山口県山口市天花の俊龍寺とは?
雪舟ゆかりの史跡・雲谷庵からほど近いところにある、曹洞宗寺院です。開基は大内教弘とされており、歴史は室町時代まで遡ります。その頃は献珠院といいました。
のちに、毛利家の家臣・柳沢元政という人が寺院を再建。境内には、剣豪将軍として有名な足利義輝、最後の将軍となった義昭、そして、ふたりの母にあたる慶寿院、さらに、豊臣秀吉の供養塔があります。
すべて、元政が、毛利輝元の命によって建立したものです。供養塔は山口市指定の重要文化財であり、いつでも見学できます。
俊龍寺・基本情報
住所 〒753-0091 山口市天花2丁目12−1
山号・寺号・本尊 豊国山・俊龍寺・釈迦牟尼仏
宗派 曹洞宗
俊龍寺・歴史
『山口県寺院沿革史』にはおよそつぎのようなことが書かれています。
「寛正元年(1461)、大内教弘卿が献珠院殿等巌妙倫大姉(文明二年正月二日)のために建立し、献珠院と号した。『闢雲志』では、旧名は延楽寺とする。開山は明仲和尚だが、師伝は明らかではない。二世・潤室祖沢は闢雲院大成僧賝の弟子である。四世・紅菴の時、寺院を長門国に移し、五世・鷹岩の時、再び現在の場所に戻した。元文五年(1740)、四院評議で(※何のことかわからないけど、多分話し合いのうえ)雪心和尚を第二世、潤室和尚を第三世とした。
柳沢監物元政は将軍・足利義晴、義輝、義昭三代に仕えたが、永禄年間、芸豊和解のため、上使として聖護院門跡宮に随行し、安芸国に留まった。のち、義昭とともに毛利家に従い、やがて仕官した。豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、秀吉に仕えて、豊臣の姓を賜った。秀吉の死後は、再び毛利家に復帰。文禄年間(1592年~1596年)の頃、高嶺城代となり、山口に住んで中尾・畑・天華の地八百石を領有した。
慶長の初め、元政は当寺院を重建した。慶長二年(1597)、毛利輝元の命により、将軍・足利義輝と慶寿院殿(足利義晴の御台盤所。義輝、義昭の母)の三十三回忌供養のため、並びに、足利義昭のために塔婆を建立し、また豊太閤の塔も建てた。豊臣秀吉公の墓には、防州山口俊龍山献珠院とあるが、慶長十八年(1613)、公の神号「豊国」を山号に、法名・国泰寺殿雲山俊龍大居士によって、寺号を俊龍寺と改めた。後山には柳沢家代々の墓所がある」
(参照:『山口県寺院沿革史』)
芸豊和解のため、というのは、毛利と大友が九州の利権を争っていた戦いを将軍家が調停したことと思われます。また、柳沢元政という方についてもお名前くらいしかわかりません。
だいたい、大内氏滅亡後のことは、知らなくてもよいと思っています(個人的な意見です)。大切なのは、そもそもこの寺院さまは、築山大明神さまが建立したということ。また、山口市指定の有形文化財として、足利義輝、義昭、その母上、ついでに豊臣秀吉の供養塔があるということです。
いったん長門国に移り、また現在地に戻った云々や、元の寺号は延楽寺といった云々については、今一つ意味が通じません。寺地の移転は理解できるのですが、秀吉供養塔に、「防州山口俊龍山献珠院」と書かれていたということは、終始一貫して現在の寺号に改名されるまでは「献珠院」だったんじゃないの? と思われますが、だったら延楽寺というのは何? という感じです。大切なのは現在の寺院さまのお名前で、途中どのように変遷しようとも過去の名前でお呼びすることなどないわけなんですが、気になりだすと止まらなくなります。
俊龍寺・みどころ
寺院のある付近は民家も立ち並ぶ一帯ではありますが、とても風情があるところです。寺院さまも、手入れが行き届いて、清潔感溢れる立派な佇まいです。伽藍などには、特に文化財指定はありませんが、そんなことはどうでもよいことです。そもそも、寺院というのは観光資源ではなく、信仰のために存在する場所です。
観光客として訪れた場合は、参詣のあと、足利義輝、義昭、慶寿院、豊臣秀吉の供養塔を見落とさないようにいたしましょう。
山門
ご覧のように、きちんと手摺がついております。拝観される方々のためのご配慮です。背景の山々と重ね合わせて、なんとも奥ゆかしい風情を醸し出しておられます。
本堂
ご本堂も立派です。お賽銭箱は扉の内側ですので、きちんとお参りすることを忘れずに。
「豊太閤御廟」案内看板
観光客は「珍しい供養塔があるらしい」などときいて写真におさめて帰宅して行きますが、寺院さまのご案内看板をご覧になればわかる通り、こちらは「御廟」です。厳島合戦以降の日本史わからなくてごめんなさいですが、関ヶ原の合戦とやらで、東西に分かれて戦った時、毛利家は豊臣秀吉の遺児を奉じて「西」に着き、結果敗れて広島から追い出されることになりましたよね。歴史愛好家の皆さまには、西だ東だとそれぞれにご贔屓があって、今に至るまであれこれと熱い議論が交わされております。
「西」に味方した毛利家では、豊臣秀吉の死去に際して供養塔を建立していたのですね。しかも、敗北後も大切にされ、「御廟」などと呼んでいたと(関東から目をつけられたりしなかったんだろうか)。何やらほろりとさせられてしまいます。寺院さまは、太閤殿下の法名を寺号としているくらいなのですから、もはや菩提寺みたいにすら思えてきます。
豊臣秀吉、足利義輝、足利義昭、慶寿院供養塔
向かって左から、慶寿院、足利義昭、義輝、豊臣秀吉の供養塔。いずれも山口市指定有形文化財となっています。「他に類がない」「貴重」「重要」なものということなので、見落とさないようにしましょう。文化財案内版に、なにゆえにそこまで貴重なのかということがきちんと説明されておりますので、案内版の説明文をそのまま載せておきます。
豊臣秀吉供養塔
「慶長三年(一五九八) 豊臣秀死没に際し、毛利輝元が家臣柳澤元政に命じて、供養塔を建立させたのが当五輪といわれる。五輪塔は、平安時代末頃から出現する日本独特の形式をもつ供養塔であり、四個の石を積むのが普通である 室町時代中期頃からは一石で造ったものも多くなる。この供養塔は四石で法名、年月なども刻してあり、本格的である。 この豊臣秀吉供養塔は、歴史的著名人の石塔であるというばかりでなく、石造美術としても、桃山時代の形式をよく伝えている遺品である。 また、秀吉の死没と同時に建立された供養塔は、おそらくこの外には全国的にも例がなく貴重である。」 (文化財案内版)
足利義輝等供養塔
「慶長二年(一五九七)は足利義輝及びその母慶寿院の三十三回忌であり、室町幕府最後の将軍である足利義昭が没した年でもある。毛利輝元は、柳澤元政にこれらの法会の執行を命じており、柳澤はそれぞれの法会の執行の際に供養塔を建立した。
中世には、墓標としての石塔の建立はなく、室町時代後期になって、小さい 墓標、無縫塔、宝箧印塔、一石五輪塔 などに法名を刻したものが造られはじめた。これら足利氏石塔は、その時流にのって造られたものと考えられる。 足利氏関係のもので、法名、 年月などを刻して、正確に供養名がわかるものは、おそらく全刻的にみてもこの石塔のみであり、重要である。
また、無縫塔の室町時代末の形式を知る上でも貴重な資料である。」(文化財案内版)
足王大権現
ご本堂に向かって左手のほうに、足王大権現がありました。名前の通り、足の病にご利益がある神さまです。
宝篋印塔
この宝篋印塔が、ずっと気になっております。位置的には、足利将軍家や太閤さまの供養塔付近にあるのですが、特にどなたのものである、というご案内はありません。それなりの年月を経ているように思えるのですが。こちらが、元々は献珠院殿等巌妙倫大姉のために建立されたということはですよ、どこかにこの方の墓所なり、供養塔がかつてはあったはずです。そもそも、この方と築山大明神さまとのご関係がわからず困っているのですが、亡くなられたのは、文明二年正月二日のようですから(『寺院沿革史』)、供養されたのは法泉寺さま(政弘公)の時代です。コレ、違うんでしょうかね? そうとはっきりしていれば、その旨記載があるはずなので、どなたのものか不明であるか、寺院さまの関係者のものかと思われますが。とても気になる……。どこに問い合せればいいんだろうね。
俊龍寺(山口市天花)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒753-0091 山口市天花2丁目12−1
アクセス
最寄り駅は JR 山口線山口駅です。雲谷庵に入っていく細い道路を、雲谷庵には入らずにさらに直進します。雲谷庵までは、駅から町歩きしながら、普通に歩いて来れます。「が」人によっては、かなりキツいと思われるかもしれません。その場合は無理をせずに、公共交通機関を使いましょう。といっても、普段公共交通機関を使わないので、上手くご説明できないのですが、瑠璃光寺五重塔のところまでは、バスが出ております。山口駅から行くよりも、遙かに雲谷庵に近くなりますし、五重塔をご覧にならない方はおられないと思いますので、瑠璃光寺から歩くことにすれば、道のりはかなり短縮できます。
しかし、雲谷庵から俊龍寺さままでも、それなり歩きます。雲谷庵まで駅から歩けてしまう方には何の問題もないですが、それはとても無理である、という方にとってはたいへんです。本当にこの先に寺院さまあるの? と感じてしまう方もおられる思いますが、道なりに歩いていけば必ず着きますので、信じて直進してください。
参照文献:『山口県寺院沿革史』
俊龍寺(山口市天花)について:まとめ & 感想
俊龍寺(山口市天花)・まとめ
- 最初は、大内教弘が建立した寺院であった
- その後、毛利家家臣・柳沢元政によって再建された
- 元政は、元は足利将軍家の家臣であり、また一時期、豊臣秀吉にも仕えていた
- そのようなゆかりから、毛利輝元は元政に、足利義輝の三十三回忌供養を命じた
- 慶長二年(1597)は、義輝とその母・慶寿院の三十三回忌であると同時に、足利義昭が亡くなった年でもあった。元政は彼らのために法会を行なうとともに、供養のための塔婆も建立した
- 続く慶長三年(1598)に、豊臣秀吉が亡くなったため、輝元は元政に供養塔の建立を命じた。義輝らの供養塔とともに、秀吉のものも境内にあるのはそのためである。いずれも、山口市の重要文化財となっている
- 寺院は豊臣秀吉の神号を山号に、法名を寺号として、豊国山俊龍寺と名を改めて現在に至る
- 後山には、柳沢家代々の墓所がある
柳沢家代々の墓地があるということは、柳沢さんの菩提寺ってことになりますけど、足利将軍家に仕えていた人が、安芸国に住み着いて毛利氏の家臣となり、でもって、その後は豊臣秀吉の家来になりかわり、さらに舞い戻ってもう一度毛利の家臣となり……って、わからない人にはまったく意味わからないですよ。意地でも大内氏滅亡後は知らないと言っているからこうなるんですけど、かつてプレイしたことがある歴史シミュレーションゲームで、日本史わからないので、信長包囲網とかやってた最後の将軍が、なぜか厳島神社のそれと思われる鳥居が見える場所にいて、毛利家に匿われているのか!? って思ったことがありました。匿われていたかどうかは知りませんけれど、包囲網なんて作って対抗していた人物が「天下人」一歩手前まで来たら、もはや京都にいるのは危険ですから、追い出されたのかどうかは知りませんが、安芸国に引っ越した、っていうのは理解できますね。
毛利家も包囲網の人と対抗してたわけで。柳沢さんが安芸国にいたってのも、いきなり将軍家退職して毛利家に鞍替えしたというのではなく、将軍さまが安芸国に移ったので……みたいな流れでしょう(多分)。引っ越しのお膳立てのために、お使いとして下向したままその場に留まっていたものかと。どうでもいいけど、豊臣秀吉の家臣となり云々というのは、自らの意思とは限りませんね。太閤さまというお方は、気に入ったらなんでも自分の家来にして、苗字くれたりしそうだから(多分)。いずれにしても、かつて、ゆかりがあった将軍家や、秀吉さんの供養塔を造った柳沢さんという人は義理堅いお方ですね(輝元さんに命じられて、ってなっていますけど)。ご自身の先祖代々の墓所として定めた寺院さまが、太閤ゆかりのお名前にかわるとか、ここはご本人の希望と、寺院さまのお考えとかではないのかな。
大内氏ゆかりの云々を回っている立場からすると、え、そんな!? と思わなくはないですけど、寺院さまの名称変更なんて、それこそ数え切れないほどあったわけでして。ただ、これを境に、寺院さまは築山大明神さま開基云々というよりも、太閤御廟の寺院に生まれ変わったことだけは確かだと思います。そもそも、滅亡後は、衰頽してしまっていた可能性が高く、柳沢元政が再建した時点で、この方の寺院みたいな様相になっていたとは思われますが。
ところで、友人からこちらの寺院さまに、弘中隆兼さんのお墓がある、という信じられないニュースを聞かされたゆえ、早速再訪してみたのですが、見付けられず。ご住職にお伺いしたところ、本当にあるとのことで、びっくりでした。わざわざどこにあるかというご案内までしてくださり、ご住職のお心遣いともども、ああ、本当にある……と感無量でした。あまりに驚いたので、なにゆえにここにあるのか、ということをお伺いするのを忘れて帰宅してしまい、非常に後悔しております。何らかのゆかりがあるゆえにと思われますが、現在のところ分らないので、分り次第情報を追加いたします。
弘中家墓所
こんな方におすすめ
- 寺院巡りが好きなすべての方
- 豊臣秀吉が好きな方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
柳沢って何者? 豊臣秀吉とは? ここのどこが関連史跡なんだ?
「元々」は闢雲寺さまが建てた寺院だった、ってだけかな。
将軍さま、将軍家の子孫の供養塔がございますよ。
余に世継ぎがおらなかったゆえ、仕方ないこととはゆえ、義澄の子孫が次期将軍となったことは不本意じゃわい。まあ、よいか。見て帰ろう。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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※この記事は 20231210 に加筆修正されました。