利も同じ国人として、対等じゃないの? サンフレッチェの教えにも兄弟仲良く、本家を盛り立ててくれとあったじゃないか。文字通り本家のためを思っての行動で苦渋を強いられるなんて、やりきれないよ。

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ミル

なにゆえに「サンフレッチェの教え」? どこで覚えてきた用語なんだろうか……。

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五郎

安芸高田市の道の駅って、三矢の里って書いて、サンフレッチェの里って読むんだよ。ミルも知らないことを俺は知っている。早く吉田郡山城跡の紹介やろうよ~♪

道の駅「三矢の里」トリックアート

三矢の里・トリックアート

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ミル

え!? いつの間に……。君が毛利元就から矢もらってどうすんの!? いや、毛利元就の三番目の息子(?)になって乗っ取るのもいいかもしれない……。

岩国藩とは?

【岩国藩】(いわくにはん) 周防国岩国(現、山口県岩国市)に陣屋をもつ外様中藩。長門国萩藩支藩。 岩国藩の正式な立藩は、一八六八年(明治元) 吉川経幹が大名に列せられた時であるが、 吉川氏による岩国支配は、一六〇〇年(慶長五)毛利一族の吉川広家が岩国を与えられた時点にさかのぼる。以後一三代にわたって支配。 領地は周防国玖珂郡などで三万石、のち六万石。 吉川氏は大名並の待遇を受け、大名並の義務を求められながら、形の上では幕末まで毛利氏の家老として位置づけられた。詰席は柳間。藩校養老館(一八四六設立)。早くから領内産の紙の専売を実施した。
出典:山川出版社『日本史広事典』 

ココだよ。「吉川氏は大名並の待遇を受け、大名並の義務を求められながら、形の上では幕末まで毛利氏の家老として位置づけられた」「大名並みの待遇を受け」ってことは、偉い殿さま扱いされたようにも取れるんだけど、「大名並の義務を求められながら」ってのがよくわからないけど、徳××康の子孫なんかにこき使われたって意味で、にもかかわらず、「毛利氏の家老として位置づけられた」ということは、義務だけは大名並みに押しつけられつつ、位の上では単なる家老(家来)扱いってことで、悲惨。ただし、待遇が大名並みというのはいい意味なのかもしれないのと、家来扱いされたことについて「形の上では」ってあることから、単に形だけだったのかな、ともとれる。

ただし、吉川家を愛する郷土史の先生が裏切り者扱いされてた、と仰ったのでおそらくは、差別されていたのだろうと思う。家来扱いなので、なんと明治時代になるまで「藩」ではなかったわけで、吉川広家さんを初代藩主と言えるようになったのは、明治時代以降の話だろう。それまではなんと呼ばれてたんだろうね……。

さて、差別されていたかどうかは別として、岩国の吉川家が岩国藩・大名家と数えられるようになったのは、吉川経幹の時代。もはや明治維新で藩も大名もなくなるって時分。なにゆえにいきなりここで、大名に「取り立てられた」かといえば、吉川経幹さんは幕末の頃、第一次長州戦争で毛利本家と徳川家とを仲介。第二次長州戦争では、本家を助けて幕府軍と合戦したから。じつは本人は明治維新を見ることなく亡くなったけれど、本家の毛利敬親さんが朝廷に口利きして「諸侯」とやらに数えられる身分となった。こうして吉川家は最後の最後まで、サンフレッチェの教えを守り、本家のために尽したのであります。

洞泉寺・みどころ

山門

洞泉寺・山門

普通に山門ですが、これ永興寺の山門にそっくりなので、帰宅後わからなくなりました(寺院さまのお名前が観光客の方の写り込みで見えなくなっている。ミルの背後)。永興寺に不動明王がいたことで区別できたんですが。

臥竜の梅

洞泉寺「臥竜の梅」

これがそうなのかわかりません、ごめんなさい。郷土史の先生(隣町の)が立派な梅だ云々と言っておられたとき、こっちをご覧になっていた気がするので、そうかなという感じです。入り口の寺院由来看板を見ると、「門の前にある」と書いてあるので、上の門を見て「梅なんか写ってないやん?」とまたしても見逃しを疑いましたが、どうやらこの梅、この一本がそれ、というわけじゃなく、たくさんの梅があり、それひっくりまとめてみたいですね。間違っていたらごめんなさい。

自治体さまHPには階段登ったトコ云々とあり、看板には門の前云々と。門の前っていうのは、裏側のことかもしれないので、どうやらこれじゃないかと。遠景ですが。梅の花の時期を過ぎていましたので、咲いていたらきっとこれがそう、とか気付いたはずです。そのくらい、綺麗であるということです。

本堂

洞泉寺・本堂

なんか、建物これしか見付けられませんでした。藩主の菩提寺がこんなにちっちゃいの!? とびっくりですが、きっと大量に見落としているのだと思います。左下に文化財説明看板が見えています。山口県指定重要文化財「金剛如来形坐像(寺伝釈迦如来像)」についての説明文です。この仏さまが洞泉寺のご本尊となります。十四世紀の高麗仏で県内ではきわめて貴重なものであるとのことです。なにゆえにこの仏像が洞泉寺にあるのかは不明だそうです。

吉川家菩提寺の本尊として長く信仰されていた模様ですが、これって例によって大内氏時代の遺産だったりしないかと考えてしまうのはあまりに穿った思い込みでしょうか。

附・吉川家墓所

吉川家墓所

墓所は菩提寺の中にあるもの、って認識ですが、寺院内にはありませんでした。吉川家墓所 ⇒ 永興寺 ⇒ 洞泉寺とひっついているので、洞泉寺に行けば当然、こちらにも気が付くはずですが。

吉川家墓所・説明プレート(上)

吉川家墓所・説明プレート(下)

このように、歴代当主の事蹟や、どなたのお墓がどこにあるのか、などの懇切丁寧な説明文がついております。無事に明治維新迎えた家だとこうなるのですね……。羨ましくてしかたがない。

附・吉川広家公墓所

吉川広家公墓所

どなたのお墓がどこにあるのか、ということは説明看板にすべて書かれているのですが、不思議なことに、初代と十四代だけはひぐらしの道なる山道を登った上のほうにあります。また、なぜなのか理由はわかりませんが、こちらの墓所には「六代を除く」すべての藩主のお墓があるということで、なにゆえに六代のお殿様の分がないのか、説明はなかったので不明です。すみません。

なお、吉川家墓所は「大名の墓所を知る上で貴重」なものであるとして、山口県指定の史跡となっています。

洞泉寺(山口県岩国市)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 〒741-0081 岩国市横山1丁目10−31

アクセス

錦帯橋、岩国城などからすぐです。とは申せ、錦帯橋、岩国城が岩国駅からやや遠いことが行きにくい理由にはなります。レンタカー、マイカーの方にとっては、どこからでも行きやすい場所ですが、岩国駅の宿に宿泊している、などの方はバスに乗る必要があります。これほどの観光地なので、バスもたくさんあり、一時間に一本ということはないですので、その点は問題ありません。

参考文献:『日本史広事典』、『山口県寺院沿革史』、文化財説明看板

洞泉寺(山口県岩国市)について:まとめ & 感想

洞泉寺(山口県岩国市)・まとめ

  1. 山口県岩国市にある曹洞宗寺院
  2. 吉川家の菩提寺である。最初安芸国にあったが、吉川家が岩国を領有するようになると現在地に移築された。その際、寺号も変更された。
  3. 岩国城の城下町跡の中にある。元寺院の跡地だったところを公園化した「紅葉谷公園」の中にある。公園化された寺院跡地の中で、跡地ではなく現役の寺院は、この洞泉寺と隣の永興寺のみである
  4. 寺内にある「臥竜の梅」は樹齢三百年を越えており、開花した時の美しさに観賞に訪れる人が絶えない
  5. 本堂に安置された如来形坐像は十四世紀制作と思われる高麗仏で、県内では貴重なもの。重要文化財指定をうけている
  6. 付近に吉川家墓所があり、初代広家以下、歴代当主の墓所がまとまっており、県の史跡にしていされている
  7. 吉川家が岩国藩、当主が藩主と認められたのは明治元年のことで、それまでは毛利家の身内ながら、家老としての扱いだった

岩国は錦帯橋が有名な観光地ですが、それだけではなく、町全体が城下町の趣を今に伝える奥ゆかしい町並みです。けれども、岩国駅からやや遠い、ということがわざわいして、メンドーなのでそのうち……と考えるまま何年もほりっぱなしになっていました。岩国といったら玖珂郡で鞍懸山とか行ったらもうはずせない場所なので(城主様が大内道頓を撃破したところ)、そのうち来るつもりではいたんですが。ひどいことに、単に宮島へ向かう中継地みたいになっていて……。今回その、宮島にほど近いところ、大野にお住まいの郷土史家の先生のご厚意でお連れいただきました。

岩国? ああ、あの橋とか城とか近世だしーと、じつはあまり乗り気ではなかったのですが、来てみたらとっても麗しい光景が広がっていたので、イマイチと考えていたことを深く深く反省しました。とりあえず、岩国に来て、錦帯橋とかがあるあたりに向かう理由は永興寺と思うわけですが、そのお隣にあったのがこの寺院さまでした。しかし、ここに至るまでにはすでに、ふは~城下町してる~と感激していたので、楽しく町歩きしていました。

残念だったのは時間の関係ですべてを見尽くすことができなかったこと。こちらの寺院さまも入って出てきただけになっているので、次回はもう少し時間をかけてゆっくりとまわりたいなと思います。

それにしても、岩国は山口ではなく、広島文化圏と思っていましたけど、コレ、単に距離的な問題ではないですね。あまり詳しくしらないのにあれこれするのはいけませんが、同じ国のなかに、同じ一門としてありながら、家来扱いされてたとか、なんだか悲しいなぁ……と思いました。けれども、その分、独立した岩国だけの素晴らしい国づくりがなされていたことは歴史が証明しています。だから、お隣の廿日市からも、岩国を愛して通ってこられている先生がおられるのですよ。とっても優しい先生と、先生が大好きな吉川広家さんの墓所にもお参りできて本当によかったと思います。陶のくにの元領地をたいせつに、豊かにしてくれてありがとうございます。

こんな方におすすめ

  • 吉川家が好きな方
  • 普通に寺院巡りが好きな方

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

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五郎

お城いきたい~吉香公園行きたい~ロープーウエー乗りたい~

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ミル

楽しんでくれてうれしいよ。

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五郎

楽しいけど、ココ、俺や殿様とどんな関係が? お祖父さまが活躍した古戦場跡はここじゃないよね? 殿様の家来……というか配下の国人の菩提寺……?

義隆
殿様

わしの盃で、吉川元春と義兄弟にさせた家臣がおったような気がするが、はて、誰だっけ?

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ミル

あなたも毛利家に入れ上げすぎですよ。マズいことを忘れてくれていて有り難いですが。

義隆
殿様

ふうむ。毛利元就には優秀な息子ばかりが揃っていたゆえ、羨ましくてなぁ……。

-みやじま・えりゅしおん