人物説明

従属勢力の人たち

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於児丸

「附庸」という語には、従属国、付属品みたいな意味があるよ。ここでは、大内家という大きな家の支配下に入っている小領主たち、みたいな意味じゃないかな。「諸臣」とは区別されているところから、領主としての独立性も感じられるね。

平賀氏

メモ

中世安芸の豪族。本姓藤原氏。南北朝期、足利尊氏に従い、軍功をあげる。1404年の安芸国人一揆では指導的役割をはたす。その後、大内氏に従った。

近藤先生の『実録』に項目があるのは、「附庸」に入っている平賀隆保だけだが、ほかにも平賀氏関係の記述はあるので、それをまとめておく。

平賀興貞

安芸国賀茂郡頭崎城主・平賀蔵人大夫興貞は父・尾張守弘保と仲が悪かった。弘保は興貞と分れ、次男・入野兵部少輔貞景を伴って同郡白山城にいたが、父子の争いは止まなかった。
天文四年正月、 弘保が頭崎城を攻撃。天文五年二月になって和睦したはずが、八月になるとまたしても合戦に及んだ。興貞が高尾に出陣すると、義隆は彼らの仲を仲裁し、争いをやめさせようとしたが、共にききいれなかった。そこで、杉小次郎長相、弘中下野守等を派遣して弘保を援助し、十一月七日、頭崎城を攻撃した。
平賀興貞は財満備中守を仲間に誘い、備中守に叛心が生じた。杉二郎左衛門尉隆宣と内藤左京大進隆時はこれに気づいた。備中守父子が陣を移すのを狙って、天野民部大輔に攻撃させ、彼らを殺害した。

……というようなことで、平賀氏は父子揉めており、大内氏はこれに介入して頭崎城を攻めていた。しかしながら、その後の経過についての説明はなく、父子の争いはどう決着したのか『実録』だけでは分からない。つぎに平賀氏が登場するのは、尼子攻めの時。平賀隆宗が味方となって参戦している。
月山富田城遠征では大敗北を喫したが、その後も尼子家との戦は続く。以下はそこから拾いだした平賀隆宗に関する記述。

平賀隆宗

義隆は尼子配下で備後神辺にいた山名理興をたびたび攻撃したけれども、なかなか倒すことができなかった。隆宗も攻撃に加わっていたが、その陣中から義隆に、山名攻めは自分にまかせて欲しい、と言って来た。
一つの城を落とすために、他国に多くの軍勢を置いておくのは不利であること、隆宗は以前から山名に恨みを抱いているからぜひとも倒したいと強く望んでいることを告げた。
そこで、義隆は隆宗に任せてほかの軍勢を撤退させた。これが天文十八年四月のことだった。
それ以来、隆宗は神辺に在陣して村尾城を包囲し続けていたが、七月に病にかかり亡くなった。それでも、家臣たちは、主の遺志を継いでなおも攻撃を続けたので、九月四日、山名理興はついに城を棄てて逃亡した。

平賀隆保

幼名:亀壽丸、のち新四郎と改めた。小早川常平の二男である。
常平は尼子晴久に与し、天文十年正月、三吉城で自殺した。隆保ら兄弟三人はとらえられて山口に下った。時に隆保は十歳だった。和歌や蹴鞠の才能があったから、義隆に気に入られた。

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ミル

いきなり「隆保」になっていて、ついていけないのですが、義隆が「お気に入り」の亀寿丸のち新四郎に「隆」の字をあげて、隆保となったことは言うまでもないでしょう。

安芸国賀茂郡高屋頭崎城主・平賀蔵人大夫興貞が亡くなったので、義隆は隆保にその遺跡を継がせた(ココ、『実録』本文そのままイマドキ語訳)。⇒ 隆保がいきなり、興貞の跡を継いだのだとしたら、隆宗はどういう身分だったのか、興貞と父・弘保との争いでは義隆は弘保を助けていたようだったけれども、結局その問題はどのような形で解決したのか、『実録』記事だけではまるで分らないです。しかし、近藤先生の以下のような但書があります。

本書(『大内義隆記』)隆宗の遺言であるとするはあらじ

これはもちろん、隆安が平賀家の家督を継いだことを指して書いておられます。
ここら辺、毛利家系軍記物などには面白可笑しく書いてあるところなんですが、今出典が思い出せないので詳細はのちに譲るとして、要するに、義隆が強引に「お気に入り」を跡継ぎの座に据えちゃったわけです。ゆえに、悲惨な結末となります。

平賀氏の家人等は平賀の血筋ではないことから隆保に従わなかった。

天文二十年、陶隆房は弑逆を行い、己に与しない者を撃った。
平賀家人等はこれ幸いと、毛利氏、小早川氏に救援を願い出て頭崎城を包囲した。隆保は迎え撃ったが、終には家人等に迫られて自害する。

隆保は腹を十字に割き、臓腑を掴んで投げ捨てると、静かに昔語りをし、絶命の歌を作って筆と硯を求めた。家人等は死を促すのみで筆と硯を与えようとしなかったので、隆保は自ら喉を切って死んだ 。

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ミル

こ、この状態で、心静かにお話したり、文字を書いたりってできるの? 辞世の句はあらかじめ考えてあったとして。

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次郎

根性じゃね? 俺も誰かに歌書いてもらっとけばよかった……。代筆も普通に頼めたと思うのに……。

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九郎

……。

隆保は籠城中に歌を詠んで、山口にいた柳原氏に送ったという。

 吹風にたまらずとても今朝の露のかならず後の世をやたのまん
※義隆記異本では、吹風にたまらずとても朝露のたが後の世をたのまん、として三文字足りない。

『大内義隆記』や『同異本』で「籠城」云々と書いているが、何日防戦したのか不明である(『実録』)。

平賀隆安自害のエピソードは、何のため? と思うに、陶隆房が己に味方しないものを討って回った、という一文の後に続くことから、義隆にかくまで気に入られた隆保が隆房の叛乱に賛同できず、味方にならなかったために討伐されたように読める。
この時点で、毛利氏はまだ陶方に味方して義隆派の人々を片付けて回る手伝いをしていたから、隆保を追い出したいと思っていた平賀家臣たちに加勢してくれたのだろう。

 

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻二十「附庸」、『日本史広辞典』平賀氏

いずれどこかに、付近の小領主たち一覧表のようなものが欲しいと思うのだが、無理なので、しばらくは「附庸」に入っている人たちのことだけ(何しろ、小領主ゴチャゴチャいすぎて複雑すぎる。悲しいけどアマチュアには難しいだろう……)。
さて、『実録』巻二十「附庸」には、ほかにも吉見信頼、黒川隆尚、友田興藤、吉見正頼、益田藤兼の項目があるが、分量が多いので、ここでは単独でページを作れない人だけをまとめた。益田さんについては、単に間に合っていないだけなので、独立できるかはわかりません。

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