桜尾城跡(広島県廿日市市桜尾本町)

桜尾城跡・桂公園石碑

広島県廿日市市桜尾本町の桜尾城跡とは?

かつて厳島神主家の居城だった「桜尾城」があったところです。厳島神主といっても、厳島神社を創建し、代々その祭祀を執り行ってきた佐伯氏ではなく、鎌倉時代、幕府によって任命された藤原姓神主家のことです。

厳島神社の神領は、時代とともに安芸国の在地勢力に侵食されていきますが、中でも桜尾城に直接攻撃をしかけてきた安芸武田氏との抗争が有名です。やがて、神主家に相続争いが起こると、大内氏が介入します。義興・義隆二代にわたり、桜尾城を巡る攻防が続き、ついに神主家は滅ぼされてしまいます。その後も厳島合戦の舞台のひとつとなり、毛利元就が合戦勝利の凱旋式を行なった場所としても知られています。

要害の地にある難攻不落の堅城だったといわれておりますが、現在は公園として整備され、城だった時の面影はほとんどありません。

桜尾城跡・基本情報

名称 桜尾城
別名 東山城
立地 独立丘陵
築城・着工開始 十三世紀~慶長五年
遺構 なし
文化財指定 廿日市市史跡
(参照:『日本の城辞典』)

桜尾城跡・概観

築城者についての二つの伝承

桜尾城は、一般には、藤原姓厳島神主家の居城として知られていますが、そもそもの始まりとして、二つの伝承があります。一つは、安芸の豪族・佐伯氏が築城したというもの。もう一つは、源頼朝弟・範頼の末裔・吉見氏が築いたとするものです。

佐伯氏ならばピンとくる方は多いと思います。ですけど、吉見氏のほうは意外でした。ところが、その先祖・範頼はこの地とゆかりが深かったようでして、なんと「範頼墓」といわれる場所が二箇所も存在します。ここ、「なんで!?」と思っている段階なので、まずはその墓とやらを確認してから追記したいと思います。吉見氏が範頼末裔ということはいいのですけど、彼らがここに城を築いたと言われても「え!?」です。何とも奥が深いですね。

藤原姓神主家居城としての桜尾城

興味深い伝承は置いておくと、桜尾城はそれが存在していた長きに渡り、「藤原姓厳島神主家」の居城でした。藤原姓神主家は、鎌倉時代に、佐伯氏にとってかわって厳島神社の神主におさまった一族です。幕府の任命によって下向して来たので、元々は桜尾山とは無関係な方々でした。そもそも、当初は「神主職」を名乗るだけで、現地入りもしなかったほどです。これは、厳島神社の神事については、これまで通り「佐伯氏」の人たちが執り行うという不文律があったからです。

国司が国衙に赴任せず、留守所の在庁官人たちにすべてを丸投げしていたことと、何となく似ていると感じてしまいますが。ただ、役所とは違い、神事だけを取り扱っている神官だらけで政務を執る人がいなければ、神社はやっていけません。今とは違い、「神聖不可侵」な特別な場所でも平然と領地を侵害されるような時代だったからです。そうでなくとも、修繕事業差配だの、神官たちの任命だの、神主でなければできない権限もあったでしょう。

元は、幕府の役人と兼任し、赴任もしなかった神主家の人たちは、やがて現地に赴き、館を作って落ち着きました。それが、桜尾山の麓であったと考えられています。そして、周辺の在地勢力などとの境目論争に奔走する中、次第に武装して、自らも「かなり有力な」在地勢力の一つと化しました。そんな中で、いわゆる詰めの城として、整備されていったものが桜尾城であったと考えられます。

残念なことに、城跡は現在跡形もなくなっています。全国の城跡を網羅したご本の類にも「全壊」「遺構なし」といった文字が空しく綴られています。歴史上、数々の重大事件の舞台になった城跡が、かくも跡形なくなってしまったことは寂しい限りです。現代に生きる我々にできることは、この城に関わる歴史事項を確認し、往時の姿を想像するだけです。

海に浮かぶ海上要塞 & 六つの支城(?)

そもそもこの桜尾城ですが、現状を見て「ただの公園だ」から一歩進んで、昔はここに城があったのです、と聞いていたとして、それが海中に浮かぶ水上要塞であったなどと言われると、俄には信じられません。現在の桂公園は、べつに、海中公園のような特別なロケーションではないからです。つまりは、宮島・要害山と同じで、かつて周囲は海だったけど、今は陸地になっている、ということに思い至らなければなりません。とはいえ、「海上要塞」はおそらく言い過ぎで、単に海岸が今より近かったという認識程度と思います(後述)。

古い郷土史のご本によれば、周囲を篠尾城(天神山、現天満宮ら辺 、本城の控え)、岩戸尾城(桜尾城のすぐ南、本城の前衛)、藤掛尾城(宮内入口、地御前辺)、藤掛尾城の峯続きの奥、北側から順番に宗高尾城、谷宗尾城、越峠尾城という支城で守られたとてつもなく堅固な城だったそうです。これらを本城である桜尾城も含めて「七尾城」と呼びました。さらに、この「七尾城」の背後には、嶽尾城(佐方)と海老山城(=五日市城、五日市海老山)があって西北からの侵入を押えていたとか。

海に浮かぶ海上要塞が、六つの支城+αで守られていたというのは、極めて浪漫溢れる記述ではありますが、残念ながら、半分正解で、半分は誤りというほかないと考えます。なぜならば、「七尾城」なる表現は『芸藩通志』にも載っており、かなり「歴史がある」ものではありますが、この城が活躍していた時代にも、このような「呼び方」があったか否かについては、史料による確認ができていないためです(後述)。

ですので、「七尾城」については、中世にもそのような概念が存在したかどうかについては慎重になるべきです。ただし、大切な本城を守るために多くの支城が築かれていたというのはどこにでもあることですので、これらの城が桜尾城を守って存在していたことは事実と考えることもできます。実際、城跡は存在しておりますので、単なる「呼び方」の問題と考えています(個人的見解です)。

資料から推測する往時の姿

さて、浪漫溢れる伝承はとにかく、より真実に近い城の姿はどのようなものだったのでしょうか? もはや、想像するしかありません。では、跡形もなくなっている城について、どうやって「想像する」のか? これは一見非常に悩ましい問題ではありますが、じつは先生方が多くの史料にあたり、さまざまなご研究をしてくださっているお陰で、我々にもそれらの研究成果を享受することで、おこぼれに預かることが可能です。

今回それらの優れたご研究と、地元研究者の方々から拝領した貴重な資料の数々から、なんとなくですが、その姿を再現してみようと試みてみました。以下の通りです。絵図を画くのが下手というのは、もうどうしようもないですけれども、そこは、皆さまご自身で素敵なものに置き換えていただきたいと思います。

先生方のご研究から判明した「桜尾城にかつてあったであろう」パーツを場所も考慮して画いてみると以下のようになります(参照:『桜尾城とその時代』)。

桜尾城テキトー図
桜尾城テキトー図(1)

現状、かつての城跡(=現在公園)には、何一つ遺構はありません。ただし、文字史料の中に出現する城内の各部分を繋ぎ合わせることで、ここまでわかるわけです。残念ながら、考古学的な裏付けは無理です。すべて削られてしまいましたから。ただ、全国ほとんどの城について、完全に残っているはずもないですし、多くが、文字史料+現地調査による再現です。そう考えると、文字史料から再現された「城の姿」というものも、非常に貴重なものです。むしろ、城跡はあっても、文字史料にもほとんど登場しないまま廃絶された場所のほうが多いわけで、そのような場所では「何に使われたかわからない柱穴がある」のようなことになっていますから、桜尾城が、文字史料だけでここまで正確な姿が再現されるということは、どれほど重要な場所で、史料に頻出していたかということの証左です。今はすべてが失われたことが、返す返すも残念となりますが。

文字史料からわかる桜尾城のパーツ

本丸(本郭)、二之丸 (二之郭、二重)、東之丸(東之郭)、虎口、 水之手、登小口、堀、攻口、矢倉(檀)、土居(居館)、御蔵、妙見社、八幡社、三之丸(三之郭)、北之丸(北之郭)、腰郭

桜尾城テキトー図2
桜尾城テキトー図(二)

城跡に詳しい方ならば、これらを見るだけで、なるほど……となりそうです。確かに、いずこの城跡にもあるものがそろっていたのだなぁという感想です。少しだけ、解説を加えるとするならば、攻口は「つめぐち」と読み、要は、平時に暮らしている「居館」に対して、山の上の郭を「詰めの城」と呼びますが、そこまで続いて行く道です。「登小口」と=だそうです(参照:『桜尾城とその時代』)。

なお、堀についてですが、当時の海岸線は今より城に近かったはずで、城の南は海に臨み、東から北も海岸線が湾曲、北は湿地帯であった模様です。堀に流れていたのは海水でした。伝承にいう「海上要塞」はあたらずとも遠からずではありますが、かなり誇張されているようですね。

妙見社と八幡宮についてですが、妙見社は現存します(現在の社殿の修築年代などは未調査)。八幡宮は桜尾城鎮護のために、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものでした。現在は、廿日市天満宮の相殿「新八幡宮」として、藤原姓厳島神主家歴代当主の御霊がお祀りされています。

桜尾城の歴史

桜尾城は藤原姓厳島神主家の居城ですが、後に厳島神領をめぐって神主家と安芸武田氏の争いが勃発します。神領が横領されるという問題については、何も安芸武田氏にとどまらず、周辺の在地勢力からも度々侵害されています。ですが、ここでは、「桜尾城」について話題としておりますので、桜尾城が舞台となった抗争についてのみ、概観します。

桜尾城が歴史の舞台に登場するのは、大きく分けて三回です(近世以降は無視)。

 一、厳島神主家と安芸武田氏との争い
 二、大内氏と厳島神主家の争い
 三、厳島合戦時の陶 vs 毛利の争い

これらについては、「厳島神主家」のところなどで記しているので(一と二、三は執筆半ば)、詳細はそちらを参照してください。ここでは、いちいち面倒な方のために、ざっくりと概観だけ記します。また、完全に「伝承」と思しきものについてもここに記しています。

安芸武田氏との争い

安芸武田氏と藤原姓神主家の抗争は「神領争奪戦」として、近世以降の軍記物に頻出だったようでして、その後、大正から昭和に至るまでの古い郷土史のご本にも同じく頻出です。確かに、安芸武田氏と神主家との間に長期に渡る争いがあったことは、歴史研究の分野でも認められている事実です。ただ、読んで楽しい物語は、かなりの脚色が入っていると思われます。よって、淡々とした事実は「厳島神主家」の項目に、「郷土史系」のお話を以下にまとめます。「史実」ではない部分もあることをご承知置きください。

昭和の時代に編集された郷土史のご本、『厳島大合戦』では、「七尾城血戦」として、以下のような物語を掲載しておられます。

「武田大膳太夫信賢は、その軍勢三千余騎を率いて、石道 (石内) 街道から桜尾本城をめがけて一目散におし進む。このとき信賢は二十一才の血気ざかり―

神主軍の総大将―佐伯左近衛将監親春これを見て、 『あま多の敵を射殺して罪をつくるも益なし、ただ大将信賢一人を討ちとって神慮をやすめんこそ幸なれ、いざや城をかけ出でて戦わん!』と、七百余人を”雁行”、に進んで両翼を虎韜に開き、後騎を進めて敵を囲む態勢に構えた。

武田信賢これを見て『怪しや、これは諸葛孔明が秘せし”雁行の変”にて軍法の秘密なり。今の世の弓矢にたずさわる良将でさえかかる秘術を知る人なし。 いわんや長袖流の神主の如きが秘術を知るとは?如何にも我が望む敵が先陣にあると見えたり。さらば味方は”偃月”に開いて敵の左右を攻めよ』……と命令を下したまま、信賢は自重して馬の手綱をしめ、止まって進まず、ヂリヂリと神主勢を包囲する態勢に入る―ところが親春も戦術を知る良将なれば、信賢の開いた偃月の陣型を見て」

……と、ここまではいいのですよ。その後がいけない。藤原親春の次の台詞が大問題。「さては信賢、武田信玄公伝来の秘術を用いて決戦を試みるならん……」

戦国時代分からない執筆者でも、この時代に武田信玄は産声すらあげていないことは知ってます……。どう見てもこれは、後世に面白可笑しく脚色された軍記物をそのまま転載しているとしか思えません。残念ですが史実ではないですね。ただし、戦いがあったことは事実なのです。少なくとも郷土史には採用されております。

この先は読む気が失せる方が多いと思われますが、じつは面白いのはこの後なのです。先程までの流れで、武田軍三千騎vs楯籠もる神主側わずかに700余ということがわかります。ここは歴史研究でも同じでしたね。二か月にもおよぶ持久戦となり、武田軍は数百人の犠牲者を出し、敗色濃厚。いい加減総攻撃をかけようとしたところ、一天にわかにかき曇り、雨風激しく雷鳴まで轟く始末。「厳島大明神がお怒りになられたのだ」との神主家側の言葉に慌てふためいて逃げていったと。これだから神がかりの敵とは戦いたくないねというお話になってしまっています。

さて、厳島神主家の居城は桜尾城ですが、この桜尾城は桜尾本城を守るようにして、六つの支城が築かれていました。尼子氏の月山富田城を思い出しますね。それぞれ、岩戸尾城、篠尾城、藤掛尾城、越峠尾城、宗高尾城、谷宗尾城と申します。本城・桜尾城とあわせてこれらの城を「七尾城」と呼んでいました。ゆえに、「七尾城血戦」なのです。ただし、『芸藩通志』にも出ている、「七尾城」なる呼称も、どうやら近世以降のものと考えられています。

わずかに700人で三千騎の敵を相手にするのに、正面突破は無理です。そうでなくても、神主家は防御側ですから、七つの城に軍勢を配置して、各々の支城が連携して敵を防ぐという戦法を採ったのです。つまり、敵は大軍でも七つの城をすべて落とすためには、軍勢を七つにわけねばならずその優位性を活かせません。とはいえ、一つの城に集中していると他の城から出撃した神主軍に背後を襲われるため、一つ一つ落としていくのも困難。そんなわけで、たかが神主一味七百余と侮った武田軍は最後はなぞの「厳島大明神」の怒りにも触れて撃退されてしまったというわけです。何とも鮮やかなお手並みというところなのですが、残念ながら、近世以降に脚色されたお話であることは濃厚ですね。

郷土史を編集なさった先生方が、嘉吉元年に「武田信玄以来の陣形」なるものが存在するはずがないことに気付いておられぬはずはなく、そもそも神がかりな展開に信憑性があるとも思えません。ただ、安芸武田が神主家に敗れ去ったことは史実です。とても面白いご本なので、もうしばらくお付き合いください。ちなみに……。この書物がいい加減な俗本などではない証拠に、以下のような記述がございました。ご参考までに。

この神領争奪七尾血戦のことは、古来から日本の戦史に著名な戦闘として記載されているが、その後は聖なるべき厳島神領の争い―が武田・大内両家の勢力争いの具に利用せられた感があり、加うるに厳島神主職をめぐる神主家の内紛が混合して、遂に不純な戦に終末を告げるに至ったことは、戦国の世とは言えかえすがえすも遺憾のきわみである。

出典:『厳島大合戦』273ページ

ところで、この「神領争奪戦」なるものは、合計三回ある模様でして、先のが「第一回」。どうせなので、第二回と第三回についてもさらっと見ておきましょう。

続「七尾城血戦」

安芸武田氏は足利将軍家から安芸国の権益をもらえると言われ続けながら叶わず。なんとかすべてを手に入れたいと望み続けました。武田信賢は一色討伐で将軍から「お墨付き」をもらっておきながら、思うに任せずにいるうち、あろうことか、発行元の将軍・義教が嘉吉の変で横死。すると、今度は赤松討伐でも手柄を立て、毎度毎度のことながら念のため、安芸国すべてもらえるのかどうかを確認。またしても、赤松討伐での功績により「お墨付き」が出ました。

前回、七尾城で振り回された信賢は今回は陸海両面から五千の大軍を率いて進軍。さすがの神主家もあわや……とは全然思っていません。なぜなら、強力な援軍を頼んであったからです。我らが築山大明神さまが二万の大軍で押し寄せるのを見て、泡を喰らったのは武田方のほうでした。四倍ですからねぇ(典拠はどこに?)。大内軍は武田軍を蹴散らして銀山城まで迫りましたが、さすがに難攻不落の堅城ゆえ、落とすには至らずに引き上げたといいます。

さて、ここで、次は「第三回争奪戦」となるわけなのですが。もはやここまで来ると、応仁の乱は勃発するは、神主家の神領など横領され放題の時代に。頼みの『厳島大合戦』も、元々、毛利元就公のご仁徳を記す書物ゆえにか、だんだんと記述が怪しくなり、大内教弘が息子の「義」弘を神主家の援軍に出したなどと誤植なのか、大内氏の世代順などどうでもいい主義なのかわからないことになってきます。その後は、神主家本体が分裂してしまいますので、ここら辺でやめておきましょう。

五郎

面白い本なんだけど、どこから持って来た話なのかが特定できず、資料として引用できない状態なんだよね。「神領争奪戦」というワードは、ほかの郷土史の本にも出てくるけど。ただ、陣形の話などはなかった。どこから引っ張って来たのか、今もって不明。

鶴千代

確かに。出典があれば、我々にも確認ができるのに。残念なことだな。

五郎

まあ、ここは、学術的な空間ではないから、楽しい伝承は載せ放題という編集方針。「伝承」あるところ、何らかの真実あり。安芸武田氏と神主家の抗争じたいは事実だからな。

鶴千代

(エラそうに語りながら、毛利元就公以降の話を掻い摘まんで無視している。時間ができたら補填されるのか、見届けねば)。

神主家の内紛と大内氏の支配

さしもしつこい武田氏でしたが、やがて武田氏自身がガタガタになり、神領にちょっかいを出すどころではなくなります。その頃には、武田氏ならずとも、安芸国の在地勢力が神領を侵すことは普通になっていきます。

そんな中、神主・興親が、京都で客死してしまいます。ちょうど、足利義稙の復職という大事件に関連して、大内氏の当主・義興が上洛していました。厳島神主家も、大内氏に親しい勢力として、それに従軍していたのです。亡くなった興親には実子がなく、跡継に定めた人物もいなかった模様で、神主家には相続問題に端を発した争いが起こってしまいます。半ば従属関係のようになっている大内氏に裁断を求めますが、なんと、義興は跡継を誰にということを承認しなかったばかりか、神主家の城に自らの城番を入れて「直轄」化してしまいます。

これに反発した、神主家の友田興藤が大内氏の城番を追い出して、自ら神主を名乗ったことから、大内氏と神主家の抗争に発展します(詳細については、同じく、「厳島神主家」についてを参照してください)。義興・義隆期に渡り、大内氏と争い続けた神主家は、義隆期についに滅ぼされ、厳島神領は大内氏の直轄支配となってしまいます。桜尾城もしかりです(滅ぼされたのは、藤原姓神主家であり、厳島神社ではないことにはご注意ください。ここで、神事を司る佐伯氏と政務を執る藤原姓神主家という二重構造になっていたことが生きてきますね。ちなみに、大内氏は藤原氏滅亡後、自らに都合のいい人物を新しい『神主』に任命するということをやっています)。

大内義隆が叛乱家臣によって倒された後、家臣らが立てた傀儡当主政権と毛利氏との間にかの有名な厳島合戦が起り、またしてもこの城は合戦の舞台となってしまいます。厳島合戦で毛利氏が勝利したことは言うまでもありません。ここで、桜尾城の主は、藤原姓厳島神主家 ⇒ 大内氏 ⇒ 叛乱家臣政権 ⇒ 毛利氏、と動いたとまとめることができます。

近世以降の桜尾城

毛利元就が、大内氏(実際には陶らの傀儡政権)から桜尾城を奪った際、家臣の桂氏を城主としました。その後は、元就の子・元清が城主に。しかし、時代は戦国期から、織田・豊臣による天下統一、徳川幕府の成立と流れて行き、天下分け目とやらで敗北した豊臣側についていた毛利氏は安芸国を追われてしまいます。平和になった長い時代、安芸国は浅野家の統治下に入りました。もはや不要となった桜尾城は廃城となり、役目を終えます。

廃城となった山城など全国各地に数え切れないほど存在しますが、桜尾城跡については、かつて城主を務めた桂氏のご子孫・桂太郎氏によって買い取られ、廿日市市(当時は町)に寄贈されました。自治体は、城跡を公園としました。それが現在の「桂公園」です。

桜尾城跡・みどころ

現在、公園となった城跡に、当時の面影はまったくありません。城跡紹介系のご本にも、「遺構なし」とあり、地元のガイドさまのご案内でも「何ものこっていません」となります。つまりは、全国の城跡を巡っている方々などからしたら、見るべきものは何もない、となります。

ただし、かつてそこに城があったという事実。それにまつわる伝承の数々などから、興味の尽きない場所です。なお、桂公園は地元の方々に愛される桜の名所となっていることを申し添えます。

桜尾城跡石碑

桜尾城跡・説明石碑

公園入口にある石碑です。とても立派なもので、桜尾城の歴史について記されています。ここがかつて城跡であったことを証明する大切な石碑です。

「桂公園碑」

桜尾城跡「桂公園碑」

公園の中には、「桂公園碑」という立派な石碑が立っております。裏側には「大正二年一月建之」とあります。この地を寄贈した桂さんのことなどの由来はこの石碑に書かれておりますが、難しくて読めません。しかし、大正時代に公園化されたということははっきりわかりますね。

妙見社

桜尾城の妙見社

大内氏時代の忘れ物として、今に伝わる妙見社です。創建時期は定かではありませんが、大内氏直轄時代よりは古く、神主家と大内氏が友好的であった時代に建てられたようです。建物はおそらく、いずれの時代にかの再建物となりましょうが、桜尾城関連で、今に残るものとしては、たいへんに貴重です。

附・桜尾城と「七尾城」

『芸藩通志』には、桜尾城を含めて、その周辺六つの城(岩戸尾城、篠尾城、藤掛尾城、越峠尾城、宗高尾城、谷宗尾城)を合わせて「七尾城」と呼ぶことが記されています。これら七つの城跡については、現在もかつての所在地を確認することが可能です。問題なのは、「七尾城」なる呼び方が、どうやら近世以降のものであるらしきことです。安芸武田氏と神主家、大内氏と神主家が争っていた時代、これらの城が「七尾城」として、一纏めにされていたという根拠はありません。

大内氏と厳島神主家の争いについて記した資料には、それぞれ、現在「七尾城」とされている「城」が、双方が陣を取った場所として現われてくるため、あまり混乱することはありません。しかし、安芸武田氏と厳島神主家の抗争について記した郷土史などでは、『芸藩通志』始め、近世以降の軍記物の影響を色濃く受けたと思しき「神領争奪戦」についての物語が頻出です。

これらの物語は、実に楽しく、創作として楽しむ分には一級品の読み物です。ただし、歴史研究の分野では、安芸武田氏の時代に「七尾城」なる概念があったか否かについては、慎重になるべきです。恐らくはなかったであろうというのが、正解と思います。なぜならば、後の大内氏と神主家の抗争において、「七尾」という地名が出て来ますが、これは七つの城の総称ではなく、一つの陣を指したものだからです。要するに、大内氏時代にも「七尾」なる地名は存在したらしいけれども、それと、『芸藩通志』いうところの「七尾城」とは別物であろうということです。

ただし、それらが、桜尾城と関わりの深い諸城であったこと、実在したこと、現在「七尾城」と言った場合には、『芸藩通志』にある七つの城を指すのが普通であることなどから、ここにまとめておきます(みどころとして、写真を掲載します)。

五郎

20250312、廿日市町歩きの会長さんとご一緒に、「七尾城」跡地を巡ったよ。郷土史の専門家であらせられる会長さんの解説を拝聴した俺たちの記事が、こんな怪しいモノじゃ恥だけど、今はSITEOWNERが資格試験中なので、一旦休止中。乞うご期待♪

岩戸尾城跡

七尾城・岩戸尾城跡

山陽女学園内にあります。『棚守房顕覚書』に、病重い陶興昌が、父・興房と別れて帰国する悲しい場面が描かれていることが印象的であるほか、大内氏と厳島神主家との抗争で各種軍記物に頻出の城です。悲しい哉、今は跡形もないです。

篠尾城跡

七尾城・篠尾城跡

これまた、大内氏と神主家の抗争に頻出の城跡です。現在、廿日市天満宮がある場所でその一部分を確認できます。

藤掛尾城跡

七尾城・藤掛尾城

これも軍記物頻出ですが、何ともはや、完全に道路です。何を根拠にこの城跡碑と思いますけれど、間違いなく、かつてはここにあったのです。

越峠尾城跡

七尾城・越峠尾城

ご覧になって「は?」となった方多数かと。完全に削り取られて、跡地には山陽本線の線路。左手に見えている土の部分が、かつての城跡の名残である可能性はありますね。この鉄橋が、現在地元の皆さまの認識で「越峠尾城跡」とされております。

谷宗尾城跡

七尾城・高宗尾城

これまた「え?」ですけど、黄色枠内がかつての城跡があった場所です。現在、給水タンクがでーんと居座っておられまして、何一つないです。ただ、やはり地元の皆さまのご認識では、「谷宗尾=給水タンク」です。

宗高尾城跡

七尾城・宗高尾城

閑静な住宅地の中にある公園です。ここが、かつて城があった場所となります。立派な石碑を前にして、何とも言えない寂しさを感じますね。皆さま憩いの公園として記憶の中に残る場所という意味では、桜尾城跡と同じです。

桜尾城跡(広島県廿日市市)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒738-0005 広島県廿日市市桜尾本町 11
※Googlemap にあった住所です。

アクセス

廿日市駅から徒歩圏。面倒な方はタクシーで。一瞬です。※町歩きおすすめです。

参考文献:『大内氏実録』、『新撰大内氏系図』、『桜尾城とその時代』、『安芸厳島社』、『棚守房顕覚書』、『芸藩通志』、『佐伯郡誌』、『厳島大合戦』、『日本の城辞典』

桜尾城跡(広島県廿日市市)・まとめ
  1. 鎌倉幕府により、厳島神主家に任命された藤原姓神主家の居城
  2. 厳島神社神領を武士たちの横領行為などから守るためには、神社も武装する必要があった
  3. 安芸武田氏は何度も神領を侵そうとし、神社側と戦闘になったが、撃退された
  4. のちに、神主家に家督相続争いが勃発すると、大国大内氏が介入し、この城を自らのものとした
  5. 大内氏と神主家とは戦闘状態となり、長いこと決着がつかなかったが、やがては大内氏の勝利に終わり、城は奪われ、藤原姓厳島神主家は滅亡した
  6. 大内義隆が家臣の叛乱によって倒されると、城は叛乱家臣たちが樹立した政権のものとなったが、最初叛乱者に加担していた毛利元就は、のちに彼らと決別してこの城を奪う
  7. 厳島合戦で勝利した毛利元就はこの城で凱旋式を行なった。城が完全に毛利家のものとなったことはいうまでもない
  8. 近代となり、城跡はかつて毛利氏の時代に城主をつとめていた桂氏のご子孫によって寄贈され、同氏の名前をとって「桂公園」に生まれ変わった。現在は廿日市市民の憩いの場として親しまれている

あれやこれやと史料に何度も登場し、どれほど浪漫かきたてられるかわからない城跡です。現在は公園となっており、遺構といえるようなものがあるのかないのかすらわかりません。しかし、地元の人々に親しまれる場所となっていることで、元桜尾城も本望でしょう。平和な時代となったからこそ、合戦の舞台となる物騒な城跡から、長閑な公園となったのですから。

現状、ここが城跡でした、ということを知ることしか無理な気がします。たとえば、かつては付近の古戦場跡などから、城跡を見下ろすことができました。公園化されたのちのことです。ですが、公園の整備が進むにつれて、それらの痕跡は消えたようです(こんもりとした山って感じに見えていた)。加えて、廿日市駅よりほど近い所という地理的位置から考えても分る通り、都市化が進めば当然公園も町の中に埋もれていきます。さらに、古戦場跡なども訪れる方が少なく、整備が間に合わないことから樹木に覆われ、展望がきかなくなってきたのです。

というようなことで、あれ? まったく普通の公園じゃないか……という感想になってしまうのは仕方がないことです。さらに、桜尾城を見下ろす高台に陣を取り云々のような古戦場跡の「展望台はこちら」みたいな場所に行っても、そもそもその「展望台」が倒木に阻まれて先へ進めないくらい荒廃しておりました。ただし、地元のかたにお伺いしたところ、倒木を跨ぎ越して先へ進んだとしても、樹木に覆われ何も見えないそうです。そもそもみえるのは町並みに埋もれた公園ですし。

残念ではありますが、時代の流れです。公園に行ってみたところで、歴史に思いを馳せることは無理でしたが、想像力たくましい方ならば、それも可能かもしれません。

こんな方におすすめ
  • 歴史上著名な城を巡っている方(城跡、公園化されたり、石碑立ってるだけでもOKの方)
  • 厳島神社に関連するところならなんでも行きたい方(神社好きな方が城跡に関心あるかどうかわかりませんが)

オススメ度:(基準についてはコチラ

3
五郎

七尾城についてもっと詳しく書いてね。別に項目を立ててくれたら嬉しい。

ミル

(SITEOWNER が試験に落ちてもいいのならね……。)

【更新履歴】20260129 七尾城の城をアップすると同時に、元の記事もリライト。

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