人物説明

益田氏 石見の名門・大内氏従属時代を経て毛利家臣に

陶弘護イメージ画像
益田氏の娘婿です

大内氏ゆかりの人々について書いています。今回は益田氏についてご紹介します。……神々から始まっている系図というものを初めて拝見いたしました。毛利家に仕え繁栄した方々ですので、資料(≠史料)が充実しすぎて却って面倒なことになっております。なお、ここでは、大内氏に仕えた時代の益田氏を扱っておりますため、近世以降については触れていないことをお断りしておきます。

益田氏概説

いつもですと、日本史事典を紐解くことから始めるのですが。なんということか、知ってることしか書いてなかったので、今回は飛ばします。いかにも詳述されていそうな予感がしたのですが、見事に裏切られました。東国偏重の風習はなんとかしてほしいものです。典拠なく書いているかとご不安になられぬよう、参照文献は最後にきちんと掲げております。

石見国の有力豪族御神本氏の一族

益田氏は石見の名門で、本姓は藤原氏です。しかし、藤原氏も大所帯ですから、どの系統なのかという点でいくつかのご説があります。

一、『尊卑分脈』の摂政太政大臣忠平公嫡男摂政実頼公孫の系譜にある「国兼(初定通)」が祖
二、『尊卑分脈』の式部卿大納言真楯子右大臣内麻呂孫の系譜にみられる「国兼」を祖
三、柿本人麻呂を祖とする

三が驚きですが、庶流・周布家が伝えている系図だと、そうなっているそうです(参照:『萩藩諸家系図』)。一と二については、遡ればどうせ、藤原鎌足なわけで、拘る方は拘るでしょうが、他人から見ると同じに見えます。ちなみに、『萩藩諸家系図』に掲載されていた自己申告によれば、二でした。

あまりに古いことはわからない、誰しも先祖は輝かしいものにしてしまいたいと思う心は同じです。そう考えれば、そこら中に流布しているもの、すべて怪しいとさえ思います。取り敢えずは「藤原姓」であること、「国兼」という人が祖であることが重要です。ほかは、諸説ある、ということです。

国兼は永久年間(1113~1118)に石見に下ってきたと考えられています。その際、御神本と名乗りました。益田氏となったのは、当然そこが名字の地となったからで、益田への移住は兼高代(建久三年、1190)といわれています。七尾城の築城もこの頃です。

最初「御神本」と称していたのは、当然当初の所在地がそこだったからで、そもそもは国司として赴任してきて、そのまま帰国せずに現地に住み着いたのです。

「一族」と書きましたが、地元に根を張り、発展していく中で大所帯となり、分出して新たな家を立てる人々が出たからです。つまり、同じ御神本氏 ⇒ 益田氏の流れののちに、多数の分家が生まれたのです。その辺は、どこの家も同じですね。

なお、大内氏とは関係ない話となるのでさわりだけですが、兼高という方は、源平合戦の頃、源氏に味方。その功績により、石見押領使に任命されたりしております。要は鎌倉幕府創設期以来の名門です。

分家諸氏との対立

さて、安芸や石見は国人領主が乱立し、なかなか被官化が進まなかった地域ということで有名です。逆に言えば、周防・長門の大内氏のように大勢力が他を圧倒していれば、ひとつにまとまってしまいます。安芸国には本当に、色とりどりの方々おられて、それぞれの勢力が拮抗していました。ですが、石見のほうはといいますと、状況は同じとはいえ、それらの諸領主のいくつかは、元々は益田氏の庶流だったりします。

ということは、一族皆で協力し合えば、石見国全体を盤石に支配することが可能のように思えます。そうなれば、のちに大内氏の傘下に入るようなこともなく、独立勢力として存在し続けていたかもしれません。それがかなわなかったのは、庶子家どうしの連携が上手くいっていないどころか、それぞれが対立していたためのようです。最近、立て続けにこれらのご説を拝見しました。

ひとつには石見国の地理的要因も大きな影響を与えていたようです。そういわれても、イマイチピンと来ないのですが、先生方のご研究に従っていれば、間違いはないはずです。

『萩藩諸家系図』の解説によりますと、「益田氏の所領は小規模な土地が散在していた」とあります。それらの土地それぞれに、分家を派遣して治めていたんですね。それぞれの分家の方々は、散在するそれらの所領の中で、自らの独立国を築いてしまったようです。分家の勢力が大きくなって、宗家を凌駕するようになってしまう例もままあることですが、最初からバラバラの土地に配属されて、独立性が高くなってしまったのかもしれません。石見国の「地理的要因」というのは、現状よくわからず、申し訳ないのですが、「小規模な土地が散在」というところから、だだっ広い平野が広がっているというよりは、山がちで移動困難というような雰囲気を想像します。

安芸国も含めてですが、同じ家が二派に別れて云々という例は数えきれませんので、せっかく大土地所有者になっても、それをひとつにまとめるのが困難であった、とそんな具合でしょうか。

その後の南北朝の動乱期には、案の定、武家方と宮方と、一族諸氏がそれぞれに分裂して争うことになりました。

大内氏の麾下に

後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げると、益田氏も当初は天皇についていましたが、足利尊氏が武家方勢力として天皇と対立すると、武家方につきます。ところが、一族の三隅氏、周布氏、福屋氏などは宮方についてしまいます。

面白いのは、ここに第三勢力として、足利直冬が入ってきたことです。そもそもは、尊氏の庶子である直冬は武家方のはずです。しかし、尊氏と弟・直義が争うに至り、直義の養子となっていた直冬も反・尊氏となります。敵の敵は味方なので、直冬は宮方につくようなかたちとなります。益田氏は直冬に味方。いっぽう、三隅氏も直冬と通じていました。一族同士の争いは一呼吸置いた感じです。しかしながら、直冬が優勢を誇っていたのは、ほんのわずかな期間にすぎず、やがて表舞台から去ってしまいます。

この頃、同じく一族内で揉めていたため、武家方を離れて宮方についていた大内弘世が武家方に帰順。石見の宮方勢力を討伐するためにやって来ます。石見の人々の多くが弘世に降り、益田氏も早々にその麾下に参じました。ところが、なおも、一族の三隅、福屋などは宮方についています。この時、益田氏当主は兼見でしたが、終始弘世に協力し、石見の平定に尽力しました。

大内氏と益田氏の関係は、この時点で生まれたとみてよろしいでしょう。あくまで、独立した勢力として、被官化されるようなことはありませんでしたが、その後長きに渡り、大内氏との協力関係が続いて行きます。

吉見氏との対立と陶氏との関係

益田氏が大内宗家の号令に従って協力していたのは、お互いにとってメリットがありました。大内氏という後ろ盾があれば、揉めている諸氏家も手出しできません。また、益田氏という一大勢力が味方にいるということで、大内氏が幕府の下知で武働きを行なう際にも、石見の兵力を動かすのが容易くなりました。益田氏に頼めば、皆がついてきてくれる、という風に。まあ、ここまで完全に支配下に入ったのは義興期くらいかも知れません。今ちょっと典拠を失念しました。

いっぽう、系図を見ると、大内氏重臣や石見国の勢力(含一族)との婚姻関係が目立ちます。その中でも避けては通れないのが、陶氏との関係です。益田兼堯の娘は、陶弘護に嫁いでいます。弘護で分からない人も、興房の母と言えば通じるかもしれません。

益田氏と同じく石見の有力勢力・吉見氏とは常に境目論争が絶えず、険悪な状態にあったようです。吉見氏とも婚姻関係を結んでいるようですが、それだけでは足りなかったのでしょう。長らく、友好的とはほど遠い状況にありました。折しも、応仁の乱で国中が揉めていた頃。大内氏でも、当主の伯父が留守分国で叛乱を起こす騒ぎとなります。そんなとき、吉見氏は反乱者側につきました。弘護は叛乱者も吉見氏もまとめて撃退します。ついでに、境目論争を益田氏有利に裁定し、自らも吉見氏の所領を奪い取るなどしました。そんなことから、恨みを買われたか、のちに大内氏に降った吉見氏の当主・信頼が弘護を刺殺するという痛ましい事件に発展します。益田氏はその弔い合戦に、陶氏の人々とともに吉見氏の居城を攻めました。この一件は、幕府の仲介もあり、途中で兵を引かざるを得なくなりますが。益田氏からしたら、弘護は大切な婿であり、いたたまれない思いであったと思われます。その後も、陶氏から益田氏に嫁いだ女性が出るなど、両者の関係は極めて濃厚でした。

それゆえに、のちに大内義隆が陶氏を中心とした重臣たちの叛乱で命を落とした際にも、益田氏は陶方を支持。義隆の姉を妻に迎えていた吉見氏が徹底抗戦の立場を明らかにすると、これを機会に領地拡大でもと思ったようです。けれども、吉見の城は落ちず、その後厳島合戦での大内(陶)方の敗北へと雪崩れ込んで行きます。ずっと陶氏と誼を通じていた益田氏にとっては、とんでもない結末となりました。

毛利家臣となりしかも重臣に

叛乱者勢力に与していたという経緯から、毛利家の防長侵略は益田氏にとっても脅威でした。当主の藤兼は防御を固め、やがて来るであろう毛利家に備えます。本来ならば、毛利家に降るという選択肢はないように思えますが、意外にも益田氏は吉川元春に降伏し、その後は毛利家臣となりました。

家名存続を考えることが第一ですから、感情的な問題は二の次となってしまうのも仕方ないことです。吉川勢に囲まれた城の中で、どのような話し合いが行なわれたかは知るよしもありません。しかし、その後、益田氏が毛利家で重きをなしたという事実を見るに、この選択が間違ってはいなかったことは明らかです。

『萩藩諸家系図』に見る益田氏

『萩藩諸家系図』は最初に「周布系図」を掲げて、神代の代からの系図を載せておられます。たいへん興味深いものではありますが、神さまがたの人物伝など作れませんので、省略させていただきます。図書館でご本をご覧ください。そうでなくとも、益田氏自己申告の系図は、藤原鎌足から始まっており、これまた不要ですが、省略もできないので、流れだけ載せます。

大織冠鎌足―不比等―房前―真楯―内麻呂―①真夏―冬嗣
②浜雄―家宗―弘藤―繁時―輔通―有国―貞綱、基嗣、広業、公業、③資業
③資業―実綱―有綱、有像⑴、有俊、有信⑵、④有定、実円、女子
④有定―⑤有隆、国定⑶
⑤有隆―国兼―兼真―兼栄―兼恒―⑥兼季、兼信⑻、兼広⑼、兼継⑽、兼相、兼保
⑥兼季―⑦兼時、兼定⑷、兼直⑸、兼忠⑹、兼政⑺
⑦兼時―兼経⑾、女子(小笠原四郎長親妻)、⑧兼久
⑧兼久⑿―⑨兼弼、兼村、兼宗、兼頼
⑨兼弼⒀―⑩兼弘、兼和、兼利、兼種、兼国
⑩兼弘⒁―⑪兼方、兼代、兼利
⑪兼方―兼見―⑫兼世、兼弘、兼政
⑫兼世―⑬秀兼、氏秀、女子(大内馬場某室)
⑬秀兼―⑭兼理、女子(三隅某室)、女子(周布次郎妻)、兼家(上野介、石州吉田地頭)
⑭兼理―常兼、⑮兼堯、女子(福家芸州室)、忠勝、女子(防州鷲頭某室)、長親、兼勝
⑮兼堯―⑯貞兼、女子(笑山、陶尾張守弘護室、法名咲山妙忻、興房母)、女子(益田弾正左衛門兼治室)、女子(吉見三郎俊家室)、兼久(千代童、上総介)
⑯貞兼―⑰宗兼、徳祐(神護院主)、興兼、兼家(景勝、下野守)
⑰宗兼―⑱尹兼、兼任(三河守)、周久(防州南湘院生)、女子(内藤左京大進隆時室)、徳陽(後ノ神護院主)、女子(三隅隆信室)、男子(法名仁英)
⑱尹兼―⑲藤兼、女子(長州小川星ノ城主町野掃部輔隆風室、後嫁益田治部大輔上野介兼治、慶長六年九月晦日卒、法名総円寺月孤)
⑲藤兼―女子(志道五郎兵衛政慶室、母杉宗長女)、女子(益田彦右衛門兼廉室、慶長四年七月六日卒、母石津修理大夫経頼女)、女子(豊田三郎左衛門安宗室、朝倉ト号ス、寛永五年六月廿五日卒、母同上)、⑳元祥、女子〔三沢為虎室)、女子(杉岡吉兵衛長次室、正保二年八月廿五日卒、法名真光院花庭全栄、母黒谷某女)
⑳元祥―広兼、景祥、女子、家澄、女子、女子、女子、就之、就景
(以下省略)

兄弟の子孫たち
有像⑴―国資―国能
有信⑵―資憲―実光
国定⑶―国盛
兼定⑷―兼政(弥次郎)―時兼(次郎)―兼定(次郎、イ兼信)―兼宗(参次郎)―兼氏(因幡守)―兼仲(弾正少弼)―兼旨(因幡入道)
兼直⑸―兼清(四郎)
兼忠⑹―兼信(太郎)―兼氏(次郎兵衛)―兼親(又太郎)
兼政⑺―兼頼(六郎)
兼信⑻―兼村(左衛門太郎)、女子(法名阿忍)、兼祐(永安地頭、左衛次郎)―兼栄(彦次郎、兼時トモ)―兼員(弥二郎)―兼秋(因幡守)、兼豊(三郎左衛門尉)
兼村―兼盛(初信時、孫太郎)―兼連(二郎石見守、入道信勝)―兼知(初信春、石見守)―直連(三隅判官)―女子
兼秋―兼冬(井村地頭、三郎)―兼雄(石見守)、兼信(弾正少弼)
兼広⑼―兼行(孫太郎)―兼景(孫太郎、安芸守)―兼香(安芸守、播磨守)―兼光(安芸守)―氏兼(安芸守)―清兼(八藤丸)
兼継⑽―兼秀(五郎太郎)―兼氏(又五郎)―兼宗(因幡守)
兼経⑾―女子(西山道地頭兼弼妻、母、法名阿忍)
兼久⑿―兼弼⑨、兼村(太郎)、兼宗(六郎)、兼頼(五郎)
兼弼⒀―兼弘⑩、兼和、兼利、兼種、兼国
兼弘⒁―兼方⑪、兼代(イ兼世)、兼利(或兼利嫡男)

国兼 初定通、権太夫、越中守、従二位、永久年中下向石州一宮之浜、国人崇敬之、称御神本滝蔵権現併勝達寺再興、母大江氏
兼真 仝、按察使大夫
兼栄 仝、越中権守
兼恒 或兼高、兼経、権介、石州益田郷ニ住ルヲ以テ御神本ヲ改メ益田と称ス、母石州人
兼季 右衛門尉
兼時 太郎、左衛門尉
兼定 御神本、次郎、周布祖
兼直 末元、兵衛尉
兼忠 丸茂、兵衛尉
兼政 田村
兼信 三隅、左衛門尉、木東永安地頭
兼広 福家地頭、兵衛尉
兼継 福光、左衛門尉
兼相 横道
兼保 井ノ村、或兼信
兼経 益田、初兼長、左衛門太郎、伊甘郷地頭、早世ニ依リ家系ヲ継ガズ
兼久 益田、次郎、左衛門大夫、兄兼経早世ヲ以テ家系ヲ受ク
兼弼 益田、兼胤、兼衡トモ、或三郎、弥五郎、左近将監、御室兼長女(ママ)
兼弘 益田、孫太郎、孫三郎、左衛門尉、法名道忍、建崇観寺
兼利 大草、孫二郎
兼種 遠田、弥太郎、或兼利二男共
兼国 波田、与一
兼方 益田、太郎、法名得生院即阿
兼見 益田、兼躬トモ、孫次郎、越中守、号祥兼、明徳二年十月十四日卒、法名万福寺祥兼、万福寺草創
兼世 益田、兼顕、次郎、左近将監、越中守、応永十四年正月十八日卒、法名道兼
兼弘 山道、兼寛トモ、孫二郎、土佐守
兼政 多称、弥二郎、伊豆守
秀兼 長寿丸、次郎、左近将監、越中守、或兼家、応永廿六年三月十二日卒、法名周兼、妙義寺草創
氏秀 波多野、波多野彦次郎、或氏兼、石州黒田地頭、イ黒谷地頭
兼理 益田、赤一丸、左近将監、永享三年六月二十九日大内家ノ軍ニ随ヒ筑前深江ニ於テ戦死
経兼 益田、藤次郎、永享四年六月廿九日九州陣ノ時長州赤間関ニ於テ卒、法名中巌
兼堯 益田、兼広トモ、益一丸、松寿、孫次郎、左馬助、越中守、文明十七年五月廿三日卒、法名大雄院金国瑞兼、建大雄院、母雲州馬田某女
忠勝 益田、弾正忠、法名文翁
長親 黒谷因幡入道
兼勝 蔵人備後
定兼 益田、治部少輔、越中守、利勝斎、大永六年七月廿日卒、法名全田、母吉川氏女
宗兼 益田、熊童丸、孫次郎、治部少輔、越中守、不屋軒、天文十三年正月十日卒、法名医光寺全久、石州医光寺ニ葬ル、建医光寺、母吉見三河守女
興兼 宇野、左馬助、防州宇野弾正興正養子
尹兼 益田、熊童、又次郎、越中守、永正九年正月廿一日義尹公御自筆尹ノ御字ヲ賜フ、永禄八年九月三日卒、法名桂香院全屋、母陶某女
藤兼 益田、治部少輔、越中入道或全鼎入道、従四位下、侍従、享禄二年生、天文二年義藤公ヨリ藤の御字ヲ賜ヒ藤兼ト将ス(ママ)、慶長元年十二月朔日卒、六十八歳、法名大薀全鼎葬於石州益田妙義寺、妻杉興秀入道宗長女、法名大儀理長、次家臣石津修理大夫経頼女元亀元年八月十四日卒、法名慈照院礼仏宗頂、次内藤左衛門大夫隆春女、元和二年八月十五日卒、法名向月院春山栄林、笠松山ノ麓ニ葬ル
元祥 益田、次郎、右衛門佐、玄蕃頭、従五位下、牛庵入道、寛永17年九月廿日卒於長州萩、八十三歳、法名
(以下省略)

益田元祥は疲れたので、途中で以下省略になってます。どうせ、毛利家臣となってからの話なので、いらない情報です。

益田氏有名人(大内氏時代の人限定)

『大内氏実録』には、「附庸」巻に益田藤兼が載っているだけです。もちろん、本文中に益田姓の方は大量に出て参りますが。従属勢力の方々という扱いになっているので、叛乱者に与したり、毛利家に降ったりしても、「叛逆」や「帰順」には入らないようです。

益田兼見

南北朝期、益田氏は武家方に与したが、庶流の三隅氏、周布氏、福屋氏などは、宮方について、一族が両陣営に分れて対立する事態となった。周防敷山城から逃れて来た、大内弘直は三隅兼連を頼ったが、兼見は三隅氏の城を落とし、弘直らを討ち取った(大内氏はそもそも武家方についており、弘直が宮方にいたのは、個人的な理由による)。

足利尊氏と弟・直義が対立した際、直義の養子・直冬が西国で武家方と対峙。この時には、三隅、吉見、福屋、田村などの諸勢力とともに、益田氏も直冬について奮戦した。この頃、大内弘世も直冬を助けていた。しかし、直冬の勢力は次第に勢いを失って表舞台から消える。

正平十九年(1364)、一族間の対立から宮方に属していた大内弘世が、武家方に帰順。周防、長門、石見の守護となる。兼見は弘世の麾下に入り、活躍した。

益田兼世

兼見より、家督を継ぐ。引き続き、大内氏のために尽す。応永四年、大内義弘が、九州の南軍残党を討伐にむかった際、兼世も石見勢を率いて従軍。応永六年、義弘が、将軍義満に叛旗を翻した際(応永の乱)、兼世も参戦した。

益田兼理

永享三年、 大内盛見の少弐討伐に従い、筑前・志摩郡深江で戦い、戦死。嫡男・兼常は、永享四年六月二十九日、九州参陣の際、長州赤間関で亡くなっていたため、弟の兼堯が家督を継いだ。

益田兼堯・貞兼

兼理の子。父の戦死により家督を継ぐ。娘は陶弘護の妻となった。嘉吉年間、赤松満祐討伐に功あり。 宝徳、享徳年間、大内氏に属して伊予国に出陣。応仁の乱では、大内政弘に従って上洛。山名方として、活躍した。

文明三年、大内教幸の叛乱を鎮圧するために帰国。子・貞兼とともに陶弘護を援助した。貞兼は、教幸に与していた吉見信頼を攻撃。貞兼は弘護とともに、教幸・信頼を撃破。叛乱の鎮圧に成功した。

益田宗兼

兼堯の孫。陶氏の女性を妻に向かえた。

 明応五年、少弐政資が筑前で叛乱を起こす。宗兼は大内義興の命により、九州に渡海して活躍。明応年間、吉見氏、三隅氏などとの間に境目論争による合戦が絶えなかった。前者は幕府、後者は義興の仲介によって和解

足利義稙が、周防の大内氏を頼った時、宗兼も将軍に召集されて周防に下向。永正五年、義興が将軍を奉じて上洛した際、ともに上洛。船岡山の合戦で功績をあげた。

益田尹兼

宗兼の子。越中守。尼子経久は、たびたび石見へ侵攻。大内軍とともに尼子軍と戦った。大永七年、義興に従軍し、鳥子城(安芸国瀬野)攻撃した。

弘治元年、子息・藤兼とともに毛利氏に降伏。永禄八年九月三日に亡くなった。

益田藤兼

以下は、『大内氏実録』での記述(原文文語文)。

「尹兼の子。幼名:次郎。十二歳で足利義藤(義輝の初名) が加冠し、偏名を与え、藤兼と名付けた。

天文十五年十二月二十六日、父の譲りを受ける。のち治部少輔となる。

天文十九年四月、吉見氏を撃つ。
天文二十年十月、また吉見氏を撃つ。

天文二十一年四月二十一日、大内晴英により右衛門佐に推挙された。
天文七月十一日、晴英は長門国に二百九十五貫の地を与え(厚東郡の内百貫、阿武郡三原村八十貫、多萬郷の内四十貫、 小川郷の内三十貫、紫福郷の内四十五貫)、境界に出張させた。

天文二十三年四月十八日に出陣し、大内氏とともに吉見正頼を撃つ。
天文二十三八月二日、坪尾で戦う。

弘治元年、父・尹兼とともに毛利氏に降伏した。)のち越中守に任ぜられた。晩年、剃髪して大薀全鼎と号した。

慶長元年十二月一日死去。享年六十八歲。(系譜に従四位下、侍従とあるがほかに所見なし)。

妻は杉三河守興重入道宗長の娘。男女二子を生む。息子:少輔若丸。夭折。側室、家人・石津氏の娘が一男三女を生む。息子を次郎と名づけた。吉川元春の女婿となり、後元祥といった。子孫は数家に分れ今につづく。」

大内氏の出雲遠征に従軍。大内氏の「国難」に際しては、陶氏との姻戚関係により、叛乱者に与した。吉見正頼を攻撃すると同時に、三隅氏とも争い、三隅兼隆を降伏させる。毛利家が厳島合戦に勝利してから、三隅高城に楯籠もり、防御を固めた。 弘治三年、大内義長の死後、毛利家に降伏。

毛利元就の大友氏攻めに従軍。尼子との合戦にも参加するなどして、毛利家に尽した。

後を継いだ元祥も同じく、毛利家のために尽した。

参照文献:『萩藩諸家系図』、『日本史広事典』、『大内氏実録』

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ミル

疲れた……。まる二日かけても、現段階ではここどまりね。すみません。リライトいたしますので。ゴチャゴチャしてて気持ち悪い……。

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五郎

祖父さまの頃から、ずっと親しくしていたのに、やっぱり毛利家臣になってしまったんだ……。大内に対してやっていたのと同じ涙ぐましい努力を、毛利家でもやるなんてな。

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ミル

まあ、それはね、君。益田さんは、家来ってわけじゃなかったので。あくまで味方してくれてたくらいな。

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五郎

そうだよ。でも、毛利家のところでは、もう、完全に家臣じゃないか。どうでもいいや。俺とは血縁関係なさそうなことになってるし。

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ミル

そういうときだけ、最新の説振りかざさなくていいから。

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